3話
窓から見える色は黒い。天井の電灯が空から明かりを補充されなくなった居間を照らしている。畳が一面に敷かれ、部屋の中央には座卓が置かれている。
「文示、元気でやっていたか?」
座布団にあぐらをかきながら座る祖父が尋ねてくる。俺は座卓と面するように座布団に尻をつき、座卓を挟んで祖父と向かい合っていた。
「病気にも掛かっとらんし体調に問題ないよ」
健康であることを主張するように逞しさを意識して発声する。そのおかげか普段よりも声の通りが良い。
「元気なら何よりじゃ。わしは歳やから婆さんともども体調には敏感でな」
顔をしかめた祖父はため息をついた。
「俺からしたらまだまだ元気に見えるけどな。ランニングしてもそう簡単には疲れなそうやし」
後方の床に両手をついて姿勢を崩す。一年の多くの漁に費やしている祖父の肉体は丈夫そうにしか見えない。
「そう見えるか?」
祖父は俺の言葉に食い付いたように上体を座卓に近づけた。
「体も丈夫に見えるし、何なら俺より頑丈そうや」
己の体調に自信がなかったようなので褒め千切る。
「煽てるのが上手くなったの文示。後で婆さんに内緒で追加のお年玉を上げよう」
有頂天な表情になった祖父は声を潜めて言った。
「感謝します祖父よ」
まさかの臨時収入に俺は正座をして頭を下げる。頭を下げている間、祖母が見ていないかと周囲が気になった。既に決して少なくないお年玉を頂いている。なので仮に見つかれば祖父は叱られるだろう。
「それにしても 二年もしたら文示と毎日会えると考えると嬉しいな」
背中を後ろに引いた祖父の目尻が嬉しげに下がる。
「そうやね。俺も漁師になるしね」
祖父の顔を目にしていた俺は微かに顔を引きずった。今での漁師になりたい気持ちは残っている。だけど柚未さんと付き合ってから自分の将来に迷いが生じだしていた。
「文示は才能があるから、ちゃんと鍛えたるから覚悟しときや」
祖父は腕組をすると威厳のある瞳で俺に目を凝らす。
「俺が逃げ帰らない程度に加減してな」
俺は苦笑いをすると視線を机へと逃がした。漁師になるという夢にが迷いがあるとは祖父には打ち明けられない。最近では柚未さんとともに海外で暮らす想像をしている。だけどいざ海外での暮らしを検討すると、現地の言葉を習得し、尚且つ現地で働けるようなスキルが求められることに気づいた。あまりに高すぎるハードルに虚しさが胸の内を支配した。
「文示に恨まれたら婆さんに怒鳴られるからそこまで厳しいはせんよ。何よりわしの自慢の孫やから、漁を嫌ってほしくないから」
「なら安心やね」
俺は顔を上げる。腕を解いた祖父が見える。けれどその顔まで見れなかった。
「漁師はわしの代で終わらすつもりやったから、文示の父さんが頼んでも断った。文示のときも同じように断り続けるつもりやったけど、情熱に負けてしもうたわ」
懐かしむように語る祖父の言葉が耳に入り、父から聞いたとある話を急に思い出す。父もかつて俺と同じように漁師希望だった。だが祖父はそれを拒んだ。祖父の父も漁師であり、祖父は自らの父から漁業を手伝うよう求められた。祖父には夢があったがそれを拒めなかった。だから家業化していたで漁業以外の道を父に歩んでほしかったのだ。
「あのときは俺も漁師になりたくて必死やったからね」
今の自分を恥じるように俺は下唇を深く噛んだ。
「最近も文示がこっちに引っ越してきたときの段取りを婆さんに話して気が早すぎと呆れられたわ」
豪快に笑う祖父を見ながら俺は場の空気に合わせるように愛想笑いをしていた。
柚未さんは若干ぼんやりとした目付きをしている。視線の先には陳列棚に並べられた女性用のシューズがあった。ショッピングモールの一角に設けられたシューズショップは女性用だけでかなりの品数を誇る。
店内は白壁で囲われ、仕切りのない店の入口前には太い通路がある。通行人には学生服を着た生徒や大学生らしき私服姿の若い人らが目立っている。
「こっちのシューズどうかな」
柚未さんは赤いスリッポンを手に持ち俺に見せてくる。今日は柚未さんが海外の大学で通学時に履く靴を買うために、放課後電車を使いショッピングモールまで来ていた。柚未さんが選んだスリッポンは色合いとデザインは素晴らしい。ただ細かな装飾やシューズシルエットが私服姿の柚未さんが履いているイメージがどうしても沸かない。
「デザインはいいけど柚未さんのイメージには合わないかな」
「通学用だから毎日履くし後悔したくないないから別のにしよ」
柚未さんは迷うように上下の唇を強く押し付け、手のスリッポンを元の場所に戻す。柚未さんは再度陳列棚に目を配る。後ろ姿を見れば真剣に選んでいるように思える。だけど横からその目付きを見た印象は靴選びに憂鬱さを抱いているように見える。せっかくのデートにも関わらず俺の気持ちも大して盛り上がらずにいた。
「文示くんこれどう?」
十分ほど経過し、新たなスリッポンを提示してくる。次のスリッポンは色合いが白で装飾や形状も柚未さんに似合っていた。
「それでいいと思いますよ」
「ならこれにするね」
笑みを作る柚未さんの瞳からは脱力感が滲んでいた。買い物を終え駅を目指し俺達は歩道を歩いていた。暖房が効いていた室内とは違い外は冷えている。空は灰色気味の雲が広がっている。幸い今日、雨が振る確率は低い。ただこれだけ雲が多いと天候が崩れそうで懸念が頭の片隅に現れていた。
「今日は買い物に付き合ってくれてありがとね」
俺は右側に車道が位置するように歩道を歩いている。左側には腕一本分の感覚を空けながら柚未さんが並んでいる。柚未さんの左手には先程買った靴の入ったビニール袋、左肩には学生鞄がかけられていた。
「暇でしたから構わないよ」
ポケットに入れた両手の温もりを感じながら答える。暇というの嘘だ。実際には柚未さんと会う日を捻出した日だ。一月から三月まで似たような感じで時間を作るために友人と遊ぶ予定は殆ど断っていた。
「せっかく文示くんに選んでもらったから大学卒業するまで履き続けないとね」
口元を緩めながら大事そうにシューズの入った袋を見詰める。普段なら靴選びに貢献できたことに喜びを心から感じているはずだ。けれど笑みが徐々にぎこちなくなる柚未さんを目が捉えていた。
もう何度目だ。冬休み前は横にいる彼女は笑顔で満ち溢れていた。なのに冬休みが明けてから、やるせない顔ばかり目に入ってしまう。理由はあれしかない。けれど俺は今のところそれを口にできていない。そもそも俺自身も彼女に引きづられるように普段の態度から活力が減少していた。
「俺もそう思います」
俺は強張っていた顔を強引に解し同感の言葉を発する。本心としては自分の前で履いて欲しい。
「どっかでさ、ご飯でも食べて帰らない?」
柚未さんが柔弱な瞳で俺へ見ている。即答で「行くよ」と返したかった。だが今日は既に予定が埋まっていた。
「今日は十九時から家族と外食の予定があるから行けないかな」
俺は口を歪める。夜の予定までは完全に空けていなかったことは反省すべきだ。
「そっか。もう少し文示くん顔見たかったけど残念」
柚未さんは淋しげな言葉を優しく呟く。苦笑いしている顔を見て俺は目を逸らしたくなった。
「また明日も会えますよ。明日は予定ないから夕食も一緒に行くよ」
俺は急いで代案を出す。柚未さんも「明日楽しみにしているね」と言葉自体は喜ぶ反応をした。けれど耳に入ってきた声はあまりにも細く切ない気持ちが胸の内を塗り尽くした。
それから俺達は数分間無音のまま歩き続けていた。気づけば二人の間は更に広がり手を伸ばしても届きそうにない。だけど俺は彼女の側に近寄れる勇気がなかった。
「あと、何十時間二人でいられるのかな」
数分ぶりの彼女の声に俺は心に苦痛を感じる。声の方へ目をやる。柚未さんは雲の大群を静かに仰いでいた。
「俺は数えたくないかな。別れまでの時間を知るみたいで嫌だし」
俺は車道の方に視線を移し言った。言っている間に交通量が少ない車道を車が一台、俺達の横を通り過ぎていく。
「あたしねスマホでスケジュール確認するたびに、文示くんと会う日が減っていくことにいちいち胸が痛くなるんだ。だから最近はカレンダーを見たくない」
耳に入るその声はあまりにも苦痛を含みすぎていた。目を見開き俺の視線は柚未さんの方に引き寄せられる。愛する人の顔を目にした俺は共感の言葉を渡してやりたい。けれど深刻な状況を避けたかった俺はわざとふざけた返事をした。表面上だけでも砕けた会話をしたかった。
「カレンダー見ないと俺と会う日まで忘れない?」
微かに笑う俺を柚未さんは落胆したように一瞬だけ眉間に皺を作る。けれど次の瞬間には切ない笑みを抱えつつも俺の作ろうとする砕けた会話に付き合ってくれる。その姿を見て心臓に棘が刺さったような痛みに感じた。
「前日に文示くんから遊びのことで連絡があるから問題ないよ」
「なら俺までカレンダー見なくなったらどうするつもり」
淡白な言葉でどうでもいい突っ込みを入れる。
「会う日減らしたくないからカレンダーちゃんと見るよう
にするね」
柚未さんのこの言葉で会話が途切れた。普段なら笑い合いながら行っていたふざけ合いも今だけは虚しさを生むだけだった。また数分、沈黙の間が空く。もうすぐ駅も近い。今日はこのまま無言のまま別れるのだろうか。けれど柚未さんの一言がその可能性は潰した。
「やっぱりこの靴履きたくないな」
靴の入った袋を目にしながら柚未さんは駄々をこねるように言った。
「履かないとご両親に怒れるよ」
俺は柚未さんを軽く嗜める。言葉の意図は理解していた。けれどそれは口にしたくない。
「別に怒られてもいいよ。あたしだけここに残って卒業後も文示くんと会うから」
俺と目を合わせながら柚未さんは乱れた口振りで言い放つ。俺だって柚未さんと同じで離れたくない。けれどそれは叶わぬ望みに過ぎない。だからこそ柚未さんの放った言葉は俺が恐れていた事態だった。
「それは駄目だ」
動じる心を何とか抑え、声に起伏をつけずに柚未さんに注意する。柚未さんの足が急激に止まる。俺も慌てて歩みを止め柚未さんを見る。柚未さんは皮膚が強張るほど強く拳を握りしめ、煩悶の瞳で俺を睨みつけた。
「やだよ。文示くんと今日みたいにもっと一緒に歩きたいよ」
寒気の中に柚未さんの叫ぶ声で拡散する
「柚未さん、毎日少しずつ状況は変わるんだ。俺と離れるのもその一つなんだ。だから嫌なことでも受けれないと駄目なんだ」
俺は冷静でいることを放棄し、強い口調で柚未さんの説得に当たる。けれども柚未さんの興奮が収まる気配はない。荒々しく動く柚未さんの口、自らの痛みを身体で体現するように空いている片手は空を勢いよく薙ぎ払っていた。
「なんで文示くんはそんなこと言えるの。あたしこと好きじゃないの」
柚未さんから撃たれた疑問の言葉は俺の心臓に深く命中する。柚未さんの言葉が耳の中に突き刺さり恋人への想いに自信が揺らいだ。俺は胸に手を当て恋人への気持ちを探る。心から熱い感情の塊が胸を介して手に伝わってくる。大丈夫。俺はきちんと柚未さんを愛している。だからこそ現実を直視しなければならない。元々俺達は離れ離れになることを考慮して交際を初めたのだから。
「好きに決まってるよ。けど俺達じゃどうしようもないんだ。子どもだから未来を変えようにも力がない。だから悔しくて自分を恨んでる」
服の胸部辺りを皺ができるまで握り、自分の想いを込め打ち明けた。柚未さんは俯き沈黙する。俺達の間に寒さを帯びた微風が流れていく。
「あたしたちが大人ならこんな未来変えれたのかな」
柚未さんは脆弱な声で儚げに呟いた。
「それは分からないけど、今よりは選択肢は増えていたはずだ」
もしもの可能性など具体的には思いつかない。大人であればまだ非情な現実に立ち向かえたかもしれない。だけどそれは大人という存在を俺が過大評価しているだけで立場が大人でもこの困難を乗り越えられない可能性だってあり得る。
「ごめんね。文示くんを疑って。あたし我慢しないといけないね。そうじゃないとお父さんやお母さんを泣かせちゃうから」
俺と見交わした柚未さんの表情は乱雑としていた。柚未さんには笑っていてほしい。なのに俺という存在はあまりにも現実に対して無力すぎた。俺達二人に恋愛はあまりにも過酷だ。けれど柚未さんを好きになったことは後悔していない。
胸の内部から巨大な衝撃が左胸を襲う。この衝撃は離れ離れを拒む自分の本心が起こし気がした。歯を噛み締め衝撃に耐える。一度軽く呼吸し息を整える。俺は口元を緩めるとできる限り温厚にその言葉を発した。
「それでいいんだ柚未さん。だからこそ最後の日までもっと一緒にいよ」
か細い声が口から出ていた。この言葉を持って俺達は明確に終わりと向き合わざる得ない。柚未さんも疲れが抜けきったよう顔して「うん。文示くん」と俺の言葉を受け入れてくれた。そのまま柚未さんは俺のもとに歩み寄る。手を伸ばさずとも頭を撫でられそうなぐらい距離が近い。間近で見る彼女はやはり綺麗で愛おしい。
「ねぇ、キスして」
柚未さんは目を瞑るとか弱い声でキスを願ってきた。 俺は顔を近づけ軽く口付けをする。柔らかい柚未さんの唇は軽く触れているだけで押し潰れそうだ。寒いのに柚未さんの唇からは温もりが流れてくる。その温もりは荒廃仕掛けていた心を癒やしてくれた。唇を慎重に離し、顔を引く。
「キスしたら少しは気が楽になったよ」
目に留まった柚未さんは穏やかに微笑んでいた。その笑顔を見て俺も顔が和やかになっていくのを実感した。何だか目の周りが急激に熱くなっている。せっかく蟠りも解けたから何か美味しいものをまた食べに行きたくなったな。
「ねえ柚未さん、この先どっか行きたい場所ある?」
声が上擦っているのに気づいた。さっきからどうも体の様子がおかしい。
「二人で美味しいうどんでも食べに行きたいかな。冬だし暖かいものが食べたい」
「なら探しておくよ。それとさ四月になったらお花見に行こうよ。桜も綺麗だし、桜の下で食べる弁当とかはきっと美味くいいと、おも――」
両目の下あたりに雫が流れている感触がする。なぜ雫が肌についている。俺は一瞬空を見上げるが雨は降っていない。
「四月にあたしはいないよ」
柚未さんゆったりとした口調で話すと人差し指で俺の肌に触れる。人差し指は雫を拭う。そのとき俺はやっと現状を掴めた。俺が泣いていること。そして実現できない予定を口にしたことに。別れを拒む柚未さんを散々説教しておきながら、俺自身も無意識の内に別れの事実に耐えきれずにいた。
「ちょっと冗談を言ってみただけ」
俺はおどけるように笑いながら腕で涙を拭く。残念ながらあれは本心だ。柚未さんに見破られて、心の内では失笑されているかもしれない。
「嘘つきだね文示くんは」
雪のようにすぐに溶けそうな声が微かに空中で揺れた。それを見ていた俺はやっぱり花見がしたい思いが一気に募り、目からまた涙が零れていた。頬を伝う雫は柚未さんへの恋心のように熱い。けれど唐突に強風が俺の肌を直撃し、熱い雫を盗んでいった。喉に硬いものが詰まったような違和感がする。
俺は言葉を発しようとする。けれど声を発する段階で咽びいてしまい、他の人に聞かれたら呆れられるような声音を柚未さんに向けてしまった
「嘘ついたお詫びにコンビニで何かおごるよ」
今更そんな俺を気にする素振りを見せずに柚未さんは俺の手を取る。
「二人で何か美味しいお菓子でも選んで食べようか」
柚未さんが口を動かすと俺達は道を駆けていった。
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