第44話 貴族とか平民とか以前に、道徳心として
突き飛ばされて床に倒れるイヴを見て、慌てて駆け寄る。
「イヴ! 大丈夫?!」
「怪我は?! 何処かぶつけたりしていないか?!」
僕とヒルトの掛け声に、イヴは俯きながらも何度も頷く。
「立てるか? 足は痛くないだろうか?」
ヒルトがイヴに手を差し伸べ立ち上がらせながら、どこかに痛みがないか訊ねるも、やはり黙って首を振るばかりだ。
「心配だから、救護室に行こう? まだ先生がいるはずだから」
ネーベルが僕らのカバンをもって近づいてきた。
「酷くなくてもちゃんと見てもらったほうがいい」
ヒルトがイヴを支え、イヴのカバンを僕が拾い、教室から出ていこうとしたら、呼び止められた。
「まっ、待ってくれ!」
呼び止めた相手は、イヴを突き飛ばした男子生徒のネクタイの色、赤だ。上学部の四年生が下学部の校舎になんの用だ。
「あ、そ、その、リューゲン殿下だろうか?」
舌打ちしなかった僕を誰か褒めて。
「申し訳ないですけど、礼儀がなっていない人と言葉を交わす気がありません」
僕に誰何するよりも、イヴに対しての謝罪が先だろう!
先輩だからって何やっても許されると思うな!
ぽかんとしている男子生徒に、もうこれ以上関わる気はないので、ヒルトたちを促して教室を出る。
「ま、待ってほしい!」
あとを追いかけてきた、先輩であろう男子生徒に、堪らず一喝する。
「やかましい! 僕は話す気がないと言った! 僕の不興を買った意味を理解するまで声を掛けてくるな!」
本当はこんなこと言いたくないし、こんな権力をカサに着たような物言いも、すごく嫌だし、したくないんだよ。
だけどね、なんか我慢できなかった。
たしかにイヴは、貴族というには微妙な感じだ。でも、だからって、突き飛ばされて転んだのに、相手が貴族だから謝罪されなくてもいいっていうのは、なにか違うと思う。
この世界は現代日本に比べれば、確かに身分差には厳しいところはあるし、地位が上の者は優遇され、下の者は上にいる者に譲るのが当たり前のようにとらえられている。
それでもだ。平民相手に何をしてもいいだとか、貴族だから多少の理不尽は許されるだとか、そういう以前に、人として、人道的な考え方として、何の咎もない相手にいきなり暴力はないだろう?
まず最初に言葉で諫めればいいはずじゃないか。
イヴがわざと先輩の邪魔をしていたとか、出入り口で誰かと長話をしていただとか、そんな状況でもなく、僕らの教室に訪れて、ヒルトを呼んでいる最中に突き飛ばされたのだ。
平民は貴族の前に立つな、貴族に道を譲れと、貴族至上主義を主張するのなら、貴族であるなら、平民に対してのもてあた精神はどこに行った?
貴族であるからこそ、下々の者への余裕を持て!
これ以上、もう彼とは会話をしたくない。
僕らはイヴと救護室へ向かうために、教室から立ち去る。
今度は引き留められることも、追いかけられることもなかった。
教室から離れしばらくしてから、ずっと俯いていたイヴから、地を這うような低い声が漏れる。
「……あのクソ野郎。こっちが平民で女だからって、なめくさりやがって」
相手が付いてきてないとわかったのか、顔を上げたイヴは、ぎりぎりと歯を食いしばっていた。
強いね、イヴちゃん。
「イヴ」
少し呆れたような、それでいて窘めるような声音で、ヒルトがイヴの名を呼ぶ。
「本人の目の前で言ってないんだからいいでしょ」
ブスッとしながら小声で愚痴るイヴに、ヒルトは困ったような顔で言った。
「そうではなく、こういうことは、常日頃から気を付けるに越したことはないんだ。せっかく王立学園に通っているのだから、勉学だけではなくマナーもちゃんとできるようにしたほうがいいだろう? 心の中では何を言っても構わないが、声に出すときは、言い方を変えたほうがいい」
イヴも思うところがあったのか、ヒルトの言葉に、それ以上何かを言い返すことはせず、素直に頷いた。
「……わかったわ。これからは気を付ける」
救護室にはまだ救護医が残っていて、状況を説明してイヴのことを見てもらう。
「それじゃぁ、ヒルト。僕らは先に……、いや、ダメだ。帰って大丈夫じゃない。もしかしたら、さっきの先輩が待ち伏せして、八つ当たりされるかもしれない。やっぱり寮まで送る」
救護医にイヴを見てもらっている間、僕はヒルトに声を掛けて、先に帰ろうとしたのだけど、このまま帰ってもいいものかと思いなおした。
あの人、僕に用があるみたいだったし、あんなことした人間が、自分よりも優先されたイヴに、やっかんだりしないなんて言いきれない。
僕の姿が傍にないことをいいことに、仕返しするかもしれないし。
「ヒルト、悪いけどしばらく様子見してくれる? あと、オティーリエやヘッダ達にも伝えて、それとなく気にかけてもらうようにお願いしてもらっていい?」
「わかりました」
ヒルトは頷きながら、じっと僕の顔を見る。
「ん? なに?」
「いえ、アルベルト様も怒ったりすることがあるんですね」
「どういうこと?」
「アルベルト様のお傍にいるようになってから、あのように誰かに怒った姿を見たことは、一度もありません」
え? いや、そうかなぁ?
「そんなことないと思うけど?」
「いいえ、ありません。大抵のことは鷹揚に受け流されています。覚えていらっしゃいますか? 初めて私とネーベルと顔を合わせた時のこと」
「うん」
王都にあるマルコシアス家のタウンハウスで開かれた、母上の再婚周知のお茶会だったよね?
二人と初めて会った時のことだもの。ちゃんと覚えてるよ。
「あの時ネーベルの態度は、それこそ、不興を買って怒られて当然だったと思います。でもアルベルト様は怒ることなく、それどころか、当時のネーベルの思惑や、家族とうまくいっていないだろうということも見抜き、ご自分の傍に置くことにされました」
「うん」
「アルベルト様に怒りという感情がないとは思っていません。ただ、怒らせることは相当なことでなければ起きないのだろうなとも思っていたんです」
「いや、あれは普通に怒るよ? だってイヴが悪かったわけではないでしょう? なのにあんなふうに突き飛ばして、しかも謝りもしないんだもの」
僕がそう言うものの、ヒルトは何か他の理由があると思っているのか、もの言いたげな顔をしながらも、その考えを口にすることはなかった。
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