第一章 雫(しずく)の子と風羽根(かざはね)の噺 梅雨に混ざりて⑤


「さっさと風呂入っちまえ。今度傘買ってやるな」


 雨に打たれて全身が濡れていた百夜びゃくやは、すぐにつに風呂に放り込まれた。おかげで、手にしていた干物妖ひものあやかしを説明する暇がなく、風呂を上がったら改めて話そうと決める。干物妖を手桶に張った水に放り込んで、自身は温かい湯に浸かれば知らずほぅと呼吸がもれた。


(あったかい……)


 あの、暗く臭い枯れ井戸の底とは大違いに心地よい。


「──ねぇ、なんであんなとこにいたの?」


 干物妖に問いかける。

 まさか、好き好んであんな場所にいた訳ではあるまい。耳に届いた声も、よくは聞こえなかったが悲痛さを孕んでいたように百夜には感じられた。


「しゃべれないの? お湯の方がいい?」


 湯船から腕を伸ばして干物妖に指先で触れるが、返事はない。目覚めるまで時間がかかるのかもしれないと思い直して、百夜は布巾を水面で膨らませて遊び始めた。



 風呂を出た頃には腹が鳴っていて、つまみ食いできるものがないかを見に厨に行けば気づいた満つにいなり寿司を口に放り込まれた。

 満つが手早く完成させた夕餉を三人で囲み──燈史郎とうしろうは仕事に一段落がついたようだ──遊鷹ゆたかと家の前で顔を合わせた時は燈史郎と満つとでひりついた空気が流れていた気がするが、その頃には全くいつも通りであった。

 それでも、遊鷹とも一緒にごはんを食べたいと言っていいのかはわからず、味噌汁で流し込む。今度、満つにこっそり聞いてみよう。


(今日はもう寝よう……)


 自室で微睡んでいた百夜は灯りを消して布団に潜り身体を丸め、うとうとと瞳を閉じて──


「……ぅわ、びっくりした。なんだ、この妖。誰だよ、妖風呂に入れたやつ」


「……忘れてた!」


──階下から聞こえてきた満つの声に、勢いよく飛び起きた。

 布団を押し退けて慌てて一階へと下りれば、腰にタオルを巻いただけの満つが燈史郎に小言をこぼしている真っ最中であった。


「シロ、お前な。ほいほい落ちてる妖連れて帰ってくんなっていつも言ってんだろ! 今チビもいんだぞ」

「僕じゃあないよ」

「あぁ? 嘘つくな」

「嘘じゃないって。僕最近ずっと部屋にいたし」

「……あ? そういやそうだな……?」


 瞳を瞬かせた満つの手には手桶が握られていて、中からはぴちゃぴちゃと音がしていた。百夜の背では覗けないが、どうやら起きている。百夜は思わず満つの腰に飛びついた。


「それなんて妖?」

「犯人お前か」

「んむぅ」


 膝をついた満つが、むにむにと百夜の頬をつまんで伸ばす。


「駄目だろ、勝手なことしたら」

「やりたいことしなさいって燈史郎が」

「相談してからやれって言ってんの」

「はーい」


 素直に頷いた百夜の頭を撫でてから、満つは手桶に手を突っ込んだ。干物─水分を含んで柔らかくなっているからその呼び方はすでに相応しくないだろう──妖を鷲掴んで、目の高さに持っていく。


「……こいつ、なんの妖だ? 見たことねぇな。シロは?」

「んーと、……いや、僕もわかんないな……?」


 振られた燈史郎は僅かばかりに瞳を眇めて妖を見つめたが、すぐに首を傾げた。

 手のひらよりは大きいが、妖の中ではだいぶ小柄な部類だ。ひと型の妖だから、まるで雛人形のようだった。

 身体は澄んでいて、向こう側が透けてみえる。身体の中を、気泡がくるくると回っていた──枯れていたとはいえ井戸にいたことを考えると、水に関する妖であることは間違いないだろう。

 横一文字に走る傷が両目を潰していて、おそらく目は見えていない。きょろきょろと辺りを見回すような素振りをしているから、他の感覚は機能しているようだった。


「──敵意はない、かな? とりあえず話、聞いてみよっか」

「なぁ、こいつ冷たいんだけど。どっか置いていい?」

「百夜も見たい」

「こら、タオル引っ張んな」


 百夜を軽く諫めてから、満つは卓の上に妖を置いた。妖の着物の裾が翻って、水の滴が空に舞う。

 それぞれが椅子に座り話を聞く体勢になれば、妖がついと口を開いた。


『……』


──一拍の後、決して広くはない部屋の中に沈黙が下りる。


(声ちっっっさ……)


 全身が小さいから仕方ない部分もあるのかもしれないが、それにしても小さい。何かを言っているのはわかるが、言葉としては把握できない。思わず三人で顔を寄せ合った。


「無理、百夜聞こえない。なんて言ってるの?」

「俺もわかんねぇな」

「これは僕もちょっと……意志疎通が難しい子かなぁ、まいったな」


 百夜が必死で耳をすまして妖に顔を寄せるが、困ったように眉を下げるだけだ。どうしたものかと腕を組んで唸っていれば、おもむろに妖が立ち上がった。ぷつぷつと雫が舞う。くんくんと鼻を鳴らして周囲を探るような素振りを見せたかと思えば、卓の端に避けてあったおちょこに顔を突っ込んだ。


「──あ、それ俺の酒!」


 満つは毎日、風呂上がりに一杯の酒を嗜んでいる。酒を奪われて唇を尖らせていた満つを宥めていれば──目を離したその一瞬、


「……これなら、聞こえるだろォ?」


 妖の掠れた声が、しっかと響いた。


「──!? おっきくなった……!」


 百夜が驚きに、目を丸くする。

 視線の先、卓の上にはひとりの少年がいた。年の頃は遊鷹と同じ位だろうか、酒に酔った赤い顔をして酒瓶を抱えている。両目に跨がる傷はそのままで、痛ましさが増していた。


「おら、でかくなったならおりろ」

「痛ってェ!」


 妖から酒瓶を奪い返して、満つは妖の頭を叩いた。しかしすぐに、その首根っこを掴んで床におろしてやっていた。見えない視界では高さのある卓からおりるのは大変だろうと考えたのだろう。


「これでようやく話ができるね──それで、きみは誰なんだい?」

「知らねェよ」

「え?」


 あっさりと吐かれ、虚をつかれたように一同は言葉を失った。


「おれは誰だ?」

「え、……えぇー……」

「ここはどこだ? おれはなんでここにいる? お前らは誰だ? 人……違う、妖かァ」


 くん、と鼻を鳴らした妖の言葉を聞いて、燈史郎が不満げに眉を寄せた。


「僕は人ですぅー」

「百夜も人だよ、今は人形だけど!」

「俺は妖だな」


 言葉にしてみると、まぁなんとも面妖な組み合わせである。

 事実、目の前の妖が(なんだこいつら……)と言いたげな、胡乱げな表情をしていた。

 小さく頬を膨らませていた燈史郎であったが、気を取り直したようにふふと笑った。あごに手を当てて、その瞳は輝いていた。


「しかし……うん、うん。なるほど。記憶喪失の妖か。そういうことなら僕に任せて。僕は人形師だけど、困ってる妖を助ける何でも屋さんでもあるからね」

「そうなの?」


 初めて聞いた話に百夜が驚いていれば、満つはそれとは対照的に表情を歪めてみせた。


「頼まれてもねぇのに止めろや。そんなんだから妖たちに煙たがられるんだよ」


 吐き捨てるが、燈史郎はどこ吹く風といった態度で取り合う素振りはない。手っ取り早く妖を捨ててきてやろうかと満つが画策していれば、その思考を遮るように妖は口を開いた。


「──俺はァ、在るべき場所に戻りたい。頼めるかァ?」


 途端、燈史郎がぐっと拳を握り込んだ。


「これは! 正式な! 妖からの依頼です!」

 喜ぶ燈史郎を横目に、満つは「はぁあ……」と大きくため息をつく。

「仕方ねぇなぁ、もう……」

「やった!」


 燈史郎は、百夜を抱え上げてくるくると回った。その状態のまま、妖に覚えている範囲で話を聞こうとするが──突然しゅるりとその身が縮み、手のひら大の大きさに戻ってしまう。

 おそらく、そもそもの霊力が弱い上に、自身が何者かを忘れているせいでひどく衰弱しているのだろう。

 小さくなってしまえば会話は不可能だ、そうでなくても妖はくったりとしているし、再度酒を飲んだとしても大きくはならないだろう。


「──おら、とりあえず話の続きは明日にしようや。ほら、チビももう寝るぞ」

「うん。この子、百夜の部屋で寝かせていい?」

「いいよ。名前も思い出せないなら何の力も使えないだろうし、悪さのしようがないからね」

「なんかあったらすぐ呼べよ」

「わかった。おやすみなさい」


 頷いた百夜は、小さくなった妖を手桶に戻すと、一段ずつゆっくりと階段を上り始めた。


「満つは早く服着なよ。風邪引くよ?」

「酒飲みゃ温まるからへーき」


 そんな会話を耳に、百夜はあくびをしながら手桶の中を覗いた。水の中を揺蕩う妖は、どうやら眠ってしまったらしい。妖自身はぴくりとも動かないが、纏う衣が水に溶けるように漂い、波紋を作って揺れていた。


        ***


──からからと、音が鳴っている。


 百夜は、薄く目を開けた。

 聞き慣れない音に、寝ぼけながらも緩く視線を巡らせれば、枕元に置いた手桶のふちに腰掛けた妖が腕を伸ばしてかざぐるまを回していた。


(起きちゃったんだ……)


 遊んであげたい気持ちもあるが、眠気に勝てず起き上がることは叶わない。窓の外は夜の帳が下りていて、まだ深夜であることが伺えた。雲がかかっているのか、普段よりも薄暗いように感じられる。

 就寝が早い分、百夜は起床も早い。だから、起きたらたくさん遊ぼうと心に決めて、寝返りを打って瞳を閉じる。


──からから、から

──から、から、


 静かな部屋の中、かざぐるまの廻る音が小さく響く。ぴちゃぴちゃと時折混ざるのは、妖の着物から滴る雫だろう。

 心地好い音に微睡む百夜の髪が──不意に揺れた。そよ風が室内を煽り、からからからからと、かざぐるまが勢いを増す。壁に掛けた羽織がはためき、やがてそれは床に落ちた。


「……んん……?」


 ようやっと違和感を覚え、百夜は目元をこすりながら頭を振った。

 窓を閉め忘れた、だろうか──否、つい先程、確かに閉まっているのを確認した。

 ならば、これは。


「──誰!?」


 跳ねるように飛び起きた百夜が、鋭く叫ぶ。

 まるで呼応するように──一等強い風が一陣、部屋の中に吹き荒んだ。


(この風、どこから……!?)


 外から吹き付けているのではない、どこから湧いたのか、百夜どころか布団や家具すらを巻き込みながら部屋の中心で渦巻く疾風は鋭く、頬が切れた。わずかばかりの痛みが走るが、血は出ない。人形の、身体だから。

 あまりの勢いに立っていられずに、百夜は膝をついた。肌が粟立つような確かな悪意のこもった視線を感じるが、白く濁ったような風が舞う視界の中ではその姿は確認できない。


「……」


 いつ攻撃されるかもわからない。部屋を出て、燈史郎や満つを呼びに行こうと低い姿勢のままじりりと後退しかけた百夜の耳に──


『ッ……』


 微かに届いたのは、暴風音に掻き消されかけてはいたが、確かに干物妖の声だった。

 視界の端で、手桶が大きくぐらついた。水とともに、干物妖が小さく跳ねる。

──と、手桶のすぐ側にひとつの人影がゆるりと揺れた。暗い部屋の中ではその顔立ちはよくは見えない。百夜が思わず瞳を眇めたその時、ちょうど雲が流れたのだろう、窓から差し込んだ月明かりが室内を優しく照らした。


 綺麗な女の妖が、そこにいた。

 床まで広がる長い髪は薄蒼く、月明かりがその輪郭を淡くぼやけさせている。

身体の横幅がやけに大きく、百夜は無意識に首を傾けた。太っている訳ではない、むしろ線は細い。ならば、何が左右に大きく広がっているのか。


(あれって羽根……? 鳥の妖?)


 目を凝らせば胴の脇に人間のような腕はなく、髪と同色の長い羽根が在った。よく見れば、裸足の足も鳥のように細長い。

 こつん、と爪先が床を叩いた。手桶の脇に鳥の妖が佇んで、羽根を伸ばす。


「あ……っ! だめ、触んないで!」


 手桶の中には干物妖がいるのだ、百夜は咄嗟に制止の声を上げた。手桶を抱えようと反射的に駆け出すが──その時ついと、鳥の妖が顔を上げた。赤く縁取られた眼と、視線がかち合う。

 瞬間、その双眸が黒く濁った。淀んだ視線は明らかな怒りを込めて百夜を睨みつけると、大きな動作で両の羽根が振られる。


「──ッ!」


 途端、部屋中に舞い上がった風の一陣一陣が鋭い刃となって百夜を襲った。


(こいつ、鳥じゃなくて鎌鼬かまいたち……!?)


 両腕を顔の前で交差して、咄嗟に眼球を守る。寝巻き代わりの浴衣の袂が風刃の犠牲になって、布切れとなり風にさらわれた。

 防げた、と、思った。けれど、すぐに間違いを悟る。わずかに首もとに走った痛みと、ぐらりと揺れる視界。


──


「……ぇぇえ!? 頭ごろって、百夜これ死ぬ!?」


 丸い頭はごろりと勢いよく転がって、壁にぶつかることによってようやく止まる。


「痛っ!」


 低くなった視線の先では、首から下だけになった身体が慌てて立ち上がろうとしていた。けれどすぐに、膝が笑って床に倒れ込む。


(──……! 霊力、足りてない……!)


 寝て、朝を迎えるだけの夜半に、普段であれば霊力は大して必要ない。起きてから燈史郎に霊力をねだれば何の問題もなかった、けれど、それが仇となる。

──こつん、

 鳥の妖が、ゆっくりとした足取りで百夜の方へと近づいてくる。


(まずい……っ!)


 抜け落ち空を舞う羽根が、一枚二枚と視界を覆う。羽根の隙間から、じぃ……と暗い眼が百夜を見下ろした。


「──っ」


 百夜が喉をひきつらせて掠れた悲鳴を上げるが、風の音に掻き消される。涙の滲む目をきつく閉じたその時。

──爆風すらも切り裂く雷が、部屋中の羽根を一瞬にして焼き払った。

 室内には幾つもの稲光が落ち続け、それを受けて鳥の妖がじりりと後退する。荒れ狂う風が、止んだ。


「──誰の許可得て土足で上がり込んでんだ? 消えろや……!」


 百夜を守るように鳥の妖との間に立ちはだかった満つは、錫杖を片手にちらりと視線だけを百夜へ向けた。その瞳に安堵の色が混ざる。


「悪ぃな、気づくの遅れた」

「先生……!」


 そしてすぐに、百夜の視界が高くなった。優しい体温を頬に感じて、誰かに抱えられたと悟る。


「百夜、無事!?」


 燈史郎は目にかかる百夜の髪を優しく払いながら膝に乗せ、顔を覗き込んだ。百夜の眦から、涙が一粒転がり落ちる。


「燈史郎、頭取れた……」

「大丈夫、ちゃんとつけてあげられるから」


 涙を指の腹で拭ってやりつつ、燈史郎は鳥の妖を見つめた。おそらくは劣勢を悟っている鳥の妖の羽根は、攻撃をするよりも手桶へ向かうことを優先している。


「満つ、あいつの狙いはあの妖だ──守れ」

「──了解」


 錫杖を振りかぶった満つが、強く床を蹴った。その目元には朱色の紋様が走っていて、彼が妖であることを物語っていた。錫杖特有の輪がぶつかり合う金属音に混ざって、腹に響く稲光の轟きと鳥の妖の威嚇する声が耳に届く。


「……っ」


 百夜は、ぎゅうと強く瞳を閉じた。楽しい日常に紛れ忘れていた、妖への恐怖心。


──妖は血なまぐさい、乱暴で、残酷で、情けがない。


 それは、記憶のない百夜の心に深く刻まれている。きっと、記憶の失くす前に何かがあったのだろう。

 震える百夜の目元を、燈史郎の手のひらが覆った。


「──百夜、もうお眠り。起きた時には、元に戻っているから」


 耳元で柔らかく囁いた燈史郎が、百夜の額にキスを落とす。そこから温かさが緩く広がって、百夜はこてんと意識を失った。

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