第二章 細小蟹(ささがに)の噺 夏庭(なつにわ)の糸①
梅雨が明け、数週間が経っていた。
開け放った窓からは爽やかな薫風が吹き込み、
「髪の毛あっついー……」
ぐったりと卓に突っ伏しながら、一人ごちる。少し前までなら
「暇だなー……」
公園か
百夜はげんなりしたまま麦茶を飲み干してから、
「燈史郎、入っていい?」
「んー……」
扉の前で声を掛ければ、何とも心ここに在らずな返事があった。燈史郎は仕事中、人形作成に集中し他の生活習慣がおざなりになる傾向にあった。
了承を得たとはいえ、部屋に勢いよく飛び込んで人形の部品を失くしでもしたら叱られる。ゆっくりと室内に入れば、燈史郎の丸まった背中が見えた。
人形師の仕事は、人形を作ること。
決して広くはない部屋の中、頭部や髪、手足や胴体、色とりどりの衣裳や髪留めなどの装飾品が溢れていた。
踏まないように気をつけながら燈史郎の隣にしゃがみ込めば、筆を手にした燈史郎は人形の顔を描いているところだった。
ちらりとも、こちらに視線は向かない。
(つまんないの)
そのくせ、卓上に転がっていた球体──おそらく眼球だ──を指先でつつけば、
「こら、触らない」
「……はーい」
すぐに注意される。おとなしく手を引っ込めて、百夜は本題に入った。
「ねぇ、先生大丈夫なの?」
「大丈夫ではないね。……あとで
「ゆたか? どうして?」
「んー……」
人形の頭をためつすがめつしながら、何やら書き留められている紙片と見比べうんうん唸る今の燈史郎に、返事を期待するのは酷かもしれない。
──その時、外の郵便受けの蓋が開く音がした。ふぅ、と燈史郎が息を吐いて肩を回す。どうやら一息つくことにしたらしい。
「百夜、郵便来たみたいだから取ってきて」
「はーい」
頷いて、またそろりそろりと足下に気をつけながら部屋を出て、郵便受けまで走っていく。
中に入っていたいくつかの封筒を掴んで燈史郎の部屋に戻り、郵便物を丸々渡す。そのうちのひとつに目を止めた燈史郎は封を破り、中に入っていた手紙を改め始めた。
「誰から? なんて書いてあるの?」
簡単な平仮名ならば満つに教わり読めるようになったが、漢字はまだ無理だ。手紙を覗き込むが、何が書いてあるかまったくわからない。
「あー……。うーん、ねぇ百夜、これから出かけようか。支度しておいで」
「お出かけ? 先生は?」
「留守番だね。行きに遊鷹くんに声掛けていこうか」
自室に戻り、急いで身支度を整える。夏用の着物は薄手で、涼やかな薄紅色だった。袖や裾には多くのレースがあしらわれている。百夜や人形の衣裳に過剰なまでのこだわりを見せるのが燈史郎という男だった。
「少し遠いから泊まりになると思うけど、平気?」
「うん」
日差し避けにと渡されたカンカン帽を被っている間に、燈史郎は自室で寝込んでいる満つへと廊下から声を掛けていた。
「──満つ、
「……おー」
覇気のない声音は、ぐったりと元気のない満つの姿を容易に想像させた。燈史郎の言葉通り、遊鷹に会って満つの体調が戻るというのなら早く呼びに行くべきだ。
「燈史郎、早く──ぅぶ!」
燈史郎の手を引いて外に出たところで、百夜は誰かにぶつかった。
診療所を訪ねに来た患者か、燈史郎へ人形作成を願う依頼者か。何をせよ断らなければ、と顔を上げた先にいたのは、
「ゆたか!」
「遊鷹くん、ちょうどよかった。福籠庵に寄るつもりだったんだ」
──遊鷹だった。
百夜が転ばないよう咄嗟に支えてくれてはいたが、その表情は不機嫌そのものだ。眉間のしわが深い。どうやら燈史郎のことが嫌いなのはこの数ヶ月でわかっていたが、百夜といる時はいつも笑顔でいてくれるのに珍しい。
「……何、どっか行くの」
身支度を整えている燈史郎の格好に、片眉を上げた
「何日か空けるから、満つのことを頼んだよ」
「へぇ……じゃあ、そのまま満つさんもらってくわ」
「きみは、そんな間男みたいな真似はしないだろう?」
「……クソが」
遊鷹が舌を打った。気のせいだろうか、今日のこのふたりのやりとりが始まってから、体感温度が下がっているように思えた。
「ゆたか……」
「──満つさんのことは俺に任せとけ。帽子似合ってんなー、可愛いぜ」
「ありがとう」
場を空気を変えるように声を上げた遊鷹は、カンカン帽の上から百夜の頭を撫でた。百夜の口角が上がる。
「百夜、そろそろ行こうか。日が暮れる前に山をひとつ越えたいんだ」
「うん。ゆたか、いってきます」
燈史郎と手を繋ぎ、もう片方の手でばいばいと遊鷹に手を振る。
「おぅ、いってらっしゃい」
***
ふたり──嘘、百夜の後ろ姿を見送って、戸口に錠を掛けた遊鷹は満つの部屋へと入った。
声は掛けない。掛けたところで、返事をする余裕はないだろう。
「満つさん」
「……っ、ゆたか……!」
布団にくるまりうずくまっていた満つが、跳ねるように上体を起こした。そのまま、勢いよく飛びついてくる。腕を広げ受け止めるが、尻餅をついてしまった。
「遊鷹、遊鷹、ゆたかぁ……」
「うん、会いにきたよ」
ぎゅうぎゅうと抱きついてくる満つは、少し痩せてしまったようだった。労るように抱きしめその髪を撫でれば、うっとりと瞳が細まった。ぐりぐりと頭を擦り寄せてくるのが、猫のようで愛らしい。
──妖の
番いには主導権があり、その主導権は遊鷹が握っているから、身体や精神が不安定になるのは主に満つだった。
「……俺は、このままあんたのこと拐っていきたいって思ってる。あんただって、俺のこと好きでしょ」
「……」
「でも、あんたに嫌われたくない。燈史郎じゃなくて、俺を選んでよ……ねぇ、黙るのずるいよ……満つさん」
──遊鷹、ほんの少しだけ、会えなくなる。
──……俺、なんかした?
──違う、お前はなんも悪くない。ただ……少しだけ、シロを優先させてくれ。
──俺、あいつ、嫌いだ。
燈史郎は遊鷹から満つを取り上げて奪った。嫌いだ、あんなやつ。だけど、満つを困らせたい訳じゃない。
遊鷹は、自分もそばにいさせてもらえるなら満つが燈史郎を構うことは別に構わない。だのに、燈史郎はそれを許さないのだ。
満つを奪えば、あの男はまた──壊れる。
「ごめん、いじめにきた訳じゃないから、泣かないで」
目尻に浮かぶ涙を舌で舐め取って、うなじを爪で掻いてやれば満つの身体が小さく跳ねた。
「ほら、一緒寝よ? しばらく泊まるから、──んだよ、うぜぇなぁ……」
消耗の激しい満つを寝かせてやろうとしたその時──遊鷹は戸口を振り返った。常よりも結界の弱いこの場所に、何処ぞの妖が入ってこようとしている。
「遊鷹、はやく」
「ん、すぐ戻るから、ちょっと待ってて」
侵入しようとする妖にすら気づかずに着物の裾を掴む満つの頬を撫でて、遊鷹は部屋を出た。
戸口の前に、黒い影があった。ひどく血なまぐさい。
くるりと振り返ったらしい──黒い夜闇のようで前後がわからない──影からは、人間の腕が一本飛び出していた。どうやら、喰ってきた直後らしい。臭いがきつい訳だ。
「俺の番いに手ぇ出したら──殺すぞ」
遊鷹が凄絶な光を宿した瞳を眇めた、その瞬間。
遊鷹の背に、大きな羽根が生えた。両耳が尖り、犬歯が唇にかかる。烏天狗の満つと番いになった遊鷹は、完全な妖になるにはまだまだ時間がかかるだろう。元は人間の身だから。
しかし半妖でも、霊力はそこそこであると自負している。顕現させたヤツデを一振りすれば、影の妖はあっさりと消滅した。
「──あ! やっべ。ぐちゃぐちゃじゃん……」
ヤツデの風圧に負けた薬品が棚からいくつも落ち、潰れた妖の残骸が床にべったりとこびりついている。簡単にでも掃除をしておかないと後が大変、と片付けに取りかかろうとした遊鷹の耳に、「ゆーたーか! はやく!」と涙混じりの満つの声が届いた。待ちぼうけをくらい、どうやら怒り始めている。
「あぁ、待って満つさん、すぐ戻っから……!」
実家が商いを営んでる関係だろうか、この場を汚したままにするのはずいぶんと気が引けるが、これ以上満つを泣かせる訳にもいかない。羽根をしまいながら、遊鷹は慌てて踵を返した。
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