5 邂逅と再会

 予想通りアズハールを追うとそこには川があった。空を飛ぶアズハールが再び甲高く鳴き、旋回したかと思うと全く別の方向へ急降下する。川は目の前にあったが、アズハールの向かう先は川ではなかったのだ。意図の分からない滑空にジャワ―ドは首を捻る。

 川の水をボトルで汲み、急降下した方向に視線を向けた。ボトルの蓋が閉まっていることを確認し、ジャワ―ドは急降下したアズハールを追いかけて足を動かす。

「きゃあ!」

「姉さん? うわっ!」

 女性の悲鳴と男性の声が聞こえ驚いて一度立ち止まる。人がいるとは全く考えていなかった。腰に差した短剣に手を添えながらそっと近づく。赤くぼやけた光の中に人影があり、緊張が体を固くし、短剣に添えた手に汗をかいた。


 木を盾に覗くと、焚火の近くに二人の男女が立っていた。さらによく見てみると、アズハールが女性の肩に留まって翼を広げ動かしながら女性が手にしていた何かを嘴で挟み、喉を反らせて嚥下している。あっと小さく叫んだ女性の悲しそうな声色に、アズハールの調教の甘さを思い知らされ後悔した。

 男女ともに服装はアルカトラン連合国でもノルクライスでも見ない。聞こえる言葉はノルクライス語のようだが、言葉の端々に知らない単語が混ざっている。

 少なくともアルカトラン連合国の関係者ではないだろう。ジャワ―ドがアズハールを呼ぶと、アズハールは女性の肩から離れてジャワ―ドの腕へと留まった。女性から奪ったのであろう小動物の焼けた匂いを纏いながら偉そうに鳴く。

「おれの鷲がすまない」

「ひえっ、誰?」

 ジャワ―ドの薄茶の瞳は二人の男女を、二人の澄んだ薄緑の瞳はジャワ―ドを捉えた。白金の髪に整った顔、すらりとした体型。そして違和感を覚える耳の形。

 一瞬の沈黙の後、二人はローブを慌てて羽織りフードを被りジャワ―ドに背を向け走り出した。否、逃げ出したのだ。


「ま、待ってくれ! 怪我をした人がいるんだ!」


 ここで可能性を逃がすわけにはいかない。

 話半分ではあるが聞いたことがある。第二の神経回路が全身を張り巡っており、疑似神経回路が組み込まれた魔術礼装がなくても自由自在に魔術が使える者がいることを。彼らは耳先が尖っていて、人はそんな彼らをエルフと呼ぶことを。

「頼む! このままだと出血が多すぎて死んでしまう! なあ、魔術が使えるんだろう?」

 二人は足を止めてそろりと振り返る。表情はフードで隠れて何も見えない。ぱち、と焚火の火が跳ねる音が静かなグリーンアースの中で響いた。顔を見合わせた二人は何かを相談し合ったのち、ジャワ―ドに向きなおる。ふっと焚火が消え、夜風が頬を撫でた。

「……どれほどの怪我をしているの?」

 協力を得られたことにジャワ―ドは安堵し、胸を撫でおろした。腕に留まるアズハールは褒めろと言わんばかりの鳴き声を発し、翼を広げる。アズハールの頭を撫で深呼吸をする。体は疲弊していたが、希望を見つけて眠気が吹き飛んだ。もしかしたら彼らならジェニスの怪我を治すことができるかもしれない。




 顔を隠すフードは頑なに外さなかったが、男女どちらもジャワ―ドの後を数歩遅れてついていく。鷲のアズハールは金のアンクレットをつけた足をばたつかせ、ちらりと後ろの二人を見てから飛びだっていった。未だ警戒している雰囲気を背に感じながら歩くのは気まずさを助長させる。

 元の場所に戻るとロイドが真っ先にジャワ―ドの姿を見つけて手を振った。ぱっと花開いたような笑顔は背後の二人を視界に入れた途端に険しくなり、銃を構えようとする。慌てて両手を広げて「ジェニスの怪我を治療できるかもしれない!」と叫んだ。

 言葉を聞いたベルディが目を擦り、ジャワ―ドの名を呼ぶ。

「川もあったんだが、アズハールが見つけたのは川じゃなくて人だった。すごい、魔術が使える、と思う……多分……」

 自信なさげなジャワ―ドの言葉にフードを被った女性の頭と肩を揺らした。笑ったことを隠すように咳ばらいをした後、「怪我人はこの人ね?」と言って木に背を預けぐったりしているジェニスの前でしゃがむ。

 布を抑えていた紐を解き、血に染みた布を剥がすと、裂けた皮膚が露わになった。裂傷は綺麗な一直線ではなく、皮膚を捩じ切っていくような乱れたものだった。腕を取り、じっとその傷を見る。表皮、真皮、皮下脂肪、筋肉。いずれも裂かれているが、骨の損傷は見られない。


「酷い傷ね」


 振り返ってジャワ―ドが持つボトルを指し示し「飲む分にはいいけど……ボトルにAkvopurigiloがついているからって川の水で傷口を洗うのは推奨できないわ」と言った。


 聞き慣れない単語にベルディとジャワ―ドは首を傾げる。ノルクライス語ではそんな単語は使わない。浄水器を意味することは状況から想像がついたが、文法や主語はノルクライス語と変わらないことがより一層謎を深めている。

 女性が傷口に手をかざすと乱れた傷口が一部再生して整った。背負っていた鞄から平たい容器を取り出して中に入っている液体をジェニスの傷口に注ぎ、小ぶりのボトルから茶色い液体を綿につけ創傷周辺の皮膚を軽く撫でる。中が空洞のシリンジに細長い瓶をセットし傷口の縁に刺し、皮下に注入して針先を左右に振った。

 傷口周辺に更に二回同じように針を刺して注入する。皮膚の上を針先でつつき、ジェニスに「痛みは感じる?」と尋ねた。

 アルカトラン公用語ではないために理解できなかったジェニスが助けを求めてベルディを見る。「痛いかどうか聞いてます」と伝えると掠れた声で反応した。

 額に汗をかきながらも緩やかに首を振ったジェニスを確認し、層に段差ができないように筋肉同士、皮下脂肪同士、真皮同士をぴったりと合わせて素早く縫合する。

 表面にまた手をかざすと薄い膜が張りつくように生成され、そこでやっと長い息を吐いた。


 天高の医療班が行っていた縫合よりも早く丁寧だ。ベルディはその腕に見惚れ、ぎゅっと手に力を入れる。


「細長い瓶みたいな物に入っていたのは麻酔?」

「そうよ。でも、今ので麻酔カートリッジケースを使い切っちゃったわ」

 カートリッジを指先で弾き音を鳴らす。元々このカートリッジを作りにこっちに来てたんだけど、と零しながらボトルや瓶を鞄に仕舞い立ち上がった。

「こっちって……アルカトラン連合国に行こうとしていたのか」

 フードの二人は顔を見合わせ、ため息をつく。

「あんな国に誰が行くのよ」

「僕たちはペダ山地の地下要塞に行く予定だったんだ」

 フードを深く被ったままの男性は南西を指し示した。グリーンアースの向こう側にペダと呼ばれる山地がある。ルドラ山脈のように豪雪で絶壁のごとく険しい地ではなく、比較的穏やかな山地だ。それはベルディもジャワ―ドも知っていた。ロイドも情報としては知っている。だが地下要塞などとは聞いたことがない。

 地下要塞ということはそこそこの規模なのだろう。

「ペダ山地ってここから遠い?」

「遠くはないけど……」

 不審そうな声に手を組んで懇願する。

「一緒に行きたいんだけど、いいかな?」


 フードの下で形のいい唇が引き結ばれた。果たして沈黙は拒否の意か。


「できればジェニスさんを休ませてあげたくて……」

 木に背を預けて眠るジェニスを見やる。かなり出血していた腕は綺麗に縫合されているが、だからといってこのまま休息を挟まず大陸を横断するのは難しい。

「遠くはないって言ったけどね、流石に怪我した人が歩いていくには遠いわよ。辿りつかなきゃ休めもしないわ」

 ペダ山地の方角を見る。それから置いてきた車を指で示した。黒い流線型の車が月の光を鈍く反射している。

「向こうに車があるんです。ちょっと故障してて、しかも木の根に引っ掛かってしまって今は動けないんですが」


 木の根から動かすことができれば、あるいは。


「故障と引っかかってるのをどうにかすれば……ってことね?」

 レーヴェンと顔を見合わせ、頷いた。

「案内するわ。明日の朝出発しましょう」

 明日に備えて眠ったほうがいいわ、と地に落ちている木の枝を拾う。既にジェニスおの隣でハオが膝を抱えて眠ってしまっている。ロイドは眠ることこそないが目を閉じて立っていた。眠る姿を見ていると緊張でどこかに消えていた睡魔が全身を襲い、脱力感が体を捕らえる。あくびをしながらベルディはよろよろと歩き、眠る二人の近くに座った。


「治療ありがとう……名前……まだ聞いてないや……」


 瞼が重くて目を開けていられない。睡魔に抗いながら名前を尋ねる。ジャワ―ドもつられてあくびをし、緩慢な動きで地面に座る。安心したのか一気に眠気が襲ってきたのだ。

「おれたち治療する手段がなくて……魔術も使えないから……あんたたちがいて良かった……」

 女性が地に落ちている木の枝をいくつか拾い、黙ったまま組み立てる。湿気った生木から水分を奪い取り乾燥させ、重ねていく。枝が擦れる音が木々をすり抜けていく風に搔き消された。

「……エストラよ」

 返答にベルディは緩やかに首を傾けた。

「私の名前はエストラ。弟の名前はレーヴェン」

「エストラ……レーヴェン……」


 木に手をかざすとぼうっと火が付き、風によって揺らめいた。男性が女性のことを姉さんと呼んでいた故に予想するのは容易かったが、やはり二人は姉弟だった。

焦点が合わなくなっていく視界の中で、ベルディは火に照らされたエストラの顔を見た。透けるような緑の瞳がベルディの姿を映している。ぱち、と火が弾け、二人は火を囲うように座る。ベルディが眠りに落ちたのと入れ替わるようにフードを脱いだ。




 車の後輪にレーヴェンが手をかざすと棒状の光が後輪の下に差し込まれ、後輪が浮き上がる。

 運転席にロイドが座り、後部座席二列を倒して運転くらいできると暴れるジェニスを無理矢理横たえさせた。

「完治してないのに何言ってるんですか!」

「馬鹿なことを言わないでくれ」

「ロイドが運転できるって言ってんだぞ、寝てろよオッサン」

「オッサンじゃない! まだ二十七だ!」

 年下の青年たちに一斉に寝かしつけられたジェニスは納得いかない表情のまま毛布を被る。

 助手席に座ったエストラはアルカトラン公用語を何一つ理解することはできなかったが、状況から察して苦笑いをした。

「今のところ酷い充血も腫れもないし、発熱もないわ。でも寝てなさい。早く治すのには睡眠が一番でしょう」

 その言葉を聞いたジャワ―ドが珍しくにやりと笑みを浮かべ、「主治医が寝てろって言っているぞ」とジェニスの皺の寄った眉間をつついた。


 車は発進し、ペダ山地へ向かう。未だ左後輪は左右制御機能が低下しているが、大きな根に引っかかることさえなければ十分に進める。七人乗るには明らかに狭いが、賑やかではあった。

「貴方、maŝinoなの? 解析するまで全く分からなかったわ」

「はい?」

 怪訝そうな顔でエストラに聞き返す。インストールしていたノルクライス語にはない単語に、ロイドの言語プログラムにエラーをきたした。

「maŝino……ノルクライス語で……ええと、機械かしら。いつの時代のどこの国の言葉なのか知らないけど、ノルクライス語って借用語がめちゃくちゃなのよね」

 被ったフードの縁を弄りながらそう答え、ロイドを見る。若葉のような澄んだ緑の瞳がフードの内で艶めいていた。

「私の体は機械ですが、そのように表現されるのは正直に申し上げますと嬉しくありません」

「なぜ?」


 鋼色の精密機械の瞳をじっと覗き込んでくる。ちらりと一瞥して、ロイドはハンドルを握り直し「私が私であるために」と言った。


「……それが理由?」

「はい」

 誰にだって言われたくない言葉があるでしょう、と付け加えられたロイドの言葉にエストラは黙る。口元に手をやり考え込むような様子を見せ、そして「言われたくない言葉は私やレーヴェンにもあるわ。少し無神経だったわね、ごめんなさい」と小さく呟いた。

「いいえ、謝らないでください。私が貴女を知らないように、貴女も私を知りません」

 無感情に思える喋り方だが、声色は穏やかだ。エストラはロイドの造られた横顔を見る。視線を受けたロイドは逡巡し、唇を動かした。

「……ロイド、と呼んでください。それが私に与えられた名前です」

 アクセルを強く踏み、グリーンアースの地面を車は走っていく。




 木の背が低くなり種類も変わる。グリーンアースを抜けたのは陽が落ちてからだった。悪路ではあるが高低差のないグリーンアースとは違う、斜面が急な山岳地帯になる。ところどころ紫色の花が咲き、向かいの山との間には大きな川が流れていた。

「水しか飲めていなくて辛いだろうけど、あと少しだから我慢してくれる?」

 がたがたと揺れながら斜面を登っていく。開けた窓から鉱物の匂いが微かに漂い、ジャワ―ドが顔を顰めた。

「ここ一帯は鉱物が採れるのか?」

「そうだけど……ああ、分かった。君、鼻が良いんだね?」

 隣に座るレーヴェンがなるほどと頷き、フードを深く被り直す。

「ペダ山地は鉱脈があって、地下要塞で暮らすインファノっていう人たちがここで採れる金属を基に魔術礼装を作っているんだ。魔術礼装は僕たちには必要な……」

「レーヴェン!」

 焦った声がエストラから発せられ、レーヴェンは口を噤んだ。


 魔術礼装なく大規模な魔術や精確な魔術が行使できるのはエルフだけだということを思い出す。ジャワ―ドは一般的な人間の範疇を越えた才能への妬みによる一方的な暴力や好奇の目線に晒されてきた歴史があるとも聞いたことがあった。二人が頑なにフードを脱がずエルフであることを隠しているのは、相対する人の態度がエルフであることを知って変化することに恐れているからなのだろう。

 フードで隠している間は軽やかに会話するのだから人そのものを嫌悪しているわけではないはずだ。

 フードの影に隠れた綺麗な髪や瞳を想像する。次に思い浮かべたのは妹同然の双子たち。ジェニスの横で眠るベルディとハオ。車を運転するロイド。顔や髪色、瞳の色が違うのは当然で、喋る言語も違えば仕草や考え方も違う。

 ベルディならこんな時になんて言うだろう。


「生まれた場所が違っても、育った場所が違っても、喋る言葉が違っても……」

 きっとこう言うに違いない。


「皆……人なのにな……」


 考えていた言葉が意図せず口から出る。レーヴェンは一瞬体を硬直させ、ジャワ―ドを見た。視線に気づかないジャワ―ドは窓の外を眺めている。

 ぱさりと衣擦れの音がして、ジャワ―ドは音のする方向に顔を向けた。

 白金の髪が揺れ、特徴的な尖った耳が髪の隙間から見える。

「レーヴェン!? 貴方何して……!」

 慌てて後部座席の方へと振り返った勢いでエストラのフードがずり落ちた。暗い車内でも僅かな光を反射して煌めく髪が、特徴的な耳が、淡い緑の瞳がジャワ―ドの視界に入る。

 はは、と朗らかに笑い、ジャワ―ドは己のよく跳ねる髪を耳にかけた。

「髪色、姉弟で一緒なんだな。おれも妹二人と髪の色が一緒なんだ」

 耳がどうだとか、エルフがどうだとか、そんな言葉が出てくるだろうと身構えていた姉弟は面食らったように目を見開く。ジャワ―ドの反応は他愛もない会話の延長上でしかなかった。


 何事もなかったようにジャワ―ドが妹の話を始め、エストラは呆気にとられたままの表情で助手席に座り直す。

「あの光ってる門灯の前で停まってちょうだい……」

 呆然とした顔に呆然とした声でフロントガラスの先を指し示した。ロイドは言われたとおりに門灯の前で車を停め、狙撃銃を背負って運転席から降りる。

 回り込んだかと思うとエストラの座る助手席のドアを開け、そっと手を差し出し降車を促した。差し出された機械とは思えない人肌の手にエストラは自身の手を乗せる。未だに放心しているようだった。深く眠る三人を揺り起こしたジャワ―ドが後部座席のドアを開けた音でエストラは我に返る。

「と、到着したわよ。案内するからついてきて」

 最初の発声がひっくり返り、恥ずかしさで唇を噛んだ。

 車から降りたベルディが「起こしてくれてありがとう」とジャワ―ドの背を叩き、ジェニスに肩を貸している。ベルディはまだ少し眠そうな顔のままエストラを見た。

「同行させてくれてありがとうエストラさん」

 彼は幼さの残る笑みで片手を振り、笑って「案内よろしくお願いします」と言う。

 容姿や才能に言及せず、俗称も口にしない。そんな人達がいるとはエストラ姉弟は思ってもいなかった。車から降りた弟と顔を見合わせる。彼らの前ではフードを被らなくてもいいかもしれない。思考は一致し、姉弟はフードを被り直すことなく門の横にある呼び鈴を鳴らした。


 固い壁に何かが衝突する音が定期的に鳴り響き、段々と音が大きくなっていく。衝突音がしなくなったかと思うと扉が勢いよく開かれた。

「夜中にsonoriloを鳴らす訪問客なんぞ珍し……ん? エストラじゃないか!」

 背の低い筋肉質な男性が大きな金槌を持ち、しわがれた声で知らない単語が混ざるノルクライス語を喋り、エストラを呼ぶ。

「夜遅くにごめんね。着いちゃった」

「おいおい勘弁してくれ、麻酔カートリッジケースと針が欲しいっちゅう連絡がきたのは二週間前じゃろう。来るのが早い、早すぎる! 全部できとらん!」

 驚いているのか怒っているのかなんとも判別しにくい声色で金槌を持ち直す。

「麻酔カートリッジケースも針も後でいいのよ。怪我人がいるの。休む場所を借りられないかしら」

 金槌を持った男性はちらりとエストラの後ろを見た。人間の前でフードを被っていないエストラに「フードは被らんでいいのか?」と尋ねる。いいのよ、などと返答された男性は驚き、唸りながら瘡蓋のある手の甲を掻いた。

「他の薬剤を作るのにわしは忙しいから、ラルクに案内させよう」

 壁に貼られた白い金属板を不規則な拍子で叩く。遠くで「呼んだー?」と張り上げた声が聞こえ、直後軽快な走る音が響いた。

「爺さん、呼んだ?」

 エストラの腰ほどしかないかなり小柄な女性が鶴嘴を持って現れる。焦げたような赤茶の短い髪には土がついており、大きな目と太めの凛々しい眉が印象的だった。

「呼んだわい。怪我しとる人がおるんじゃと。余ってる部屋あるじゃろう、案内してやれ」

「怪我人? それを先に言ってよ。爺さんってば重要なこと後回しにするんだからさあ」

 鶴嘴を肩に担ぐと手招きする。


「エストラとレーヴェンは知ってると思うけど、あたしの名前はラルク。怪我人がいるんだって? おいで」


 後を追って箱型の移動装置に乗ると、格子の扉が閉まり、激しく揺れながら降下していく。空気に混じる鉱石の匂い、土の匂い。降下すればするほど冷たい空気が流れ込んでくる。どこまで降下するのかと思った矢先に移動装置は止まり、扉が開いた。

「地下だから寒いかも。火は焚けないけど代わりにmalproksima infraruĝa emisivecoの高い……あー、えっと遠赤外線放射率の高い天然鉱石持ってきてあげるからそれで我慢してくれる?」

 部屋は医務室を想起させる清潔な雰囲気で、天井が低く肌寒い以外は広くて快適だ。柔らかな照明が部屋を隅々まで照らしている。白く柔らかな台にジェニスを横たえさせ毛布をかけた。

「怪我人ってその人? エストラが治療した痕があるけど」

「治療したわよ。でも安静は必要だし、治療したなら治療した身として予後観察もしないとね」


 腕に炎症は見られない。ひとまず安心してエストラは近くの椅子に腰かけた。鞄から空になった麻酔カートリッジケースと針を取り出し、机の上に置いてあるトレーに並べる。他の薬液の残量を確認し、息を吐いた。

「治療自体は成功しているみたい。ああ、なんかお腹空いちゃった。昨日の夜から全然食べてないんだもの」

「昨日の夜ってことは丸一日? はあ? 何にも食べてないの?」

「そうだよ。僕も姉さんも、ここにいる全員何にも食べてない」

 エストラとレーヴェンの言葉に太い眉を八の字にすると、胃に優しい料理取ってくるよと言って部屋を出ていった。移動装置に乗り下って行ったラルクはしばらくして台車に料理を載せて戻ってくる。

「七人前がどれくらいか分からなくて鍋ごと持ってきちゃった」

 香ばしい香りに混じって花の香りがふわりと鼻腔をくすぐった。ラルクが浅型の鍋の蓋を開けるとそこには四角く切られた肉が煮込まれており、紫色の花が散りばめられている。

「花?」

 料理を覗き込んだベルディが不思議そうに首を傾げた。

「テンナネフィの花だよ。ここに来るまで紫色の花が咲いてなかった? 毒性がなくて、花弁が肉厚で触感が良いからよく使うんだ」

 そういえば、とベルディとジャワ―ドが頷く。言われてみれば確かに紫色の花が咲いていた。地に咲く花が料理として使われていることが気になるのか、ハオは鍋の中を覗き込む。

「この肉はペダ山地に生息するデュモアっていう二つ角の草食動物。よく動いてしなやかな筋肉を持つ動物だから臭みや癖がなくて食べやすいよ。あ、でもちょっと固いかな。煮込んでるから固すぎることはないと思うんだけど」

 器に煮込み肉を装い、突き匙と共に渡していく。ジャワ―ドは器を受け取って初めて鍋からでは分からなかった果実のような香りに気づいた。

「何か果実を使っているのか? そんな香りがする」

「君、鼻がいいね! 煮込むときに山ブドウを発酵させた酒を使ってるんだよ。ここら辺の山ブドウは酸味も強いけど糖度が高くて酒にするのに向いてるんだ」

 台車の下段から匙と共に手のひらほどの大きさの容器を取り出すと、横たわっているジェニスに差し出す。


「冷たい発酵乳だよ。怪我してる上に何にも食べてない体に肉は厳しいかなって思って持ってきた」


 上体を起こしたジェニスは受け取った容器の中を見る。乳白色の粘性の高い液体の上に山ブドウが添えられていた。アルカトラン公用語ではない言葉に焦り、ベルディに通訳を求める。

「なんて言ったんだ?」

「発酵乳だって。弱った体だと急に肉を食べるのは厳しいんじゃないかと思って持ってきたみたいだよ」

 器の中身が発酵乳であることが分かり表情が和らいだ。ラルクを見て微笑む。エーゲルに居た時の隈はまだ残っているものの、

「ありがとう……な、なんだ?」

 ジェニスが感謝を述べると同時にラルクが小さな手でジェニスの喉に触れる。困惑したジェニスをよそにラルクは台車の水差しからコップに注ぎ、空いている手に持たせた。

「声掠れてる。先に水を飲んだほうがいいよ」

 水を飲めと言われていることを察したジェニスは困惑した表情のまま一口含む。冷たい水を腔内で体温に温めてから飲み込んだ。

「お気遣いどうも……」

「あとこれ。天然鉱石」

 毛布を肩にかけさせ、余った部分で天然鉱石を包む。ジェニスの膝に置かれたそれはほんのりと暖かく、擦りたくなるような肌寒さが緩和された。

「暖かいだろ? ゆっくり休んで」


 小さな体躯のラルクの小さな手がジェニスの髪を撫でた。優しさが沁みて、研究に忙殺されていた日々から解放されたことを体感する。劇的な退職でアルカトラン連合国にサーシャを置いてきてしまったことだけが心残りだが、生きてきて初めてのゆったりした時間だった。


「皆も水飲まないと脱水でぶっ倒れるよ。ほら食べて飲んで」

 急かされ、各々突き匙で肉を刺して口に運ぶ。固めの肉だと言われていたわりには噛み切りやすく味もしっかり染み込んでいた。花弁は淡白で味はほとんどなかったが、しゃきしゃきとした触感が良い。

「あ、美味しいこれ」

 ベルディがそう言ってまた口に運ぶ様子を見たハオも恐る恐る口に運ぶ。

「おいひいへろほれにははたい」

「なんて?」

「食べながら喋るから何を言ってるのか全く分からない」

 肉を頬張ったまま喋るハオの口元を布で拭い、ジャワ―ドも肉を口に運んだ。咀嚼して飲み込んだジャワ―ドは、肉がハオにとっては少し固いことを把握する。よく言えば噛み応えがあり、悪く言えば繊維が強い。試しに突き匙で十字に切れ込みを入れ、ハオに差し出す。それを食べたハオは大きく頷いた。

「はへやすふておいひい」

「食べながら喋るからやっぱり何を言っているのか全く分からない」

 半ば飽きれながらハオの器の中にある肉に切れ込みを入れる。世話を焼くジャワ―ドをベルディはじっと見つめ、彼が双子の少女の世話を焼く姿を想像した。

「ジャワ―ドってさ……」

「なんだ?」

 花弁の歯触りが見た目からは想像できないほど軽やかで飽きない。喋る前に、と肉と花弁を一緒に口に運んで噛み、飲み込む。そして言葉の続きを口にした。


「ぼくが今まで会ってきた人の中で一番世話焼きかも」


 ジャワ―ドの眉が寄せられ、手はベルディの口元に向かう。

「何を言っているんだ」

 向かった手はベルディの口元についた汚れを拭きとり離れていった。一連の行動が世話焼きそのものである。意味が分からないとでも言う風に眉を寄せたままのジャワ―ドが全員のコップに減った分だけ水を注いでいると、急に壁に掛けられた白い金属板が不規則に鳴る。突然の連絡にラルクは面倒そうな顔をして金属板を叩き返した。数秒もせずにまた金属板が鳴る。

「えー、怠いなあ」

 鶴嘴を肩に担ぎなおし頭を掻く。

「あたしに用がある人が来てるって連絡きた。なんだろう、魔術礼装関係って言ってたけど……ごめん、ちょっと行ってくるね」

 移動装置へと向かって歩き出した瞬間また金属板が鳴り響く。同時に音を立てながら移動装置が動き始め、誰かが近づいてきていることが分かった。

「え、ちょっと、あたしが行くって伝えたのに!」

 移動装置はラルクの目の前で停まる。格子の内側に長身の男性が立っていた。扉が開き、男性は発注に関して話が、と言いながら移動装置から出る。


 暗い金髪が揺れ、指輪を付けた手が髪をかき上げた。前髪が零れ落ち、その隙間から碧い瞳がこちらを見る。ベルディにとって見たことのある顔だ。


「ギルバート!?」

「ベルディ!?」


 互いに素っ頓狂な声をあげ、一歩詰め寄る。

「な、なんでここにいるの? ノルクライスから来たってこと?」

「それはこっちの言葉だ、何故ここにいる? 俺は魔術礼装の修理を頼みに来たんだが……」

 滑らかでとろけるような淡黄色の旅装のギルバートは、ベルディの埃に塗れ血が黒く固まった跡のある旅装とはもう言い難い服装を見た。

「一体何が……」

「ちょっと色々あって……」

 混乱したままのベルディにギルバートは口を開いては閉じ、そして開く。

「あー……久しぶり、だな」

 ぎこちない動きで手を動かし、照れくささを感じながら迷った挙句に差し出した。手を取り合ってぎゅうっと力強く握る。約二か月ぶりの再会だった。

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