第三章 人形師と鬼絵師(おにえし)の噺 桃の香りは六花に眠り、月解(つきど)けを待つ④
町に、百鬼夜行が流れ込んでいる。多くの退魔師たちが対応に当たる中、
「なんだよ、これは……」
そこに広がっていたのは──半壊した屋敷に、渦を巻くような濃い黒霧。濃度が濃すぎて、もはや霧というよりも雲にちかい。嵐のような激しさの中、そこにいるであろう
(
黒霧の中からは、少女の嗤い声が響いていた。百夜の声ではあるが、あの少女はあんな笑い方はしない。
「俺、燈史郎の方行ってくる」
「遊鷹、無理だったらちゃんと引け。……お前にまでなんかあったら、」
「ひとりにしねぇって言ったでしょ。そんな不安そうな顔しないで」
むにゅ、と唇がつままれた。遊鷹が、あやすような表情で満つの頬を指の腹で撫でる。
「それに俺──あいつ、いっぺんぶん殴んなきゃ気が済まねぇ」
「──あぁ、そっちは任せた」
それは、まぁ、同意見だ。そして、燈史郎にも殴ってほしい。こんなところまできてしまった一因は、臆病な満つのせいでもあったから。
「──満つか」
「
「……無茶を言うな」
現場の指揮を取り、百鬼夜行に応戦する退魔師たちの後方援護を広範囲に渡り行っていた総司は、苦々しい口調で渋面を作った。簡単に、何が起きたのかを聞く。
「──あの刀剣、あんたが細工したのか」
「何の話だ?」
「あんたには言ってねぇ。なぁ、
満つの視線で、従者の
「百夜の身体が退魔の剣で刺されたんなら、同じ器に入ってた
「私を、お疑いですか?」
しらを切るつもりならば──と、満つは通の心を抉るであろう名前を口にする。
時間があまりないのだ、悪く思わないでほしい。
「
「──っ勝手なことを言うな!」
つられてくれた。目を見開いて叫ぶ通は、地団駄を踏む子どものように頭を振った。
「ばけもんの当主に唆されたか。わかってんのか、東江家の血筋はお前だけだ。この後どんな風に利用されるか……!」
「それでも……! 姉さんが地獄に落ちる理由はなかった! あの男と出会わなければ!」
確かに、通からしたら姉が地獄に道連れにされたことは、許しがたかったかもしれない。けれど、東江家当主のやり方で無理やりに追い出された魂はおそらく輪廻転生の輪から永遠に外れることになる。
「──なら、地獄から連れ戻すか?」
「え……?」
「手伝ってやるよ。命の保証はしねぇがな」
烏天狗は、決して人に優しい妖ではない。赤目を光らせる満つが舌舐めずりをすれば、口元をひきつらせた通が後ずさった。
「っ、ひ……!」
「──そこまでだ」
かたかたと震え、怯える通の前に立ったのは総司だった。満つが、舌を打つ。
「退けよ、総司。地獄に落ちるのはその女の願いだろうが」
「やめてやってくれ。これだけそばにいて、業に気づいてやれなかった俺のせいだ」
その背に通を庇いながら、総司は頭を下げた。
「……」
──総司がなぜ。私のために頭を下げる?
通は瞠目した。
裏切り者の自分を、なぜ庇うのだろう。どうせ、東江家で唯一生き残った自分を不憫に思って引き取っただけだろうに。ただの部下の、ひとりだろうに。
通の実力は、奉日本家当主である総司の足元にも遠く及ばない。切って捨てれば、それで終わる。
(どうして)
──本当に、わからない?
問うてきたのは、一路の声だ。反射的に、考える。
『自分の家だと、思ってくれてかまわない。誰かに何か言われたら、すぐに言え』
『退魔の仕事……? いや、大丈夫だ。人手は足りている』
『寒くないか? 腹は減ってないか? 困り事は、ないか?』
そうして脳裏を過ったのは──総司が、掛け続けてくれたいくつもの言葉。そのすべてが、通を気遣うものばかりで。
『ねぇ、あなたのお姉さんを、地獄から助けてあげる』
そんなある日、幼い少女に掛けられた言葉。その日からの記憶はひどく曖昧だった。
──助けてあげる?
そもそもの元凶はあの女なのに?
私はなぜ、あの女の言うことを聞いて……!
自身の犯した事態をようやく理解し、青ざめた通は総司と満つの間に割って入った。
「──っ総司様は関係ありません! 罰を受けるのは私だけです!」
「あ? 関係ない訳ねぇだろ──こんだけ思ってくれてるやつがいんのに」
伸びた満つの手のひらは、優しく通の頭に手を置いた。顔を上げて、思わず総司を振り返って、安堵したようなその表情に涙が溢れた。姉を失い、ひとりぽっちになったとずっと嘆いていたけれど、そんなことはなかった。背中合わせに見守ってくれていたから、気づくのに遅れてしまった。
「──頼みたいことがある」
満つの言葉に、通は力強く頷いた。
***
「燈史郎ぉお!!」
ヤツデを振りかぶり、遊鷹は
「やだ、燈史郎くんをいじめないで」
「百夜の顔で、気色悪ぃ声出すな」
吐き捨てるが、寧々は一笑に付しただけだった。弾き飛ばしてやろうかと思うが、百夜が戻る場所がなくなるかと思えばあまり乱暴な真似はできない。
「燈史郎! 聞け! 黒霧を閉じろ!!」
「百夜、百夜、百夜……」
「聞けや! 泣いてる場合か!!」
「百夜を、泣かせた……」
寧々を守るような立ち位置のまま、燈史郎は涙を流しながらも決して刀剣を手放しはしない。霧散させた黒霧はまたすぐに立ち込め始める。元凶が燈史郎なのだから当然だった。総司の説明を、満つの思考と同調している今は遊鷹も把握できる。ようやっとこの状況に追いつけた。
襲ってくる百鬼夜行の妖を蹴散らしながら、遊鷹は怒鳴る。
「──ふざけんなよてめぇは! 一緒にいたら泣かせる時もくんだよ! 違う人間なんだからしょうがねぇだろ! 俺だってこれから満つさんのこと泣かせるかもしんねぇよ、したらお前が叱ってくれりゃあいいじゃん! 兄ちゃんだろ!!」
「……遊鷹、くん」
ふっと、燈史郎の目線が遊鷹を向いた。兄ちゃんなどと久しぶりに口にしたが、ずっと、燈史郎は遊鷹にとっては大切な兄なのだ。腹立たしいことの多かったこの数年の間だって、口ではなんと言っても本気で縁を切りたいと思ったことはない。
こんなところで、失いたくない。
「大切な人泣かせたら涙拭いて泣き止むまでそばにいんだよ! てめぇは百夜ひとりにして何してんだ、こんなとこで泣いてる場合か! 地獄まで迎えに行って頭下げてこい馬鹿野郎が……!」
燈史郎の尻を蹴り飛ばそうとした、その、時。
「──大丈夫。地獄の淵から戻ってきたよ」
凛としたその声が、場に響いた。静謐を宿す水の雫が澱む空気を軽くし、遊鷹はここに来て初めて、深く深く呼吸ができた。
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