第一章 雫(しずく)の子と風羽根(かざはね)の噺 梅雨に混ざりて②
「百夜、今日は外に遊びに行ってみようか」
「行く!」
瞳を輝かせた百夜が頷けば、燈史郎は手製の羽織りを百夜の肩に掛けた。
「
「お前頼んだモン買ってこねぇじゃん。普通に散歩してこいよ。天気いいし、公園の辺りなら桜も綺麗だろ」
一階で診療所を開いている満つは、何やらいくつかの薬を卓に広げ調合をしているようだった。今日はまだ、患者は訪ねてきていないらしい。といっても、お医者が満つひとりのこの小さな診療所には滅多に急患が来ることはない。近所の子どもやその母親を中心に、おじいちゃんおばあちゃんがよく茶を飲みに来るのがこの診療所の特徴だった。そのついでに、腰痛を診てもらったり薬をもらったり。「薬処方するより茶ァ煎れる回数の方が多いんだよ」と、なんとも平和な光景だ。
「──じゃあ、帰りに
(ゆたか?)
ろくに買い物も出来ないと扱き下ろされ唇を尖らせていた燈史郎だったが、早々に気を取り直して身支度を整えた。聞き慣れない名前に百夜は首を傾げたが、外に出られるうれしさにかまけてすぐに意識の外へ追いやってしまう。
対照的に、満つはふいと視線を逸らした。
「そ」
「満つも行くかい?」
「行かね」
「そうだよね。お土産は?」
「いつもの」
あっさりとした返答は満つらしくない気がしたが、燈史郎に気にする素振りはない。燈史郎は小さく肩を竦めてから百夜の手を取った。
「そろそろ行こうか。じゃあ、いってきます」
繰り返した方がいい言葉は、この数日でなんとなくわかってきた。
おはようとおやすみ。いただきますとごちそうさま。あと、
「! いってきます」
「おー。いってらっしゃい。気をつけろよ」
口にすると、そばにいる誰かが反応を返してくれるから、百夜は最近これらの言葉が好きでたまらない。
くふふと笑ってから満つに手を振って、百夜は初めて外へと足を踏み出した。
***
桃色の着物も、深紅の羽織りも、鼈甲色の簪も、百夜が身につけているのはすべて燈史郎があつらえたものだ。
燈史郎は人形師として、人形の纏う服飾品や髪飾りの類いの作成までひとりでこなしているらしい。客の理想とする人形像になるべく近づけるためには、しっかりと時間をかけて客の想いを聞いた燈史郎自身がひとつずつ形にしていくのが最も合理的らしかった。
燈史郎に着付けてもらった後に自室の鏡の前で思わずくるくると回っていれば、それを見た燈史郎に笑われた。両親に見てもらいたいとは思ったが、残念なことに記憶はひとつも戻っていないからまだ会えない。
「迷子になったら大変だから、手はつないだままだよ」
「うん」
言われるまでもなく、百夜から手を離すつもりは一切なかった。
ひとたび外に出れば、見知らぬ老若男女が幾人もいて、正直百夜は怯んでいた。自室の窓から見下ろしていた景色は眩しくて、この数日鼻歌交じりに眺めていたが、実際に飛び込んでみればあまりの人の多さと賑やかさに目が回ってしまう。
「とりあえず、公園に行こうか。桜が見頃だよ」
そう言って、燈史郎はゆっくりと歩き出した。百夜の身長は燈史郎の胸にも届かないくらいだから、歩幅も小さい。着物の裾に阻まれているせいもあり大きく足を踏み出せない百夜の歩調に燈史郎が合わせてくれていることには、まだ気づけない。
「さくら」
「薄紅色の花弁が部屋に飛んできてるだろう? あれが桜だよ」
「あの可愛いやつ? あれって食べれる?」
「無理だねぇ。桜餅ならまぁ……遊鷹くんのとこにあるかな?」
「ゆたかって誰?」
「んー……僕の弟分かなぁ」
「弟? 一緒に住まないの?」
「そうだねぇ。難しいねぇ」
「うん……?」
なんだかよくわからないが、難しいらしい。怖い人なのだろうか。曖昧に頷いていれば、不意に威勢のいい声がふたりの背中にかかった。声の大きさに、ぴくりと百夜の肩が跳ねる。
「お、
「こんにちは、ちょっと桜を見に公園まで」
「いいねぇ、ちょうど盛りだろうね。そうだ、今日はいいたけのこが入ってね、帰りに寄っておくれよ。満つくんも喜ぶだろ」
「わぁ、たけのこ! おっきいですね、今年はまだ食べてなかったなぁ」
どうやら食べ物の話をしているらしいと気づき、燈史郎の背中に隠れていた百夜はひょこと顔を覗かせた。
軒先には大根や人参、きゃべつなどのよく食卓に並ぶ食材の他に、百夜が見慣れない野菜も所狭しと並んでいた。
(たけのこ……は、まだ食べたことない)
最近、満つが厨に立っているのを隣で見学するのが日課となりつつあるので、ある程度基本的な野菜の形状は覚えている。
どれがたけのこだろうと視線をさ迷わせていれば、恰幅のいい八百屋の店主と目が合った。
「ん……? 奉日本さん、随分可愛いお嬢ちゃんを連れてるねぇ。妹さん……は確かいなかったよな? こんにちは」
「ぁ、う……」
膝に両手をついて目線を合わせてくれる店主に、けれど百夜は後退って燈史郎の背の後ろへと戻った。燈史郎と満つ以外の誰かに声を掛けられたのは初めてで、戸惑いに喉が詰まる。
「百夜。ご挨拶は?」
「……こ、んにちは」
肩を優しく叩かれ、恐る恐る顔を覗かせる。促されるままに小さく頭を下げれば、燈史郎がよく出来ましたというように百夜の頭をくしゃと撫でた。
「いい子。──僕のお客さんのお嬢さんなんですけど、訳あって預かっていて。外に不慣れな子なので、見かけたら声掛けてあげてもらえますか?」
「おー、そうなのかい? いつでも店は開けてるし、任せておくれよ」
「ありがとうございます」
困った時はお互い様だよと笑う店主に帰りに立ち寄る約束をして、ふたりはその場を後にした。
歩き出してから何とはなしにふと振り返れば、遅れて視線に気づいたらしい店主がこちらへと手を振ってくれるから、百夜も同じように手を振り返した。
(なんなんだろう、この行動)
意味はわからないまま、着物の上から胸元をぎゅうと押さえる。
笑いかけてくれたり、穏やかな視線を向けられると、胸の当たりが暖かくなる。これは一体、なんなんだろう。
◆◆◆
家を出てから二十分程で、件の公園に着いた。公園までの道中、燈史郎はよく話しかけられては足を止めて会話を楽しんでいたから、本来ならば十分もかからないかもしれない。
「わっ……!」
角を曲がり、敷地に一歩足を踏み入れた瞬間──百夜は知らず、感嘆の声をあげていた。
公園といっても明確な敷地の区切りがある訳ではないらしく、看板や柵は見当たらない。広く取られた道の左右には立派な桜の木が何本も並び、見事な桜並木を作っていた。八百屋の店主が言っていたように今が盛りのようで、どの木も満開だ。薄紅色が、雲ひとつない青空に映えている。
「百夜、山には勝手に入っちゃ駄目だからね」
風に舞い踊る桜吹雪に向かい片手を伸ばしていた百夜に、燈史郎は前方を指差した。見れば、公園の向こうには居住区はないようで、小高い山々が連なっている。
「慣れてきたらひとりで散歩してもいいけど、僕と行ったとこだけだからね。知らない場所に行っては駄目だよ?」
「わかった」
素直に頷けば、燈史郎は満足したように笑って百夜の頭を優しく撫でた。通りには花見を楽しむ人が多く、はぐれないように繋いだままの手を握り直して少し歩くと、いくつかの屋台が出ていて百夜の目を引いた。
「……あれ、何?」
百夜の視線の先では、格子状の竹組みに色とりどりの──玩具、が飾られている。細い棒の先は花のような形になっていて、それらは風が吹く度にくるくると回った。
「かざぐるまだよ。子ども用の玩具だけど、こうしてまとまって見ると綺麗だね。風が吹いてなくても、手に持って走れば回るし──欲しいの?」
「……」
話を聞いているのかいないのか、回るかざぐるまから目を離さない百夜を見て、燈史郎は繋いでいた手を離して自身の袂を探った。財布から出した硬貨一枚を屋台の店主へと手渡す。
「すみません、ひとついただけますか?」
「ありがとうございます! お好きなお色を選んでくださいね」
女性店主の言葉の後半は百夜に向けられたもので、百夜はほんの少し迷ってから淡い黄色の羽根を持つかざぐるまをひとつ、指差した。
「その色でいいの?」
「うん。燈史郎の髪と似た色してて綺麗だから、これがいい」
「……そう? ありがとう」
店主が取ってくれたかざぐるまを受け取って、「ありがとうございます」と百夜は小さく頭を下げた。
再度手を繋いで桜並木を散策する。空いた手にはかざぐるまが握られていて、やわい風が吹く度にからからと回った。
百夜の、外界に対する緊張感はだいぶ和らいだようで、控えめだが笑顔が増えてきていた。楽しそうにきょろきょろと辺りを見回している。
山の上流から流れてきていると云う小川に渡された朱塗りの橋は小ぶりで、下駄の音がせせらぎに重なって耳に心地いい。欄干に手をかけて無意味に水面を覗き込んでいればその途中、百夜の腹が鳴ったことに気づいた燈史郎が屋台で汁物と茶色の丸い物体を購入してくれた。
「味噌煮込みと、たこ焼き……?」
桜の根元、芝の上に座り込んで燈史郎の手元を覗けば、煮込みには大根などの野菜と一口大の肉がごろごろと入っていて、味噌の風味が鼻腔をくすぐる。
「お味噌汁?」
「あー……ちょっとだけ違うけど説明が難しいな……まぁ、うん、満つの味噌汁の仲間ってことで」
「先生のお味噌汁好き」
家事全般を担当しているのは満つだから、百夜が口にする味つけの基準は満つの料理だ。
「こっち、なんで丸いの?」
「中に焼いたたこが入ってるから」
「たこ……?」
「足がいっぱいある赤い生き物だよ。海に住んでる」
「……
「違うよ、たこはたこ。おいしいから食べてごらん」
勧められ、とりあえず得体の知れないたこ焼きよりはと煮込みに手を伸ばせば、寸前で降ってきたのは燈史郎の唇だった。
「──のどに詰まっても困るからね」
「ん」
口吸いにも慣れたものだ、この行為のおかげでごはんがおいしく食べられるのだからあまり文句を言うものじゃない。寝起きの、身体全体へのそれは未だに苦手だけれど。
──煮込みは、確かに満つの味噌汁とは味が違ったが具材に味噌の味がしっかりと染みていて、身体を内側から温めてくれるようだった。次いで、おそるおそるといった体でつまようじで刺した小ぶりのたこ焼きを口にした百夜は──
「はぅ……熱、うま……」
「気にいった? 僕にもちょうだい」
口元を押さえてはふはふと頬を緩ませる百夜は、もうひとつ追加で食べてから燈史郎の口元にもたこ焼きを運んでやった。
「おいしい?」
「おいしい」
そのまま木陰の下でのんびりと飲食を楽しむ。食べ終えてから少し経った頃、百夜の口元についた青のりを親指の腹で拭い、その指を舐めてから燈史郎は立ち上がった。
「そろそろ行こうか」
「……百夜、もう少し食べたい」
「ちゃんとしたお昼は遊鷹くんのとこで食べよう。甘いものもあるよ」
未練がましく立ち上がることをごねていた百夜だったが、その言葉を聞くと瞳を輝かせてすぐに燈史郎の手を取った。
帯に差していたかざぐるまを握ることも忘れない。
「桜餅?」
「記憶力いいねぇ」
頭上を舞う桜の花びらを浴びながら、ふたりは来た道をゆっくりと戻っていった。
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