7 海渡しの海賊が繋ぐ常波

 世界最大の山脈が壁のようにそびえたっている。高低起伏の激しい棘のような山の向こうは、海からの湿った風と高気圧が雨を降らせていることだろう。幸いなことに今いる位置は山脈の東端。南東迂回するように南下すれば山脈を越えずに海岸まで出られるはずだ。

 グリーンアースを突き進まねばならないが、山脈を無理に越えるよりはよほど良いだろう。海を渡る手段を持ち合わせていないが、とりあえず今は山脈の迂回だ。

 山々の壁を見ながらグリーンアースの地帯まで降りると、背の高い木々の隙間から万年雪の頂上が垣間見える。新緑と白銀は馴染まず、非日常を感じさせた。天高を出てから今に至るまで常に非日常なのだが、大陸をぐるりと回ろうとしている事実を体感するとなると別格だ。


 緩やかで湿った大地を南下し続け二か月以上。季節も冬に代わり凍えるような寒さが身を襲う。冬のアルカトラン連合国と比べればまだ暖かいことを考えれば大した寒さではないのだろうが、南の海育ちのベルディにとっては辛いものだった。海に近いのか湿度が高く、グリーンアースの木々の合間を縫うように冷たい風が絶え間なく流れている。


 ふと微かに潮の匂いがした。


 ジャワ―ドに視線を投げると彼も見返してくる。とっくに潮の匂いに気づいていたジャワ―ドはこくりと頷いた。

「海が近い……!」

 思えば数日前から踏む土の感覚が少し違う。潮の香りが一段と強くなると同時にグリーンアースを抜けた。昼の日差しと冬の海風が全身を包み、ざりりとした荒い砂を靴が踏む。眼前には白い砂浜と海が広がっていた。

「常波に行くには船に乗る必要がありますね」

 ロイドの冷静な言葉にがっくりと肩を落とす。ハオを負ぶっていたジェニスも大きくため息をついた。


 一旦グリーンアースまで戻り、休憩をとる。ベルディは蔓植物から撚糸を作り、落ちていた細い木で簡易的な釣り道具を作った。グリーンアースの土をひっくり返せば蚯蚓がいる。釣り餌にしようと小枝で作った釣り針に括り付ける。周辺にはドレンの葉もあるし今夜は魚料理かな、とぼんやり思いながら海に投げ入れた。こんな浅瀬でそう簡単に釣りが成功するはずもない。気長にやろうと砂浜に座る。

「海を渡る方法はありますか?」

 背後から声をかけられる。不安や心配ではない、単純に方法があるかどうかを聞く声の持ち主はロイドだった。


「ない!」


 あっけらかんと答えるベルディの隣に座り、困り眉のまま笑う。

「海の近くにいてロイドの体は大丈夫なの?」

「ご心配には及びません。人工皮膚に隙間はありませんし、人工皮膚の下はステンレス鋼ですので」

 よく分かんないけど大丈夫ならいいか、そう言ってベルディはのんびり即席釣り竿を持ち替えた。東から西へ、と視線をずらしたところ、何かを視界が捉える。

「ん?」

 何か建物のようなものが見える。少なくとも自然の物ではない。

「ねえロイド。西の方に建物見える?」

「西ですか?」

 西を見たロイドは鋼の瞳を収縮させた。人の目ではぼんやりとした輪郭しか分からなかった物が、ロイドの解析でははっきりと建物として映る。集落や漁村と言うには規模が小さいが、人が暮らしている雰囲気が確かに存在した。

「……ありますね」

ベルディは釣り竿を放り投げた。魚を釣っている場合ではない。




 西に向かって一キロ前後の距離を西に進む。やはり人がいて、暮らしている。しかし外に人が歩いている気配はない。陽が落ちる中、不審者さながらの動きで一番近い建物の壁に耳を当てる。昔天高で聞いた常波の言葉が僅かに聞こえた。朗らかな談笑、男性の声と女性の声。意を決して扉を叩く。

「あら? 今日はもう店じまいだけど……」

 三角巾を被った細身の女性が箒を片手に扉を開けた。微かに香る酒の匂いと魚料理の匂い。香りにつられたのかお腹が鳴り、女性は目を丸くした。

「ごめんなさい、ぼく文字読めなくて。閉まってたんですね」

 たどたどしい常波語、汚れた服装に何日も体を洗えていない様子。女性はうーんと唸り、「とりあえず先に風呂入りなさいな?」と言った。


 借りた服に身を包み、椅子に座る。カウンター席の反対側で女性が魚料理が差し出した。

 刻んだドレンの葉と酸味の強い柑橘類のソースが白身魚にかかっている。魚の身を崩すと爽やかなハーブの香りがした。

 一口食べるとドレンの葉の独特な香りに混じってハーブの香りが鼻に抜ける。柑橘類のソースも酸味だけでなく甘みがあった。

「あれっ結構酸っぱくない。美味しい」

「ソースにはガンジョっていうイネ科の植物から作った砂糖が入ってるからね。まろやかでしょう」

 天高の料理と少し似ている。違う点はハーブや砂糖を使っているところくらいだ。天高ではノルクライスか常波に頼らないとハーブや砂糖を手に入れられない。天高では滅多に使えない物をこの店では使っているのだ。もしかしたら、とベルディは思う。


「君、本当にいらないの?」


 カウンター越しに男性がロイドに聞く。ロイドの席には料理が置かれていない。

「はい。昔手術した影響で固形物を食べることができず……栄養剤は持ち歩いてますのでお気になさらないでください」

「へえ、大変だねえ」

 言語機能で常波語を使い、平然と嘘をつくロイドにジェニスがとんでもないものを見たような顔をする。加害行為どころかしれっと嘘をつくのだから、アルカトラン連合国の人間からすればロイドの言動はやはり驚くべきことのようだ。

「この料理に使ってるハーブ、ここらへんじゃ採れないですよね?」

「シーシトラウス? 勿論、全然採れないわ。だから定期的に買ってるのよ」

 砂糖も高いしシーシトラウスも高いし、と困ったように頬に手を置き文句を言う。

 買うとなるとノルクライスか常波になるが、ノルクライスは遠すぎる。となると常波と航路でやりとりをしている可能性が高い。予想が的中したとベルディは心の中で喜んだ。

「あ、あの! ぼくたち常波に行きたくて!」

「あらそうなの? でもここは常波への直行便はないわよ」

「えっ」

 当たったと思った予想は違ったようだ。

「砂糖とハーブくらいで港町とも言えない小さな町と契約結ぶわけないじゃない」

「じゃ、じゃあどうやって……」

 女性と男性は顔を見合わせ、にやりと笑う。

「なんにも知らないみたいだから教えてあげる」

「ここは海賊の領地さ」

 二人とも銃を模した指で撃つ仕草をした。


 海賊の歌と称した陽気な歌を口ずさみながら毛布を何枚も取り出し、長椅子にベルディたちを横たえさせる。

「クソガキはとっとと寝ろ」

 先ほどとは打って変わって口調が激しくなったが、反して行動は一層優しくなった。とうの昔に成人したジェニスは男性と酒を飲み交わしている。状況が混乱を極めているが、厚意は素直に受け取るべきだ。柔らかい布地の長椅子に柔らかい毛布。疲労が溜まった体は速攻で眠りに落ちてしまった。




 起きる頃には既に太陽が高く上っており、反対の長椅子で眠るジャワ―ドに声をかけて慌てて毛布をたたむ。

「海賊の店は開店も閉店も自由気ままなのさ。ゆっくりしてなさい」

 強引に長椅子に戻される。海賊だと信じられず二人を疑いの目で見るベルディとジャワ―ドに笑って、女性は水の入ったコップを差し出した。

 ジェニスとハオはまだ寝ている。ロイドは何故か知らないが様々な種類のロープの結び方を男性から教わっていた。

 ぼうっと長椅子に座っていると次第に意識が溶けていく。屋根の下にいることがこんなにも安心できるとは。

 唐突に扉を叩く音が響いた。女性が扉を開け、訪問者を迎え入れる。

「まだ開店してないんだけど……」

「いやあ申し訳ない、フェイロンと申します。船を探しておりまして、何か教えていただけたらなと」

 フェイロンと名乗ったその訪問者は長い黒髪を後ろで一つに結び、髪色と同じような黒い立襟の服に身を包んでいた。全身黒の装いの中、赤い耳飾りが小さいながらも主張している。

へらへらとした上っ面の笑顔で流暢な常波語を喋り船を探していると言う訪問者の男性は、奥にいるベルディをちらりと見てほんの一瞬だけ冷ややかな表情をした。ぞっとするような視線に鼓動が早くなる。

「貴方、船に乗ってどこに行きたいの?」

「常波に。いや~今の今までアルカトラン連合国に捕縛されていたのですが、命からがら逃げてきたところなんですよ」

 怪しさ満点の経緯に女性は片眉を跳ねさせながら、「残念だけど、ここから常波への直行便はないよ」と言った。

 わざとらしい笑顔はわざとらしい悲しそうな表情へと変化をする。芝居がかった振る舞いはどうにも信用ならない。

 氷のような視線を思い出し無意識に腕を摩った。精神的な冷えは腕を摩ったところで暖まらないが、あの酷く怖い一瞬を思い出すよりは腕を摩って意識を腕に持って行った方がいい。そうして腕を擦っていると、遠くで汽笛のような音が聞こえて首を傾げた。

 汽笛のような音は徐々に大きくなっていく。

豪快に窓を開けた女性が海を見てぱっと振り返った。

「君たち運が良いんだか悪いんだか。我らがポセイドンのご到着だよ」

「ポセイドン……?」

 聞いたことがあるような、と首を捻りながら窓を覗く。そこには派手なマストを張った大きい船が港に着こうとしていた。


「あの船に乗れば常波まで連れていってくれるさ。途中島に寄ったりはするけどね」


 さあ立って、と急かされ、未だ眠るジェニスとハオを起こす。店を出ると細く頼りない船乗り場に船が着き、はしごが降ろされた。

 女性が降りてきた船員と話を始める。しばらくすると手招きをしてベルディたちを呼んだ。

「乗っていいってさ!」

 ベルディとジャワ―ドは顔を見合わせ、船の近くへと駆け寄った。ハオを背負ったジェニスが後を追う。ロイドは後ろに立つ訪問者の男性を一瞥してから歩き出した。

「常波に行きたいのか?」

「はい」

「いいぞ、乗っていけ。一週間ちょっとあれば着くから船酔いは気合で耐えろ」

 あっさりと快諾した船員は日に焼けた肌をしていて、笑うと白い歯が光る。海の匂いを全身に纏った他の船員たちが荷物を運び出しているのを見て、天高を思い出す。生まれ育ったあの場所も、確かにこんな風に海の匂いに囲われていた。

「私たちは情報取引と慈善活動しかしない」

 胸元から薄い金の首飾りを取り出す。そこには剣と銃が交差する絵が彫られていた。

「怪我人を見つけたら保護するし、潮の流れや魚の群れに異変があれば常波に教える。漁業は常波にとっても重要だからね。だから常波も私たちを邪険に扱うことができない。ポセイドンは常波が黙認するただ一つの海賊船ってわけ」

「それって海賊って言わないんじゃ……」

「細かいことはいいの!」

 背中を強く叩かれ噎せる。細身の女性だったが力は相当だった。

「常波はケチだからさ、私らの情報は医薬品と交換してくれるけど食料品はそうもいかない。ハーブや砂糖は常波から買ってる。贅沢品だって言ってまけてくれないんだ。それが高くて高くて。でも私たちは、これで生きていくって決めているから」

 太陽みたいな笑顔で女性はベルディをはしごへと連れていく。はしごはつい最近新調したのか船体と比べて白かった。ロープも汚れが少ない。


 次々に船に乗り込み、訪問者の男性も乗ったところで甲板に案内される。そこで初めて広い、本当にとてつもなく広いグリーンアースを目にした。

遥か先地平線の向こうまで濃い緑が続いている。あの向こう側から歩いてきたのだ。じわりと涙が出そうになる。グリーンアースは自然そのものだったが、漠然とした不安そのものでもあった。反対側を見ると遥か先水平線の向こうまで濃い青が続いている。この星の広さを実感し、なんて無茶をしてきたのだろうと目を閉じた。


 荷物を全て運び終えた海賊船ポセイドンは、店で聞いた汽笛のような音を鳴らしながら出航する。


 徐々に砂浜から遠ざかっていく。店の女性が手を振っていた。ベルディは身を乗り出し、大きく手を降り返す。

「泊めてくれてありがとう! お風呂貸してくれてありがとう! 料理美味しかったです!」

思い切り声を張り上げて何度も手を振る。見えなくなるまで手を振っているとハオに肩を叩かれる。

「ロイドが通訳してくれたんだけどよ、船室空いてるって。行こうぜ」

「うん」

 ハオの後をついていきながらふと心の隅に引っかかっていたことを思い出す。そう、ポセイドンの名を聞いたことがあるのだ。しかしどこで聞いたのかさっぱり思い出せない。

「ポセイドン……ポセイドン……」

「何ぶつぶつ言ってんだよ」

「いやなんか聞いたことあるなと思って……」

 階段を降り角を曲がれば船室だというところで船員同士の会話が耳に入る。

「今回は難民降ろしたんだっけ?」

「いなかったから天高に寄らなかったんだろ。ボケてんのか?」

 船員たちの口から出た天高という言葉を聞いてベルディの脳内で稲妻が走る。そうだ、時々難民を救出して天高に送っていたのは。

「ポセイドン……!」

「うわっ急に大きな声出すなよ!」

 解けなかった紐が解けた気分で意気揚々と船室の扉を開けた。




 時折漁業の手伝いをしていて船に慣れていたベルディとアンドロイドであるロイドは船酔いしなかったが、船に乗ったことのないジャワ―ドとハオ、ジェニスは常波に着くまで何度も吐いていた。船酔いの酷さを知らないベルディは桶の中の吐瀉物を捨てて背を摩るくらいしかできない。三人は死人並みに真っ青の顔で桶に吐いてはぐったりと横になるというのを繰り返し、常波に着いた頃にはげっそりとやつれてしまったのだ。


 ふらふらの足ではしごを降り、船乗り場に立つ。ジャワ―ドは今にも死にそうな顔で「地面だ……」と呟いた。

 常波はたくさんの島でできている。赤道付近の常波は温暖なため冬という概念がない。北半球から南半球まで転々と存在する大小様々な島は隣接する島と水上モノレールで繋がっており、街には水路が張り巡らされている。

 港に降り立つと早朝なのにも関わらず熱気が地面から感じられた。そろそろ乾季なのか湿度は高くないが、大陸にいたような寒さはこの地には一切ない。

 船乗り場に設置されているシャワー室を借り、塩で汗でべたべただった体をすっきりさせた。


 改めてここまで連れてきてくれた船の前に立つ。ポセイドンの皆に感謝を告げ、大きく手を降った。船員もまた、振り返してくれる。そうして活気に溢れた街へと歩き出した。


 四方から常波語だけでなくノルクライス語、アルカトラン公用語が聞こえる。様々な言語が飛び交い、軽快な笑い声が響いていた。

ふわりと冷涼感あるメンタの葉の香りがして、辺りを見渡した。立ち並ぶ露店の一つが、透きとおった薄緑の飲み物を売っている。

 気が付いたら小銭袋に入っていた常波の硬貨が一つ消えていて、代わりに飲み物のカップを手にしていた。

 メンタの葉の香りはやはりこれだ。不発酵茶の茶葉にメンタと呼ばれる葉を混ぜ、塩と砂糖を少しだけ加えて煮だしたものである。かつて常波の人が天高に来た時にこのお茶を配っていた。

「おい一人だけ何飲もうとしてんだ」

 飲もうとした瞬間に肩を掴まれて危うくお茶を零しそうになる。ハオの睨みに目を逸らし、「残念ながらお金が足りない!」と言って歩き出した。

「嘘つけ」

 ないない、本当にない。そう誤魔化しながら進もうとするとジェニスに阻まれる。

「アルカトランの金なら腐るほど持っている。後で払うから今だけ……な、私からも頼む」

「二十七歳のくせに」

「年齢関係ないだろう!」

 子供みたいにしがみついてくる十六歳と二十七歳に根負けし、追加で三つ分お金を払ってそれぞれに渡す。最後にカップを渡したジャワ―ドからは常波の硬貨が渡された。ジャワ―ドはお金の入った袋を少し振って音を鳴らし、内懐に仕舞う。

「ロイドは暑くない?」

「正直に申し上げますと暑くてオーバーヒートしそうです」

「えっ」

「嘘です」

 からかわれたベルディはロイドのエプロンを握って揺さぶった。船の中での地獄のような雰囲気から普段の雰囲気に戻ってきたところで、常波の地図が描かれた看板を見る。まずは今いる場所を把握しなければならない。


「ご主人様。十メートルほど後ろを保って尾行している人が」

 誰かが後をつけてきている。

 ベルディは立ち止まり、振り返った。


 熱気のこもる常波で、フェイロンと名乗った黒い服を着た黒髪の人間。

「随分と仲が良さそうですね」

 常波語ではなくアルカトラン公用語である。公用語もまた、常波語の時のように巧みに操っていた。大陸の店で見た冷えた視線が脳裏によぎり、エプロンを握ったまま立ち止まってしまう。

「ご同行しても?」

「だめに決まってるだろ」

 ハオのきっぱりとした拒否に、あからさまに惜しそうな顔をした。ハオの拒否はきっとラシードのような怪我人をこれ以上出したくないからだろう。その危険性は勿論ある。だがベルディはあの心の底から冷たい目を向けてきたこの人物を信用できなかった。

 ロイドは複雑な表情をするベルディを見て、次にフェイロンを見る。ベルディを背に隠し、エプロンのポケットに手を忍ばせる。周りは市民や観光客。舌打ちをしたロイドは片手をポケットに突っ込みながらもう片方の腕を庇うように広げた。

「私たちには貴方と馴れ合う理由も必要もありませんが」

「うーん冷たいですね!」

 ふむ、と考え込むように顎に指を添える。そしてフェイロンは口を開いた。

「私は常波を知っています。案内ならできますよ。どうですか?」

「貴方のメリットがありません」

 警戒心剥き出しの会話は刺々しい。

「仲良くなれる! いいじゃあないですか、不法入国者同士。旅は思い」

「やりの世界」

 フェイロンが言い切る前にジャワ―ドが続きを言う。

「って父さんが言っていたから……」

 じっとベルディを見る。仕方ない。

「じゃあ案内よろしくお願いします……」

「やった!」

 財布を取り出したフェイロンは露店に駆け寄ると人数分の串焼き肉を買い、各々に差し出した。ロイドはまたも「手術の後遺症で固形物が食べられなくなったので」と断り、フェイロンはロイドの分だった串焼き肉をベルディに渡す。

「では案内いたしましょうか」

 疑いの目で見られていたフェイロンだったが、丁寧に常波を案内し始めた。


 今いる島は北端のトワラ島であること。この島は三番目に大きく、水上モノレールに乗ると二番目に大きいマルテイ島と四番目に大きいアジリ島に着くということ。マルテイ島から細切れになった島々を経由すると最も大きいカルタン島に着くということ。

 水上モノレールの乗車賃は存在せず、誰でも乗れるという。

 説明を受けながら市街地を抜け、大通りに出ると路面電車が丁度目の前を通り過ぎて行った。無秩序な人の流れに戸惑いながらフェイロンの後をついていく。水上モノレールの乗り場は常に混んでいるようで、乗車する頃には既に昼前になっていた。

 窓の外を見ると浅く淡い青色の海がすぐ下にある。透きとおった青色は波も天気も穏やかで見渡せば島が見える。大陸から見た海とは全然違うのだ。


 マルテイと書かれた駅でモノレールを降り、左右を見る。マルテイ島はトワラ島より暑く、人も多かった。

「丸帝偉島の反案太は、常波の首都になります。そしてあの一番大きな建物が常波の都庁なんですよ」

 通りを抜けて都庁の方面へ向かう。

「都庁にね、知り合いが務めているんです」

「アルカトラン連合国に捕まってた人の知り合いが都庁にいるわけねえだろ」

「それがいるんですよね。ユーチェンさんっていう政策企画局の人! まあ……悲しいことに仲がいいかと訊かれると素直に頷けないんですが……あっ! あそこの映像に映ってますよ、ユーチェンさん!」

 指差した先には建物の壁に大きな画面が嵌めこまれており、画面には肩で切り揃えられた黒髪の人が映っていた。にこやかな顔で新規事業に関して話していた。


 好かれやすそうな容姿にはっきりとした喋り方、きりっとした姿勢。シャツの釦を首まで留めて、明るめのスーツを着ている。中性的な顔立ちのその人は、確かに映像の中でユーチェンさんと呼ばれていた。


 映像を見るフェイロンは感情の読めない表情をしている。じっと見ているかと思うとフェイロンは口を開いた。

「……常波は昔から貧困問題に悩まされているんです。何百年も前から他国の人間や難民を受け入れてきたせいか、国の面積に対して人口が多すぎる状態になってしまいました。今は受け入れを制限していますが、人が増えれば増えるほど貧困の問題は大きくなっていきます」

 視線を画面から戻し、フェイロンは歩き出す。ベルディは足元を見た。水路の水が波打ち、陽の光を受けてきらりと反射している。

「同じ立場の人と馴れ合っているほど、状況の改善は難しくなりますよね。だからあんな風に貧困の掃き溜め場ができるんです」

 大通りから外れた道の街灯は切れかかっていて、ちかちかと点滅していた。建物が乱雑に建ち並び、奥は薄暗く、アルカトラン連合国で嗅いだような薬品のような匂いとは違う生ごみのような匂いがする。

「『碁』って呼ばれているんですけどね、あまりに貧しくなった人やどうしても職に就けない難民は結局ここに流れ着くんです。難民や生活困窮者への良い制度があるにも関わらず、それに従えないような人たちが」

 喧噪に紛れて一際大きい怒鳴り声が薄闇の碁から聞こえてきた。常波の治安の悪さは全てここに集約されているようだった。

「あ、私はここに用事があるので、案内はここまでにしますね」

 そう言ったフェイロンはベルディたちに背を向け、貧困の掃き溜め場と称した碁へと向かった。長い髪が揺れる姿は貧民街の雑踏に紛れてすぐ見えなくなってしまった。


 空を見上げる。緋色に焼けた空は雲を霞のように纏い、太陽はもう沈もうとしていた。これから先のことを考えなければ。まずはどこか泊まれるところに。

「ギルバートたちは今どうしてるかなあ」

「さすがにそんな簡単にノルクライスには着かないだろ」

 どうせまだグリーンアースだ、とハオが緑の大地があった方角へと視線を投げた。




 ♢♢♢




 宿泊施設から出て大きく息を吸う。早朝は涼しく風が心地よい。まだ眠っている皆を置いてベルディは一人散策に出かけていた。朝は人が少なく、街全体が眠っているようだった。

 木々の香りがグリーンアースとは違う。ノルクライスの木々もグリーンアースの木々とは違うものだったが、種類は少なかった。しかし常波はそうではない。多種多様な木々が生育している。グリーンアースやノルクライスの木の葉は柔らかく表面がざらざらとしていたが、常波に分布する木々の半数はつやつやとした滑らかな葉を持っていた。

 緑豊かな公園が見えてベルディは立ち止まる。吸い込まれるようにふらふらと公園の中へと入っていき、空を見上げた。上空の風が早いのか雲が流れていく。

 柵に腰掛け、ぼんやりとしていると、視界の隅で人がしゃがみこむ姿が見えた。しゃがみこんだその人はなかなか立ち上がろうとしない。具合が悪いのだろうか。ベルディは近寄り、慣れない常波語で「気分が優れませんか?」と尋ねた。

 しゃがんでいた人は顔をあげ、眉間に皺を寄せたまま無理矢理笑った。綺麗な黒髪は肩についてくしゃりと跳ね、額には汗が滲んでいる。

「大丈夫です、ちょっとお腹痛くて……」


 ベルディはあっと声をあげそうになった。建物の壁に嵌めこまれた画面の映像に映っていた、ユーチェンと呼ばれていた人である。

 名前を口にしても変だろうと黙ったままベルディは立ち上がり、そっと手を差し出す。

 ユーチェンと思わしき人はベルディの手をとりゆっくりと立ち上がる。思ったより背が高く、ベルディの視線は少し上を向いていた。

 ポケットから使い捨ての懐炉を取り出す。寒さ対策で天高からいくつか持ってきていたのだ。

「これ使い捨ての懐炉です。いらなかったら捨てていいので」

 どうせ常波にいるうちは使う予定はない。ベルディは懐炉を押し付けて、背を向けた。公園を出て走り出す。善意の押し付けになってしまったかな、と少し恥ずかしくなった。


 ほんの少し身軽になった体で宿泊施設に戻ると、真っ先にロイドに叱られた。

「一体どこに行っていたんですか!」

「ごめん、散歩に……」

「スリープ機能で内部クリーニングしている間に! 危険な真似を!」

「はい……」

 こっぴどく叱られた。ロイドの険しい表情と言葉が落ち着く頃には太陽はいくらか高くなり、外には燦々とした日差しが降り注いでいた。

 とりあえず常波の様子を見ようということで意見が一致しており、市街地に足を踏み入れる。人々は明るい表情で暮らしを営んでいた。船乗り場のような騒がしさはないが、どこもかしこも人でいっぱいだ。


「昨日カルタン島で光の雨が降ったんですって」

「やだ、数か月前も降ったわよね?」

「十五年も前から何度も何度も降ってるけど、いつここに降るか……」

「被害が凄かったって。怖いわ、ここにも降るのかしら」


 ふと耳に入ってきた会話に不穏な影を感じる。光の雨の話に関してハオからも聞いたことがあった。会話の内容が正しければ、光の雨の事件はアルカトラン連合国だけで起きることではないということになる。

 アルカトラン連合国の推定通りなら『ノルクライスが常波を攻撃している』ことになり、それが間違いであれば『第三の何かが各国を攻撃している』ことになる。

「ハオ、前に光の雨の話してたよね?」

「お? そんな話もしたな」

「ジェニスさん、光の雨って知ってる?」

「ああ。軍に従属していたわけではないしエーゲルに落ちたことはないから正確なことは知らないが、十五年くらい前から何度か降っているらしい。ノルクライスからの攻撃だと聞いた」


 次々に頭の中で最悪の展開が拡がっていく。

 もし『第三の何かが各国を攻撃している』場合、ノルクライスからの攻撃だと思っているアルカトラン連合国とノルクライスの間はどんどん亀裂が激しくなり、真相を知らずに開戦待ったなしだ。


 はっとして顔をあげる。周りを見回し、大きな画面が嵌めこまれた建物を見つける。丁度ニュースが流れているようだ。

 突然走り出したベルディを皆慌てて追いかける。

 画面にはカルタン島での光の雨に関してのものが流れていた。

『昨夜未明、カルタン島に光の雨が降り注ぎました。人的被害は……』

 光の雨がノルクライスでも降っていたとしよう。ノルクライスはおそらくアルカトラン連合国の仕業だと考えるだろう。そんな技術力があると想定できるのはアルカトラン連合国だけなのだから。

 常波は長い間ノルクライスと友好関係を築いてきた。しかし中立国を貫くために光の雨はアルカトラン連合国の仕業ともノルクライスの仕業とも言わないだろう。それはどの国に対しても不信感を持っているとも言える。


 世界の情勢は今、酷く不安定だ。


「どうにかしてギルバートと連絡を取らないと……!」

 焦るベルディを見てジャワ―ドは何か考え込む。ベルディの腕を取ると、「こっちだ」と言って連れていく。市街地に点在するグリーンアースの名残の森へと入ると、ジャワ―ドは指笛を吹いた。高い指笛の音は森の中でこだまし、遅れて甲高い鳴き声が返ってきた。

「アズハール!?」

 鷲のアズハールは腕に留まると小さく鳴いた。たしたしとジャワ―ドの腕を足で叩く。

「な、なんで? 海渡ったの? え? 鷲って渡れるんだっけ?」

「船の縁に留まっていたぞ。船員に魚を貰っていた。まさかおれもアズハールが魚を食べるとは思わなかった」

 ジャワ―ドは小さな紙を取り出し、「これに伝えたいことを書いてアズハールの足につければいい」と言った。

「ぼく文字書けないよ」

「なら代わりに書こう。ノルクライス語でいいんだろう? なんて書けばいい?」

 小さな紙に収まる文。果たしてどう伝えるのが最適か。

「じゃあ『アルカトランと常波で光の雨が降った』って書いてくれるかな」

「分かった。なあ、もしかして光の雨は……」

 ベルディは頷いた。


「そう。アルカトラン連合国の仕業でもノルクライスの仕業でもない」


 癖のある髪が風に揺れ、目が細められる。

「……真の敵は別だと?」

「そういうことになるね」

 一瞬考えたようだがジャワ―ドはその紙を小さな筒に入れ、それをアズハールのアンクレットに繋げる。

「ギルバートのところに届けてくれるか」

 アズハールは首を傾げたが、甲高く鳴いて飛び立っていった。翼は空気の流れを掴み、すっと上へと昇っていく。

「今思ったんだけど」

「なんだ?」

「行きはポセイドンに乗ってたけど、今回はどうやって海を渡るのかな……」

「あ」

 しまった、そんな表情をしたジャワ―ドは「まあ漁船の船を経由していくだろう、多分」と自信なさげに呟いた。

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