第一章 雫(しずく)の子と風羽根(かざはね)の噺 梅雨に混ざりて⑥


──ここは、どこだろう。

 暗闇の中で周囲を見回した百夜びゃくやは、燈史郎とうしろうつの名前を呼んだ。しかし、返事はない。近くにはいないようで、百夜は困って眉を下げた。夜目が利くはずの人形の眼球は、暗闇を見つめるばかりだった。


「燈史郎? 先生……?」


 一歩踏み出した足が、かしゃりと何かを踏み潰した。

 落ち葉でも踏んだのだろうかと視線を落とせば、そこには羽のひしゃげたかざぐるまがぽつんと落ちていた。

 どうして、こんなところに。

 慌ててかざぐるまを拾い上げようとした百夜の動きが止まる。

 ほう、と、小さな火花がひとつ、指先で散った。一瞬にしてそれは大きな火種となり、蛇が走るように地面に炎が広がって、辺りが火の海に包まれる。


「何、なんで燃えて……っ!?」


 かざぐるまをぎゅうと抱いて、慌ててその場を離れようとした百夜はしかし──結果として身動きを取ることはできなかった。

 跳ねた火花が円を描いて、百夜の首をくるりと囲む。瞬きの一瞬を持って──首が、椿のようにぽとりと落ちる。

 逃げることも叶わず、崩れ落ちた身体が徐々に炎に飲まれていく。


 熱い、

 苦しい、

 痛い、

──誰か、助けて。


「……ぁぁあああ!!」


 焼けた喉から上がった叫び声はいびつにひび割れて、空気を揺らした。熱波渦巻く闇の中に、応えてくれる者はいない。

 分かっていながらも、すがるように焼け爛れる腕を虚空へと伸ばし──


「──百夜!」


──しかしその手は、しっかと握られた。


「っ……! ッは、はぁ……」


 目を開ければ、顔を覗き込んでいたのは燈史郎だった。


「……と、しろ……?」

「うなされてたよ。大丈夫?」

「……うん」

「汗すごいね。身体拭こっか」

「うん……」


 力なく頷いた百夜の頭を撫で、布巾を取りに行こうと燈史郎は立ち上がった。その裾を掴んで、百夜は眉を下げる。


「首、ちゃんとついてる……? もう取れない?」

「僕がちゃんとつけたから安心して」


 指で首筋をなぞってみれば、人形特有の節は無論あるがぐらつく感覚はない。燈史郎の言葉に嘘はないのだろう、端から疑っている訳ではないが。


「……ありがとう」


 それでも、首が落ちたあの瞬間がどうしても脳裏をよぎる。だが、これ以上は燈史郎を困らせるだけだろうと、小さく震える身体を誤魔化すように百夜はぎこちない笑みを浮かべてみせた。

 掴んでいた裾を離す。燈史郎はそのまま部屋を出ていくだろうと思われたが、ぐいと腕を引かれた。


「百夜」

「っわ、」

「ほら、おまじない」


 そう言って額に落とされた唇からは、暖かい霊力が流れ込んでくる。目を閉じて享受していれば、濡れた満つが顔を出した。


「邪魔してわりぃな。戻ったぞ」

「満つ、おかえり」


 髪を掻き上げながら、満つは百夜の前にしゃがみ込んだ。手の甲で頬を撫でられ、百夜は首を傾げる。


「……俺のこと怖いか? あんま、近づかない方がいい?」

「──怖くない。先生大好き」


 視線を合わせて問うてくれる満つが、怖いはずがない。首を横に振って、満つの目元に唇を寄せた。くすぐったそうにそれを受け入れる満つは、燈史郎へ向けて肩を竦めた。


「あちこち見たけど、見つからねぇな」


 その言葉にハッとして、慌てて手桶を覗き込む。


「あの子、どこ行ったの?」


 まさか昨日の妖に──、百夜は青ざめるが、燈史郎と満つが言うには妖の侵入はなかったという。

 外からは、雨音が響いてきている。


「雨降ってるの? 早く見つけてあげないと……」

「うん、行こうか」


 軽く身支度を整えて、外に出る。


「……?」


──と、百夜の足元がふらついた。燈史郎が咄嗟に支えるが、どうにも力が入らない。


「百夜、熱ある?」

「……? わかんない……」


 首を横に振る百夜の頬は赤く、燈史郎は眉をひそめた。そして、何かに気がついたようにくんと鼻をひくつかせる。


「なんで目が回って……あれ、なんか外酒くさくない?」

「あ、やっぱり? 俺の気のせいかと思ったけど酒だよなこれ? 舐めて平気だと思う?」

「舐めてもいいけど、変な妖の体液とかだったとしても僕知らないよ?」

「あー……それはちょっと……」


 顔を輝かせていた満つだったが、燈史郎の言葉にうげと舌を出した。この反応はおそらく、少し舐めてしまっている。


「これも、誰か妖のせいなの……?」

「んー、たぶん……? まぁ、緊急性があれば退魔師連中が手を打つだろうから──あいつら初動対応おっそいけどね。とりあえず僕らは彼を探そう」


 頷き合って、唐傘を広げて町へ出れば──ふらつきが治まらない百夜は燈史郎の腕の中だ──「酒の雨が降っているぞ!」「妖の仕業か……?」となかなかの騒ぎになっていた。


「しかし、どこ探す? 公園の枯井戸も見たけど近くにはいなかったぜ?」


 人の合間を縫いながら歩き始めるが、当てはない。前を歩く満つが周囲に視線をやりながら問うたが、百夜や燈史郎にも心当たりがある訳もなく。

 しらみ潰しに捜索を続けるしかないかと思われたその時──百夜の帯に差されていたかざぐるまが回り出した。

 風も、吹いていないのに。


「……」


 一瞬の沈黙の後、何を思ったのか燈史郎はくるりと踵を返して来た道を引き返した。すぐにかざぐるまの動きが止まり、再度満つの元に戻るように歩けばからからと回り始める。


「方角は、こちらかな」


 互いに顔を見合わせて、燈史郎と満つは駆け出した。




「酒蔵……?」


 そうしてたどり着いたのは、古い木造の蔵だった。酒の雨が降っているからどこもかしこも酒くさいが、この建物は特に匂いが濃く強かった。


「ここ、酒屋のおっちゃんの酒蔵か。俺ちょっと声掛けてくるわ」


 毎晩のように酒を嗜む満つはよく酒屋にも顔を出していて、店主とは顔馴染みであるらしかった。

 かざぐるまが勢いよく回る。酒蔵の前で大人しく満つを待つこと数分、駆け足で戻ってきた彼は預かった鍵を振った。


「好きに見学していいってよ」


 解錠し、観音開きの重い扉を開けて中に入れば、酒独特のむっとした香りが鼻をつく。


「酒くっさ……僕、お酒苦手なんだよねぇ」

「えー? いい匂いじゃん」

「百夜、慣れてきたかも」

「お。見込みあんな? 今度一緒に飲もうぜ」

「ちょっと、百夜はまだ子どもなんだからやめてよ、満つ」


 眉をひそめながら、燈史郎は抱えていた百夜を床に下ろしてやった。一瞬ふらつきはしたが、慣れたとの発言通り自分の足でしっかと立てている。


「──いるかい?」


 燈史郎が、そう声を掛けた。酒蔵内に響いた言葉に応えはない。

──けれど。

 蔵の奥、並ぶいくつもの酒樽の内のひとつの、蓋がわずかばかり開いていることに気づき、大股で近づいて中を覗き込んでみる。


「──みぃつけた」


 そして、小さく笑った。

 酒樽の中では、小さな小さな妖が、清酒を漂っていた。探していた、干物の妖。

 一瞬の逡巡の後、燈史郎は酒樽の中へ両手を入れた。商品にならなくなるが、一樽丸々買い取ればいいだろう。


「ほら、泣いてないで大きくなって。百夜も心配していたよ」


 大きくなった妖を酒樽のふちに腰掛けさせた。水分量の多いこの妖は体格の大小に関わらず、その体重はあまり変わらない。

 全身が濡れそぼった妖の、横一文字に潰れた両の双眸の隙間からは、ぽろぽろと涙が溢れて頬を濡らしている。

 周囲の安全を確認して百夜を手招けば、小走りで駆ける百夜の赤い袂が左右に揺れる。


「……怪我、してない?」


 そう問いかけるが、妖は百夜が近づくと深くうつむいてしまいその表情は読めない。

 百夜がそっと、もう一歩近づいた時、妖はじりと後ずさった。


「……?」


 百夜は首を傾げた。

──昨夜、怖い思いをしたから彼はあの部屋から逃げ出したのだろう。それはわかるが、なぜ百夜を避けるような態度を──、

 そこまで考えて、そもそもの原因に思い至った。

 百夜が彼を連れ帰ったせいで、あの鳥の妖は襲ってきたのだ。


(百夜の、せい)


 彼は、あの部屋から逃げ出したのでない。これ以上百夜のそばにいるのは怖いと、百夜から逃げ出したのだ。


「っ、百夜?」


 焦ったような燈史郎の声が頭上から降ってくるが、返事ができない。その理由に数刻遅れで気がついた。

──涙に、表情が歪む。嗚咽に喉がしまって、声が掠れる。

 涙で濡れた頬を袂で拭いながら、百夜はその場にしゃがみ込んだ。


「百夜? 大丈夫?」

「……て、ッ……ね」

「ん? 百夜、なに?」


 傍らに腰を落とした燈史郎が、百夜の背中をさすってやりながら耳を澄ます。


──見つけてごめんね。

──起こしてごめんね。

──怖い思いを、させてごめんね。


 しゃくり上げながら、震える声で吐き出された百夜の言葉。

 困ったように眉を下げる燈史郎よりも先に、慌てたように口を開いたのは妖だった。


「違っ……! 俺が、俺は誰かを呼んでたんだ! お前が、お前だけが気づいてくれた」


──うれしかったんだ。

 いつからあの枯井戸の底にいたのかもわからない。

 身動きの取れない中、ただひたすらに叫んでいた。誰かを呼んでいた。初めて気がついてくれたのは、まだ小さな少女。外に連れ出して、水に浸けてくれて。


「それなのに」


 夜半の妖の襲撃。助けようとしてくれた百夜に、怖い思いをさせた。怪我をさせた。涙を流して気を失った百夜の、青ざめた肌の色が忘れられない。

 あの鳥の妖は、明らかに自分を狙っていた。記憶がない自分には襲われる理由もわからず、弱く対抗する術もない。もしまた、襲われたら。巻き込んでしまったら。

 だから、這う這うの体で厨へ忍び込んで満つの酒を拝借し、大きくなった身体で外へと飛び出したのだ。


「……ごめんなァ、怖かったよなァ」


 腕を伸ばして、しゃがみ込む百夜の首もとを優しくなぞった。一度は落ちた首。燈史郎がいなければ、元には戻らない百夜の身体。なんて──危うい。


「百夜、ごめんなァ。探してくれてありがとう。俺はこのままどっかに行くからさ、依頼は」


 百夜から手を離し、酒樽から降りる。依頼は忘れてくれ、そう燈史郎に言いかけた言葉はしかし、半端に途切れた。


「とおや」

「ン?」

十夜とおや

「……? 何、どうした?」


 妖の襟を掴んで、百夜は離れようとする彼を引き留める。ぷつぷつと、空に舞う気泡が綺麗だ。

 妖の頭を抱えるように両腕を回して、パサついた髪を撫でる。酒の香りに混ざって、澄んだ水の匂いがした。妖の、匂い。


「十夜は、今日から百夜の弟。だから、一緒に帰ろうね」

「……十夜、って、なんだ、もしかして俺の名前か……?」


 瞳を瞬かせた彼──十夜に問われ、百夜はこくりと頷いた。


「百夜ね、妖がちょっと怖いんだ。でもね、先生も十夜も怖くないよ。優しくて綺麗だから」


 力が弱く行く当てもないのに、危険から遠ざけるために百夜たちから離れようとした十夜は、優しい。


「家族は一緒にいていいんだよ。だから、帰ろう?」


──燈史郎も先生も強いから、またあの妖がきても大丈夫。やっつけてくれるよ。

──十夜は、百夜が守ってあげるから。


「……馬鹿、逆だろ普通」


 ほろりと、涙の最後の一滴が十夜の頬を伝って、ぎゅうと強く百夜の身体を抱き締めた。そのまま百夜を巻き込んでがくりと傾いだ身体を、燈史郎が受け止める。


「十夜、眠っちゃった?」

「うん、疲れたんだろうね。しばらく寝かせてあげよう」


 酒を多く取り込んだからだろう、意識はなくとも縮むことのない十夜の顔を見つめ、


「──止んだ、ね」


 燈史郎が小さく呟いた。

 激しさを増していた雨音が、今はぴたりと止んでいた。まるで、十夜の感情に呼応するように。


「十夜、きみは──しずくの子か」


 眠る十夜の耳には届かないその声はわずかばかりの戸惑いを含んでいて、百夜は首を傾げた。何の妖かわかったのなら、もっと喜べばいいのに。十夜の記憶を取り戻す第一歩だ。

(雫の子。綺麗な名前だ)


「あれ、じゃあ昨日のってもしかして風羽根かざはね……?」

「はぁ!? んな訳ねぇだろ? 風羽根って大人しいじゃん」


 外を警戒して入り口付近を陣取っていた満つが、あごに手を当てて何かを考え込むようにしていた燈史郎の言葉を耳にして目を剥いた。


「燈史郎、雫の子ってどんな妖なの? 風羽根って昨日の妖のこと? 十夜と関係があるの?」


 百夜の質問を受け、燈史郎は唇に指を当てて言葉を選びながら説明を始めた。


「んー……まずね、天雲てんうんにいる雨神うじんが大地に雨を降らすんだけど、その雨の根源が雫の子。これがたぶん十夜だ」

「よくわかったな?」

「十夜の感情と天気に繋がりがあるようだったから。じゃなきゃ、酒の雨なんて降らないよ」

「……雫の子って、妖つーか雨神の眷属だろ? 地上になんか落ちてくるか? 風羽根じゃあるまいし」

「それも理由のひとつだね。この辺りの妖なら少なからず見覚えがあるはずの僕と満つが十夜のことはなんの妖かもわからなかったし……まぁ、落ちた原因はわからないけど」

「十夜、空から落ちてきちゃったの?」

「うん、そうなるね」

「風羽根はよく落ちるよな。昨日のみたいな物騒なのは初めて見たけどよ」

「軽くて風にさらわれやすいからね。その分天雲にいる数も多いらしいけど、落ちて穢れても害はないし、時間が経てば蝶に変化する。だから梅雨明けには蝶が多いね」


 そこで言葉を区切った燈史郎は、うぅんと首を傾けた。


「昨日の風羽根はたぶん……天雲に戻りたい一心で、雫の子がいたから襲ってきたんじゃないかなぁ」


 百夜には少し、難しい話だった。百夜が気になるのはたったひとつ、十夜を十夜が望む場所──天雲に返してやれるのかどうかだけ。


「雨神様に、十夜のこと迎えに来てもらえるようにお願いすればいいの? 雨神様も、十夜がいなくて悲しんでるものね、きっと」


 膝に乗せていた十夜の頭を撫でながら、雨神にどうしたら声が届くのかを問うた百夜に、燈史郎はわずかに瞳を伏せて小さく眉を下げた。


「……とりあえず、帰ろうか。十夜を布団で休ませてあげよう」


 頷いた満つが、十夜の身体を抱き上げた。

 酒蔵の扉を開けて、外に出る。ぬかるんだ土からは酒独特の匂いが漂っていた。


「──一介の人形師に、神なんて呼べやしないよ」


 ぽつりと吐き出された燈史郎の言葉は風に拐われ、百夜の耳には届かなかった。

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