第一章 雫(しずく)の子と風羽根(かざはね)の噺 梅雨に混ざりて④
初めての外出の後、何回かは
燈史郎は人形制作に夢中になっていて部屋から出てこず食事すら疎かにしているし、満つは朝から風邪を引いてしまった一家の相手をしていた。
構ってほしさにお茶を注いで持っていったら、「風邪移っちまうからあんま来ちゃ駄目だぞ」と追い返されてしまい、暇をもて余した百夜を見かねた満つの許可を得ての外出だ。
「あ、桜餅の花もうない」
百夜がひとりで行ってもいいのは燈史郎や満つと訪れたことがある場所だけだから、行動範囲は狭い。その中で遊べる場所となると公園くらいしか思いつかず、かざぐるま片手に百夜は広い野っ原を走り回っていた。
ふと足元に薄紅色の花弁が落ちていないことを疑問に思って顔を上げれば、桜の大樹に花弁はなく、淡い緑の葉がいくつも繁っていた。
「???」
まだ意識的には生まれたばかり、四季の移り変わりと云う概念のない百夜にはその理由がわからず、思わず首を傾げてしまう。
(帰ったら、先生に聞いてみよ)
そう心に決めて、また辺りを走り始めた。それに飽きたら小川を覗き込んで、着物の裾が濡れるのも構わず綺麗な小石を探す。
「お嬢ちゃんー、今日は雨が降るから早く帰るんだよー」
「はーい」
何度か公園を訪れているうちに顔見知りになったおじいさん──名前は一向に覚えてもらえない──にそう声を掛けられ、素直に頷いた。空を見上げれば、確かに灰色の分厚い雲が流れてきている。
すぐに帰るかどうかを数秒悩んで、結局まだ遊ぶことにする。家に帰っても寝るだけだ。
公園を後にするおじいさんの背中を見送って、その後は小川の魚と戯れたり、木に登ってかざぐるまを吹いたりと外遊びを満喫する。
「あ」
夢中になっている百夜の鼻の頭を、水滴がひとつ叩いた。それは瞬きの間に量と勢いを増して、百夜は慌ててかざぐるまを懐にしまうと木を駆け降りた。
辺りを見回して、雨宿りができる場所を探す。もっと木が多い所なら雨を避けられるが、山には入るなと燈史郎に言われている。
燈史郎が誂えてくれた着物を濡らしたくない百夜は焦りながら、それでも視界の端に東屋を見つけ、そこへ向かい駆け出した。
***
公園の端にあった東屋は山の入り口にかかっていたが、これくらいならば燈史郎も許してくれるだろう。古ぼけた東屋の屋根は隙間が空いていて雨が滴ってきているが、雨宿りができるだけありがたい。
屋根の下には簡易的な木の椅子と卓があった。椅子に座って濡れた着物の裾をぱたぱたとはたく。
(よかった、今日はまだ動けるや)
百夜は、燈史郎の霊力が切れれば動けなくなってしまう身体だ。今日はひとりだからと、多く霊力をもらってきたことが功を奏したのだろう。
『ねぇ、霊力ちょうだい』
『うん……』
『うんじゃなくて。外で遊んでくるから霊力ちょうだい!』
『はー……うるさいな……』
『えぇー……ん、む!』
『──これで、おとなしくしてて』
人形制作に没頭する燈史郎は寝食も忘れ部屋にこもるため、他の全てを煩わしく感じ厭う傾向にある。まとわりつく百夜を面倒に思ったのか──いつになく手荒な手つきで抱き寄せられたかと思えば、乱暴に口を塞がれた。
いつもならば唇を触れ合わせるだけで終わるそれは多くの霊力を与えるためかそのまま口内に舌が挿し入れられ、それは呼吸が苦しくなるまで続けられた。
(もう慣れたし嫌じゃないけど、ベロ入ってくるのは苦手)
酸素不足でちかちかと瞬く視界とは裏腹に、身体には霊力が満ちて心持ちが穏やかになる。燈史郎の霊力は、心地がいい。
(ちょっと寒いな……)
身体が濡れたせいか、弱い風が吹くだけでもぶるりと震えてしまう。暖かさが恋しくなって、雨が止んだら早く帰ろうと、何とはなしに家の方角に目をやった。
──その時、
「あーくっそ、急に降ってきやがって……あ? 百夜か? こんなとこで何してんだ?」
山の方でがさがさと音が鳴り、すわ獣かと身構えた百夜だったが、現れた姿にすぐに肩の力を抜く。
「……えっと、」
「お饅頭……!」
「
「遊んでた。今は雨避けてる」
「にわか雨だからすぐ止むぜ。梅雨には早ぇし」
東屋に入り、頭を振って前髪を掻き上げた遊鷹は百夜の向かいに腰を下ろした。
「一緒に雨宿りしてい?」
「うん」
話相手ができたことによって、先程感じていた寒さは薄らいでいた。その代わりと言わんばかりに、百夜の腹が小さく鳴る。
「腹減ったの? 今、山で木の実とか取ってきたけど食う?」
「ううん、先生のお弁当あるから大丈夫」
「先生?」
首を傾げる遊鷹を余所に、百夜は肩から掛けていた鞄を漁り、風呂敷に包まれた弁当をいそいそと取り出した。出掛ける百夜のために、診療の合間をぬって満つが朝餉の残りを詰めて持たせてくれたものだ。
雨がかからないよう注意をしながら弁当の蓋を開ければ、鼻をくんくんと鳴らしていた遊鷹がくわっとつり目がちの両目を見開く。
「ん? あ? 先生ってもしかして満つさん!?」
「うん? うん、そう」
「え、待ってそれ満つさんの飯!? うっわ、まじで!?……なぁ、百夜。それ、ちょっとだけ分けてくんねぇ……?」
「えー」
「ほら、木の実分けてやっから! これ甘くてすげぇ旨いぜ? 今度店に来た時なんかおまけしてやっから。な?」
「……ちょっとだけだよ」
「お、ありがとな!」
歯を見せて笑った遊鷹は、百夜に袋に入った木の実を差し出した。中を覗けば梅干程の大きさの赤い実がいくつも入っていて、試しに一粒取って口に運ぶ。ハリのある皮の中は柔く、甘い果汁が口内に広がった。
これならば、物々交換としては満足ができる。百夜が口元を弛ませていれば、いただきますと手を合わせて満つの弁当を食べ始めた遊鷹は早々に涙ぐんでいた。
「あー……満つさんの飯うめぇ……。久しぶりに食べた」
「先生のご飯おいしい」
「だよなぁ。俺、満つさんの飯すげぇ好き」
「お饅頭は、」
「遊鷹な」
「ゆたかは、燈史郎とか先生と喧嘩してるの?」
「……喧嘩は、してねぇよ」
百夜の問いに、遊鷹はついと動きを止めて──ややあって苦笑った。
頬を掻いて「ほら、残りはお前が食べろな。分けてくれてさんきゅ」と、半分に減った弁当を寄越してくれる。
おにぎりを頬張りながら百夜は、遊鷹もあの家で一緒に暮らせたら、
(楽しそう)
そんな風に、思った。
***
弁当を食べ終える頃には雨足も弱くなり、雲の切れ間から陽光が射し込み始めていた。遊鷹の言葉通り、通り雨だったらしい。
「そろそろ帰っか」
「うん。──ん?」
頷いて立ち上がった百夜はしかし、不意に動きを止めた。きょろきょろと辺りを見回し始める百夜の姿に、遊鷹が首を傾げる。
「どした?」
「なんか聞こえた」
「? この辺、俺ら以外には誰もいねぇぞ?」
「でも、声が……」
「あ?──あぁ、
数秒考えるような素振りを見せた遊鷹はややあって、納得したとばかりに頷いて見せた。
「妖……」
「目ぇつけられたらまずい妖もいるから、あんま関わんなよ。あぶねぇから」
聞いているのかいないのか、百夜は東屋を出ると、耳を澄ませた。うろうろと周辺を歩き──ひたりと足を止める。
「! ここからだ」
声を上げた百夜は、山の方へと足を向けた。公園の敷地と山との境界を表すように背の低い生け垣が所々にあるが、手入れはされていないようで荒れている。生け垣の裏に回った百夜の視線の先、整えられていない茂みに覆い隠されるような状態で、奥まったその場所に枯井戸がぽつんと在った。
「ほら、お前服汚れんぞー」
「何、この石でできた穴?」
「ん、なんかあったの?……井戸? へぇ、こんなとこに井戸あったんだ、気づかなかった」
「井戸?」
石で形作られた丸い井戸には木の蓋が被さっていたが、長年の雨風に晒されたそれは腐り半分以上が欠けて中が見えており、役割を果たしていない。
「水汲むとこ。奉日本の家にもあんだろ? つっても、この井戸はもう枯れてんな」
ふたりで井戸の中を覗き込んでみる。井戸はなかなかの深さがあったが、その底に水は見えなかった。敷き詰められた石が見えるばかりで──否。
(なんか、動いた……?)
光の届かない暗闇の底で、何かが揺れたような気がした。
「また雨降ってくるかもだし、いい加減帰ろうぜ──ッ馬鹿、おい!」
飽きたのだろう、踵を返しかけた遊鷹の慌てたような声は──井戸の縁に足を掛けた百夜が、止める間もなく中に飛び込んだせいだ。
「百夜! 大丈夫か!?」
「平気ー! すぐ戻るから」
人形の身体だからだろうか、百夜の運動神経は一般的なそれよりも高く、ひとっ飛びで井戸の底へと降り立った。若干足裏に衝撃は走って呻きはしたが。
「……さっき動いたの、どれだろ」
井戸の底は肌寒く、しかも湿気が多い。髪が頬に貼りついて、百夜は不快げに顔を振った。羽根のない小虫も多く、長居したい空間ではない。
百夜は夜目の利く質のため、素早く井戸の中を見回して──
「これ……?」
茶色い、木片のようなものを足元で見つけた百夜はそれを拾い上げた。
干からびており、質感は一見すると魚の干物に近い。扇子のような扇形はどちらが上下かはわからないが、ひどく軽かった。
気づけば声は聞こえなくなっていたが、おそらくあの声の主はこれだろうと確信があった。説明できるような理由はなく、ただの勘だが。
干物を握りしめ──懐にしまうには汚れがひどかった──百夜は石の凹凸に手足を掛けて器用に井戸を登り始めた。
「ゆたか、これ何?」
地上に戻れば、あぶねぇだろ!と遊鷹に叱られたが、素直に謝ればすぐに許してくれ頭を撫でてくれる。そして、百夜の問いにその手元を覗き込んだ遊鷹だったが、首を横に振って見せた。
「や、わかんねぇ……なんか水系の妖じゃね? 干からびてるし、そのまま井戸ん中戻せって。あぶねぇかもしんねぇから」
「持って帰る」
「持って帰んの!? なんで?」
「育てる」
「それ、植物じゃねぇよ……?」
口元をひきつらせている遊鷹には申し訳ないが、興味を持ったことはなんでもやってみた方がいいと、記憶を取り戻すきっかけになるかもしれないからと燈史郎に言われている。
「水につけたらふやけるかな?」
「虐待じゃね? やめろって、起きたらどうすんだよ」
「挨拶する」
「えらいじゃん」
軽口を叩き合いながら小川に干物をつけてみれば、とくんと手の中のそれが震えた気がした。
◆◆◆
日が傾き始めていた。そこまで距離はないものの、ひとりで帰すのは心配だからと遊鷹は百夜を家まで送ることにする──あの人に会えたらいいななんて、下心もほんの少し。
「これ、帰ったらどうしたらいいかな」
「手桶にでも水張って入れとけば? あ、ちゃんと満つさんたちに妖連れ帰ったこと言っとけよ」
「うん」
素直に頷く百夜の手には、干物染みた剥き出しの妖が握られている。見つけた当初よりは潤いが感じられるが、未だ動く気配はない。深く眠っているのならば問題はないだろう。家に着けば満つの他に燈史郎もいる、ある程度の妖ならば如何様にも対処できるはずだ。
そうして十字路を曲がった視線の先、欠伸混じりに家の前を掃いている青年──満つの姿に、遊鷹は眩しげに瞳を細めた。百夜が、遊鷹を追い越して跳ねるように駆けていく。
「先生!」
「お、百夜。お前どこまで行ってたんだ? もうちょい早く帰ってこなきゃ駄目だろ」
「うん、気をつける。先生、あのね、」
おそらくそこで百夜は、妖の話をしようとしていた。満つも聞く姿勢を見せて、白夜に目線を合わせるように腰を落としかけ──けれど、その仕草は半端に止まった。
「──遊鷹……?」
満つの視線が遊鷹を捉え、つり目がちの双眸が静かに見開かれる。
「遊鷹、お前なんで……」
吐き出された声はわずかばかり動揺に震えていて、満つはそのまま、焦りを滲ませた表情で家の二階を見やった。燈史郎の、仕事部屋があろう場所。
──腹立つ仕草を、しないでほしい。満つにはいつだって、やさしく在りたいのに。
「……ここには、来んなって言ってるだろ」
「……チ」
思わず舌打ちが洩れる。満つの肩が小さく揺れて自己嫌悪に陥るが、すぐに切り替えができる程成熟していない。
満つと遊鷹のやりとりに何かを感じたのか、百夜は口を閉じて一歩後ろへと下がっていた。子どもに見せる場面ではないだろうと思いながらも、満つに逃げられるのは癪だ、何ヵ月ぶりに会えたと思っている?
謝罪の意味も込めて百夜を頭をぽんと撫でて、満つとの距離を詰めた。満つの方が背が高いから、自然と見上げるような形になる。
「百夜のこと送りにきたんだよ。つーかさ、なんで? なんであんたに会いに来ちゃいけねぇの? そもそもあんたが会いに来てくんねぇからじゃん。俺いつも我慢してんだぜ?」
「遊鷹、それは……」
責めるつもりは欠片もなかったはずが、面と向かって口を開けば日々の蓄積された寂しさから不貞腐れた子どものような色を滲ませてしまう。
「ねぇ、顔色悪いよ。ちゃんと寝てんの?」
「寝てるって……」
淡藤色の着物は相も変わらず満つに似合っているけれど、その目の下にはうっすらと隈が認められた。
目元を親指の腹で撫でれば、満つは猫のように瞳を細めた。長い睫毛が、白い肌に影を落とす。
「──あれ、遊鷹くん?」
「っ……!」
扉の開く音と同時に、掛けられたのは柔らかい声音。満つの肩がぴく、と跳ねて、慌てた様子で遊鷹の肩を押した。
「シ、ロ……、や、あの、別にこれは」
まるで浮気現場でも目撃されたように言い淀んでいるが、なぜこちらが間男のような扱いを受けなければいけないのか。納得がいかない。
「珍しいね。呼んでないのにうちまで来るのは。お茶でも飲んでいくかい?」
「……いらねぇよ」
「──ごめんね、満つさんのこと困らせたい訳じゃねぇから、もう帰る。また来んね」
「あ、ああ……、うん」
満つに久しぶりに触れたことで、ほんの少し溜飲は下がっていた。頷いてもくれたし、今日のところは大人しく帰ろうとその手を離す。
(次、いつ会えっかな)
できれば、この体温を忘れないうちにまた触れたい。
そも、満つと自由に会えないのは、話せないのは、触れ合えないのは──
「遊鷹くん。もう暗いから、気をつけて帰るんだよ」
すべて、燈史郎のせい。
だから遊鷹は、燈史郎は嫌いだ。
燈史郎は遊鷹の、殺意すらも含んだ射抜くような鋭い視線を軽く流して踵を返した。
「満つ、百夜。ほら、もう家に入るよ。ん? 百夜、何持ってるの?」
「えっとね、あ。」
促された百夜は燈史郎へと駆け寄り、待ってましたとばかりに手のひらを掲げたが、ふいに足を止めて振り返った。妖を握っていない左手をぱたぱたと振る。
「ゆたか! 今日はありがとう。またね」
「……おう。またな」
可愛らしい仕草につられて小さく笑った遊鷹は、ささくれ立った気持ちが凪いでいくのを感じる。名残惜し気に一度だけ満つの姿を見つめると、駆け足でその場を後にした。早く帰って店の手伝いをしなければ、母にどやされてしまう。
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