第三章 人形師と鬼絵師(おにえし)の噺 桃の香りは六花に眠り、月解(つきど)けを待つ③


 慶心けいしんが死んでしばらく経った頃、気落ちする燈史郎とうしろうを気晴らしにと連れて行った棲みかより遥か遠くの山の中で、つは遊鷹ゆたかと出会った。


(贄か? 阿呆らし)


 ひときわ大きな大木に縄で括りつけられていた小汚ない子どもを解放してやりながら、満つは子どもの肩を叩いた。


「大丈夫か? ほら、好きなとこ行けよ」


 しかし子どもは、その場から動かずに視線を揺らしただけだった。


「母さんと父さんが、ここにいなさいって……神様が迎えに来るからって」

「来ねぇよ、そんなもん」


 肉の匂いにつられて、妖か野犬なら来るかもしれないが。満つが鼻で笑えば、子どもは首を傾げた。


「……? あなたが、神様?」

「違ぇって、──シロ? どこだ?」


 何とはなしに振り返れば、それまでつまらなさそうにしていた燈史郎の姿がない。慌てて立ち上がった満つだったが、子どもに裾を掴まれてたたらを踏んだ。


「あー……ちょっとここで待ってろ、すぐ戻るから」

「うん」


 後から思えば、連れていけばよかったのだ。けれどその時の満つは、羽根を見られて天狗であることに気づかれる方が面倒だと感じて、子どものぱさついた頭を撫でてその場を離れる。


(どっか、迷い子を育ててくれる集落を探して届けてやるしかねぇな)


 確かこの地方は昔から干ばつがひどかったから、間引きを兼ねた贄なのだろう。のこのこ親元に帰ったところで、村八分に遭って殺されるだけだ。

 空から探せば燈史郎はすぐに見つかり、約束通り子どものもとへ戻った満つの鼻に、血の臭いが広がった。


「──あ……?」


 倒れる子どもに慌てて駆け寄れば、全身が血にまみれ、裂けた肉の隙間から骨が覗いていた。


(なんで、妖……いや、野犬か? どうしてこいつ、逃げなかったんだ……!?)


 確かに痩せ細った身体では野犬から逃げるのは難しかったかもしれないが、それにしても大木の真下のまま、動いた気配がない。


「神様……」


 濁った瞳と視線がぶつかる。口の端から血を垂らしながら、子どもは笑った。


「おれ、ちゃんと、待ってた、よ……」

「──っ!!」


 俺が、待ってろって言ったから?

 理解した瞬間、満つの血の気が引いた。

 どうする、どうする、どうする?

 眷属けんぞくにするか? いや、だめだ。眷属にしても死は避けられない。こいつの命を今救いたいなら──


「……つがい、になるしかねぇけど……」


 主従関係の眷族とは違い、番いは互いの命を背負い合う。片割れが死ねばもう片方も死ぬ、といった風に。

この子どもと番えば、霊力の強い満つに命が引きずられ、死の淵から引き戻せるはずだった。

 けれど、番いは解消ができない。しかも、妖と人が番えば人は長い時間をかけて妖へと変化する。この子どもにとって、それはしあわせか?

 満つが判断できないでいれば、子どもがごぼと血の玉を吐いた。もう時間がない。冥府の小鬼が、辺りをうろつき始めていた。


「あーもう! どうなっても知るか!!」


 その日、満つはその子どもと番いになった。



 行き当たりばったりの行動だったが、数日もすればそんなに悪くないと満つは思い始めていた。

 まだ幼い年下の遊鷹を、燈史郎は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれている。年も近いし、仲良くなれるだろう。


(シロは少し、慶心を忘れた方がいい)


 満つはそう思っていた。

 満つだって、慶心が死んだことはそりゃあ寂しいけれど、愛した女の身体も心も守るために地獄を開く馬鹿なんてあいつくらいのものだから、いっそ清々しい。よくやったと背中を叩いてやりたい気分だった。俺の主は世界一だと、すべての妖連中に自慢して回りたいくらい。

──まだずいぶんと妖の魂を残してしまっている燈史郎だが、これからどんどんと人になっていく。そのためには、慶心のことを過去にする作業が必要だろう。

 常々、そう思っていた。だからある日、ぽろりと燈史郎にそれを伝えた。


「満つも、僕をひとりにする気なんだ……!」


 途端に、燈史郎は泣いた。泣いて、泣いて──黒霧くろぎりが一気に溢れ出す。黒霧は、前世が妖だった者の魂がまだ人に成りきれず、負の感情によって百鬼夜行を呼び起こすものだ。

 まだ小さな百鬼夜行だったから満つひとりでどうにか対応できたが、これが続けばどうなる? 燈史郎は大丈夫なのか?

 うずくまり泣きじゃくる燈史郎を抱きしめる。


「シロ、シロ、ごめんな? 大丈夫だ、これからはずっと一緒にいるから……!」

「……満つさん? しろー兄ちゃん、大丈夫?」

「遊鷹、ちょっとあっちいってろ」


 心配そうに表情を曇らせた遊鷹を認めた途端、燈史郎の瞳がどろりと歪んだ。ほとぼりが冷めるまでしばらく引き離さないと、遊鷹が殺されると満つは悟る。


──遊鷹、ほんの少しだけ、会えなくなる。

──……俺、なんかした?

──違う、お前はなんも悪くない。ただ……少しだけ、シロを優先させてくれ。

──俺、あいつ、嫌いだ。


──そうして結局、満つは遊鷹を福籠庵ふくろうあんを勤しむ市恭しきょう夫妻に預ける決断をした。市恭夫妻は慶心が生きていた頃からの顔見知りで、満つがあやかしであることも知っている。遊鷹の事情もある程度知った上で引き取ってくれたのだから、感謝してもしきれない。



 いつからか、遊鷹に対して引け目があった。

 遊鷹はいつか絶対に、他の誰かを好きになるだろう。もし人相手に恋情を抱いたら、自身が妖になったことをきっと後悔する。人相手だろうが妖相手だろうが、最終的には満つから離れようとする。そんなことに、なったら──


(──そんなことになったら、俺はその相手を殺しちまう)


 せめてと、番いの主導権は遊鷹にしたけれど、そんなもの贖罪にもなりやしない。

 あの時、ただ目の前の子どもの命を救いたいだけだった偽善はいつの間にか恋情に形を変えて膨れ上がり、満つは遊鷹のすべてが欲しかった。物理的に離れたせいで加速する思いは、その引け目から余計に遊鷹を遠ざけさせた。燈史郎を言い訳にして。


「遊鷹、とりあえず落ち着け。シロもなんか様子変だし、チビのことも心配だからいったん霊域れいいき閉じて、」

「──シロシロってなんなんだよ! 俺はあいつ以下かよ!? 俺の方があんたのこと考えてるじゃん! どうせ、燈史郎と番いになりたいんだろ……!」

「は……、ちょっと待て、お前何言って……」


 遊鷹の発言に、満つは目を丸くした。燈史郎と番い? 考えたこともない。二の句が継げない満つを見て何を勘違いしたのか、遊鷹は表情を歪ませて唇を噛んだ。


「……後悔してんの?」

「は?」

「俺のこと生かしたの、後悔してんの? 間違いだった? 俺のことなんかもういらねぇ……?」


ぽろ、と、遊鷹の頬を涙が伝った。


「っ、違……! こ、うかい、すんのはお前なんだよ……」


 あぁ、これはもう、話さないといけない。伝えたくなんかなかったが、遊鷹を泣かせてまで黙りを決め込む訳にもいかない。


「……俺? なんで?」


 涙を乱暴に拭う遊鷹が、満つの言葉を促した。


「……お前自分の寿命分かってんのか? 人の何倍あると思ってんだ。その間、ずっと俺と一緒で……しかも、俺が死んだらお前も死ぬんだぞ? その意味ほんとにわかってんのかよ……!」

「わかってっけど?」


 あんまりにも簡単に頷かれて、肩の力が抜ける。こちらまで泣きそうだ。


「……わかってねぇよ……」

「わかってる!──あんたとずっと一緒にいられるってことだろ? あんたのこと、俺がずっと守っていいってことだろ? やべぇくらいしあわせじゃん。俺はそれ、すげぇうれしい」


 まっすぐに見つめられ、はっきりと言い切られ、満つは言葉をなくすしかない。だって、こんなに暖かくて──胸が詰まる。


「馬鹿じゃねぇの……」

「馬鹿でもいいよ。だから、あんま泣かないで。俺はあんたをひとりになんかしないから」


 遊鷹の指が、満つの涙を拭う。それをきっかけにして、満つは遊鷹に抱きついた。尖った耳に強く噛みつきながら、吐き捨てる。


「いつか絶対後悔するぞ、お前」

「だからぜってぇしねぇって。これからずっと一緒にいて、証明してみせる。それでいいっしょ?」

「ばか、やろ……」


 ぎゅうと腕の力を強くする遊鷹に体重を預けながら、肩口に目元を押しつけた。涙が滲んで遊鷹の着物がわずかに重くなった頃、満つは顔を上げた。


「──なぁ、そういや、酒のこと誰に聞いたんだ」

百夜びゃくやに。満つさんが、俺との番い解消しようとしてる、って」

「……」


 ことの発端は、満つが百夜からもらった小瓶の酒による。百夜はどこぞの妖にもらったと言っていたが、そも、番いの解消ができる酒なんて聞いたことがない。遊鷹にその存在をわざわざ仄めかしたのはなぜだ? 揉めることなんかわかりきっているのに。仲違いを、狙った?


(あれは……本当に百夜なのか?)


「──シロたちんとこ行くぞ、嫌な予感がする……!」


 閉じられた霊域の向こうでは、白き闇がごうごうと音を立て吹雪いていた。


        ◆◆◆


 地獄の淵の片隅で、百夜は自身の身体の隣にちょこんと座り込んでいた。


「燈史郎、思い出さなくていいよ。忘れてていいよ」


──どうか笑っていて。

──しあわせでいて。

 百夜の願いはそれだけだ。小さな手のひらをぎゅっと握り、きつく目を閉じ、ただひたすらに祈るばかりの百夜のもとに、ひとりの男が現れた。


「久しぶりだなァ、嬢ちゃん」


──奉日本たかもと慶心。

 その姿を認め、百夜は静かに微笑んだ。


「……こんにちは、慶心さん」

「悪いな。燈史郎が巻き込んじまってよ」

「ううん、私はずいぶんと楽しかったから」


 首を横に振ってみせた百夜の頭を撫でた慶心は、百夜の手を引いて、すぐそばにあった川縁まで導いた。


「見えるか?」

「川? あぁ、これが三途の川なんだ」


 大した感傷もなく何とはなしに覗き込んだ水面に映った光景に、百夜は息を飲んだ。

 そこには。

 溢れる百鬼夜行が、屋敷を破壊し山を走り町へ流れ出ようとしていた。百夜の顔をした人形が両手を広げて嗤うその横、黒霧の中心で、刀剣を構える燈史郎が涙を流している。


「──っ!」


 咄嗟に川に飛び込もうとした百夜の腕を、慶心が強く掴んだ。


「っ離せ!」


 牙を剥いた百夜に、慶心は諭すように言葉をかけた。黒曜の眼はまっすぐ、百夜を見据えている。


「聞け。このままここにいれば、じきに魂が身体に馴染む。時間はかかるが、転生もできるようになる」

「……」

「嬢ちゃんが、これ以上がんばる必要はないんだ」


 燈史郎の言うように、慶心は優しい男だった。養い子の燈史郎が大切なはずなのに、百夜にもきちんと道を提示し選ばせてくれる。

 転生したら、今度は何になれるのだろうと夢想する。人か、妖か、虫か、鳥か、植物か。

 鬼絵師としてのこの生はなかなかに厳しいもので、東江あがりえ家に捕まっていた時は本当に地獄のような日々で早く死にたいとばかり思っていたが──でもこうして、燈史郎に会えたから。満つや遊鷹や、優しい町の人たちと会えたから。生まれてよかったと、思える。


「でも、転生したその時に、燈史郎はいないから」


 慶心は道を示してくれた──だから、百夜は選ぶ。

 転生した先に、燈史郎の笑顔がないなら意味はない、と。

 今のあの子を守りたい。燈史郎を、守りたい。百夜の願いはそれだけで。

 慶心は、くしゃりと自身の髪を乱暴に掻いた。


「……元を辿れば、巻き込んだのは私だ。贖罪にもなりはしないが、嬢ちゃんの魂にあの時呪いをかけておいた。でもそれも、退魔の剣に貫かれてこれ以上の効力はない」


──次、退魔の剣で斬られれば、百夜の魂は本当に消滅する。待っているのは、転生も何もない、本当の無。


「ありがとう。でも、ここにいたら燈史郎のこと、守れないから」


 怯まずに笑った百夜を見て、慶心は奥歯を噛み締めた。浮かぶ涙をこらえながら、深く深く、その頭を下げる。


「──出来の悪い息子だが、どうか、よろしく頼む」


 魂だけで戻っても、入る器は寧々に奪われている。慶心の力で魂を実体化してもらう手筈となったが──代償として、今まで地獄で眠っていた鬼の身体は消滅するらしい。燈史郎を守れさえすれば、何だっていい。


「気をつけろよ。獄卒どもは私が説得するから気にしなくていい」

「はい──あ、慶心さん!」

「ん?」


 三途の川へと飛び込む寸前、百夜は振り返った。


「ちょっぴり泣き虫で情けないとこもあるけどね、優しくてかっこよくて、最高の男だよ、燈史郎は!」


 歯を見せて笑う百夜の表情に呆気に取られていれば、


「──いってきます!」


 大きな声でそう言うと、百夜は勢いよく水面へと飛び込んだ。

 その姿を見送って──慶心は目元を手のひらで覆った。

 養い子の人生の、最大の祝福はおそらくあの鬼の少女に出会えたことだ。前世の牛鬼の魂を引きずって生まれたせいで、人からも妖からも疎まれた燈史郎。

優しい性故にその歪みはどんどん大きくなっていったが──鬼絵師の魂でありながら記憶を失い、人として感情を芽生えさせていく百夜の存在が、世界との鎹になってくれていたのだろう。


(取るべき手を間違えるなよ、燈史郎──)


 水面を見れば、満つと遊鷹もどうやら和解したらしい。心配させてくれる。遊鷹といる満つは、慶心の知らない顔を多く見せるから一度からかいたいのだが、それが叶うのはずいぶんと先のことになるだろう。

 そうこうしている内に、獄卒──牛頭馬頭ごずめずがやってきた。思ったよりも遅かったが、たぶん誰が慶心のところに行くかで揉めていたのだろうと思う。

 牛頭馬頭は死した魂を勝手に戻したことに文句を言ってきたが、慶心はどこか他人事のように水面へと視線をやった。びくと、牛頭鬼馬頭鬼の肩が小さく跳ねる。


「……また、壊してやろうか。直すのには、随分時間がかかるだろうなぁ?」


──自分と一路、百夜の身体が地獄に落ちた際に、さっさと進めと急かしてくる牛頭鬼馬頭鬼にぶちキレた慶心は三途の川を半壊させた。

 この川縁で、見守らなければならなかった。燈史郎たちの行く末を。

 慶心たちに一切の手出しをしない約束のもと暴れるのを止めた時の、牛頭鬼馬頭鬼たちの顔は見物だった。あわや閻魔まで駆り出される寸前の騒動は、長く獄卒どもの間で語り継がれることになる。

すごすごと戻っていく牛頭鬼馬頭鬼の背中には何やら哀愁が漂っていたが、無事説得──第三者からすれば完全な脅迫──に応じてくれたようで一安心だ。

 草むらに踵を返した慶心は、草葉の陰でべちゃべちゃに泣いていた一路を抱き抱えた。


一路いちろ、まだ泣いてるのか? なぁ、泣き止めって……目が溶けてしまう」

「わ、わた、私の一族がどんでもないことを……! とおりまで、どうして……」

「お前さんのことが大切なだけだよ。あまり怒ってやるな」


 頭に絡んだ草を取ってやりながら、いつまでも変わらない泣き顔に、慶心は優しく眉を下げた。



「あの、あの! あなたを殺しにきました……!」


──出会ったのは、必然だった。


 悪名高い東江家の、分家筋の女。他の退魔の一族を毛嫌いしていることで有名だが、その中でも特に奉日本家を敵視している。こうして暗殺を企むことも少なくはない──


(いや、暗殺ではないなこれ)


 なんせ、目の前で殺すとはっきりと宣言された。

 ずいぶんとどんくさい退魔師がいたものだと、慶心は笑ったものだった。


「ごめんなさい、ごめんなさい」


 退魔を行う度に妖を思い、一路は泣いた。慶心を殺そうと仕掛けてくる時も泣いた。何度も何度も。あんまりに泣くものだからこのままだと溶けて目がなくなってしまうと心配になって、


「お前さんになら、殺されてやってもいいよ、私」


 つい、そう言った。首筋に刃物を当てられながら。

 しかしそれを言ったら、


「好きになった人を殺すとか、私は私は、──ぅぁわぁあああ!」


 そう一路が泣きじゃくるから。だから拐った。

 訪れた平穏な日々はそう長くは続かなかったけれど、一路の笑顔が増えたのだから、決して間違いではなかったと慶心は断言できる。

 東江家当主は妖だ。人の身体を入れ替え器とし、長い時間を当主として君臨している。妖が、そこまで執着するような座ではないと思うが──。

 何にせよ、一路の心も身体も汚させる訳にはいかないと思った。阻止するには、慶心をもってしても地獄を開く他なく。


「──全員まとめて、しあわせになりやがれ」


 祈るように呟き、慶心は水面を見つめる。

 慶心はこれ以上、何もしてやれない。死者だから。今を生きるお前らが、お前ら自身の手で掴み取れ。そのために、足掻け。見守っててやるから。

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