第三章 人形師と鬼絵師(おにえし)の噺 桃の香りは六花に眠り、月解(つきど)けを待つ①
夏が終わり秋が過ぎて、肌寒い日が続くようになっていた。
「む、
小紅から届いた手紙を相づちをうちながら読み進め、読み終わると同時に返事を書こうと文机の引き出しから便箋を取り出したところで──、
百夜は急にすっくと立ち上がると、部屋を出て満つのもとへと向かった。
「──先生。これ、あげる」
薬の調合をしていた満つの背中に抱きつけば、首だけで振り返った満つが頭を撫でてくれる。
「んー? なんだ、これ? 水?」
満つが受け取ったのは──小指ほどの大きさの小瓶だった。中では、きらきらとした粒の浮く薄いねずみ色の液体が揺れていた。
「綺麗でしょ。お酒なんだって。なんか、なんて言われたっけ。確か──を、解消できるんだって」
「え……?」
満つの動きが不自然に止まった。その顔を見て、百夜がにっこりと嗤う。
***
その日百夜は、遊鷹と遊ぶ約束をしていた。百夜を迎えに、という名目で家まで来た遊鷹には、満つと少しでも会話ができたらいいなという下心も当然ある。
ここ最近は
「満つさん、おはよ」
「っ、あぁ、遊鷹。チビ迎えに来たのか?」
顔を出した満つに声をかければ、満つの身体が小さく跳ねた。胸元をきつく握りながら、その視線がさ迷う。
「……? 満つさん、なんかあった?」
「や、別に……」
眉を寄せた遊鷹は、満つの腕を掴んで顔を覗き込んだ。何かあってもすぐに身の内に溜め込んでしまう満つが心配だった。しかし、視線は合わない。
「満つさ……」
「──あまり、満つに近づかないでもらえるかな」
「あぁ? んだとてめぇ」
奥から顔を覗かせた燈史郎の牽制に、遊鷹は牙を剥いた。急になんだというのだ。
と、その目の下の隈のひどさに驚いた遊鷹が言葉に詰まっているすきに、燈史郎は踵を返してしまう。慌てたように、満つは燈史郎を追っていってしまう。
「シロ……! 遊鷹、わりぃ。チビのこと頼むな」
「……うん」
頷くが、満つは聞いてもいないだろう。満つの後ろ姿を唇を噛んで見送れば──百夜が腰に抱きついてくる。慰めてくれているのかとしゃがみ込みながら苦笑いをこぼす遊鷹の耳に、百夜が内緒話をするように囁いた。
「あのね、先生が言ってたの」
「……何を?」
合わせて小声になる遊鷹は、首を傾げて言葉の先を促した。
「
「──は……?」
知らず、低い声がもれる。
黙り込んだ遊鷹の髪で遊びながら、ひどく楽しげに、百夜は唇を歪めて嗤った。
──部屋に戻った燈史郎は、押し入れの中から一体の人形を引っ張り出した。
ずいぶんと背の高いその人形は、燈史郎にしては珍しい男のもので──
言葉もなく慶心を抱きしめる燈史郎の姿に、満つは言葉を失った。
「シロ、おい、お前大丈夫か……?」
「──ひとりに、して」
満つすら拒絶するように、燈史郎は静かに顔を背けた。
◆◆◆
「
「──また、退魔師が襲われたのか?」
「はい、この三日間で十名程。奉日本家の退魔師以外も襲われてはおりますが、数はやはり奉日本家の者が最多です。無差別とは考えられません」
「犯人の痕跡は、未だなしか」
これだけの人数が襲われ、未だ犯人が人間なのか妖なのか、それすらもわかっていない。
──退魔の一族同士は自らに誇りを抱いている上に縄張り意識もあり、他族を出し抜こうとする傾向にある。だがそれでも、有事の際には協力体制を取るだけの信頼関係があった。それが、今回の事件のせいで悪化の一途を辿っているのは誰の目からみても明らかだった。下手をすれば退魔師同士の戦争の火種にもなりかねない。一族の当主たちの言動が、慎重なものになっていた。
しかし、通はあっさりと首を横に振ってみせる。
「いえ。幾人の証言から、名前が判明しました」
「何?」
「
「鬼絵師……かつて東江家が飼っていた雑鬼か。まだ現存していたのか……?」
それが本当であるなら、退魔師間の戦争は避けられる。内心安堵の息をもらしながらも、総司は首を傾げた。他の雑鬼ならまだしも鬼絵師とは。お伽噺の類いかと思っていた。
「どうでしょう。私は見たことがないので」
ほんのわずかばかり言葉に刺が混じったと感じたのは総司の気のせいだろうか。否、通には退魔の仕事は一切させずに従者の真似事をさせているのだから、恨まれても仕方のないことといえた。それでも、彼女に何かあれば兄の慶心やその妻の
「奉日本燈史郎が百夜という少女を連れている、との報告があります」
「……偶然だろう。百夜など、よくある名だ」
総司は緩く首を横に振った。燈史郎は慶心の養い子だ、総司の甥にあたる。慶心があちらこちらをふらふらしていたせいで会う機会も少なくあまり懐かれていない上、一族の中には燈史郎が慶心を殺したと勘繰っているものも多い。
「この数ヶ月の間に奉日本燈史郎が関係していると思われる退魔の際には、百夜という少女は人の子とは思えぬ動きで妖退治に貢献していたとのことです。妖の類いの可能性も高いようです」
燈史郎は退魔師としての能力が高く雲隠れがうまい。烏天狗の満つの協力があるとはいえ、総司ですらその足取りが掴めないのだ。
しかし、何かに巻き込まれているのなら助けてやりたい。兄の遺した大切な子どもだ、しあわせに生きてほしいと願っている。
どうにかして一度燈史郎と話がしたい。思考を巡らす総司の耳に、かたんと部屋の窓が開く音が届いた。
「こんにちは、総司さん。お久しぶりですね」
目を丸くする通を視界の端に捉えつつ、勢いよく振り返った視線の先では──
「っ、お前……!」
「ちょっと、お願いがあるんです」
窓枠に腰掛けてにこりと笑った燈史郎が、子どものように両手を合わせた。
◆◆◆
今日は、一段と寒い。
「先生、どこ行ったんだろう」
寒さにかじかむ指先をこすり合わせながら、百夜は呟いた。
満つの姿を、昨夜から見ていなかった。燈史郎に確認しようにも、仕事が立て込んでいるのか、ここ数日部屋にこもりっきりで自室からろくに顔を出さない。
この数ヶ月の間で炊事場の仕事もある程度覚えたから、簡単な食事くらいはどうにでもなるけれど。
「ゆたかと一緒かな?」
燈史郎のための握り飯を握りながら、満つが戻ったらせめて一言言ってから出かけるように言い含めようと心に決める。急にいなくなられたら、心配になってしまう。
具の鮭は火を入れすぎて少し身が固くなってしまったが、まぁ食べられないことはないだろう。鮭が好きな燈史郎のために大きくほぐした身を入れた握り飯と煎茶を盆に乗せて二階へ上がる。
「──燈史郎? ねぇ、朝ごはんにおにぎり作ったけど食べる? ついでに霊力」
「百夜」
──霊力ちょうだい。
両手が盆で塞がっていたため行儀悪く足で戸を開けながら声を掛けるが、百夜が言い切るよりも先にすぐ目の前に突っ立っていた燈史郎に遮られる。
「っ、びっくりした……あ、ごめん、下に来るとこだった?」
「……僕に、何か隠してることはない?」
「……? ないよ?」
燈史郎にも満つにも、隠し事はない。首を傾げながらそれを伝えれば、そっか、と燈史郎は瞳を閉じた。
「──百夜、親御さんに会いに行こうか」
「え……? えっと、いいの? 百夜、まだお父さんとお母さんのこと、全然思い出してないけど」
突然の申し出に戸惑う百夜だったが、燈史郎は笑顔で頷くだけだった。
「うん。もう、いいんだ」
そして、百夜の手から盆を奪うと、適当に床に置いてしまう。燈史郎はそのまま、百夜の腕を引いた。
「ほら、行こう」
「え、今から?」
「早く」
「う、うん……」
有無を言わさぬ口調に気圧されながら、燈史郎に連れられて部屋を後にする。ちらりと視線をやった燈史郎の部屋には人形の部品はひとつもなく──百夜の胸に、小さな不安が芽生えた。
外に出てしばらくすると、空から白いものが落ち始めた。
満つが、冬には雪が降ると言っていた。おそらくこれのことだろう。
傘もなく、ふたりで歩く。寒さにくしゃみが出たが、燈史郎は百夜を気にする素振りは見せずに前を向いて歩き続けている。
「──僕には、養い親がいてね。子どもの頃から妖が見える僕は実の親にすら疎まれて──逃げ出した先で、慶心様に出会ったんだ」
「そうなの?」
「出会えた時は嬉しかったよ。僕の前世は
柔らかく笑う燈史郎はどこか寂しげで、百夜はきゅうと眉を寄せた。
「……慶心さんは、今どこにいるの?」
「慶心様の好きな人は一路様といってね、ある退魔の家の出自だった。そして、ある妖に命を狙われて、慶心様は一路様を守ろうとして──あいつに殺されたんだ」
「殺、された……?」
物騒な言葉に思わず足を止めかけるが、燈史郎の歩調はどんどん早くなっていく。吐く息が白い。かじかむ足がもつれかけた時、ようやっと燈史郎は足を止めた。
「着いたよ」
「──ここに、百夜のお父さんとお母さんがいるの……?」
見上げる程に巨大で立派な門扉に刻まれている紋様はヤドリキ──退魔の証。
燈史郎は百夜の質問に答えずに、濡れた服や髪を厭う様子もなくどんどんと屋敷の中を進んでいく。人の気配は、ない。
「入って」
大きな観音開きの扉の前で、ようやっと手が離された。強く掴まれた手首が痺れている。
燈史郎に背を押されながら恐る恐る扉を開き、そっと中を覗く。
「わぁ、綺麗……!」
室内は広く、天井一面には色づいた硝子がはめられていた。落ちる雪の影が頼りなく床に反射して、七色に煌めいている。
──と、燈史郎の手のひらがうなじに添えられ、百夜は自ら上を向いた。今まで何度も繰り返してきた、燈史郎との口吸い。
「え……?」
唇が重なって──百夜は目を見開いた。身体から力が抜けて、がくんと床に倒れ伏す。
(霊力抜かれた……!? なんで、)
燈史郎の行動の意味がわからずに燈史郎を見上げれば──ぞっとする程に冷たい双眸が、そこにあった。百夜が言葉をなくしていれば、燈史郎でない男の、落ち着いた声が静かに響いた。
「それが、鬼絵師か?」
「総司さん、退魔の剣を早くください」
「本当に間違いないんだな? 後悔しても、」
「っ間違いないから早く……!」
総司と呼ばれた男が、手にしていた刀剣を鞘から抜いて燈史郎へと向かい投げる。
「ここ最近の、退魔師襲撃事件もお前が犯人だろう」
「燈史郎? 何、言って……」
「ずっと、お前に復讐したかった」
「……ッ先生、助けて……!」
「さよなら」
噛み合わない言葉が虚しく響く。
燈史郎が、投げられた刀剣の柄を掴む。まるで曲芸のような華麗さで、色づき硝子の光を背負った燈史郎が切っ先を百夜へと向けた。
「──!」
帯ごと腹を刀剣で刺され──百夜の視界は黒く塗り潰された。
「……これで、ようやく全部終わった。慶心様は、褒めてくれるかな」
ぽつりと、燈史郎が呟いた。
雪が、だんだんと激しさを増していく。
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