水蜜月下桃源鬼(すいみつげっかとうげんき)

灯燈虎春(ひとぼしこはる)

序章

 皮の剥けた桃は、綺麗なまん丸の形だった。

 あぁ、でも。実はまだ白くて固そうだ。本当はもっと熟してからが好みなのだけど──喉を渇きに抗えず、少女は小さな口を開ける。

「ん? どうかしたかい?」

 途端、風を切る音の中で柔らかい声音が不思議そうに耳朶じだを打った。少女の長い髪が風に煽られて、桃の咀嚼そしゃくのために開けていた口に入る。ぺっぺと髪を吐き出しながら自身を抱えて走る男を見上げるが──

「虫が入るから、口は閉じておいた方がいいと思うけど」

──顔がよく、見えない。ぼんやりとした輪郭だけが夜闇に浮かんでいて、けれどその口元が笑みを刷いていることは気配でわかった。

 少女の眼球が揺れたことに気がついたのか、男は不意に顔を寄せてきた。伽羅きゃらの香りが強くなる。反射的に身動ぐものの、抱き抱えられている以上限度があって、ぎゅうと目を閉じればまぶたの上に暖かい何かが触れた。右と、左。

「──これでどうかな? 見えるかい?」

 促すような言葉につられて、訝りながらもそっと瞳を開ければ──、

 夜の帳の下りる空には、砂粒のような星が幾つも散っていた。ぽかりと浮かぶ満月が柔らかく照らすのは、淡い蜂蜜色の髪を持つ美丈夫がひとり。垂れた目尻は優しげに細められていて、少女を見下ろしている。

(……誰だろう、この人)

 顔立ちがはっきりとしたところで、やはりそれは知らない男だった。

 男は、木々を足場にして軽やかに駆けていた。言葉を発する間もその足が止まることはなく、腕の中の少女に振動が伝わることもない。恐るべし脚力と体幹である。

 風を読んでいるのか、時折吹く強風に身を任せるようにして強く足を踏み込んでは空を舞うように高く飛ぶ。風を受けて、男の深碧しんぺきの衣と少女の臙脂えんじの袂がまるで対の蝶々のように戯れていた。

(そうだ、桃)

 少女はその高さにもさして動揺した様子も見せずに──視界はすっきりとしたが思考は未だどこかぼんやりとしているせいだ──ゆっくりと周囲を見回した。しかし、すぐにがくりと肩を落とす。

「月……」

 明瞭な視界で見れば、なんてことはない。桃だと思っていたものは頭上の真白ましろい満月だった。

 食べられないとわかれば余計に喉の渇きと空腹を覚えてしまう。少女が洩らしたため息を感嘆のそれと勘違いしたのだろう、

「うん? ……あぁ、今日は満月だから、随分と明るいね。もう少し近づいてみようか」

 言うが早いが、男は空中で膝を曲げ下肢に力を込めた。一気に飛翔の角度を上げる。

「ぅ、わ」

「大丈夫、落としたりしないから」

 思わず男の合わせを両手で掴めば、男は少女を安心させるように小さく笑った。気づけば満月は顔のすぐ真横で静謐な光を湛えていて、空を飲み込まんとする程の大きさの光源であるから、眩しさに視界がちかちかと瞬いた。

 風は緩くなり、既に足場と成り得る枝葉は遥か下方だ。何を足がかりとしたのか、一瞬真っ直ぐに光った何かを少女は認めたが、それが何であるかまではわからない。

「……」

 眼下に臨むは一面の黒き森。

 男は空中を自在に駆けながら、どこかへと向かっているようだった。いや、──逃げているのか?

「おや」

 男は不意に、動きを止めた。男の視線を辿って見れば、風の幕の裏側に隠れていた金銀の烏が二羽、怯えたようにふわふわとした羽根を縮ませて身を寄せ合っている。

「ふふ、君たちは風に隠れるには少しばかり色味が綺麗すぎるね」

 そう笑って、男は伸ばした片手で烏の頭を優しく撫でた。震えていた二羽は恐る恐ると云った態でくりっとした白目を開くと、ややあって男の手のひらの温度を享受するようにその身を揺らす。目を細めているから、心地よいのだろう。

──確か、がらすと云ったか。夜空を飛翔しながら自身の体毛と同色の鱗粉を巻き、夜半のほんの一刻、木々を彩る小さなつがいのあやかし

「ほら、早く向こうへお行き。こわーいお兄さん達が来てしまうからね」

 促すように指先で羽根を撫でられても、錆び烏は風の幕から出てこようとしない。そこでようやく、少女は首を傾げた。

 夜半は錆び烏の活動時間であり、風の幕に隠れているのは苦手としている太陽が出ている間だけのはず。

(何に、こんなに怯えて──)

 すると不意に、視線だけを僅かに後方へと向けた男はくすりと笑った。

「──思ったよりは、優秀なようで」

 少女は反射的に男の視線を追って、小さく目を瞠った。

 軽やかに夜空を駆け、こちらへと向かっているのは──

退魔師たいまし……?」

 夜闇に相反するような、真白い装束。退魔を生業とする家系は幾つもあれど、唯一共通するのは袂に刺繍されたヤドリギの紋様だ。それは妖が恐れ戦く、退魔師が証。

「ほら、お逃げ。彼らは妖と見れば無害有害関係なく滅しようとするからねぇ……。

──大丈夫。僕の糸が君たちの姿を宵闇に溶け込ませるから」

 焦るでもなく、男は錆び烏の躰を包むように両手を動かしていく。その様子を間近で眺めながら、少女は合点がいったとばかりにひとり頷いた。

 錆び烏には攻撃性はないものの、ひとがその鱗粉を吸い込みすぎれば肺を犯すと言われているから、妖退治を生業にしている者には駆逐対象となっている。退魔師の気配に、その身を隠してやり過ごそうとしていたのだろう。

 やがてバサリと羽根の開く音が辺りに響いたが、その姿は見えなくなっていた。瞠目する少女を余所に男は遥か虚空へと向けてひらひらと手を振っており、おそらくは錆び烏を見送っているのだろうと知れた。

(この人……何者……?)

 訝る少女は、退魔師は当然の如く錆び烏を追うのだろうと思っていた。視覚で捉えられないとしても、退魔師なのだからいくらでもやりようはあるだろうと。

──しかし。

 少女の予想に反して、退魔師はその足を止めた。


「──奉日本燈史郎たかもととうしろう!」


 そうして、声高に叫ぶ。その声音は硬く、眼光は鋭くこちらを──否、男を睨みつけていた。

「夜中に、あんまり大声を出すものじゃあないよ。なんだい?」

 男──燈史郎はさして気にした風でもなく、肩を竦めて見せた。退魔師は木々の頂きに立っているから、燈史郎に見下ろされている形となっている。

「……今日こそは着いてきてもらいます。総司そうじ様があなたを待っているので」

「捕まえられるのなら、ご自由に」

 その言葉は──絶対的自信の現れ。

 相対する退魔師にも、それは伝わったのだろう。

「その余裕──すぐに後悔させてやりますから」

 額に青筋を浮かべながら、退魔師が吠えた。その右手には身の丈程の巨大な扇が握られており──流れるような動作でそれが振り上げられる。

「……まぁ」

 夜空に滲む深い藍色の扇が回転しながら空を駆け、燈史郎の首を狙う。空を裂く音の重さにそれが鉄扇の類いであると知るが、少女に逃げる術はない。少女の身体を抱く燈史郎の腕の強さは相変わらずで、けれど避ける仕草すら見せないのだから、眼前に迫る凶器に少女はきつく目を瞑った。

「──僕の糸が見えない程度のきみに、可能だとは思えないけど」

「な……!」

 けれど、いくら待ってもその鉄扇がふたりに襲いかかることはなかった。恐る恐る目を開ければ、すぐ目の前で鉄扇の動きは止まっている。空中に縫い止められたその様子はまるで、蜘蛛の糸にかかった羽虫のよう。

 装飾の飾り紐が、風に揺れる。豪奢で繊細な細工にほぅ……と思わず手を伸ばせば、「触ると怪我をするから。駄目だよ」と穏やかな声に窘められた。

 ほぼ同時に、退魔師の悔しげな呻き声が耳に届く。視線を落とせば、太い枝葉に退魔師が座り込んでいた。歪な体勢に、何かに手足を拘束されていると知る。

「っ、その女の子はなんです? 離していきなさい……っ!」

 退魔師の中には妖殲滅を第一として民間人への被害等は一切気にかけない性格の者も多いが、身動ぎの出来ないまま少女の身を案じて叫ぶ姿には人間味が感じられた。こてんと首を傾けて、燈史郎は一蹴したけれど。

「きみの指図は受けないよ」

「減らず口を……っ」

 燈史郎が腕を振った。揺れる袂。合わせて、きらりと光が舞う。それはおそらく、燈史郎の口にする──糸の軌跡。

 糸は、退魔師を中心に放射線状に張り巡らされていた。ちりりとその端が、赤く火を灯したことに気がついたのは、退魔師が先か、少女が先か。

 そうして、一瞬の沈黙の、後。

「──っ!?」

 視界が眩む程の閃光とともに爆ぜた糸は、ほんの数秒の間森一面を明るく照らしながら、大地が揺れる程の爆音を轟かせた。


***


(──妖、だよね)

 妖は、嫌いだ。血なまぐさいから。退魔師に追われていたことを鑑みても、目の前のこの男は間違いなく妖だろう。

 先の退魔師がどうなったのかを、少女は知らない。安否を確認することもなく、燈史郎はすぐにその場を後にしたから。

(どこ、連れて行かれるんだろう……)

 離してほしい、そう声を掛けようとも思ったが、糸でぐるぐる巻きにされた挙げ句に燃やされるのはごめんだ。

「……」

 横抱きにされたまま、少女はそっと足先を動かしてみる。足袋も草履も履いていない、素足がぶらりと投げ出されていた。なんだか指の付け根にやたらと線が入っているような気がするが、痛みはないので問題はない。

 しばし考えた末に少女は──ぐいと、燈史郎の胸元を引いた。「ん?」視線がこちらに落とされた瞬間にすかさず、

「……えい」

 腕の力を支点として、高く掲げた足。着物の裾が捲れたが構うことなく、少女は燈史郎の顔面目掛け勢いよく踵を振り落とした。

 頭蓋を割るつもりで、力を込めたのだ。地上に落とされた時のために、燈史郎を下敷きにできるよう身体の動かし方を計算して。

 だのに。

「──こら、暴れないで」

「……」

 片手でいとも簡単にいなされた足は、燈史郎の手のひらで元の位置へと下ろされた。ご丁寧に、裾まで正して顕になっていた生白いふくらはぎを隠してくれる。

 剣呑な光を宿す少女の双眸すら柔らかい表情で包み込んで、燈史郎は笑った。

「──あんまり、無粋な真似はやめようか。帰ったら、月見酒でもしよう? あぁ、いや、きみはまだ飲み食いは出来ないから、先に──」

 静かに唇を噛んでいた少女は、だから、反応が遅れた。

 渇いた唇が、舐め上げられる。驚いて思わず口を開けてしまえば、口吸いは当然のように深くなった。馴染ませるように咥内に滲んだ唾液はなぜか甘く、こくりと喉を潤していく。

「……このまま、少しおやすみ。起きたばかりで、疲れたろう?」

 その言葉に抗うことも出来ずに少女の瞼がゆっくりと落ちて、燈史郎の茶の瞳が満足げに細まった。



 月明かりの下の口吸いを見ていたのは、まんまるな満月が、ひとつだけ。

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