第二章 細小蟹(ささがに)の噺 夏庭(なつにわ)の糸④


「おじさん! どこ?」


 戸口には鍵がかかっていたから、庭に回り縁側から室内へ上がる。千鶴子ちづこの部屋を覗くが、荒れた状態のまま放置されて誰もいない。


「ぅわ、べたべた……」


 ぬるつく床に足を取られ、草履が脱げかける。眉をひそめた百夜びゃくやだったが、この痕跡を辿ればあやかしの居場所がわかると閃き、まるでなめくじが進んだ後のように濡れる廊下を急いで進む。


「おじさん、おばさん、無事!?」


 扉の開いたある一室に飛び込めば、大松を焚いていたのだろう、部屋の中がひどく明るかった。

 一瞬目が眩んで、鮮明になった視線の先では──


「蛙……?」


 巨大な蛙の妖が、倒れ伏す千鶴子の顔を覗き込んでいた。妖の攻撃を喰らったのだろう、竹彦たけひこもまた、壁に叩きつられたような体勢で気を失ってしまっていた。だが、ふたりともまだ死んではいない。


(よかった、間に合った……!)


 安堵の息をもらしていれば、蛙は長い舌をひゅるんと伸ばして千鶴子の顔を汚す血を舐め上げた。妖が好むという、禍人まがびとの血。甘い匂いが一層強くなる。


「っやめろ!」


 怒鳴り、床を蹴った百夜はその小柄さを利用して蛙の股下から滑り込んで、千鶴子を背に庇った。間髪入れずに蛙の顎下を蹴り上げれば、ぐぇと舌を出して呻いた蛙の頭が後ろに傾ぐ。ぶつかられた天井の電気が大きく揺れた。


(──身体が大きい分、動作は遅い)


 部屋にあった燭台を掴みながら更に踏み込んで顔面を殴ろうとしたが、長い舌に弾き飛ばされ床に叩きつけられる。


「が、はッ……!」


 背中に衝撃を受け、一瞬呼吸が詰まった。決定的な痛みは感じない造りの身体だが、無痛ではない。呻きながら上体を起こして、舌を打つ。


(部屋の中じゃ、あんまり暴れられないな……)


 背後には気絶している織部夫妻、狭い室内に対し巨大な体躯の妖、愚鈍だが力は強い──百夜ひとりでは太刀打ちできそうにない。


(燈史郎とうしろうが来るまで、ふたりを守る)


 体勢を立て直した百夜は、部屋にあるものを武器にするのは止め、主に蹴りでの攻撃に切り替える。弾き飛ばされた武器が夫妻に当たるのを危惧してのことだ。


「っ……!」


 あわよくばそのまま外に追い出したいが、なかなか微動だにしない。

 蛙の背中部分には、石と葉でできた鎧がある。強固さがわからない以上その部分は避けているが、いちいちぐにゃりとした感触が足裏に伝わって嫌になる。


「うぅ、でっかくてちょっと気持ち悪い……ぬるぬるする」


 虫は別に苦手ではないが、さすがにこれは相手が悪い。ぬるつき臭くなった草履を投げ捨てれば、背後からひとの身動く気配がした。


「──ぁ、百夜さん……? 何をして……っ早く逃げるんだ……!」

「おじさん、──ッわ」


 竹彦の声に思わず振り返れば──『げ』と鳴いた蛙の舌が鋭く伸びて、百夜の右腕を袖ごと弾いた。肩から外れた腕が空中に舞って、縁側に転がっていく。

 竹彦のひっくり返った悲鳴が部屋に響いた。


「う、腕が……」

「大丈夫。百夜は人形の身体だから」

「は……?」


 目を丸くした竹彦に深く説明する時間はなく、安心させるように百夜は竹彦に歯を見せて笑った。


「もしかしたら今はひとって呼べないかもしれないけど、それでも、ありがとうって思ったり、守ったり、笑ったりできるよ」


 化け物と吐き捨てられる可能性もあったけれど、それでもよかった。伝えなくては、何も始まらないから。


「あの子も、同じだと思う。だから、話を聞いてあげてほしいんだ」


 たとえ声が聞こえなくとも、その存在を認め、共に在ることはできるから。


「──……」

「とりあえず下がっててね、百夜──がんばるから!」


 同じ轍は踏まない、再度伸ばされた舌をそのまま掴んでみせれば、慌てた蛙は百夜ごと舌を引き戻した。


(このまま顔面蹴る……!)


 蹴り上げようとした足は──しかし、寸前、大きく開かれた蛙の口から吐かれた虹色の息によって空振った。


「え、」


 今、何が起きた? 視界が遮られた訳ではない。足の、力が──、


「ぁ……?」


 虹色の息を直接浴びた百夜の身体から、がくんと力が抜ける。


「百夜さん……!」


 竹彦の焦った声が耳に届く。麻痺した唇は動かない。


(──逃げて)


 蛙が舌に絡ませたままの百夜を飲み込もうと、喉を鳴らした。


(早く、)


 足が、咥内に引きずり込まれる。唾液に酸の類いでも含まれているのか、じゅわりと足袋が溶け始めた。


(燈史郎、早く、早く来て──!)


その、刹那。

 火花が一閃、細く弾けた。


「──あまり、その子にべたべたと触らないでもらえるかな」


 蛙が雄叫びを上げて、百夜の身体が床に落とされた。燈史郎が糸で蛙の舌ごと斬ったと遅れて理解する。


「きみはあのふたりを」


 抱えていた小紅こべにを竹彦の前に下ろせば、大きく頷いた小紅が千鶴子を抱き上げた。百夜より小柄な、幼女といって差し支えない体躯の子どもが成人女性を抱える姿は異質なものがあるが、中に入っているのは小さくとも妖だ。人に比べて力は強い。


「小紅……!? どうして動いて……」


 驚愕する竹彦は、人形を小紅と呼んだ。それは娘としての名前なのだろう。千鶴子の思いが、そこにこめられているはずだった。


「──竹彦さん。あなたが見た小さな蜘蛛の妖の名前も、小紅と言います。千鶴子さんがつけてくれたそうですよ」

「……」


 小紅が、竹彦の腕を取った。燈史郎と百夜が蛙を押し退けてくれている隙に、離れた別室にふたりを誘導する。

 竹彦は怪我をした足を引きずっているし、千鶴子は一向に目を覚ます素振りがない。千鶴子に関しては怪我を負っているのもあるが、あの蛙の妖がここ数週間に渡り千鶴子の生気を奪っているせいで衰弱している。早く、あの大蝦蟇をどうにかしなくては。

 数秒考える素振りを見せた小紅は、千鶴子の額の怪我にそっと触れ、手についた血を自らの頬に塗りつけた。そうして、口から出した銀糸で千鶴子の全身を包もうとするが──、竹彦が焦った様子で小紅の肩を掴んで制止する。


「待て、何をして……っ! あ、すまない、疑っている訳では、ないんだが……」


 小紅は口が利けない。

 細小蟹ささがにの作る銀糸の繭は強固故、あの大蝦蟇でも破れない。あまり長時間は持たないが、千鶴子の血の匂いを消すこともできる。

 小紅は口が利けない。だから言葉で説明はできなくて、読み書きも不得手だ。けれど、竹彦は聞こうとしてくれている。理解しようとしてくれている。

──伝えたい。伝えなくては。


「……」


 急いた気持ちを抑えて、小紅は左右の手を握って拳を作ると、自身の両の頬をぽんぽんと優しく叩いた。そして、口角を上げてにぃと笑う。

 いつも、千鶴子がやっていた仕草だ。自身が落ち込んだ時、誰かを励ましたい時、こうやって笑顔を見せる。

 静かに目を瞠っていた竹彦はやがて──その両目に涙を滲ませて、小紅へ向かい頭をゆっくりと下げた。


「──千鶴子を、どうか千鶴子を守ってやってくれ」


──伝わった、伝わった、伝わった!

 ぽろりと涙をこぼして何度も頷く小紅を、竹彦が抱きしめる。ぎこちなかった腕の力はやがてしっかとしたものになった。


「……無茶はするな」


 こぼされたその言葉は、確かに小紅に向けられていた。

──それは父親が、愛しい娘に向けた、無事を祈る言葉であった。


        ◆◆◆


『げ』『げ』『げ』


「──大蝦蟇おおがまか」


 対峙する妖を睨みながら燈史郎が呟けば、憤慨したように百夜が肩を怒らせた。


「燈史郎、あれ、虹色のやつ吸うと変になる!」

「大蝦蟇の虹色の気は、吸った者の生気を奪うからね。近づきすぎないように気をつけて」


──そうなると、基本が肉弾戦の百夜は打つ手がない。


「どうにか外に出したいな……」


 燈史郎の攻撃方法は操り糸とそれに付随する炎だが、人様の家を炎上させる訳にもいかない。火花程度の熱にはもう慣れたようで驚く素振りはないし、操り糸の対策か、身体を覆うぬめりが多くなって糸が滑る。見た目よりも頭がいい。


「百夜が何か武器になるものを描くのは?」


 はい! と残った片腕を上げた百夜は、ぐらりと身体を傾けた。右腕を無くしたせいで平衡感覚を失っているらしい百夜を抱き止めながら、その額を指で弾いた。


「あれから一度もできてないのに、無茶言わないの。利き腕もないし」

「付けてよ」

「この状況で無理言わないで」


 しかし、どうしたものか。

 攻撃性の高い満つがいれば話は違うが、燈史郎と百夜ではどうにも大蝦蟇との相性が悪い。

 決定打がないままじりじりと部屋の奥へと追い込まれていたその時、廊下を走る軽い音が耳に届いた。


「小紅」

「その血どうしたの!?」


 ひょこと顔を覗かせた小紅の頬は血でべったりと汚れていて、百夜が肩を跳ねさせた。慌てた様子で頭を横に振り──おそらく心配ないと言って──わざと大蝦蟇のそばに寄る素振りを取った。ひくりと、大蝦蟇の鼻が膨らむ。

 そして、小紅は袂を翻して部屋を後にする。微動だにしなかった大蝦蟇がべちゃりと跳ねて、庭へと踊り出る小紅を追った。


「あれは、千鶴子さんの血か」

「頭いいー!」


 小紅としても、これ以上家を壊されたくはないだろう。千鶴子の血を利用して大蝦蟇を外に誘い出すことに成功した小紅には、この後の策があるのだろうか。

 小紅の考えが読めない以上、余計なことはしない方がいいだろうか。

 うまく走れない百夜を抱えた燈史郎が思考を巡らせながら庭へと出た時──視線の先、大蝦蟇の口から小紅の足が覗いていた。


「……っ!」


 息を飲む。

 大蝦蟇の唾液は強い酸性だ、人形の身体すらすぐに溶かすだろう。小紅の本体である小さな蜘蛛の身など、もう。


「小紅……! 燈史郎、早く助けないと!」


 腕の中で百夜が暴れる。

 ハッとして大蝦蟇に向けてとっさに糸を伸ばしかけ──


「……いや」


 燈史郎はその手を止めた。小さく笑う。


「大丈夫だよ。あの子は本当に頭がいい」

「え?」


 戸惑う百夜の耳が、『げぇ!』『げぇ!』『げぇ!』と、大蝦蟇の鳴き声を拾う。慌てて庭を見れば、咳き込むように苦しむ大蝦蟇がそこにいた。

 頭を左右に激しく振り回し、やがてひときわ大きく口を開けた大蝦蟇はべちゃりと小紅を吐き出した。唾液まみれの小紅が息を切らす大蝦蟇へと両腕を伸ばせば、ずさりと後ずさった大蝦蟇は身体を震わせ唾液を撒き散らしながら跳ねて、やがて塀を飛び越え山へと帰っていった。

 後には、くるくる回って喜ぶ小紅と感心する燈史郎、そして何が起きたのかひとりわかっていない百夜が残された。


「……え、え? なんで? 人形だから?」

「いや、小紅の着物が原因だね」

「着物?」

「あの着物、やけに匂いが強いと思ってたんだけど、後から千鶴子さんが桔梗の染料で染め重ねてたみたいだから」

「桔梗?」

「あそこに咲いてる紫の花。毒性があるんだ。一部の妖にはかなり効く」


──庭に植えられた桔梗は立派に群生していて、何年も何年も、大切に手入れがされているのがわかった。確か千鶴子の嫁入りの際に実家に植えてあったものを植え替えたと聞いたから、千鶴子の祖先に禍人がいたのかもしれない。子孫を守るため、大切に育て続けた桔梗の花。

 まさかそれを、人形である娘に与えるとは誰も思っていなかっただろうけれど。

 子を思う親の愛情に、貴賤などない。


「──こればかりは、愛情の勝利だね」


 空が明るみ始め、朝日に照らされる桔梗の花弁が誇らしげに揺れていた。


       ◆◆◆


「──これで、千鶴子さんの体調もじきに良くなると思います」


 燈史郎が微笑めば、布団で眠る千鶴子の手を握っていた竹彦は肩を震わせて頭を下げた。


「奉日本さん……、すまない、俺は、なんてことを……」

「僕に謝る必要はありませんよ。僕はこの子の意思を尊重したまでですから」


 首を横に振った燈史郎は、部屋の隅にちょこんと座る小紅を見て眉を下げた。


「小紅、大蝦蟇の唾液でひどいことになってるね。どうしましょう、僕が洗いましょうか?」


 人形であるから、人間の子どもを洗うようにはいかないだろう。着物もべちゃべちゃでひどい悪臭がしていたが、当の小紅は千鶴子と竹彦を守れた満足感でむふむふと笑っている。


「いや、私がやるよ。……私の娘だ」

「……!」


 顔を輝かせた小紅が、勢いよく竹彦に飛びついた。嫌な表情ひとつせずそれを受け止めた竹彦は、小紅と額を合わせて笑い合う。仲睦まじい父と娘。たとえ片方がひとではなくとも、間違いなく彼らの姿は家族だった。

 燈史郎と百夜は顔を見合せると、そっと互いの手を握った。


「僕らも、帰ろうか」


 満つの──家族の待つあの家へ。



 結局、夏祭りの開催を待たずに帰ることを決めたふたりを竹彦と小紅は残念がったが、また近いうちに顔を出す約束をして集落を後にする。

──相も変わらずごおごおと音を立てる白滝の前で、百夜ははたと足を止めた。


「あれ、臭くない」


 辺りに立ち込めていた、鼻を覆いたくなるような悪臭がすっかりと消えている。澄んだ空気に思わず深呼吸を繰り返した百夜の耳に、言葉が落ちてきた。


「誰かが、ありがとうって言ってるよ?」


 きょろきょろと辺りを見回す百夜に、白滝を見下ろした燈史郎が笑いながら瞳を眇めた。


「滝の奥にある鍾乳洞に、妖がいるみたいだね。大蝦蟇に迷惑していたんだろうねぇ」

「こないだは聞こえなかったのに」

「大蝦蟇に見つからないよう隠れてたんだよ。滝壺の底に大蝦蟇がいたから」


 この周辺の異臭は、あの大蝦蟇がこの白滝をねぐらにしていた影響であったらしい。


「ここら一帯の守り神のようだから、小紅にも感謝してるだろうね。織部夫妻は、もう大丈夫だよ」

「そっか、よかった」


 安心したように相好を崩した百夜は、片腕故につないだままの燈史郎の手を軽く引いた。


「──先生、元気になったかなぁ」

「遊鷹くんがついてるだろうから心配いらないよ。気になるなら、早く帰ろう」



 軽口を交わしながら、徐々に早足になるふたりの歩調。やがて笑い声を上げながら完全に走り出した燈史郎と百夜の頭上を、白滝の主が水飛沫を舞わせて涼やかに煌めかせていた。


       ***


 細小蟹は小さな小さな妖だ。民家に生まれその家につくが、生まれて数年はひとに潰されて死んでしまう程に弱い。

だから、この家に生まれたまだ幼い末の娘にじっと見つめられその指を伸ばされた時、わたくしは死を覚悟した。

「かぁいい子ねぇ」

 しかし、短く丸い指がわたくしを潰すことはなかった。頭を、優しく撫でられる。

──初めて触れた人は、暖かかった。


 末の娘は千鶴子といった。兄姉と年が離れて生まれたからか、両親に可愛がられ甘やかされて尚、心根の優しい娘であった。

 千鶴子は勘がよく、見つからないように移動しようと思っていてもすぐに気づき笑いかけてくる。

 決して病弱ではないはずの千鶴子はよく床に伏せた。妖の負の影響を受けやすい──禍人だから。千鶴子が生まれてから、この家に住み着いていた弱い妖連中は全て出ていった。禍人の血は確かに甘露だが、おそらくこの先ずっと、千鶴子を狙い強い妖が数多とやってくる。巻き込まれるのは御免だ。それは弱い妖にとっては当然の心理で、わたくしだって今この時にでも家を飛び出してもかまわない。

 かまわない、のに。

 今日も今日とてわたくしは、千鶴子の手のひらに乗っている。


「あら、蜘蛛? 外に逃がしてあげようね」


 千鶴子の母に見つかり外に捨てられそうになって、千鶴子は慌てた様子でわたくしを丸めた手のひらに隠した。


「だめ、私のお友達だもん!」

「ちづのお友達なの? お名前はなんて言うのかしら」

「お名前……えっとねぇ」


 わたくしを見つめながらしばらく考える素振りを見せていた千鶴子は、やがてその丸い瞳を輝かせた。


「小紅! ちいさくて、お目々赤くてかわいいから!」


 人に名前を与えてもらった細小蟹なんて、たぶん同族に笑われる。

 笑われてもいい、と思った。暖かい。暖かい。指先が、笑顔が、声音が、与えられた名前が、──この小さな身体を、暖かく満たす。

 この娘を守ると、誓ったのはその時。


──まるで、ひだまりのようなその暖かさを知ってしまえば、失うことなど考えられなかった。

 いつでも、いつまでも笑っていてほしいひと。


 だから、わたくしにどうか、守らせてね。


        

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