第二章 細小蟹(ささがに)の噺 夏庭(なつにわ)の糸③


 足早に、夜の山中を進む。

 百夜びゃくやの手を引きながら、もう片腕に抱えているのは引き取った人形だ。荷物もあるから歩きづらいことこの上ない。

あと数時間もすれば夜が明ける。野宿することも考えるが、一秒でも早くあの集落から──否、織部おりべ宅から離れたかった。


(人形を燃やす……? 娘として可愛がっていただろうに、よくそんな事が言えるな)


 妖が、妖が、そう竹彦は叫んだ。確かにこの人形には妖がついているようだが──だからなんだというのだろう。何も悪さはしていないはずだ。ぎり、と、燈史郎は奥歯を強く噛み締める。


(妖は、存在することすら許されないとでも言いたいのか──)


──

────

──────


慶心けいしん様! これは食べられますか?」


 大木の根元に生えていた紫色のきのこを手に取り、燈史郎とうしろうは後ろを振り返った。


「んー? あー……どーだろうな」


 慶心と呼ばれた男が、何とも言えない生ぬるい目つきで首を傾げた。その長身は見る者に威圧感を与えるが、垂れた眦が気だるげな雰囲気を漂わせ、とっつきにくさを中和させていた。

 曖昧な返答を、食べられない訳ではないと解釈したまだ幼い燈史郎は、満つの持つかごにきのこを放り込んだ。大きな黒の斑点が可愛らしいきのこだ。


「いや無理だろ、入れんなよ。慶心、ガキだからって甘やかすな。何このやばい色のきのこ。天狗の俺でも食わねぇよ」

つのいじわる!」

「優しさで言ってやってんの。腹壊したいのかよ」


 ぽかぽかと腕を振り回す燈史郎の頭を押さえつけながら舌を出す満つは楽しげに笑っていて、慶心がある日拾ってきた子どもを見た時は戸惑いが強かった満つも、無事に打ち解けてくれてようだった。


「私のために採ってくれたんだから、食ってみよーぜ」

「いやひとりで食えよ」


──結局、夕餉時に件のきのこを食した慶心は、燈史郎に気づかれないように吐いていた。これが親心かと、満つは呆れまじりに嘆息をする。



 燈史郎は、慶心と満つと山奥の民家に住んでいる。

 それは人に怯える燈史郎のためでもあったが、退魔の一族である奉日本家から慶心がのらりくらりと逃げているからでもあった。当主には屋敷にいてくれなくては困るだなんだと口煩くてかなわない。

 夜も更けてきた頃、身支度をする慶心と満つを気づき、燈史郎の表情が曇った。


「……今日も、お出かけですか?」

「おー、依頼が入ってるからな」

「すぐ戻るよ。泣き虫シロちゃんはひとりぽっち寂しいもんな?」

「そんなことない!」


 すぐにからかってくる満つを睨んでから、燈史郎はしゅんと眉を下げた。


あやかしを退治するんですか……?」


 震える声に、慶心は小さく笑った。


「生憎と、私は妖退治が生業じゃねーんだ。そりゃ、妖が悪いんなら退治しなきゃなんねぇ時もあるが、説得できるならそうしたいし、逆にひとが悪いなら私はそいつをぶん殴る。私は退魔師じゃない、妖関係専門の何でも屋だからな」

「……はい!」


 慶心の指が、燈史郎の目尻に浮かぶ涙を拭う。妖だから悪だと、慶心は決して言わない。それにどれだけ救われているか、彼はわかっているのだろうか。

 お気をつけてとふたりを見送り、満つが敷いてくれた布団に転がる。慶心や満つがいれば、眠れなくてもお話をしてくれたり布団の上で訓練という名の取っ組み合いをしてくれるのだけど、ひとりきりではそうもいかない。布団を頭まですっぽり被り、やがて眠りについていた燈史郎は──小さな物音に、ふっと瞳を開けた。


「もし」……とん。

「もし」……とん、とん。


 か細い声が響き、ゆっくりと戸口が叩かれる。


「だぁれ……?」


 これが人の気配であったなら、たとえ寝ぼけていても絶対に返事はしていない。だが、戸口の向こうにいるのは間違いなく妖だった。


「欲しいものを、あげましょう」

「ほしいもの?」

「あゲマしょう、あげましョう」


 欲しいものをくれると、戸口の向こうの妖は言う。もしかしたら、慶心と満つが早く帰ってきてくれるやもしれない。

 そんな好奇心に負けて、燈史郎は布団から出ると、小さな手で戸口を開いた。

そこに立っていたのは──細長い老婆であった。縦に長いその老婆の背はゆうに慶心を越えている。灰色のぼさついた髪が、地面について土にまみれていた。

 燈史郎を見てにっこりと口角を上げた老婆が、その胸に掲げているのは薄汚れた小さな手鏡。


「アゲマショウ」


 手鏡に、燈史郎の姿が一瞬映った。次いで、鏡面が真っ黒に塗り潰される。

 老婆の笑みが、深くなる。

 ぽとり、と、どこからか何かが落ちる音がした。


「わぁ、可愛い……!」


 振り返った燈史郎の視線の先、赤い着物に黒髪が艶やかな人形があった。ぱっちりとした瞳に、薄紅に色づく小さな唇。欲しいと自覚したことはなかったが、現物が目の前に落ちてきたことによって、燈史郎は一気に心を奪われていた。


「……では、代わりにモライマス」


 人形を抱きしめはしゃぐ燈史郎の背後で、老婆の呟いた。しわがれた、枯れ枝のような腕が燈史郎に伸ばされ──


「燈史郎!」

「消えろや……!」


 その時、室内に雷撃が落ちた。手元で衝撃が弾けて目を丸くする燈史郎を、慶心が抱き抱える。


「──わっ!?」

「怪我はないかい?」

「あ、慶心様!」


 ギャッと声がして顔を上げれば、錫杖を振りかぶった満つが老婆を外へと追いやっていた。その姿を見て、慶心が呟く。


「……うつしの山姥やまんばか」


 映しの山姥──鏡に映した対象の欲しいものを与える代わりに、魂を奪うとされている。狙われるのは主に子どもで、招かれない限りは決して家の中に入って来られない特性をしているから、家でひとりきりの子どもは決して山姥の言葉に応じてはならないとされる。


「理解力あるガキだから招いたりしないと思ったけどなぁ……」

「妖に対する警戒心が薄いからな、まだ仕方ねぇさ」


 山姥を追い払って戻ってきた満つを労りながら肩をすくめた慶心たちの足元で、燈史郎はようやく自身の手元の異変に気がついた。


「……あ、お人形さん」


 燈史郎の手の中には──黒焦げになった人形の残骸がぽつんと残されていた。


「ぅ」

「……燈史郎?」

「ぅ、わあぁぁん……!」


 口をひん曲げて泣き声を上げ始めた燈史郎に、ようやくふたりは事態を悟る。映しの山姥は、確かにその対象者が欲しいものを与える。ならば、満つが雷で焼いたあの人形は、燈史郎にとっては興味をそそるものであったのは間違いない。燈史郎の声はどんどんと大きくなっていく。


「っ、何か代わりのもん買ってくる……!」

「慶心! こんな夜中にやってる店ねぇよ! 落ち着け!」

「あぁぁぁああ僕のお人形満つが燃やしたぁあ!」

「シロうるせぇ! ひっつくな離せよ! おい待て慶心行くな!!」


 燈史郎は満つの足にまとわりついて泣き喚き、ついには叩き始めた。その隙に慶心が外に向かう。

 結局、怒りが沸点に達した満つが燈史郎の頭を錫杖で殴り気絶させ、気絶した燈史郎をそのまま背中に投げつけたおかげで慶心も我に返った。

 翌日、燈史郎が起きた時には枕元に赤い着物の愛らしい人形が鎮座していて、跳び跳ねんばかりに喜ぶ燈史郎の姿があった。

 それからしばらく経って町に降りられるようになった燈史郎が、店先で人形を作る人形師の姿に虜になったのは、当然の帰結といえた。


(あぁ、あの頃はとても、しあわせだった)


──

────

──────


「燈史郎!」

「……っ!」


 ぱきりと、洋靴の底で踏み折った小枝が存外大きく響いた。ハッとして視線を落とせば、不安げに眉を下げた百夜がこちらを見上げていた。


「燈史郎、大丈夫?」

「……あぁ、うん。大丈夫だよ。ごめんね、疲れた? 少し休むかい?」

「百夜は平気だけど……この子が、何か言いたいみたい」


 それを肯定するように、抱いていた人形の腕が動いて燈史郎の肩を優しく叩いた。

 白髪の、紅い瞳の幼い女の子の人形。紫色の布地に桔梗の柄も併せて、それは千鶴子ちづこの要望だった。


「何だい?」


 問うたところで、人形に入っているだけの妖は声を発することはできないだろう。霊力を分けてやれば百夜のように話せるようになるだろうが──


(百夜以外には、あまり口吸いはしたくないな……)


 と、あまりに自然に浮かんだその考えに、燈史郎は静かに動揺した。いつから、こんなにこの子のことを。

 口元に手を当て思わず黙り込めば、首を傾げた百夜が袂をくいくいと引いた。


「ねぇね、百夜の中に入ればお話できる?」

「え、あ、うん……まぁ、できるとは思うけど……」

「あーんすればいい?」


 頷くよりも先に、百夜が口を開ける。すると、薄く開いた人形の口から小さな真白い蜘蛛が一匹這い出てきた。八つの瞳は鮮やかに紅く、千鶴子はこの妖を思って人形を希望したのだとすぐに知れた。

 百夜がゆっくりと、瞳を開ける。


「──燈史郎様、お初にお目にかかります。わたくしは小紅こべにと申します」


 顔立ちと声は、確かに百夜のものだった。けれど、その表情と声音と仕草は明らかに違う。白蜘蛛の妖──細小蟹ささがにの小紅。


「……その名前は、千鶴子さんにもらったの?」


 こくりと、小紅が首を縦に振った。彼女の誇りなのだろう、紅潮した頬を小さな手のひらで押さえて、穏やかに瞳を伏せる。


「わたくしは、千鶴子様をお守りしたいのです」

「──あんな言われ方をしたのに? ずっときみが千鶴子さんを守ってきたのに、化け物扱いだよ?」


 ふるりと、睫毛が震える。傷ついていないはずがないのだ、妖に狙われる千鶴子を守っていたのに、竹彦に誤解され蔵に閉じ込められて。化け物と蔑まされて。

──それでも、小紅は笑った。燈史郎が知らず握り込んでいた拳に触れ、冷えた指先に熱を分けるように握る。


「人からすれば、妖は怖いものなのです。それが当たり前なのです。だからこそ、暖かい千鶴子様をわたくしはお守りしたい。千鶴子様が愛した竹彦たけひこ様のことも、同様に」


『私のお友達だもん!』


 いつまでも忘れない、与えられたのは、手のひらの暖かさと花のような笑顔。まるで──……

 ぐずりと、小紅が鼻をすする。虚をつかれ黙り込んだ燈史郎がややあってため息をついて、小紅の頬を指先で拭った。


「……あまり、その顔で泣かないでもらえるかな」


 どうしたものかと、燈史郎は首を掻いた。

 暴言を吐かれた妖本人が許しているのだ、このまま燈史郎が意地を張り続けるのも違う気はする。けれど、傷つけられた小紅は、この先も傷ついたままきっと笑う。それはやはりおかしいと燈史郎は思うのだ。決して、人だけが正しい訳ではないのに。


「──っ!」


 その時、燈史郎と小紅が勢いよく振り返った。集落の方向で、あの妖の気配が一気に濃くなる。小紅の耳には、竹彦と千鶴子の悲鳴すら聞こえる気がした。

 ぎり、と、小紅が奥歯を噛みしめる。ぶわりと髪が膨らんで、どす黒い気が辺りに広がり始める。


──許さない、

──あの人たちを傷つけるのは、

──千鶴子様を守る、

──守る、

──あの妖、

──殺してや──


「小紅、駄目だよ。それ以上は」


 燈史郎の指が伸びて、ついと百夜の口から白蜘蛛を優しく取り出した。

 細小蟹は穏やかな性質の妖だ。怒りに我を忘れれば、その魂に傷がついてしまう。


「いい子だ」


 人差し指の先の小紅の頭を撫でてやっていれば、百夜がまっすぐ、燈史郎を見つめた。


「燈史郎、百夜は行きたい。ごはんのお礼に、優しくしてくれたお礼に、おじさんたちを助けたい」

「……」


 その言葉に、ゆっくりと燈史郎は瞬いてみせた。

 優しいと、百夜は言う。たとえ間違った言葉を吐いても、それで誰かを傷つけても、優しくされたその一時は決して消えないと。

 燈史郎だって、何も竹彦を悪人だと言っている訳ではない。その人となりは理解しているつもりだった。

 旬の山菜を送ってくれたこともある。山で採れる、薬になる薬草を満つに届けてくれたこともある。いつも千鶴子のことを気遣っていることを知っている。

 今回の件だって、蔵になんて閉じ込めずに小紅ごと人形を燃やしてしまうこともできたはずなのにそれをしなかった。燃やして、燈史郎に新しい人形を頼めばよかったのにそれをしなかった。

 竹彦もまた、人形の娘を愛している。


(……あぁ、優しいひとだ)


 生まれてから死ぬその時まで、正しさを貫ける者はどれだけいるのだろう。燈史郎だって、慶心以外には知らない。

 どれだけ優しい者でも、間違えるのだ。恐怖や怒りや恨みつらみで、いとも簡単に。小紅はおそらく、それを知っている。傷つけられた痛みにも勝る、暖かさを。

 ならば燈史郎は、小紅の気持ちを届けなくてはならない。話せない小紅の代わりに。だって、妖関連の何でも屋なのだから。慶心から唯一、引き継いだ大切なもの。


「──戻ろう」


 言えば、百夜は相好を崩して大きく頷いた。


「百夜は先に行くね」


 身軽さで言えば、百夜の方が上だ。燈史郎が頷くのを確認して、足に力をこめた百夜は一気に木上へと跳ね上がった。

 月明かりが、道しるべになってくれる。

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