6 青髪の魔術師、灰色の青年
かつてノルクライスでお世話になったのだ、とベルディが紹介する。ギルバートはハオやジェニスには片言ながらアルカトラン公用語で挨拶を交わし、荷物を置こうとして辺りを見渡した。そこで初めて部屋の隅でフードを被り小さく蹲る者が二人いることに気づく。
無遠慮に近づいて屈み、フードの中を覗き込む。特徴的な耳にギルバートは目を見開いた。
「……エルフ?」
ぽつりと呟いた言葉にエストラ姉弟は顔を隠すように俯いた。フードの縁を握る手は震えており、異常なまでに怖がっている。
「あー、お客様? 彼女たちにエルフって言うのはやめてやってくれ」
迫害の歴史を知らないわけではないだろうと困った表情を浮かべ、エストラの背を摩った。
第二の神経回路は何世代に渡ってグリーンアースの影響を受けた者に発現する。
極めて第二の神経回路が多い人のことをサーキットと呼び、サーキットが更にグリーンアースの影響を受けて世代が繰り返されていくと第二の神経回路が常に外界との接触を保つ者が生まれてくる。それがニンファだ。
ニンファは疑似神経回路を張り巡らせた外界接触礼装を必要としない。その身一つで魔術が使える彼らを魔術師としての立場を脅かす存在として認識する者もいれば、利用しようと考える者もいた。ノルクライスの魔術師たちはニンファを生きる動力として誘拐し、頑丈な玩具として暴行し、虐げ使役してきた。
遥か昔の旧時代の御伽噺から「エルフ」と。ノルクライスの魔術師たちが勝手にそう呼んだのがきっかけだった。
指輪を全て外し、耳飾りも外す。フードを深く被るエストラの前に外界接触礼装のない手を差し出し、微笑んだ。それが彼なりのエストラとレーヴェンへ示す敬意であると、傍に立つベルディは察した。
「お会いできて光栄です。先ほどは失礼いたしました」
碧い瞳に映る怯えた姿。ギルバートは笑みを湛えたまま言葉を続ける。
「俺にない力を持っている。羨ましくもありますが尊敬もしています。一人の、人間として」
緩やかに顔を上げるエストラ。薄緑の瞳に暗い金髪の男を捉え、唇を震えさせた。弟レーヴェンの手を強く握る。
「私、貴方が怖い。私がノルクライスでどんな目にあったか知ってる? 言葉にするのも憚れるような……貴方はノルクライスの魔術師だからそんな目に遭うこともなかったでしょうけど」
肌を隠すゆったりとした服に身を包むローブ。袖の隙間から痛々しい痕が見える。ギルバートは目を合わせたまま首を振った。
「実際に起きたことを私が全て知ることは出来ないでしょう。色々な人に人の心が分からない奴だとも言われてきました。しかし体の痛みは分かります」
ギルバートが自身の服を捲るとそこには数々の痣の痕や切り傷の痕があった。エストラ姉弟は息を飲む。
天才的な素質を妬んだ同期及び上学年による壮絶な虐めの果てだ。綺麗に整った顔を殴れば虐めが明るみに出るからと執拗に胴体めがけて暴力を振るう卑しい無能。ギルバートはその無能どもからの虐めを徹底的に無視して最速でエデンカドラ学術院を卒業したのである。
そっと服を戻してギルバートはもう一度手を差し出した。
「痛みを知る者として仲良くしていただけますか?」
エストラはじっとギルバートの手を見る。そしておずおずと俯きがちにフードを脱いだ。白金の髪がぱさりと落ち、特徴的な耳が露出した。レーヴェンもフードを脱ぐ。ベルディやジャワ―ドを見て口を開いた。
「……彼らに会って初めて他人を信じようと思った。そう思えたことが嬉しかった」
怯えに瞳が揺らぐ。薄い瞼を下ろし再度開いたときには、目に怯えはなかった。そこにあるのは緊張と不安。エストラは貴方も信じていいかしら、と続けた。
勿論と頷いたギルバートを見て決意を固め、エストラとレーヴェンは立ち上がる。
「ああ、まだどきどきしてる!」
机に寄りかかるとトレーがかたりと音を立てた。トレーの中の瓶や針を見たギルバートが「それは?」と尋ねた。
「ああこれ? 麻酔カートリッジケースよ。麻酔カートリッジケースの中身はメピバカイン。グリーンアースの木の葉にはメピバカインが含有されていて、葉からメピバカインを抽出して麻酔薬として使っているのよ。Vasokonstriktoroの添加……ああ、ええと、血管収縮剤の添加がいらない一番簡単に手に入れられる麻酔薬って言ったらこれだからね」
空の麻酔カートリッジを振る。
「グリーンアースの葉にメピバカインが含まれているのは知っていたがその瓶は初めて見た」
「カートリッジ注射器用の麻酔カートリッジケースだもの」
「なるほど、使い切りで簡単に打てる局所麻酔か」
仲良くなってくれるのは良いがこのままでは麻酔の話題で話し込んでしまう。依頼は確認しなければとラルクが慌ててギルバートに声をかけた。
「な、なあ! 発注についてって言ってなかったか? 何を発注するんだ?」
ああ、と思い出したように鞄から小瓶を取り出しラルクに小瓶を渡す。瓶は液体で満たされていた。
「プロポフォールに大豆油とグリセリン、卵黄から精製したレシチンを添加したものだ。静脈に投与して全身麻酔ができる」
シリンジを引く動作をして指で腕を叩く。
「輸液パックを作ってほしいんだ」
瓶を眺め、申し訳なさそうに凛々しい眉を下げた。
「そういう仕事はあたしじゃなくて爺さんだよ。あたしは魔術礼装の加工専門だもの」
困惑するラルクにギルバートが首を捻る。
「うん? 貴女はドランクさんじゃないのか? ドランクさんが薬剤関係だと聞いたが……」
「あたしはラルク、ドランクは爺さん! え? じゃあ外界接触礼装関係で話があるって連絡は?」
「それは俺じゃない」
背後で移動装置が動く音が響く。地鳴りのような音で移動装置が止まると共に誰かが部屋に訪ねてくる。
「ラルク! ここにいたのか!」
鮮烈な青髪を揺らす男は大股で近づき、ラルクの頭を乱雑に撫でた。
その男は鹿が刺繍された白い服を着ていて、グリーンアースを横断するには派手な出で立ちの印象を受ける。
「呼んでも来ねえし、案内してくれって言ったらドランク爺さんの方に案内されちまうしよ」
大きな目をこれでもかと開いたラルクはあっと叫んで「イゼット! あたしに用があるっていう客はイゼットだったのか!」と担いでいた鶴嘴を床に落とす。どうやら連絡と案内間違いだったようだ。
「礼装が欲しいんだ。耳飾りのやつと指輪の」
イゼットと呼ばれた男は手をラルクの前でかざした。指には金色の指輪が、腕には金色の腕輪が、耳には金色の耳飾りがある。どの装飾品にも細かな鹿の柄が施され、煌びやかな青い宝石が嵌め込まれている。どうやら魔術回路を持つ人間のようだ。
「待て。依頼は俺が先だ」
「は?」
ギルバートの強く冷たい言葉にイゼットは表情を固くした。ラルクは焦り、慌てて二人の間に割って入る。長身の二人に挟まれながらも持ち前の腕力で二人を引き離した。
「わかっ、分かったから! あたしは麻酔カートリッジの補充と針の消毒、ギルバートの発注をドランク爺さんに連絡して! イゼットの魔術礼装を作る! これでいいだろ! 依頼を受ける担当者が違うんだからこんなことで喧嘩すんなよ!」
両者ともに頷き、険悪な雰囲気は散っていった。嵐のような出来事に言葉を失っていたエストラ姉弟だったが、イゼットの存在をようやく認識し、フードを慌てて被ろうとする。
「顔隠さなくたっていいぜ。俺だってキュアノエイデスって言って特殊なサーキットだからさ、ノルクライスじゃ観察対象なんだよ」
顔を覗き込むように体を折り曲げ、にっと笑った。呆気にとられたエストラとレーヴェンはフードの端を握ったまま動けなくなる。
「ああ、もう! どいつもこいつも! デリケートな話だってのに!」
ラルクに髪を引っ張られたイゼットは痛みに天を仰ぎながら「俺とも仲良くしてくれよ!」と言った。
♢♢♢
二週間ほど静養し、地下要塞を発つ日が来る。
第一印象が軽薄で騒がしいイゼットだったが、ジェニスの静養でここを訪れたと知ると態度を変えた。良い意味で、である。
ジェニスが眠っている間は声のトーンを落とし、エストラとレーヴェンには治療技術を教えてくれと頭を下げた。
距離の詰め方は相変わらずだったが、エストラもレーヴェンもイゼットの真剣な表情に根負けし、怯えつつも彼に技術を伝えるまでには友好な関係を築いたのだった。
「ノルクライスでは監視対象のサーキットなんだ、俺。キュアノエイデスって言って、あんたら程じゃないが外界接触礼装がなくても魔術が使える。俺の髪、青いだろ? これが礼装がなくても魔術が使える理由だ」
人の髪色はユーメラニンとフェオメラニンで構成されている。しかしキュアノエイデスは髪に外界接触礼装と同じ性質を持つ、青い波長域を反射する色素を持つのだという。
魔術を使う際、髪が光るんだ。そう言ってイゼットは水を掬うように手を丸める。髪は青く発光し、部屋の中に青い光が広がった。イゼットの手から白い光の糸が溢れ、様々な動物を模した形へ編まれていく。編まれた動物の形をした何かは手のひらから離れ、空中を駆けていく。それは美しい光景であり、まるで寝物語のようなワンシーンだ。
「大規模な魔術を使うとなると礼装が必要になってくるから、こうしてここで礼装作成を依頼してるってわけだ」
指を鳴らすと糸の動物たちは弾けるように消えた。
キュアノエイデスは鹿の姿をした神を信仰している。グリーンアースを統べるカタロイアス。それが彼らの倫理観を成すものであり、生きる指針の一つだ。
民族の皆が信心深いわけではなく、イゼット自身も信じ切っているわけではないと言った。しかし彼の白い服には鹿の刺繍があり、生活に溶け込んでいることは確かだった。
派手な見た目に騒々しい印象から打って変わって、真剣で静かな語り方をするイゼット。
しかしそんな自然と共に生きる彼らキュアノエイデスに、天敵と称しても差し支えないほどの憎い相手がいる。荒地に集落構える、カリュプスと呼ばれるサーキットだ。
「カリュプスは昔から俺ら民族を攫ってきたやつだから近づくなって何度も教えられてきた。会ったことねえけど、バカみてえな怪力で、黒だか灰色だかの暗い髪のすげえ日焼けした……緑の目のバケモンらしいぜ」
ここまで口酸っぱく言われると逆に会ってみたいよな、角でも生えてんのかね? 尻尾とかも生えてたりして! とイゼットは軽快に笑う。長きに渡る民族間の確執を垣間見て、ベルディは目を伏せた。
様々な戦争が幾度にもわたり行われてきたこの星では、争いがなくなる日はこないのだろうと。
「もう行っちゃうのか? 寂しいなあ、ジェニス」
目線を合わせてしゃがむジェニスの頭を抱きしめ、薄茶の髪に顔を埋めた。
「ずっと身の回りを任せてしまってすまないな、食事も美味しかった」
「私はお姉さんだからな、もっと甘えてくれても良かったんだぞ」
「はは、私はもう二十七ですから。年下に甘えるわけには……」
ジェニスの少し困った様子にラルクは頭を撫でながら少しばかり不服そうな声で「何言ってるんだ、あたしは二十八だ」と告げた。
「二十八……!?」
一歳年上であったことにジェニスは声をひっくり返して驚いた。てっきりまだ子供だと思っていた彼にとって衝撃的な事実である。
「……失礼いたしました、ラルクさん」
「いいって! じゃあ気をつけてな!」
元気よく手を降るラルクに軽く手を降り返した。車は動き出し、西へと向かって走る。地下要塞の門灯はすぐに小さくなりすぐに見えなくなった。
「ところでロイド」
緊張が滲んだ声でエストラがロイドを呼ぶ。
「はい」
「なんでイゼットが車の上に乗ってるのかしら」
「乗せてくれと強請られたご主人様と車の持ち主のジェニス様がお許しになられたので」
淡々と述べるロイドにエストラはため息をついた。
斜面に耐え切れずに車体が傾く。車輪が滑り固い土の上で横転せんと浮いた。腹の底が冷えるような焦りと緊張感、恐怖が全身を走る。無暗に車内で魔術を使えば目測を見誤り余計な事故が発生しかねない。エストラ姉弟もギルバートも魔術を使うことを躊躇った。魔術を扉を開けて車から出るには時間が足りず、出たとて全員助けられるわけでもない。なにより反応に遅れれば横転した車体に巻き込まれてしまう可能性すらあった。
車の上に座っていたイゼットが手を降り降ろして魔術を行使しようとするが、揺れと傾きで車の上を体勢を崩してしまう。つるりとした屋根の上から滑り落ちそうになり咄嗟に屋根の縁を掴んだ。
今、車の側面が地面とどれだけ離れているか。あと何秒で地面と接触するか。状況を見ずに正確な魔術を行使することは難しく、衝撃に備えて目を閉じた。
「……?」
斜面を転がり落ちることなく車は止まり、瞑っていた目を恐る恐る開く。窓の外を見てあっと声をあげた。
大柄で屈強な男性が片手で車を支えている。褐色の肌にくすんだ黒に近い灰色の髪が風によってなびき、青みがかった彩度の低い緑の瞳がじっとこちらを見つめていた。乾燥してかさついた大きな手はゆうに一トンを超える自動車を易々と支え、傾きに耐え切れず時間差でずり落ちたイゼットを空いた手で受け止めた。
唖然とした表情で皆が彼の男を見上げる中、こともあろうに男性はそのまま車を押し上げた。車は平衡を取り戻し、それどころか元居た位置よりも更に後方へと押し込まれる。
車は完全に止まり、男性は車の扉を開けて未だ茫然としている車内にイゼットを放り込んだ。
「……ここの道は危険だから迂回した方がいい」
低く掠れた声でそう言いながら、首を覆う深緑の服をより一層際立たせる黄金の腰帯の緩みを直す。腰帯には山刀が差されていた。柄の部分には虎の模様が彫られている。服越しでも分かるほど鍛えられた肉体をしていると一目で分かった。威圧感のある風貌も、剛健な肉体に似合っている。
放り投げられて呆気に取られていたイゼットだったが、男性の容姿を上から下へとまじまじと見て吠えるように大きな声を出した。
「お、お前、カリュプスの人間だろ!」
困惑というよりは珍しい物を見たような反応でがばりと上体を起こし、車から出て男性の周りをうろうろと回る。好奇の目に男性は眉を顰め、「キュアノエイデスの人間こそ何故ここにいる」と呟いた。
「俺、カリュプスの人間初めて見た。村のやつらが誘拐する最低最悪なやつだなんだと言うからてっきりもっとバケモンじみた奴なんだと思ってたんだが……なんだ、普通じゃないか」
片手で車を受け止めた異常さを無視した発言にギルバートは眉根を寄せる。
「私もキュアノエイデスは呪いに長けた青白い化け物と聞いて育ったが……何、思ったよりもなよなよしいんだな?」
どう聞いても煽りだ。肩眉を上げて半笑いで言うのも相まって悪意ある言い方に感じる。
「ああ? 誰がバケモンだ、お前の方がバケモンじゃねえか」
今にも噛みついてやると言わんばかりの形相のイゼットの袖を引っ張り、男性の方を向くと口を開いた。
「助けてくれてありがとう。 ぼくはベルディ、貴方の名前を教えてもらってもいいかな?」
「……ラシードだ」
素っ気なく答えるラシードと名乗った男性に、ベルディは出来るだけ違和感のない愛想笑いを浮かべた。
「ぼくたちペダ山地を越えてノルクライスの方まで向かうんだけど……」
良かったら乗らない? そんな提案を聞いた男性は車内を見て少しばかり逡巡し、「いくらなんでも狭すぎる」と言った。
車の上にラシードとイゼットを乗せ、ゆっくりと山を進んでいく。急斜面だった地面は徐々に緩やかになっていき、風が優しく吹いていた。
穏やかな運転が続いていたが、助手席側のドアガラスに突如青い髪が垂れる。秀麗な顔を覗かせたイゼットがドアガラスを叩き、エストラがドアガラスが下げた途端「アイツ、口開けば嫌味しか言わねえ!」と喚いた。
「何言ってんのよ……」
「民族間のわだかまりを無視して仲良くしようと話しかけてんのに、ちっとも笑いやしねえ!」
頭に血が上りそうな体勢のままつまらなさそうに文句を言う。車内からはラシードの様子は見えない。陽の光に透ける青い髪が風に揺れ、ペダ山地を二つに分けていた運河を思い起こさせる。イゼットはいかにも不貞腐れたように頬を膨らました。
「俺は別にそこまでカリュプスがどうだとか思ってないわけ! むしろどんな奴か興味あるわけよ! だってのに口を開けば『知らん』『どうでもいい』『そんなことしか話すことがないのか?』だのなんだの……」
「あんまり喋ってると舌噛むわよ」
呆れきったエストラに対し「んなこと言ってもよ」と体勢を戻した。仲が良いとはお世辞にも言えない雰囲気を車体越しに感じる。イゼットの距離の詰め方がラシードにとっては不可解なものなのだろう。
「お前さあ、何してたんだ? グリーンアースで」
「散歩」
「嘘つけ!」
「本当だが。お前らキュアノエイデスと違って健康なものでな、大陸横断くらい散歩と変わらん」
「あ? 舐めてんのか?」
ぎゃいぎゃいと騒がしい声が聞こえてくる。騒がしいことこの上ないが、険悪からは遠く離れた空気を感じて、ベルディとハオは笑った。
「思ったより仲がいいんじゃない?」
レーヴェンの呆れた声に滲む楽しそうな色。エストラは苦笑いをして、「私も今そう思い直したところよ」と言った。
甲高い鳴き声が響く。
「アズハール?」
ジャワ―ドが鳴き声に反応する。鳴き声は何度も繰り返されており、車の上空を飛んでいるのだろうか。
突如金属が高速で衝突する音と共に車体に振動が走った。グリーンアースの中で遭った追撃が瞬時に脳内を駆け巡る。
「狙撃されてます!」
ロイドの緊張した声を掻き消すかのようにもう一発。金属音が響き、テールランプが損傷する。ロイドはアクセルを思い切り踏んだ。リヤバンパーに被弾し、先ほどよりも軽い音が鳴る。
「しっかり掴まってください!」
開けた山の中腹ではとにかく加速するしか手はない。未だ加速する車のリアガラスより下、バックドアの持ち手より上に被弾し音が響いた。
二発目が発射されるまで約八秒、三発目が発射されるまで約八秒、四発目が発射されるまで約八秒強。ボルトアクションのスナイパーライフルだとして狙撃地点からの距離を考慮すれば、かなり手練れの狙撃手が一人と推定できる。
「運転交代だ! 反撃頼めるか?」
後部座席のジェニスと運転席のロイドが入れ替わり、同時に車の屋根後方に着弾して強烈な音が響いた。ロイドは背負っていた狙撃銃の銃弾を装填し、ドアガラスを下げる。
「あっぶねえ! なんだよさっきから!」
状況に困惑しているイゼットに六発目の銃弾が襲う。大きな物が倒れる音、それからラシードと名を呼ぶ焦った声。
「馬鹿、なんで俺を庇って……!」
喉に何かが引っかかったような上擦ったイゼットの声に、ギルバートが「撃たれたのか!」と叫んだ。
「背中、背中だ。ラシードが俺を、俺を庇って……」
「止血しろ!」
ドアガラスから身を乗り出したロイドは狙撃方向と秒数から位置を割り出し、狙撃地点を予測する。鋼鉄の目が収縮し素早く動くと、およそ二キロ離れた山の山腰に人影らしきものを見つけた。更に拡大すると装填する動きが見える。黒衣に赤い耳飾り。この人間が狙撃してきているようだった。顔はよく見えないが、この人間で間違いない。
車の屋根の縁に着弾し高い音が響く。ロイドは狙撃手の肩を狙いに定めた。
本当は殺してしまっても己のプログラムはエラーを引き起こすことも自己破壊も起きないのだけれど、とロイドは片方の目を細める。
グリーンアースの悪路とまでは言わずとも山独特の地面を加速し続ける車から肩を狙って撃つのは正直に言って厳しい。しかし忌まわしいが頼りになる自身の性能を最大限使ってでもここにいる人を、仲間を、友達を守らねばならない。
弾丸の射出軌道の演算を終え、引き鉄を引く。
撃った銃弾は演算通りの軌道を描き、狙撃手の肩を撃ち抜いた。
車の上から引き摺り下ろしたラシードの背中には、斜めに切り裂いたような傷があった。治療の邪魔になると服をはぎ取り、詳しく傷を確認する。幸い皮下脂肪までの怪我のようだった。
止血は十分、意識もある。動かないでとやや乱暴に助手席に押さえつけ、傷口の周りに麻酔を打った。エストラはジェニスに施した時のように丁寧に、かつ素早く縫合していく。
呆然と治療の様子を見るイゼットの綺麗な白い服は血に染まり、鮮やかな青い髪も赤黒い血に塗れていた。
後部座席にこれでもかと人を乗せた車が動き出す。損傷が激しくまともに走行できない。狙撃された時とはまた別の激しい揺れの中、誰もが口を開くことを躊躇った。
誰よりも沈痛な面持ちのイゼットはうつ伏せになるラシードの傷ばかりを見ている。
不意にラシードの手が動いた。その手はイゼットの血塗れの髪に触れる。乾いた血によって塊になった髪を解しながら「お前の嫌いなカリュプスは……怪我の治りも早い」と言った。
要は『気にするな』と、そう言いたいのだろう。
ぐっと身を屈め、ラシードだけに聞こえるように助けてくれてありがとうと囁いた。すぐに距離を取って「さっさと治せよバーカ」と大袈裟にそっぽを向く。
一連の行動を鼻で笑ったラシードは背を丸めてしまい、痛みに呻いた。
「こら! 怪我人なのにじたばたしない! せっかく縫ったのに傷口開くわよ!」
ああだこうだと一気に騒がしくなった車内。酷い緊張感はいつの間にか無くなっていた。
呆れるような目で背後を見たギルバートはベルディに尋ねる。
「いくら体が頑丈でも安静にできる環境は必須だろう。ノルクライスはまだ遠い。どこか休息が取れるような場所を知っているか?」
ギルバートに尋ねられたベルディは首を振った。
「何も知らないや。ぼくの育った天高や中立国常波も直線距離としてはノルクライスより近いとは思うけど、山脈を越えたうえで海に出ないといけない。厳しいよ」
助手席で狙撃銃の手入れをするロイドがちらりとジェニスを見る。ハンドルを握って運転するジェニスも薄々勘付いていた。
もうこの車は長くは走れない。先ほどの銃撃でかなりの損傷を負い、限界が来ている。これだけ魔術素養の高いものがいるのだから直すこともできようが、一旦停止し車体全てを点検、修理するにはアルカトラン製の車の構造を知らなさすぎる。
追撃隊がどこまで追っているのか分からない今、地下要塞に戻るのはリスクが高すぎる上に、戻るとしてもこの車が持つかどうか怪しいのだ。
ジェニスとロイドの心配に反し、車は三日も持った。しかし山脈を前にしてとうとう車は止まってしまう。安静にできる場を見つけるよりも先にラシードの傷は異常な速さで治ったが、移動手段が徒歩のみになってしまったのだ。
辺りを見渡してからギルバートへと視線を戻す。困ったというよりは居心地の悪い、申し訳なさそうな表情をした。ジャワ―ドとハオを呼び、ロイドとジェニスを手招きした。
「ぼくたちが追われているせいで何の関係もないラシードに怪我させちゃった」
少し肌寒い風が吹き、ベルディの黒髪を撫でる。目に髪が入らないように目を細めた。
「だからここで、さようならにしよう」
荷物を背負い、ギルバートを見る。ノルクライスでの別れとはまた違った寂寥感。朝日が昇る前の薄闇は似たようなものだったが、雲が重なって大きくなっては砕けて消え、表情をころころと変えていた。太陽は未だ地平の向こうにある。
とっくにベルディたちの前ではフードを被らなくなったエストラが動かなくなった車に背を預け、ジェニスの腕を見ながら「怪我、しないようにね」と言った。
「行先は?」
声色に心配が滲み出ている。
「常波に行こうかなって思ってる。山を越えて海を渡って……向こうまで」
「分かった」
「ギルバートたちは? ノルクライスまで歩くとなると……」
距離にしてまだあと五千キロメートルはある。常波への道のりも険しいが、ノルクライスまでの道のりだって尋常ではない。
すっかり血が落ちた髪を指先で弄りながらイゼットが口を開いた。
「少なくとも二か月は歩くが、少し南に逸れれば俺が生まれ育った村がある。一旦そこで休憩してからノルクライスに向かえば合計で三か月……いや二か月半くらいで着く。どうだ?」
ラシードにはちょっと息苦しいかもしれないけど、と尻すぼみになっていく。
「そうしよう」
ラシードの掠れた低い声がそう答えたことによりイゼットはぱっと顔を上げた。
「な! それでいいだろ?」
エストラ姉弟は顔を見合わせ「人が多いところは苦手だけど……」と口にした後、泊めてくれるなら有難いものだと頷いた。
「だ、そうだ。お互い行先は決まったな。追われているのはそっちのようだし、気をつけろよ」
「うん」
じゃあまたいつか、と手を振り歩き出す。太陽は雲に隠れているが、空は徐々に焼け始め、雲の隙間から差し込む朝日の欠片が山脈の頂上付近を照らしていた。
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