第一章 雫(しずく)の子と風羽根(かざはね)の噺 梅雨に混ざりて⑦


「もういいぜ。無理言って悪かったなァ」



──十夜とおやしずくの子だと判明した日から七日が経った頃、からからと笑った十夜がそう頭を下げた。


「……すまない。何の力にも、なれずに」

「気にすンなって。置いてもらってるだけでありがたいからよォ」


──雫の子は、天雲てんうん雨神うじんと在るのが道理。雨神から離れれば離れる程、その生命力は弱っていく。

 さらに数日の後。

 すでに、酒を飲んでも十夜はもう大きくなることができなくなっていた。手桶の中で揺蕩うことが精一杯で、その存在が消えるのは時間の問題であった。



「──入梅になれば、先触れとして一度だけ雨神が降りてくる。その時に帰せるかもしれないけど……」

「通り雨の時間は増えてきたけど、梅雨なんてまだ先だろ。つーか、一度落ちたもん、神が戻るの許すか?」


 開け放った窓の外、広がっているのは青空だ。入梅は毎年変わらず、皐月の頃の月が三度青梅の色に変化した後で、まだ半月程先であろう。


風羽根かざはねは無理って聞くけどね。雫の子は数が少ないと聞くし、雨神は情に篤いと云うから、可能性はあるとは思うけど……」


 つの疑問を受けて、燈史郎とうしろうは小さく肩を竦めてみせた。その表情は、苦い。

 落ちた雫の子なぞ、話にも聞かないのだ。数千年を生きる雲雀ひばりおきなすら雫の子を見たことがないと言っていた。いくら聞き回っても、雫の子を天雲に戻す方法なんてどの妖も知らないと首を横に振るばかり。

 雨粒を広く拡げる役割の風羽根とは違い、雫の子は雨神の水を大地に降らし天地を繋げる役割であるとされている。雨神から分かたれ生まれてくるとも。その存在は、おそらく風羽根よりも雨神に慈しまれている。


「予想よりも早いな……」


──十夜の、衰弱の度合いが早い。

 雨神から引き離された雫の子は、呼吸の根源を奪われているようなもの。

 このままいけば、十夜の命はもってあと数日。


「お前が、余計なことすっからだぞ」

「記憶が戻らないのは僕のせいじゃないでしょ……」

「そっちじゃねぇよ。チビ、最近ずっと泣いてんぞ」

「……」


 あごで示されたのは庭先で、燈史郎は視線を再度外へと向けた。

 視線の先では、百夜びゃくやが手桶の中の十夜にかざぐるまを回して見せてやっていた。椿鬼風つばきかぜの通り路であるから、室内よりもかざぐるまがよく回るのだ。

 うつむいている百夜の表情は、頬にかかる髪に隠されてよくは見えない。


(まいったな……泣かせたい訳じゃないのに)


 笑ってほしい。

 楽しいことを知ってほしい。

 大切なものや好きなものをたくさん作ってほしいと──燈史郎は、いつも願っているのだ。


        ***


 その日は朝から、薄い薄い雲が空を覆っていた。やがて小雨が降り始めたが通り雨であるらしく、すぐに止んでしまうと燈史郎に言われた。百夜は大きく肩を落とす。


「……行きたい場所とか、ない?」


 手桶ごと庭へ移動して、雨粒を十夜に当ててやる。蛇口から出る水よりも、雨の方が幾分か調子が良さそうに見えるから。

──十夜の身体は向こう側が透ける程に半透明で、たぶんもう、時間はあまり残っていない。燈史郎も満つも、遅くまで色々な妖たちのもとを駆け回って十夜を天雲へ帰す方法を探してくれていた。けれど、その方法がないという。

 何かできることはないか聞いた百夜に、「なるたけそばにいてやれ」と言ったのは満つだ。十夜と同じ酒を飲めば、小さい十夜の声も聞こえることに気づけたのは僥倖だった。

 叶えられる願いは全て叶えてやりたい。百夜の問いに、十夜はふぅと瞳を細めた。


「──会いたい、なァ……」

「え、誰に? 何か思い出した?」

「あ? 俺、今なんか言ったかァ?」


 ぼんやりと空を見つめた十夜は、ゆっくりと首を横に振った。正直な所、十夜は自身が雫の子である実感すら未だ湧いていない。記憶も戻っていないし、会いたい誰かなぞいる訳もなく。


「どんな人? 顔は? どこで会ったの?」

「んんー? わかんねェなァ」

「頑張って思い出して!」


 必死に言い募る百夜には悪いが、おそらく天雲での記憶なのだろうから思い出したところで会うことは叶わないだろう。

 くすくすと笑った十夜は、傘を握る百夜の指先をそっと撫でた。落ちた先でこの少女に拾われたことは奇跡に近かった。おかげで、こんな穏やかな気持ちで消えることができる。

 十夜の心中を察したのだろう、百夜の口元が小さく歪んだその時──


「……っ!? な、ッに」


 咄嗟に耳を押さえるが、つんざくような哭き声が頭蓋を揺らし、手桶を抱えた百夜は耐えきれずに地面にうずくまった。地響きに身体が揺れ、町中から悲鳴が上がる。

 数刻の後に地鳴りが止んでから恐る恐る顔を上げれば、手桶の縁にしがみついていた十夜が連なる山々を見つめて呟いた。


「──山ノ神が、怒ってる」

「え?」

「哭いてるンだ。人を祟ろうと」

「祟る……?」


 十夜の視線を追って、振り返った先。

赤黒く燃えるような気配を纏った木々が、そこにあった。ゾッとして、身体に震えが走る。言葉を失った百夜の耳に、鋭い燈史郎の声が届いた。


「──百夜! 十夜と部屋に戻ってて。僕たちが帰ってくるまで、絶対に家から出ては駄目だよ。いいね? 満つ! 行くよ」


 返事も待たずに、燈史郎は黒い外套を羽織って駆け出した。続いた満つだったが、


「──先行っててくれ! すぐに追いつく」


 そう言うと、燈史郎とは違う方向へと足を向けた。一瞬、ほんの一瞬眉をひそめた燈史郎はしかし、一度の瞑目の後に頷いた。


「わかった。信じてるよ」

「あぁ、わかってる。チビ、家ん中にいろよ!」


 そうしてすぐに、ふたりの姿は見えなくなった。

 気がつけば、雨は止んでいた。胸騒ぎに、百夜は立ち尽くすばかりだ。ぎゅうと手桶の取っ手を握り締める百夜を十夜が心配げに見つめるが、触れるだけの指先が、もうない。

 消える瞬間は、もうすぐそこまで。


        ◆◆◆


 燈史郎と別れた満つが向かったのは、福籠庵ふくろうあんだった。まだ店は開いていないが、二階が遊鷹ゆたかたちの居住区になっている。

 声を掛けずとも、自分が来たことに遊鷹はすぐに気がつくはずだ。


「ッ満つさん! 今の何の声? 山の方からだったけど。もしかしてなんか困ってる?」


 中からガタガタと物を倒すような音が聞こえて、慌てた様子で勝手口から顔を出したのはやはり遊鷹だ。その顔には、隠しようがない程の喜色がにじんでいた。満つから会いに来たのは、何年ぶりだろうか。


「遊鷹」

「なんかやるなら俺も手伝うよ! 満つさんが頼ってくれんの、すげぇうれしい──」


 駆け寄ってきた遊鷹の身長は満つよりも頭ひとつ分低いが、出会った頃の痩せこけた子どもの時分を知っている満つからすれば、なんて大きく成長したのだろうと知らず口角が上がる。それでも、のんびりはしていられない。燈史郎が待っているから。


『遊鷹、眠って』

「……っ!? ん、で……」


 ほんの少し屈んで、耳元に口を寄せる。神通力の一種の催眠を声音に乗せてやれば、悔しげに表情を歪めたものの遊鷹はすぐに意識を手放した。その身体を抱き止めて、店の裏手に移動してしゃがみ込むと、ぎゅうと抱き締める。


「……わりぃけど、ちょっとだけ充電させてな」


 頬に頬を寄せて、遊鷹の気を分けてもらう。暖かくて、力が漲っていて、柔い気。明るい色をしている。

──つがい同士はあまり離れていると魂がすり減って良くないから、満つと遊鷹の距離感は褒められたものではない。遊鷹には我慢ばかりさせてしまい、申し訳ないとは思っているのだけど。

 図体ばかり大きくなったもうひとりの子どもが、泣いてしまうから。まだまだ満つは、燈史郎をひとりにはできないのだ。


        ***


 公園の敷地を進んだ先、山の麓で合流を果たした燈史郎と満つは頷き合うと、直ぐ様山の中腹へと向かう。

 時折地面が大きく揺れ、走りにくさに嫌気がさした満つが羽根を出して低く飛び始め、燈史郎も木上へと移った。


「まったく、こんな時に……」


この騒動が終わるまでに、十夜の身体は保つだろうか。……難しいだろうと思う、泣くであろう百夜をひとりにはしたくない。

──急がなくてはならない。

 山ノ神の怒りが町に流れ出す前に。退魔師たちが駆けつける前に。百夜がひとり、泣く前に。



「──荒らされてるな」


 この山の中腹には、岩でできた洞窟があった。入り口の注連縄は、いつぞやの宮司が掛けたものらしい。遥か昔に山ノ神が置いたとされる護り石が祀ってあるこの場所は、中に入ると明らかに外界とは空気が違った。ひやりとした氷のような冷たさが肌を刺す。

 かつてここに、確かに神が降りたのだと本能に強引にわからせてくる。


(よくこんな場所で悪さができるものだ)


 宮司が作ったであろう簡易的なお社があったが破壊されており、無残な姿を晒していた。

 護り石は、大の男が数人がかりでも運べない程に大きいもので、妖の満つでもおそらく難しいだろう。だからだろう、つるはしか何かでその一部が砕かれていた。

 外見そとみは普通の石と変わらず灰色のそれだが、割られているせいで覗く断面は翡翠と黄金の二色が混ざりあった玉石ぎょくせきが光輝いていた。


「誰かが、欠片を持っていってる」

「はぁ!? 馬鹿かよ、護り石だぞ!?」

「そういった感覚が、鈍くなっているんだよ。すでに、神の加護からは外れているんだろうね」


 不快げにため息をついて、舌を打つ。次いで、燈史郎は耳をすました。今や祟りと怒りにまみれたこの山中で、護り石の欠片があろう場所だけが静謐さを宿していた。気配を辿れば、すぐに追いつける。


「──そう遠くない。まだ山の中にいるね、行こうか」


 洞窟を出て、すぐに走り出す。だから、燈史郎と満つは気がつかなかった。空を覆う雲が、厚く黒く変化し始めていることに。


        ◆◆◆


「──十夜!」


 言いつけを守り自室に戻っていた百夜だったが、しばらくして手桶の中の十夜が苦しげに呻き始める。

(どうしよう、もう、消えちゃう……っ!?)

 結局何も、何もできなかった。枯れ井戸から連れ出さない方が、消滅を迎えることはなかったのでは──いや、違う。ひとりきりを、十夜は怯えていたのだから。


「百夜ァ!」

「十夜!? どうしたの?」


 絞り出すような大声。十夜の表情には苦痛よりも焦りが浮かび、唇が震えている。


「駄目だ、……! ! ……!」

「十夜……? 何言って、」

「頼む、百夜。連れていってくれ……」


 どこに、それを伝えるより先に、ふっつりとした十夜は瞳を閉じてぐったりと身体の力を抜いた。

 慌てて手桶の中から両手で掬い上げれば、──大丈夫、まだ生きている。


「……」


 家から出るなと言われた。けれど、でも、十夜の願いを聞いてやりたい。


(でも、どこに行けば──)


 応えをくれたのは、筒立てに入れておいたかざぐるまだった。風もないのに、ゆっくりと回り始める。

 思えば、いなくなった十夜の場所へ案内してくれたのもこのかざぐるまだった。同じ公園で出会ったものだから、助けてくれているのかもしれない。


「燈史郎、先生、ごめん」


 十夜を慎重に懐に入れ、かざぐるまを片手に百夜は外へと飛び出した。



──風が強い。

 それでも、走る方向を間違えればかざぐるまは止まるから、行くべき場所はすぐにわかった。

 燈史郎たちも向かったであろう山が、十夜の望む場所だ。


(記憶が戻ったの?)

(彼の人って? 誰が隠れるの? 何から?)


 聞きたいことはいくつもあったが、十夜はあれから目を覚まさないし、もたもたしていて彼が消えてしまっては意味がない。

 今は急ぐしかないのだ。

 山の中に入ると、途端に空気が重苦しくなる。鼻をつく苦味に袂で口を覆って、それでも足は止めずにかざぐるまを頼りに周囲を見回す。入山はしたが、ここからどこを目指せばいいのか──


「ぅわ……!」


 と、朝からの小雨でぬかるんだ地面に足を取られた百夜は体勢を崩し、そのまま足場の悪い斜面を転がり落ちた。


「びっくりした……」


 口に入った泥をぺっぺと吐き出し、咄嗟に身体の稼働を確認する。下駄が片方なくなってしまっているし、左手の小指が変な方向に曲がっていて、不恰好に感じて無理やり戻してみる。


「あ、十夜どこ!?」


 懐を漁るが──十夜がいない。庇ったつもりでいたが、落ちた衝撃で放り出してしまったようだ。


「十夜、十夜、返事して!」

「──っと、なんだ、餓鬼……!?」

「っわ、ごめんなさい」


 下を向いて十夜を探していれば、突然誰かにぶつかった。慌てて顔を上げれば、知らない男がふたり、そこにいた。

 息を切らしている様子を見ると、どうやら山を下りるところらしい。


(……あれ、このふたりどこかで見たかも……)


 小首を傾げるが、すぐにその興味を失った百夜は再度十夜を探し始めた。そんな百夜を見て、男たちが顔を寄せ合い小声で言葉を交わす。


「泥で薄汚れてるけど、随分いい着物着てんな……顔も綺麗じゃねぇか」

「ついでに連れてくか」


 にやりと口角を上げ下卑た笑顔を浮かべた男が膝を折り、百夜と目線を合わせた。


「お嬢ちゃん、ひとりかい?」

「白夜は今、十夜を探してるから忙しい」


──十夜……? 弟か、飼い犬か。わからないが、どうやら近くに親はいない。それがわかっただけで、連れ去りやすさは格段に上がる。


「百夜ちゃんって言うの? とおや? ならこっちにいるから、一緒においで。連れていってあげるよ」

「! ありがとう」


 その言葉を信じた百夜が、差し出された男の手を取った。

 他人の言葉を疑うには、百夜の周囲には優しく親切な者ばかりがいた。暖かい弊害とでも言えばいいのか。

つないだ手を引かれ、歩き出すその寸前──


「──その手を離せ」


 低く、どす黒い声が男の鼓膜を刺激した。

 次いで、首に巻きついた何かに喉をきつく締め上げられて、呼吸がか細く鳴った。


「ッあが……!?」


 なんだ、紐、いや糸か?──息ができない、熱い……!

 両手で喉をかきむしるが、火箸のように熱く触れることができない。皮膚の焼ける臭いが鼻をついてえずくが、呼吸がままならない今、閉じられない口端から唾液がこぼれるだけだった。


「二度とに近づくな。次はない」


 背後から落とされる言葉に、無我夢中で男は頷く。首の圧迫感が消え、激しく咳き込んだ男の背中が蹴られた。顔を上げれば、百夜と名乗った少女を背に庇う形で年若い男が立っていた。

 優男の風貌だが、その双眸は昏く、寄せられた柳眉には生気が感じられない。まるで、悪鬼か修羅か。


「ひ、ィ……!」


 駄目だ、逃げなくては殺される。震える足を叱咤して、立ち去る間際によろめく男の懐から手のひら大の塊が落ちる。一瞬振り返った男たちだったが、結局は逃げることを優先した。


「──行かせてよかったのか?」


 走り去る後ろ姿を睨みながら、満つが問う。


「いいよ、放っておいて。ごめん、それより石を戻してきてもらってもいいかな」


 燈史郎は男が落とした塊──護り石の欠片を拾い上げると、満つへと手渡した。

 舌を打ちながら頷いた満つは、護り石を袂に入れ百夜へと片手を差し出した。その手のひらにはくったりとした十夜が鎮座しており、慌てて両手で受け取る。


「おら、十夜落っこってたぞ」

「! ありがとう」

「シロがキレてっから、謝り倒しとけよ」

「……わかった」


 耳に顔を寄せて小声で囁かれた内容に、百夜は青ざめたまま頷いた。先程から、燈史郎の放つ怒気に身体の震えが止まらない。


「──白夜」

「……はい」


 満つが飛び立って、その場には燈史郎と百夜が残された。重い沈黙の後に、しゃがんだ燈史郎が百夜の両肩に手を置いた。


「家から出るなと言ったよね? 知らない者に着いていくなとも常々。今のは何だい?」

「ごめんなさい……十夜が行きたがったから」


 素直に頭を下げれば、ため息をひとつついて、燈史郎は百夜を抱きしめた。


「無事でよかった……」

「ごめんなさい、心配かけて」

「もういいよ。家に帰ったら洗おうね」


 額についた泥汚れを優しく指先で拭ってくれた燈史郎は百夜を腕の中に抱き上げると、かざぐるまを掲げて向かうべき場所へと走り出した。

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