第一章 雫(しずく)の子と風羽根(かざはね)の噺 梅雨に混ざりて①

ふ──と、意識が上昇したことを感じるが、瞼は開かなかった。身動ごうとするが、寝返りはおろか指一本動かないことをすぐに悟る。

(声も、出ない)

 縛られていたりとかの、拘束されている感覚はない。それよりも何か、入れ物にでも閉じ込められているかのような錯覚を少女が覚えていれば──


「……!」


 突然、乾いた温度が瞼へと降ってくる。

 びくりと震えたのは感覚だけの問題で、やはり身体はびくともしない。自分の身体が自分のものではないような、もやついた不快感がじわりと拡がる──と、

(……あれ、目ぇ開く)

 糊でも塗られているのかと疑いたくなるくらい微動だにしなかった瞼が不意に、するりと開いた。

 眩しさに数度瞬きを繰り返してから開けた視界の先にいたのは──

(誰だっけ……)

 柔らかい日差しの中、緩く曲線を描く蜂蜜色の髪が透けて煌めいている。自身の顔を覗き込む男の双眸は薄茶色で、じっとこちらを見下ろしていた。

 その色合いには覚えがあった。

 夜闇に浮かぶ、桃のようなまんまるの月。つがいのがらすに、ヤドリギを背負う白い退魔師たいまし。きらびやかな鉄扇と、それを嘲笑うように張られた銀糸、が燃えて。


──奉日本燈史郎たかもととうしろう


 そうだ、確か、そう呼ばれていた。退魔師を返り討ちにしていた、あやかし

 けれども、妖の名前がわかったところで少女の疑問は尽きない。この男は何者だ、ここはどこだ、自分は──誰だ?

 少女が表情を強張らせていれば、視界の端で男の口元が動いたのがわかる。だが、声は聞こえない。


「……?」


 少女の訝る様子に首を傾げた男だったが、何かに気づいたようで、すぐに少女の身体を優しく抱き抱えた。

 何をされるのかと警戒したところで、動けない少女にはどうしようもない。

 少女の頬にかかる髪を耳にかけてから、男は露になった耳朶に唇を寄せた。もう片方の耳も食まれ、少女は内心ガタガタと震える。

 そして気がつく──音が、聞こえるようになった、と。

 鳥の囀ずり、風に揺れる葉のざわめき、行き交う人の足音と車輪の音、話し声。それまでの無音が嘘のように、両耳が世界の鼓動を拾っていた。目眩がして思わず目を閉じれば、次いで、唇に暖かい何かが触れる。


「……ん」


 目を開けて、すぐに後悔した。

すぐ眼前に、瞳を閉じた男のかんばせがあった。少女の唇をふさいでいるのは男のそれだ。生温い体温が、気持ち悪い。

(そういえば、昨日もされたっけ……)

 やばい性質の妖に捕まってしまったものだと、少女は思案げに眉を寄せた。動けない身体で、どうしたものか。


「──これで聞こえてるかな? 話せる?」


 問われるが、見ず知らずの妖に応える気にはなれなかった。聞こえてはいる、声が出るかは知らない、身体さえ動けば──いくらでも、逃げ出せる。


「あれ、ご機嫌ななめかな? ごめんね、すぐ動けるようになるからね」

「……」


 その言葉に、少女はついと瞳を眇めた。

 どういった理屈かは知らないが、男に唇で触れられた箇所から身体が機能するようであった。

 思えば、昨夜だってそうだったではないか。ならば、全身が動くようになってからが、勝負。

 そう考え、少女は身体を男の好きにさせることに決めたのだが──すぐに、いつまで我慢できるだろうかとの不安が過る。

(拷問じゃん、これ……)


「ひ、うぅ……」


 鼻の先、はだけさせられた肩や首、袂を捲り上げられて露になった二の腕や手の甲、指の一本一本、服の上から胸元や腹、太もも、膝、ふくらはぎ、足の甲に足裏、足の指──あますことなく口づけられ、身体が萎縮する。男の何が作用しているのか、唇が触れた場所から徐々に熱が生まれて、じくじくと皮膚の内側を刺激していた。妖特有の術を使われていたらと後悔するが、他に手立てもないのだ、仕方がない。


「──起きれる? 体調はどうだい?」


 男は、ややあってその身体を少女から離した。小首を傾けて、寝台に横たわる少女の顔を覗き込んでいる。


「……」


 返事をすることもなく、少女は切れた呼吸を整えてから、少女は自身の身体を見下ろした。

──なんだろう、この身体は。

 少女は静かに目を瞠る。

 白地の寝巻きには赤い花柄の模様が施されていて、そこから布団の上に投げ出された手足は細く、そして白かった。

 よくよく見れば

(人形……の、からだ?)

 少女は、自身が何であるのかの自覚がない。人なのか、妖なのかもわからない。けれどまさか、まさかの、人形……?

 指を一本一本動かして、ゆっくりと握り込む。

(──うん、動く)

 人形のようなこの身体。記憶のない自身。ここを飛び出ても行く当てなんぞないが、考えるのは後でもできる。

 ひとつ頷いた少女は、だから──間髪入れずに、男の眼球を狙って腕を伸ばした。昨夜、頭蓋に当てようとした蹴りをいなされたことはまだ記憶に新しい。一撃で相手の戦意を喪失させようとして、


「……っ」

「っ、と。うん、体調はいいみたいだね」


 しかし、立てた指先が眼球に届く寸前、男に手首を掴まれてそのまま強く引かれた。抗えずに、布団に引き倒される。


「……避けないでよ」

「参ったな、そんなに警戒しないでほしいんだけど」


 布団に身体を押しつけられたままで男を睨めば、男が困ったように眉を下げた。


「話しを聞いてもらえるかな?」

「嫌だ、離して」

「うーん、困ったなぁ……」


 ほー……ほけ、ほけっょ、とまだ鳴き方の下手くそな鳥の声が、沈黙のおりた室内に虚しく響く。少女は次の攻撃の手を考え、男はそれを見越しているのだろう、力を弱める素振りはない。

 そんな中──不意に、襖が開かれた。


「──なんだよ、取り込み中か? 見た目の犯罪臭やべぇぞお前」

つ、──痛ッ!」


 満つ、と呼ばれた痩躯の人物に男の意識が移った一瞬の隙をついて、少女は蹴り上げた踵で男のあごを強か打った。


「あはは、すっげ、強~! 見事に嫌われたな!」

「誰のせいかな……?」

「稼働にかこつけて身体触るからだろー? 俺のせいみたく言うなよ」

「満つこそ人を犯罪者みたいに言わないでくれるかい?」


 開かない窓から逃げようと悪戦苦闘していた少女は、背後に寄った人影に肩を跳ねさせた。


「窓、鍵掛かってるから開かねぇだろ? ほら、金平糖やるからちょっと話しようぜ」


 噛みついてやろうと開けた口に、ぽいと何かを放り込まれる。反射的に噛み砕けば甘い風味がころりと広がって、少女はぱちりと瞬いた。


「ほら、好きなだけ食っていいぞ」


 甘い──金平糖の入った包みを揺らされて、視線が自然とそれを追う。目線を合わせるようにしゃがんだ満つに頭を撫でられて、少女はようやっと、身体から力を抜いてその場に座った。


        ***


 窓の鍵は燈史郎が持っていたらしい。解錠され開け放たれた窓からは爽やかな春風が吹き込んできて、少女の黒髪を揺らす。


百夜びゃくやは、何が怖いの?」


 その問いの答えを考えるより先に、少女は首を傾げた。


「びゃくや……?」

「きみの名前だよ。百の夜と書いて、百夜。いい名前だろう?」


 なぜ、少女自身も知らない名前をこの男──燈史郎が知っているのだろう。燈史郎と満つ、このふたりは一体百夜のなんなのだろうと、身に覚えのない百夜はぱちりと瞳を瞬かせた。


「教えてくれないかな? 何が怖いの?」

「……あなたが怖い」


 こればかりは仕方がない。昨夜の、退魔師への対応があまりに容赦が無さすぎた。


「ほらみろ」

「ちょっと、満つは黙ってて」


 腹を抱えてけらけらと笑う満つを、唇を尖らせて半眼で睨んだ燈史郎は、静かに百夜の言葉を待っていた。

(怖い、もの)

 燈史郎に向けられていた警戒心のすべては、百夜の恐怖心から来るものだと、燈史郎は見抜いている。

──世界は、怖い。

 男も、妖も、退魔師も、夜も、血も、目覚めることも。

 百夜は、突如ふるりと身体を震わせた。

 記憶はないのに、一体何を怯えているのだろうと不思議でならない。胸元をきつく握って、深呼吸を繰り返す。

 何にせよ、百夜はたくさんのものが、怖かった。

 けれど、その漠然とした「すべて」を説明できる程の言葉の持ち合わせが、百夜にはない。


「……」


 口を開けては何も言えずに閉じることを繰り返す百夜に、燈史郎は優しく笑いかけた。


「うまく言えないのなら、かまわないよ。世界には、怖いものがたくさんあるからね。僕は薬と夜闇が嫌いだけれど──外には、綺麗なものも美味しいものも多いよ。案外、生きるのは楽しい」

「……たのしい」


 燈史郎の言葉を繰り返す。

 たのしい、楽しい、楽しい。それは、目に見えるものなのだろうか。

 ややあって、百夜はおそるおそると云った体で周囲を見回した。

 八畳程の和室には大きな窓があって、朝日が室内を照らしていた。開けられている窓の向こうに広がる青空の眩しさに、思わず目を細めてしまう。

 寝台に、文机と衣裳棚。半端に開けられた襖の奥には廊下が見えるが、暗くて向こう側がどうなっているのかまではわからない。

 もう一度、窓の外を見た。下手くそな鳥の鳴き声が、まるで誘うように百夜の耳に届く。

(どんな姿の、鳥なんだろう)

 そそられるように、そっと外を望めば──


「ぅ、わぁ……」


 明るい世界が、そこにはあった。

 ばさりと、数羽の鳥が百夜の眼前を飛び去っていく。驚いて目をつむってから、すぐに窓から身を乗り出してその姿を追うが、高い青空を背にした鳥たちの影はすでに小さくなっている。緑濃い小高い山々は、陽光を浴びて煌めいていた。

 視線を戻す。この部屋はどうやら二階にあるらしく、眼下には賑やかな町並みが広がっていた。

 いくつもの家屋が連なるように建っており、商い屋もあるようだった。広く取られた道を挟んだ向こう側も同様の造りで、どうやら格子状に整地された町並みらしい。

 まだ日も高いうちから、歩く人々からは活気が感じられた。大きな荷物を手にした商人が急ぎ足で道を駆け、早起きの子どもたちがじゃれ合いながら寺子屋へ向かい、身なりを整えた旅人がお宿を後にする。

 爽やかな風が一陣強く吹き、舞う薄紅色の花弁のひとつが百夜の鼻先をくすぐっていく。


──とくん、と小さく動いたのは、人形であるこの身体には存外しないはずの、心音。


 高くなった体温に、百夜は乗り出していた身を引いて座り込んだ。息を吐いて、胸元をぎゅうと握って、なんだかふわふわする気持ちを抑えようとする。

 そんな百夜の前に片膝をついた燈史郎は、興奮に微かに震える百夜の両手を取って柔く微笑んだ。


「──改めて、僕は奉日本燈史郎。人形師だよ。そして、きみはある依頼人の娘さん。その魂。訳あって身体はもうないけれど、きみの人形の身体が人に成れるよう、色々な妖に話を聞いているところなんだ。不安はあるだろうけど、きみは自分の記憶を取り戻せるように努めて」


──人に、成れるように。

 思わず、握られた節だらけの手を見下ろしてしまう。

 この人形の身体が人に成るなんて、そんなことが可能なのだろうか。俄には信じられないけれど、この身体には確かな熱が宿っている。動きだって滑らかで、操り糸なんてないのに。


「……妖じゃあ、ないの?」

「え? 僕? 見ての通り、人だよ?」


 なんでそんな勘違いしたの? そう問われ、退魔師に追われる人など聞いたことがないと伝えれば、なんとも言えない曖昧な笑みが降ってきた。頬を掻きつつ、遠い目をする。


「んー……うん、まぁ、それは今度説明するね。とにかく! 僕は人だから。で、こっちは満つ。一階でお医者をやってるんだ」

「お医者」

「医者ってわかるか? 怪我とか病気とかを看るのが仕事」

「うん……? 満つは、女の人?」


 柔和な優男、と云った風体の燈史郎とは違い、満つは中性的な顔立ちによく似合う銀髪混じりの長い髪を緩く結っていた。身長は燈史郎よりやや高いようだが細身の体躯で、性別の判断に迷ってしまう。


「残念、男でーす。ちなみに、俺は妖な」

「……なんの、妖?」

「ないしょ。ま、そのうちわかるだろ」


 妖は、嫌いだ。他者を騙し、傷つけ、肉と魂を食らうから。だけども、満つからは甘い匂いがするから、嫌いにならないかもしれない。

 からりと笑って出自をいとも簡単に明かした満つは、ふと壁に掛けられた時計を見やった。


「お前、なんか好き嫌いあるか? 腹減ったろ」

「はい、僕は鮭むすびが食べたいな」

「お前には聞いてねぇよ」


 手を上げた燈史郎にすげない反応を返して、満つは百夜の応えを待った。必死に考えるまでもなく、百夜の口をついて出たのは百夜が一等好きな果物だった。


「……桃」

「ん?」

「桃が、食べたい」

「桃って、今時期じゃねぇよな……? 八百屋で見かけねぇし。他は? なんかねぇ?」

「わかんない」


 桃には時期があるらしい。昨夜に続き桃を食すことが叶わないと知り、百夜は肩を落とした。だが、満つを困らせても仕方がない。


「ん、そっか。じゃあ飯は適当に作るから、食いたいもんあったら言えな。桃は、出回り始めたら買ってきてやるよ」


 百夜の頭をぽんと撫でて、満つは部屋を出ていった。階下に降りていく規則的な足音を聞きながら、百夜は微笑んでいる燈史郎に声を掛けた。


「──ねぇ」

「なんだい?」

「百夜は、誰かに生きていてほしいと願われてるの?」


 そんな訳はないだろう、と思ってしまう。もしそうならば、百夜の中に巣くうこの不安はなんなのだろう。

 けれど、燈史郎はただ、優しく笑う。


「そうだよ。きみの親御さんは、それを願っている。早く記憶を取り戻して、そうして、親御さんに会いに行こうね」

「……うん」


 穏やかな声音を受けて、ならば、怯える必要はないのだろうか。素直にそう思った。昨日は少し怖かったが、今日は目覚めてから何も怖いことは起きていない──燈史郎の、全身に触れてくる行動の真意はわからないが、後で聞いてみようと思う。

 早く、楽しい記憶を取り戻せたらいい。愛されているなんて、まだ信じられないから。

 百夜はそんな願いを内心で呟いて、口内に含んだ金平糖をひとつ、舌の上で転がした。


        ◆◆◆


 こんな店がある、こんな場所がある、など町についての情報を燈史郎から教わりながら窓から臨める景色を楽しんでいれば、しばらくして階下から満つの声がした。


「おーい、飯できたから降りてこーい」

「はーい。ほら、百夜も返事して」

「……はーい」


 一階は診療所と満つの自室、そして厨。二階には百夜と燈史郎の部屋がある。燈史郎の部屋は広く取られていて、人形制作の作業場にもなっているらしい。後で見せてもらう約束をした。

 人形が一体何を食べられるのだろうと疑問に思いながらも、促されるままに一階に降りて卓につく。

 口にできても白湯くらいだろうと何の期待もしていなかったが、卓の上に並べられた三人分の握り飯と玉子焼き、豆腐と油揚げの味噌汁と茄子のお新香。お新香以外はほかほかと温かくて、目の前にした途端に腹が鳴った。

(……人形のくせに、変なの)

 じぃ……と自身の腹を見下ろせば、燈史郎が小さく笑った。


「あ、今人形のくせに、って思ったでしょ」

「なんで、お腹鳴るの?」

「最初に言っておくけど、胃袋とかの臓器はないよ。僕の霊力を分けて百夜は動けるようになっているんだけど、身体の中にもね、霊力を流し込んでいるから人間的な生理現象は機能してるんだ」

「ふぅん……?」


 燈史郎の説明は、百夜にとってはわかるようなわからないような、いまいち頷き切れないものだった。曖昧に首を傾げていれば、満つが補うように助け船を出してくれる。


「腹も減るし汗もかくし用も足したくなるってことだよ。あんま難しく考えんな。それよりお前、毎朝シロに身体中口吸いされなきゃ動けないってことだからな。可哀想だけど、諦めろよ」

「……!?」


 ぴしゃりと、雷に打たれたように百夜が固まる。満つが、その肩を慰めるように軽く叩いた。


「ちょっと満つ、可哀想って何? 百夜もなんでそんな衝撃受けてるのかな?」

「……我慢、する……」

「だから待ってよ。百夜、何そのか細い声?」

「偉いな。後でなんか甘いモン買ってやるよ。とりあえず朝めし食おうぜ」

「うん……」

「無視しないでもらえるかな!?」


 燈史郎の不満げな声を背景に、百夜は朱色の箸を手に取った。そのままの勢いで玉子焼きを刺そうとする百夜の額を、満つがぴんと指で軽く弾いた。


「いたいッ」

「食う前にはいただきますなー」

「?……いただきます? こう?」

「そうそ。ほら、もう食っていいぞ。シロもいい加減食えよ。冷めンぞ」


 見よう見まねで両手を合わせればお許しがもらえたので、黄色い黄色い玉子焼きを上手く握れない箸で一口の大きさに切って口に運ぶ。甘い味がして、百夜は口許を緩ませた。

 掴みやすい俵型の握り飯の中身はほぐされた鮭で、百夜は初めて食べたおむすびにすぐに夢中になる。三角形のも、今度作ってくれるらしい。

 なんだかんだと燈史郎の希望の献立にしている辺り、満つも口で言う程燈史郎のことを邪険にしている訳ではないのだろう。

(このふたりって、なんで一緒にいるんだろう)

 年はさほど離れていないように見えるが、満つは妖だ。妖は、人よりも随分と長命で外見もそうそう老いてはいかないから、見た目で年齢を判断することはまず不可能である。

(人と妖でも、こんなに仲良くなれるんだ)

 どうやって仲良くなったのかを、聞いてみようかな、なんて考えて──結局は食事を優先してしまう。自覚はなかったが、思っていたより腹が空いていたらしい。箸と咀嚼が止まらない。

 大した時間もかけず、百夜の食器は空となった。満足げに腹をさする白夜の様子を見て、満つは笑った。


「食べ終わったらごちそうさまな」

「……また、手はこうするの? ごちそうさまな?」

「百夜、なはいらないよ。ごちそうさまでした」

「……ごちそうさま、でした」

「お粗末さまでした。身体小っちぇのによく食ったな」

「ん……」


 緑茶の入った湯飲みを握りしめながら、百夜の頭が前後に小さく揺れ始める。薄目しか開いていない表情を見て、燈史郎が苦笑いながら百夜を促した。


「眠いのなら寝てきていいよ。まだ、身体にも慣れないだろう?」

「ん……」

「部屋わかる?」

「わかる……」


 これが眠気かと思いながらも燈史郎の言葉にこくりと頷いた百夜は、ゆっくりとした足取りで階段を登った。二階の一番奥が百夜の部屋で、襖を開けてそっと中に入る。開けっ放しにしていた窓から入ってきたのか、寝台の上には数枚の花弁が落ちていて、愛らしい薄紅染めの模様を描いていた。


「……ふふ」


 布団に飛び込めば、日差しを浴びて今朝よりもふかふかと心地いい。小さく笑い声をもらしてから、百夜はゆっくりと目を閉じた。


        ***


「……満つ」


 百夜の足音が完全に聞こえなくなって、しばらく経った頃。

 診療所を開ける前にさっさと家事を済ませてしまおうと、流しに向かい食器を洗っていた満つの名を、燈史郎が呼んだ。


「んー?」

「──僕は、そんなに妖に見えるのかな?」

「見えねぇよ。お前は人の子だ。安心しろ」


 わざと、軽い声音で応えた。百夜に言われた一言で、気分が落ちているのだろうことは顔を見なくてもすぐに知れた。付き合いの長さは伊達じゃない。

 口数がそこまで多くない割に、うまい具合に地雷を踏み抜いてくれるものだと、人形少女に対して内心ため息をついてしまう。


「俺は妖、シロは人。お前が一番わかってんだろ?」

「……満つ、こっち見て」

「ぉわ、」


 皿の水を切りながら肩をすくめて見せれば、いつにない乱暴な仕草で肩を引かれた。


「あぶねぇだろ」


 振り返れば、ほんの少しだけ下げた視線の先で茶色の双眸が不安定に揺れていた。このまま泣いてくれればいっそ気が楽なのに、瞳に浮かぶのは猜疑の色だ。


「……ばーか、嘘なんかついてねぇよ」


 しばらく満つの顔を覗き込んでいた燈史郎は、ややあって小さく頷いた。そのまま肩口に顔を埋め、くぐもった声で言う。


「うん……満つ、信じてるからね」

「はいはい」


 図体ばかりが随分大きくなったものだと、燈史郎の広い背中を撫でながら、満つは僅かばかり瞳を眇めた。

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