第二章 細小蟹(ささがに)の噺 夏庭(なつにわ)の糸②
──
──手紙に、会いに来てって書いてあったの?
──ううん、手紙にはね、人形を壊してしまって廃棄してしまった。妻が落ち込んでしまっているから、似たような人形を作ることはできないかと書いてあったんだ。
──人形を作りにいくの?
「まさか」
肩を竦めた
そうして山を三つ越えた先に、織部夫妻の住む集落はあった。民家が二十もないような小さな集落だが近くに白滝があるようで、ごおごおと絶えず水の音が響いていた。
「──こんにちは、
一軒の民家の前で立ち止まった燈史郎が戸口を開けて中へと声を掛けると、すぐに、男が奥の部屋から顔を出した。
背はあまり高くないが、体格が良く和服がよく似合っている。年の頃は四、五十代で、白髪交じりの頭を燈史郎へ向かいゆっくりと下げた。
「あぁ、これは、奉日本さん。すまないな、わざわざこんな場所まで足を運ばせてしまって」
「いえ。たまの運動になりますから。……
「寝込んでいるよ、少し前から具合が悪そうでね。ここ数日は食も細くなってきて……」
沈痛そうなその面持ちは、妻の身を案じているのがありありと伝わってきた。
「……そうですか。人形の件ですが、」
「……奉日本さん、手紙ではああ書いたんだが──新しい人形と云うのは、どうか忘れてくれ」
竹彦はそう言うと、もう一度深く頭を下げる。
「すまない。千鶴子の薬代の足しにと、売ってしまったんだ。千鶴子はそれを知らなくて……人形をなくしてしまったと、あんまり気にするから先生に手紙を出したんだが……」
瞳を瞬かせていた燈史郎だっだが、ややあって、項垂れる竹彦の肩を優しく叩き、首を横に振った。
「竹彦さん、どうか気にしないでください。千鶴子さんの体調には変えられませんから」
その言葉を聞いて、竹彦はようやっと安堵したらしい。身体の強張りが解け、控えめな笑みが浮かんだ。
「大したもてなしはできないが、泊まっていってくれ。明後日には夏祭りもあるんだが、時間が許すようなら見ていかないか? 少ないが屋台も出るし、
うちの部屋は好きに使ってくれてかまわない。
そう締めくくり、竹彦はふたりを招き入れた。
──かりかりと、何かを引っ掻くような音が微かに耳に届く。
***
竹彦に客間に案内してもらってからは、燈史郎と百夜はふらふらと集落を見て回った。
こういった小さな集落に寝泊まりする場合、村人に挨拶をしておいた方が何かあった時に動きやすいらしい。人形師ではなく、おそらく妖の何でも屋さんとしてだろう。
「ここにも妖がいるの?」
「どこにでもいるよ、妖は。そうだ、白滝も見てみようか。百夜はまだ見たことないだろう?」
小さく笑った燈史郎に連れられて細い山道を歩いていくと、落ちる水音が大きくなっていく。やがて拓けた場所に出た。
ごつごつとした岩肌の高い位置からごうごうと水が流れて、滝壺を打ち水飛沫が上がる。夏の日差しを浴びて、視界に映るすべてがきらきらと輝いていた。
輝いていたが、百夜の感想は、
(──なんか臭い)
だった。隣を見上げれば、燈史郎も微妙な表情で袂を口元に当てていたから、間違いではないらしい。滝は、綺麗だけれどにおいのきつい場所。覚えた。
決して好き好んで行きたい場所ではないなと思った。
夕餉は、竹彦が振る舞ってくれた。
山菜が中心だったが、柔らかい干し肉や焼き魚、具沢山の味噌汁など料理の種類が多い。おそらく子どもの百夜に配慮してくれたのだろう。基本的に百夜に好き嫌いはないから、杞憂であるのだが。
卓に並んだ料理をきれいに平らげ、ついでに燈史郎の残した分にも箸を伸ばす見た目は小柄な百夜の食べっぷりに驚いた顔をしていた竹彦だったが、じきに慣れたのだろう、瞳を細めてうれしげな様子で米をよそう姿から、子どもが好きなことが伝わってきた。
白米のおかわりを完食し、ようやく百夜は「ごちそうさまでした」と箸を下ろした。
「まだ、食べれるか?」
「うん」
素直に頷けば、一度厨に姿を消した竹彦が何やら作業をしてから戻ってくる。盆に乗せた小皿からは、果物特有の瑞々しい甘い匂いが漂っていた。
「あ。百夜、よかったね。桃だよ。食べたいって前に言ってたのに、ばたばたしてまだ買ってあげてなかったね」
「! ありがとう」
瞳を輝かせて桃の入った小皿を受け取った百夜だったが、桃を見つめて、やがて小さく首を傾げた。
「……これ、桃?」
「桃だよ?」
「白夜の知ってる桃じゃない……?」
「?」
燈史郎と竹彦は顔を見合わせて瞳を瞬かせたが、まぁ百夜の思い違いだろうと、燈史郎は桃をひとつ掴んで百夜の口に放り込んだ。
「はわぁ、でもこれもおいしい……」
「よかったね、ゆっくりお食べ」
指先を手拭いで拭った燈史郎は、百夜の口端についた米粒を取ってやる。米粒を食べてから竹彦へと片付けを申し出れば、礼を述べた竹彦は妻の様子を見てくると言ってそのまま部屋を後にした。
◆◆◆
もともとが山中の静かな集落だが、民家が寝静まる夜間になるとその静けさはより顕著になる。
蝉の鳴き声が白滝の音に混じり、鼓膜を柔らかく揺らす。部屋には蚊帳が張られており、夏の風物詩と云った風情であった。
燈史郎と百夜は湯浴みを終え、寝間着でひとつの夏用布団に──織部宅には客用の布団が一組しかなかったので──くるまれていた。
ぽつりと、燈史郎が呟く。
「なんで嘘つくのかなぁ?」
「何が嘘なの?」
「うーん、人形をね、売ったっていうやつ。あるからねぇ、ここに。部屋数はあんまりないし、千鶴子さんに見つからない場所となると──あの蔵かなぁ」
織部宅の裏手には、小さな蔵があった。織部夫婦のために作った人形は百夜よりも幼い女の子を模したものだから、物置小屋として使用しているであろう蔵ならば、隠すにはもってこいだろう。
けれど、千鶴子はもとより竹彦もあの人形を我が子のように大切にしてくれていたはずだったのだが。
「……ねぇ、燈史郎はどうして人形を作るの?」
「んー? 触れるから、かな」
「……」
「無言で距離取るのやめてもらえるかい?──記憶は薄れて、声も匂いもじきに忘れてしまうだろう? 絵は、視覚情報だけで触れられないし、その点人形は手入れを怠らなければその時の姿のまま、服だって本人の着ていたものをあてがえるし、匂い袋をつけることもできる」
すす……と布団の端までにじり下がった百夜を、燈史郎が元の位置まで引き戻した。自身の両腕で目元を覆って、小さな声を絞り出す。
「──決して消えない思い出がほしい。忘れたくない」
「……」
燈史郎には、忘れたくない誰かがいるのだろうと知れた。
「……誰のこと?」
「もう、寝ようか」
パッと顔を上げた燈史郎は答えることなくにこりと笑って、百夜を腕に抱き込んだ。痛いくらいに力が強かったが、燈史郎の腕が微かに震えているような気がして、精一杯伸ばした腕を燈史郎の背中に回す。
「燈史郎、おやすみなさい」
返事の代わりに唇が重ねられ、口内に潜り込んだ舌が百夜のそれを優しく吸った。
出会った春の頃よりも、回数も深さも増している気が、する。霊力を与える必要がない時でも──まさに今がそうだけれど──燈史郎はよく口吸いをするようになった。
そういえば百夜は、未だに両親のことを欠片も思い出せない。記憶を失う以前のことも何も。それは、確かに寂しい気持ちもあるけれど、思い出してしまえば燈史郎たちと離れなくてはならなくなる。
(……それは、嫌だな)
燈史郎の二の腕にこてんと頭を預けた百夜は、そのままゆっくりと瞳を閉じた。
***
暁九ツ時。
「──っ!」
燈史郎と百夜はその瞬間、ほぼ同時に跳ね起きた。布団を蹴飛ばし、百夜は警戒する猫のように肩を怒らせて周囲を見回す。
「燈史郎、今、なんか……」
「うん、妖が入ってきたね」
燈史郎が素早く手甲をつけながら部屋を出ようとしたその時、
「──うぁああ! 来るな、来るなァ……!」
「おじさんの声!」
「百夜、こっちだ」
響いたのは竹彦の声だ。妖の気配を追って廊下を進めば、突き当たりの部屋の障子と雨戸が外から破壊されていた──外から何かの妖が侵入している。
部屋に飛び込めば、隅に追い詰められている竹彦の姿があった。その背に小柄な女性を庇っているが、意識はないようだった。あれが妻の千鶴子なのだろう。
部屋の中心に、四つ足の妖がいた。竹彦たちの方を向いているのでその全貌はわからないが、石と葉で出来た鎧を背中に纏った姿は天井につきそうな程に巨大だった。
(──生臭い)
(けど、なんだろう、甘い匂いもする)
部屋の中の匂いは、奇妙なものだった。ヘドロ染みた生臭さはおそらくは妖から発せられているが、瑞々しい甘い匂いも微かに混ざりあっていた。熟した果実のような芳香に、百夜は知らず舌なめずりをする。
「いくら
手甲から糸を出した燈史郎は妖の足に巻きつけたが、小さな火花を散らす程度だった。室内で火を出せば、どこに飛び火するかわからないからだ。
それでも効果はあったようで、火花に驚いたのか飛び上がった妖はぬるりと糸から抜けると、跳ねるように庭へと飛び出した。木々の揺れる音に、妖が木上を伝い逃げようとしていることが知れる。
ハッとした百夜が咄嗟にそれを追おうとするが、燈史郎が鋭くそれを制した。
「百夜! 深追いしなくていい」
「っでも……!」
「慣れない土地でむやみやたらに動き回るものじゃないよ。今の妖がひとりきりとは限らないし」
灯りを点して室内を見回せば、壊された障子の木片や吹き飛んで割れた水差しなどでひどい有り様だった。
妖が這っていた部分なのか、床がひどくべたついていた。粘り気のあるそれは透明で、悪臭が強い。
「竹彦さん、大丈夫ですか?」
千鶴子を抱きしめて震えていた竹彦は、燈史郎の問いかけにも答えずに放心した様子で何事かをぶつぶつと呟いている。青ざめた頬には冷や汗が浮かんでいた。
「どうして……閉じ込めたはずだ……!」
「蔵に、妖のついている人形を、ですか?」
竹彦の喉が、ひくりと震えた。信じられない思いで燈史郎を見つめる。
「どうして、それを……」
「まぁ、作り手ですから」
なんでもないことのように肩を竦めた燈史郎は、未だ目覚めない千鶴子を見下ろしながら静かに口を開いた。
「千鶴子さんは、禍人です」
「まが、びと……? なんだ、それは」
「──いるんですよ、まれに。生まれつき、ただ妖に狙われやすい血を持つ者が」
畳を汚す血はまだ真新しい。
よく見れば、千鶴子の肩には血が滲んでいた。あの巨大な妖は、千鶴子を狙ってやってきたらしいと知れる。
「……そうだ、だから、千鶴子を狙っていた妖が、人形についていたから……っ!」
「なぜ、千鶴子さんを狙っていると?」
「白い糸が、巻きついていた。夜半に、家中を這い回っているのを見た。今千鶴子が寝込んでいるのは、あの妖の──」
「それは違う」
「なぜそう言い切れる……!?」
「あなたの言う妖なら、僕が人形を作るために訪れた時にはもうこの家にいましたよ。あれが原因だと言うなら、千鶴子さんは既にこの世にはいない」
「な……っ、なぜその時に教えてくれなかったんです……!?」
断言する燈史郎に対し竹彦は一瞬言葉を詰まらせ、次いで激昂し声を荒げた竹彦は、勢いのままに拳で床を殴った。百夜が肩が小さく跳ねて、それを見た燈史郎が自身の背に隠すようにその肩を抱いた。
「害はないと判断しました」
「わからないだろう、そんなことは!」
「──とにかく、妖のついた人形を蔵から出します。千鶴子さんを守るのならそれが一番、」
「駄目だっ! 妖なんて、危ないだけだろう! どうせ、あの人形についた妖が仲間の妖を呼んでいるんだ……蔵ごと──燃やすしか……」
言い含めるような燈史郎の言葉を遮った竹彦は、昏い瞳で蔵のある庭へと視線を向けた。
その胸ぐらを、強く、燈史郎が引いた。
「そんなことをするくらいなら、人形ごと僕が持ち帰ります。それで、あなたは千鶴子さんを守れるのでしょう?」
「っ……!」
柔和な雰囲気を称えている燈史郎は、穏やかな物言いも相まって優男だと思われやすい。だが今は、鋭く細められた目付きで冷たく竹彦を見下ろし、その声音は低く、一切の温度がなかった。
言葉に詰まる竹彦を睥睨し、鼻を鳴らした燈史郎がパッと手を離したため竹彦は軽く尻餅をつき、そのまま黙り込んだ。震える腕は、千鶴子をしっかりと抱きしめている。
「百夜、着替えたら荷物をまとめてここを出よう」
「うん……」
手を引かれ、部屋を出る。百夜は一度振り返ったが、うつむいている竹彦の表情はわからなかった。
そのまま、ふたりと蔵から出された一体の人形は、庭に咲く桔梗に見送られ織部夫妻の家を後にした。
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