第一章 雫(しずく)の子と風羽根(かざはね)の噺 梅雨に混ざりて③


「おいしそうなにおいがする……!」


 鼻をひくつかせる百夜びゃくやの視線の先には、白と藍色を基調とした落ち着いた外観の店舗があった。

 あんこやみたらしがたっぷり塗られた種類豊富なだんごや羊羮、餅菓子や握り飯の類いが、所狭しと並べられているのがガラス戸の向こうに見える。

 垂れたよだれを、無言のまま燈史郎とうしろうが袖で拭ってくれた。


「ここ、なんのお店?」

「和菓子屋さんだよ。和菓子以外にもおにぎりとか軽食もあるから、このままお昼にしようね」


 頭上の看板には、大きく福籠庵ふくろうあんとある。燈史郎の後に続き、丸々としたふくろうの絵が描かれている花色ののれんをくぐって店内へと入れば、


「いらっしゃいませー! 店内で食ってきます? 持ち帰りもできますけど」


──年若い男の店員が、盆を片手に振り返った。まだ少年と云っても差し支えない彼はしかし、燈史郎の姿を認めた途端に浮かべていた笑顔を引っ込めて眉をひそめた。


「……なんだ、てめぇかよ」

「少し久しぶりだね、遊鷹ゆたかくん。相変わらず繁盛してるみたいで安心したよ」

「帰れ。てめぇに関係ねぇだろ」

「店内でふたりなんだけど、席空いてるかな?」

「話聞けよ!」


 愛想の完全に消えた店員──市恭しきょう遊鷹に冷たくあしらわれても、燈史郎の穏やかな態度が崩れることはない。

 何やら不穏な空気が流れているが、百夜は未だ遊鷹に認識されていないようなので会話に区切りがつくまでガラス棚に並ぶ和菓子たちを見つめていることにする。

(追い出されたら食べれないのかな……)

 胸中でそんな不安を抱く百夜をよそに、遊鷹は不意に、燈史郎の背後──店の外を気にするような素振りを見せた。他の客の迷惑になることを懸念しているのかと思ったが、おそらく違う。誰かを探すような素振りで視線が揺れていた。


「……つさんは?」

「来てないね。見ればわかると思うけど」


 遊鷹は、どうやら満つを探していたらしい。そわそわした様子で、しかし、いないとわかった途端に唇が不満げにひん曲がった。次いで、容赦のない舌打ちがもれる。


「本当に帰れよ。てめぇの顔なんざ見たくもねぇ」


 店舗の奥には飲食ができるよう座席が並んでおり、昼時の今、そのほとんどが埋まっていた。客で賑わう店内に不釣り合いな威嚇染みた遊鷹の声音はしかし、朗らかな女性の言葉に因って遮られる。


「遊くんー、駄目でしょお客さんにそんなこと言っちゃー」

「痛たたた! 待って待ってかぁちゃん待って!」


 遊鷹より背が低い分背伸びをしながら遊鷹のこめかみをぐりぐりと拳でえぐる女性は、眉を下げて燈史郎へと苦笑いを浮かべた。


「ごめんなさいねぇ、奉日本たかもとさん。この子ったら、最近満つさんにお会いできてないから寂しがっちゃって」

「いえ、雪乃ゆきのさんもお元気そうで何よりです」

「ふふ、ありがとう。──あら、今日は随分と可愛らしいお客様もご一緒なんですねぇ」

「あ?」


 雪乃の視線が、ガラス棚の前で佇む百夜に向けられた。遊鷹はそこでようやっと燈史郎以外の存在に気づいたらしい、きょとんとした表情で百夜を見つめた。

 そんな遊鷹を押し退けると、雪乃は両膝に手をついて百夜へと笑いかける。笑い方が、遊鷹と似ている。


「……こんにちは」

「あら可愛いー。こんにちは。奉日本さん、奥のお席空いてるから座って待ってて」

「ありがとうございます。ほら、百夜行こう」

「うん」


 燈史郎に手を引かれて店内を進む百夜は、そこかしこから漂うにおいに刺激され、腹を鳴らした。


        ***


 備え付けのお品書きを覗くが、百夜は名前を見てもどんな料理なのかの想像がつかない。なので、水を持ってきてくれた遊鷹への注文は燈史郎に任せた──天丼に親子丼、いなり寿司、あんみつ、みたらしだんごに桜餅──が、その内容量に遊鷹は嫌そうに頬をひきつらせた。


「……んな食えねぇだろ。残すつもりで頼むんじゃねぇよ」

「大丈夫。この子がほぼ食べるから」

「お前はそんなちっせぇガキに何の期待をしてんの? 残したら殺すかんな」

「はーい」

「腹立つ返事すんな」


 鼻息荒く踵を返す遊鷹の背中を見やりながら、燈史郎は小さく笑った。


「さっきの彼が遊鷹くん。悪い子じゃないんだけど、少し怒りやすくて」

「あの人、先生と知り合いなの?」

「うん。僕と満つの家族だよ。今はちょっと、理由があって雪乃さんご夫婦が預かってくれているんだ」

「ふぅん……?」


 注文を取ったり料理を運んだりと、忙しそうに店内を走り回る遊鷹の姿を見つめる燈史郎に頷き返しながら、百夜はお品書きの隅に描かれたふくろうの絵を指先でなぞった。

──大した時間を待つこともなく、料理は運ばれてきた。天丼と親子丼といなり寿司。特に指定はしていないが、甘味は食後に運んでくるつもりのようだ。気遣いが心地いい。

「いただきます」と声を揃えて食事を始める。なぜだか満つの味と似ている気がして、口に馴染んだ。

 百夜用にと箸の他に匙も用意してくれたおかげで、こぼすことなく食べられる。ふわふわの玉子と鶏肉、味の染みたご飯を匙で上手に掬って口に運べば、ふわと優しい風味が口内に広がった。


「おいしい……」

「うん、おいしいよね。のど詰まらせないでね? ゆっくりお食べ」

「ん、はい」


 どんぶりを抱えるようにして食べ進める百夜とは対照的に、燈史郎はいなり寿司をひとつと天丼の半分をゆっくりと食べ、ややあって箸を置いた。


「ごめん百夜、続き食べてもらっていい?」

「うん、食べる。この長いの何?」

「海老の天婦羅だよ」

「えび」

「たこの友だちだよ」


 時間が経っているから天婦羅の衣が少ししんなりとしているが、中の海老は大きくぷりぷりとした歯応えがあっておいしい。天婦羅は匙で掬えないから箸を握って、親子丼とはまた違った濃い味付けを楽しむ。体温が上がっているのか、百夜の白い頬に赤みが差していた。


「これもおいしい。百夜、ここ好きかもしれない」

「気に入ってもらえてよかったよ」


 卓の下でぱたぱたと足を振る百夜を穏やかな表情で見つめてから、燈史郎は誰かを探すように店内に目をやった。


「──おら、茶だろ」


 声を掛けるよりも先に燈史郎──この場合は客としてだろう──の視線に気づいた遊鷹は、湯呑みに茶のお代わりを注いだ。


「あぁ、ありがとう遊鷹くん。さすが気が利くねぇ」

「うるせぇよ。……お前、随分珍しいな。満つさん以外のやつとうちに来んの。つーか、散々女に言い寄られてる割には幼女趣味かよ。ダッサ」


 明らかな嘲笑だったが、燈史郎は肩を竦めて見せただけだ。聞いたことのない言葉に反応を示したのは百夜で、箸を止めて首を傾げる。


「……ようじょ? ようじょじゃなくて、百夜」

「え?……あー、ごめん。馬鹿にするつもりはなかった」


 虚をつかれたように言葉を詰まらせた遊鷹は、膝を折ってしゃがんだかと思えば眉を下げて謝罪の言葉を口にした。

 何を謝られているのかもよくわからない百夜はだから、近づいた遊鷹の顔を見つめた。大きな橙色の双眸にどこか既視感を感じてううんと考え込むこと数秒、

(あ。先生と、同じ色)

 その瞳は、まるで満つと同色だった。窓から入る陽光に遊鷹の虹彩が深く揺れる。珍しい色だから──町中で見かけたひとたちは黒か茶の瞳が多かった──満つだけのとっておきかと思っていたが、遊鷹も持っていたようだ。


「百夜っつーの? 俺は遊鷹。よろしくなー。で、お前さ。駄目だろ、こんなやつについて来ちゃ」


 百夜の頭を撫でながら遊鷹が指差したのは燈史郎で、思わず目をぱちくりさせてしまう。


「……? 駄目だった? 家からずっと一緒」

「え、なんで?……まさか、一緒に住んでんの?」


 驚く遊鷹をよそに、茶を啜っていた燈史郎は軽く肩を竦めて見せた。


「お客さんのお子さんでね、しばらくの間うちで預かることになったんだ。慣れないことも多いだろうから、仲良くしてあげて」

「百夜ね、今にんぎょ、おぉぅ?」

「ん? どした?」

「百夜、人形遊びは帰ったらね」


 突然口を塞がれ、百夜の語尾が半端に潰れた。首を傾げれば、顔を寄せた燈史郎に潜めた声で窘められる。


「人形の身体だってことは、外で言っちゃ駄目だよ。動いて話せる人形なんて、悪い人に見つかったら見世物小屋に売られちゃうからね」

「うん?」


 見世物小屋が何であるかわからずに曖昧な頷きを返した百夜だったが、確かに燈史郎から与えられた薄手の襟巻きとひらひらとした装飾のついた手袋は、首や指の節を隠すためのものだと言われていたことを思い出す。


「お前さぁ、羅卒呼ばれたくなかったらあんま百夜にべたべたすんなよ。よそ様の子どもだろ……?」


 百夜の手の甲を手袋越しに撫でる燈史郎を気持ち悪そうに見やっていた遊鷹だったが、不意に顔を上げた。そのまま黙って立ち上がると、入り口近くの卓へ足を向ける。


「──うるせぇ、出てけ」


 そして遊鷹はおもむろに、卓の側に立つ男二人を睨み上げた。店員からの突然の暴言を受けて、男たちが不愉快げに眉を寄せる。


「あ? なんだてめぇ」

「迷惑だから出てけっつってんだよ」


 卓に座る女性客が、怯えた表情で男たちを見上げている。女性客を庇うように間に割って入った遊鷹は、男たちへあごをしゃくって見せた。──出ていけと。


「……あれ何? ゆたか、どうしたの?」

「絡まれてるお客さんを助けてあげたんだね。遊鷹くんは優しいから。百夜、彼らみたいのが悪い人だから、近づいては駄目だよ」

「助けなくていいの?」

「うん? あぁ……、大丈夫だよ」


 その時、店内に怒号が響いた。


「調子乗ってンじゃねぇよ!」


 男が、遊鷹の胸ぐらを掴んだ。女性客が短い悲鳴を上げ、広くない店内に緊張が走る。

 男たちは、遊鷹に比べて背も高く体格もいい。勝ち目があるようには思えなかった。反射的に腰を上げかけた百夜を、燈史郎の腕が制した。


「大丈夫」

「でも……」


 繰り返した燈史郎は、のんびりと茶を啜った。百夜が燈史郎に意識をやったほんの一瞬──店内に、鈍い音が響く。次いで、男の苦しげな呻き声。


「え、」


 慌てて戻した視線の先では、遊鷹の胸ぐらを掴んでいたはずの男が、その足元に転がっていた。


「──彼、強いから」


 燈史郎は、頬杖をついて笑った。

 遊鷹は床に伏した男の腕を捻り上げながら連れの男を睥睨し、口元を歪めた。


「このまま俺に痛めつけられるか、さっさと出てくか選べよ。俺は加減はしねぇぞ」

「痛たたた……ッ! わかった! 出てく! 出てくから離せよ……!」

「とっとと失せろ。二度とくんな」


 男を解放し、その背中を蹴り飛ばす。ふらつく男たちが連れ立って店を後にするのを冷たい目線で見送り、遊鷹を褒めた雪乃が笑顔で店先に塩を撒いていた。


「百夜、甘味を食べたら帰ろうか。満つにお土産も買っていかないと」


 店内にも落ち着きが戻り、箸を握り直した百夜はその言葉に大きく頷いた。燈史郎が甘味の声かけをするのを見やりながら、天丼の残りを小さな口にかっこみ始めた。


        ***


 注文した品の大半を百夜が平らげたことで、遊鷹は百夜を気に入ったようだった。燈史郎が会計をする間、白夜の頭をぐりぐりと撫で回している。


「遊鷹くんの作ったお饅頭、いくつか包んでもらえるかな」


 それを聞いて、遊鷹は苦虫を噛み潰したかのような表情を見せた。


「……毎度のことながら焦げてんよ。やめた方がいいぜ。腹壊す」

「満つから、いつものって言われてるからねぇ。頼むよ」

「……なら、店に来りゃいいじゃん」


 気は利くが手先が器用でない遊鷹の作る饅頭は店に出せるものではなく、練習として作ったものを近所の子どもに配っているのが現状だ。満つに呆れられてしまう。

 伝えておくよと燈史郎が声を掛ければ、唇を尖らせたままの遊鷹は、それでも精一杯であろう丁寧な手つきで自身の焼いた饅頭を包んだ。


「百夜、気ぃつけて帰れよ」

「うん」

「遊鷹くん、また来るね」

「お前は来んな」


 店先でそんな応酬を交わした後、燈史郎と百夜は手を繋いで歩き出す。しかし、百夜の足取りはどこか重い。

(疲れちゃった……)

 初めての外出で、はしゃぎ過ぎたのだろうか。胸中で小さくため息を吐けば、──ふわりと身体が浮いた。


「びっくりした……何?」


 視線を上げれば、すぐそばに燈史郎の顔があった。腕の中に抱えられていることに気づいて、ぷらぷらと足を揺らす。


「動きづらい? 霊力切れちゃったかな? 外に出ると、思ったより代謝いいね。町中じゃキス出来ないから、抱っこで帰ろうね」

「だっこ?」

「あんまり時間はかからないけど、寝ててもいいよ」


 頬を撫でられて、百夜は燈史郎の襟を柔く握りながら、おとなしく瞳を閉じた。


        ◆◆◆


 まだどきではあったが、診療所の看板は既に下げられていた。鍵のかかっていない扉を開けて中に入り、燈史郎の腕から降ろしてもらう。室内は暗く、満つの姿は見えなかった。

 うとうととしていた百夜だったが、額や指先、足の甲やふくらはぎに燈史郎が唇を落としてくれることによって身体の怠さが薄らいでいく。

 最後に唇を舐められて、百夜はこくりと喉を鳴らした。


「これでよし、っと。」

「ありがとう」

「どういたしまして。満つ、ただいま。帰ったよー」

「ただいまー。先生どこ?」


 早く満つに今日の出来事を語りたい百夜は、帯から抜いたかざぐるまを右手に、風呂敷に包んだ饅頭を左手に室内を見回した。燈史郎が灯りを点けて、その眩しさに一瞬目がくらむ。


「──おかえり。ほら、帰ったらまずは手ぇ洗ってこい。あぁ、そうだ。シロ、お前宛に荷物届いたから部屋に置いてあんぞ」


 奥の自室から顔を出した満つは、首の後ろを掻きながら欠伸をひとつこぼした。どうやら、眠っていたらしい。


「あ! 羽細工はねざいく届いたんだ!? 今依頼入ってる人形、あれないと続きできなくて……!」

「手ぇ洗えって」


 瞳を輝かせた燈史郎は、そのまま足音も荒く二階へと上がっていった。その背中に満つが呆れたような視線をやるが、聞こえていないようだ。戻ってくる気配はない。

 ちらり、と目を向けられて、百夜は心得たとばかりに厨へと走った。



──百夜が手洗いを済ませている間に、満つは慣れた手つきで茶を煎れていた。濡れてはいけないと卓に避難させていたかざぐるまと饅頭を手に満つのもとにとんぼ返りした百夜は、満つの隣に座って初外出の感想をあれやこれやと口にしていた。


「先生、これね、これ回るやつ買ってもらった」

「かざぐるま? なんか懐かしいなこれ。よかったじゃん、大事にしろよ」

「うん。あとおまんじゅうね、先生にお土産です」

「おー、ありがとな。ふは、相変わらず形わりぃ」


 饅頭を受け取った満つは、包みを開いてから楽しそうに笑った。他の饅頭を知らない百夜から見ても、土産に持ち帰ったそれらは確かに形が悪く大きさもまばらで、福籠庵で売られていた商品に比べて見劣りする。

 けれども、その饅頭を頬張る満つの表情は、今までのどの食事の時よりも嬉しげに見えた。


「……」

「どうした? 一個食うか? ちょっと焦げてるけど、味はうまいぞ」

「店にね、来てほしいって」


 誰の言葉とは言わなかったが──(名前なんだっけ?)──満つにはすぐにわかったらしい。手を止めて、瞳を眇める。静かな声が、問うてきた。


「……伝えてくれって?」

「んん、ちっちゃかった」


 声は、小さかった。それを勝手に聞いたのは百夜だ。


「……そっか」


 部屋に落とされたの寂しげな響きの呟きに、戸惑った。狼狽えて満つの顔を見上げようとするが、わしゃりと髪ごと優しく撫でられて満つの表情は見れない。撫でる満つの手の動きに合わせて、百夜の頭は左右に小さく揺れていた。

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水蜜月下桃源鬼(すいみつげっかとうげんき)~人形師と恋慕(こいした)う可惜夜(あたらよ)~ 灯燈虎春(ひとぼしこはる) @hitobosi-thaw

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