第三章 人形師と鬼絵師(おにえし)の噺 桃の香りは六花に眠り、月解(つきど)けを待つ⑤
「ふぅん……あの男、地獄にいて尚余計な真似を」
片目を歪に眇めた
「百夜……?っ、びゃく、!」
「燈史郎くんは、少し休んでて?」
燈史郎にはこれからも、寧々と一緒にいてくれなくては困るのだ。
「燈史郎に触るな!」
「うるさいよ、死に損ないの分際で」
燈史郎の意識がなくとも、
「百夜! お前、大丈夫なのか!? その角……」
「うん、大丈夫」
笑顔でそれに応えて、百夜は額に第三の目を開いた。親指の腹を噛み切って、滲んだ血で描いたものは──退魔の剣。
「は、退魔の剣を描いたところで、その性質までは真似できない。私の魂は、それじゃあ斬れないよ」
「──やってみないとわからないよ」
言うが早いが、百夜は寧々に斬りかかった。寧々は軽々とそれを避け、顕現させた小鳥で百夜の視界を遮ろうとした。が、辺り一面を震わす雷撃が小鳥を攻撃し、荒ぶる強風がそれを一掃する。
「三対一だぜ、忘れんなよ」
しゃらんと錫杖を揺らす
「──小賢しい真似を」
口元を歪める寧々──人形の見目は本当に鬼の百夜と瓜二つで、百夜は内心で小さく笑った。百夜を見たのは一瞬だろうに、よくこれだけ似せて作ったものだ。燈史郎の憎悪が、それだけ強かったという証。
「人形に入って、どうするの? 人形を器にしたっていつかは壊れて使えなくなる」
「燈史郎くんにお手入れしてもらうもの!」
百夜が刀剣を振るい、寧々がそれを防ぎ、満つが錫杖を振りかぶり、寧々がそれを避け、遊鷹がヤツデで舞い上げた瓦礫の破片を、寧々が弾く。
倒れ伏す燈史郎を巻き込まないよう時に庇いながら、ちょっかいをかけてくる百鬼夜行を蹴散らしながら、舞い散る雪に足を取られながら、戦況は刻一刻と変化していく。
「燈史郎が死んだら?」
「死なせないよ。私が、燈史郎くんのために、魂を集めるもの。そうしたら、ほら、ずぅっと一緒ね」
「──ふざけるな!」
あまりの下衆な言い種に激昂した百夜の、剣筋が狂う。その両腕を掴み、寧々は艶やかに笑った。
「ふふ、捕まえた」
「離せ……!」
意に介さず、寧々は百夜の首筋に顔を寄せて、ぺろりとその肌を舐め上げた。
「ふーん……魂が実体化してるだけで、身体に戻った訳じゃないんだね? うん、ならこうしよう。私の魂に同化してあげる。それならいいでしょう? 燈史郎くんもきっと喜ぶよ!」
「や、め──っ!」
寧々は百夜を、強く抱き竦めた。何も知らない者が見れば、愛らしい双子の抱擁に見えるだろう。
百夜の悲痛な叫びごと、寧々は身の内に丸々百夜を取り込んだ。これで、あの烏天狗も半妖も、不用意に攻撃することはできないだろう。
(──あとは、燈史郎と
そんな算段を立てていれば──唐突に、力が抜けて膝が折れた。
「……っ!?」
寧々が、目を瞠る。
──まずい。この感覚は。
──百夜に、意識が奪われる……!
瞬き一度、人形の身体の所有権は──百夜に移った。
***
燈史郎が目を開けて最初に見たものは、うつぶせに丸くなる百夜の姿だった。
慌てて駆け寄り、膝に乗せて仰向けにする。うっすらと目を開いたのは──寧々じゃない、百夜だった。表情で、すぐにわかる。
「百夜……? 百夜!! 大丈夫かい、あの女は? いや、僕がどうにかする。本当にごめん、怖い思いをさせた。絶対助けるから……っ!」
「燈史郎」
百夜はそっと、燈史郎の唇に人差し指を押し当てた。人形の身体には、百夜の方が馴染んでいる。だから今は寧々を抑え込めているが、それもいつまでもつかわからない。
「燈史郎は、優しい子だからね。あの時、怪我の心配してくれてありがとう。うれしかった」
「……? 何言って」
「おっきくなったね。ふふ、放って、逃げなくてよかった」
瞳を細めて笑うその表情を、燈史郎はずっと昔にどこかで見た。
いつだ──子どもの頃、慶心に出会うよりも前。
どこで──夜の、山の中。暴力を奮う親元から逃げ出した燈史郎が迷って泣いていた時。
あの時、燈史郎は、確かにひとりの少女と出会っていた。
「──……」
まん丸の月は明るかったが、夜の森をあてもなく歩く燈史郎の心を慰めてはくれない。
生まれつき
親元から逃げ出して、ふらふらといつの間にか迷い込んだ獣道を進んでいれば──茂みの向こうから、鮮やかな着物の少女が突然飛び出してきた。
「ぅわ!」
「っ、誰、あの屋敷にはもう戻らない……!」
勢いよくぶつかって、燈史郎はしりもちをつく。少女は何やら必死な様子で暴れたが、目の前にいるのが燈史郎ひとりだとわかるとすん……とおとなしくなった。
「──ねぇ、お姉ちゃん怪我してるの?」
よく見れば、少女の顔には血がべったりとついていた。心配そうに眉をひそめる燈史郎を立たせてやりながら、少女は忙しなく辺りを見回している。
「うん、まぁ……ねぇ、きみは迷子? ひとりで大丈夫? 私はもう行かなきゃいけないから」
どうやら少女は急いでいるらしい。心細いが致し方ない。その時、少女の後ろ姿を見送る燈史郎の腹が小さく鳴った。
「……」
少女の足が、躊躇いがちに止まる。燈史郎はぼんやりと、そういえば朝から何も食べてないなぁ、せめて湧き水を探さなければ……などと考えていれば、戻ってきた少女に腕を取られた。
「こっち。……果物の匂いがするから」
「果物?」
瞳を輝かせた燈史郎は鼻をくんくんと鳴らしてみるが、少女の言う果物の匂いとやらはわからない。それでもおとなしくついて行けば、やがて甘い香りが辺りに漂い出す。
「うわ、よりによって桃……」
なぜか青ざめてげんなりとした少女とは対照的に、繋いでいた手を離して燈史郎は駆け出した。桃の木が多くなるそこに、人の手が入っている様子はない。自然の桃園からひときわ大きな桃をひとつむしると、薄桃色の皮ごと齧りついた。柔らかい果肉を咀嚼し、溢れる甘い汁をすする。
それを遠目で眺める少女に気づくと、燈史郎は少女の元へ戻り食べかけの桃を差し出した。
「はい!」
「いや、私はいいよ……」
「おいしいよ?」
「ぅ!」
子ども故の強引さで少女の口元に桃を押しつければ、根負けした少女の唇がわずかに動いた。そして、驚いたように目を瞠る。
「……え、おいしい」
「ね! 誰かと一緒に食べるとおいしいんだね」
「……そうだね」
控えめに笑った少女と一緒に、ひとつの桃を左右の端から齧りつく。ふたりで指も口もべたべたにしながら、満足するまで桃を食べた。
──そして腹が満たされると、歩き続けた疲れが一気に出て、桃の木の下で座り込む。そのまま去ってしまうかと思われた少女だったが、彼女もまた、燈史郎の隣にゆっくりと腰を下ろした。赤い着物の裾に泥がつくが、気にする素振りはない。
月明かりに、少女の繊細な横顔が淡く照らされる。小さな唇は潤いに濡れ、伏し目がちの瞳は小星が散っているように煌めいていて──燈史郎の胸が、高鳴った。
(? あれ、どうしたんだろ僕……)
どきどきと忙しない心臓を押さえながら首を傾げた。漂う甘い香りに、くらりとする。もしかしたら、桃ではなく少女から発せられているのかもしれない。
「──あのね、僕ね、妖かもしれないの」
「は?」
「お父さんが、そう言ってた。前世が妖なら、今世も妖だって。だから、僕のこといらないんだって」
燈史郎自身、なぜこんな話を少女にしているのかわからなかった。妖だと気づかれて、嫌われてしまうのが怖かったのかもしれない。嫌われるくらいなら、最初から正体を明かしてしまった方がいい。けれど、少女は予想もしていなかった言葉を返した。
「私は、鬼だよ」
「……お姉ちゃん、妖なの?」
目を丸くする燈史郎に、少女は苦笑いながら自身の額を指差した。
「うん。妖の見えない鬼絵師だよ。角あるでしょ」
「はっ! 気づかなかった……」
「だからね、私の瞳に映るきみは、ちゃんと人だよ。安心していい」
「──そっか、うん、僕、人なんだ……」
よかったぁ。涙を浮かべながら相好を崩した燈史郎を見て──少女はやおら立ち上がった。燈史郎の手を握ると、どこかを目指して歩き出す。
「おいで。向こうに、きみと
「えにし?」
「会えばきっとわかるよ。急いで」
足早に、少女は森の中を進んでいく。足場の悪い獣道に苦戦しながらも、燈史郎は繋いだ手が離れないよう必死でついていく。
「ここから先は、ひとりで行けるね?」
「え……」
ふと、少女は立ち止まった。彼方を見やり──何かを諦めたかのような顔をする。ほどかれた手に不安そうに表情を曇らせた燈史郎の頭を撫でて、空を見上げた。
「大丈夫。今夜は月が沈まない白夜だから、暗闇に飲まれることはないよ。ほら、行って。振り返らないで」
少女に背中を押され、歩き出す。振り返るなと言われたから、前だけを見て。
そうして進んだ道の先で、燈史郎は慶心に拾われた。安心感からか、燈史郎はそのまま高熱を出し──数日後、熱が下がった時には百夜との出会いを忘れてしまっていた。今、この時まで。
「──!!」
燈史郎は言葉をなくした。思い出した、幼い頃の出会い。百夜と出会った、月の明るい一夜。
「百夜、あの後捕まったの……? 僕の、せいで、」
寧々は言っていたではないか。逃げ出した百夜が、なぜか近くにいて再度捕まえたと。あれは、燈史郎に構っていたせいで逃げ遅れたのだ。
「ごめん……っ、僕、僕は……!」
「謝らないで。燈史郎は、優しい子。忘れちゃ駄目だよ」
百夜の顔の半分が、ぴくぴくと痙攣し歪む。寧々が、出てこようとしているのだ。どうすればいいのかわからず涙ぐむ燈史郎に微笑みかけ、百夜は刀剣を手に取った。間髪入れずに、燈史郎の肩越しに、自らの胸を貫いた。
「──え、?」
「ほら、痛くないでしょ? きみは、人だよ」
退魔の剣が斬るのは妖の魂だけだから、と。百夜はいつだって、燈史郎の心を守ろうとする。燈史郎は百夜の胸から退魔の剣を引き抜いた。腹と、胸に空いた穴。これ以上、傷つけないと誓ったのに。
人形の内側から、声が響く。
『なんで……この剣、偽物』
「うん、だから──さっき、交換してたの」
入り乱れた攻防は、このために。
「一緒に消えよう」
『──やだよ、やだ! だってまだ、約束……』
寧々は嫌がって嫌がって──、けれど静かに、その魂が泡のように消えたことを百夜は感じる。
(……? 今、誰か)
誰か、寧々の魂を迎えにきた──?
疑問に思いはしたけれど、だからといって今さら寧々に何ができる訳でもない。まぁいいやと、自身の魂が薄れゆく感覚に、百夜はゆっくりと瞳を細めた。
◆◆◆
──時は少し、遡る。
「昔話を、聞いてもらえるか?」
「興味ねぇなぁ……」
突然現れた女に一切驚くこともせず、怯える
女──東江家前当主東江寧々は、無下にされたことを気にする素振りも見せずに川縁に座り込むと、静かに口を開いた。
「自分で言うのもなんだが、私はだいぶ優秀でな。十になった頃、当主を継いだよ。東江家で初めての女当主だ」
──もう、何百年も昔の話だ。
当主を継いだ寧々は、退魔師として人々を妖から守ってきた。その地盤は日に日に強固なものになっていき、一族内で寧々に意見できるものはもういない。寧々のやり方に口答えする者は容赦なく殺してきたから、当然の結末だった。
東江家は代々、当主になった際に一匹の妖を選び使役するという決まりがあり、妖たちが蠢く倉の中から寧々が選んだのは──、
「可愛い可愛い、
恍惚とした表情を浮かべた寧々に、慶心は耳を疑った。
「百舌鳥? よくあんな狂暴なもん使役したな」
愛らしい見た目とは裏腹に、百舌鳥のえげつなさは顔をしかめたくなるそれだ。気に入らない者がいれば人でも妖でも生きたまま串刺しにし絶命を愉しむ性格で、食うことすらしない。死した獲物は独特の死臭を発し、やがて周辺にいる者を発狂させると云う。
「七日七晩抱き潰したら、ずいぶんおとなしくなったよ」
「……そうかい」
呆れたように閉口した慶心に構うことなく、寧々は言葉を続けた。
──初の女当主である寧々は疎まれていた。邪魔者を殺し重々気をつけていたつもりだったが、毎食少量の毒を盛られていたことに、味覚のない寧々は気づくことなく。
倒れ込んだ寧々は最期の命令だと、やぐら──百舌鳥の名だ──の耳元に言葉を流し込む。
「──東江家の、繁栄を」
うれしそうに頷いたやぐらの魂が、寧々の身体に入り込む。妖のやぐらはこの先、長く長く生きるだろう。寧々のために、東江家のために。
「あの子には、随分可哀想なことをした……。あの子の罪は、私の罪だ。私が背負うよ」
水面を眺めていた寧々が、やがてふらりと立ち上がった。
「さぁて、幕切れだね。もう行くよ、あの子を迎えに行かなくては」
その後ろ姿を睥睨する慶心は気づいていた。寧々が、ただの一度も謝罪の言葉を口にしなかったことに。
寧々が気にしているのは百舌鳥だけだ。どうやら百舌鳥には悪いことをしたと思っているようだが、被害を被った周囲のことは眼中にない。
(狂ってやがんなぁ……)
寧々と百舌鳥が殺した人間と妖の数は数百数千を優に越えるだろう。
「……ありゃ、地獄の最下層に何千年いることになるんだか」
「そんなの、自業自得です!」
寧々がいなくなったことを確認してようやく慶心の背から顔を出した一路は涙目で憤慨し、べーっと舌を出した。
「──私たちも、そろそろ行くか」
「……いいんですか? 最後まで見届けなくて」
心配げに水面を見つめる一路を抱き上げ、慶心は歯を見せて笑った。
「あいつらなら、きっと大丈夫だ」
全員が、迷いながらも最善を尽くした。誰かひとりでも欠けていれば、今頃燈史郎の黒霧に全て飲み込まれ、通は奪われ、東江家の退魔師が司る暗黒期が訪れていたはずだ。そうなれば、どれだけの命が失われていたことか。世界の命の均衡が崩れていただろう。
感謝しろ、感謝しろ、あの子たちに。
「なぁ、神よ?」
地獄の淵から天上を睨み、慶心はそっと中指を立てた。
「神殺しにでも、私はなるぞ」
それ相応の祝福を与えないのならば──よくよく、覚えておけ。
◆◆◆
百夜は、──
「白夜……びゃくや」
燈史郎が震える声で白夜の名前を呼び、震える指で白夜の手を握る。白夜に、握り返すだけの力はない。いつの間にか、黒霧は止んでいた。
「……大丈夫。夜は怖くないよ、燈史郎のことを好きな人が、照らしてくれるから」
本当は手を握って、頭を撫でて、頬に触れて、涙を拭って、抱きしめてあげたい。燈史郎の手はひどく冷たくて、暖めてあげたい。
──ずっと、一緒にいてあげたい。一緒にいたい。
「私は、ずっと燈史郎のそばにいるからね。沈まないお月様だからね」
ずっと一緒にいたい、けれどそれはかなわない。だから、燈史郎がこの先僅かばかりも寂しくならないように、言葉を重ねる。
形はなくとも、白夜はずっと燈史郎を見守っているから。
──あぁ、意識が薄れていく。視界がぼやけて、燈史郎の顔が見えなくなる。握られている指の感覚がわからない。燈史郎の柔らかい声が聞こえなくなる。
(一度でいいから、一緒にまぁるい桃が食べたかったな……)
最後に力を振り絞って、白夜は燈史郎の顔を引き寄せた。
「燈史郎が、世界で一番大好きだよ」
唇が触れたのは、ほんの一瞬。
力を失い崩れ落ちた白夜の身体が──否、人形がかたんと床にぶつかった。
「びゃくや……?」
名前を呼んでも、白夜が瞬きをすることはない。声も、指先も、言葉も、応えは一切ない。
腕の中にあるのは、愛しい初恋の娘を模した、ただの人形が一体。
「びゃくや、ッ白夜、白夜! いやだ、白夜、お願い、……起きて」
きつく、白夜の身体を抱き竦める。白夜の両腕は、床にだらりと投げ出されたまま。
溢れる涙が、白夜の顔にぼたぼたと落ちる。燈史郎に掛けてやるべき言葉も見つからず、満つと遊鷹はただ立ち尽くしていた。
燈史郎の悲痛な嗚咽が、いつまでも響いていた。
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