狂った父親

 英姫はギシギシとしなる木の板を恐る恐るまるで針山を通るかのような慎重さで一歩ずつ進んでいく。英姫にとってこの時間が何よりも嫌いだった。いや、というよりもこの後に待ち受ける時間こそが嫌で嫌で仕方なかったのだ。そう断言できるほどに、英姫と鷹宇治の親子の間の空気は凍り付いていた。

「爺、今戻りました」

慣れないというよりも柄にもない丁寧な言葉遣いをする英姫。本当はこんななよなよとした喋り方は嫌なのだが、時代が、親が、環境が、それを決して許しはしなかった。

「はい……またのところでしょうか姫様?」

「……えぇ、そうですわ」

英姫はこの問答が嫌いだった。自分が会いに行っているのが魁であってお雪本人ではないことをわかっておきながらわざわざお雪の名前を挙げていることが無性に腹が立った。郊外に『魁』などという存在はいないかのようなその言動にである。どうゆうわけか城の皆は……特に年寄り連中は名前を出すことすら憚かるほど『魁』のことを腫物のように扱う。英姫はそれが不思議で不思議でしょうがなかった。お城の皆は私を愛してくれている。それはもう目に入れても痛くないどころか喜ぶほどに。対照的に『魁』のことは忌み嫌っている。その理由を問いただしても一向に答えてくれず、いつしか英姫は何故なのか?と言う好奇心を捨てていた。自分を溺愛してくれている父や爺やたちが一転して狂う様を見るのが恐怖以外の何物ですらないからだ。魁が何物であったとしても、鬼やもののけの子であったとしても異性として愛することを変えない腹積もりであった。例えそれが血のつながった弟であろうとも……

「そうですか。あの屋敷に近寄るなと言っても聞かないでしょうことはもう爺もわかっておりまする。ですが、上様がお呼びです」

「!?……はい。わかりました。すぐにお父様の下に向かいますわ」

英姫は父親が呼んでいるという言葉に体が一瞬硬直したのをはっきりと感じた。いままでの経験から魁のところに行った後に父が自分を呼ぶときはあまりよいことではないと学んでいるからだ。始めて魁とあった時もそうであったのだから。


 月明りのわずかな明かりを頼りに英姫は父がいる部屋へと進んでゆく。お城の木枠の窓を見上げるとぼんやりと十三夜月が見えた。満月には少し欠けてる月であり、満月の次に美しいと多くの詩人たちが歌う月である。英姫をその点にはおおむね同意であった。満月が一番美しいのは確かなのだから、それゆえにこの状況を思い出してしまう。英姫にとっての満月とはその城に魁がいることなのだから、魁という最後のパーツが欠けた月は煮え切らない十三夜月そのものである。そんなことを思って通路を歩いていると父親のいると言われた部屋についた。

「お父様、英姫でございます」

英姫が障子越しに声をかけるとワンテンポ遅れて返事が返ってくる。

「……入れ」

障子をあけるとごまかしようのない程に酒の匂いが通ってくる。どうやら、英姫の疑念は当たってしまったようである。畳の真ん中に胡坐で座る父親を見ると足元に三本ほどの酒瓶が無造作に転がっている。

「…………」

英姫は無言のまま正座で父親と対面するように畳の上へと座る。

「……またしょうこりもなくに会いに行ったそうだな」

父親はそれはもう不愉快そうに言葉を発した。

「えぇ、に会いに行きました」

いい加減言葉遊びに呆れてきた英姫はきっぱりと親の前でその名を口にする。そも、『かい』とは英姫の父、鷹宇治が鬼の子という意味を込めてその名を付けたからに他ならない。元々は隠語のつもりで使われていたが何も知らない英姫やお雪何より『魁』本人が名前として使いだしたことで使われなくなったのである。

「そうか、今回は許そう。だが、今後一切と会うことを禁ずる奴は忌み子だ」

「いいえ」

英姫はきっぱりと拒否の言葉を口にした。その言葉に鷹宇治は眉を吊り上げる。

「例え、奴が妻を……お前の母を殺した原因だったとしてもか?」

「はい」

「なんだと?」

鷹宇治は英姫の言葉で歯ぎしりしたように見えた。関節をパキパキとならして怒りを隠しきれない様子である。英姫は母親が死んだ原因が魁であったことを今知った。しかし、それがなんだ?顔も知らない母親より愛しい魁の方が何倍も大切だ。それに、魁が意図して殺したわけでもないことは聡明な英姫にはすぐにわかった。それで魁を恨むのは筋違いである。

「お言葉ですが、わたくしは魁をお慕いもうしております。決して例えお父様の命であろうとわたくしは魁とは別れません!」

鷹宇治は英姫の言葉に魚のようにギョっと目を見開いて数秒間放心していた。やがて、酒の酔いが味方したのか何かが切れた。今まで鷹宇治は人を殺したことなど何回もあった。戦場で、敵の大将首を打ったことなどもある。裏切った家臣の首を自身の刀の試し切りではねたこともある。しかし、身内でしかも娘に対して殺そうと殺意を向けたことなどいまだかつてなかった。

「この……」


「親不孝ものがぁぁぁ!!!!」


鷹宇治は戦場にいる時のようなギラギラとした目つきで思いっきり英姫を殴り飛ばした。

「きゃあ!」

障子を破るほどの勢いで殴られて英姫は床につっぷして丸くなってしまう。とつぜんの父親の激昂に驚きを禁じ得なかった。

「そうか。そうかぁ姫よ。あの忌み子が悪いのだな!あやつに心を操られておるのだな!そうであれ!」

半狂乱になりながらも鷹宇治は上座に飾ってあった太刀と脇差を帯刀して、英姫のうなじを掴み引きずるように城の離れにある屋敷にいる魁の下へと独りよがりな鬼退治に向かっていってしまう。


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