僕の未来

じゅじゅ/limelight

喉元過ぎても暑さ忘れず

 夏休み中盤。無慈悲に降り注ぐ日差しと、わずかな湿気。さらに虫たちの歓声が耳から入る音を支配する。額に流れる汗を拭きつつ、自販機で買ったばかりの炭酸水を一口。ペットボトル内で押し込まれていた炭酸が舌の上で爆発し、冷たい水が口中に行き渡る。

 暑いのが苦手な僕からすると、これだけで「最高ー!」と声を大にして叫びたいところだが、頭の中奥深くにずっと引っかかって消えないことがある。


『完全に決めるのはまだ早いですが、だいたいでいいので将来どんな職業に就きたいのか、なにをしたいのかをこの夏休み期間でよく考えてきてください。2学期になったら進路学習を始めていきます』


 終業式が終わった後の最後のホームルームで先生が告げた言葉。クラス内では夏休みに対する興奮が抑えきれていなかった生徒が多く、先生の話をちゃんと聞いている人はあまりいなかったが、彼らにとって大きな問題でもないだろう。


 しかし、僕にとっては難題だった。

 医師になりたい、弁護士になりたい、建築士になりたいなど、みんな何かしら夢を持っているに違いない。それと対照に、僕にはなにもない。未来の自分を思い描くことができない。

 両親にも度々進路の話をされるが、ずっと回答を濁してきた。これまでの"ツケ"が回ってきたのだろう。


「ま、まだ夏休みあるし!後でいいよな!」


 自分に言い聞かせるように大きな声で呟いて、僕は足早に"ある場所"へ向かう。

 容赦なく照りつける太陽の光から一刻も早く逃げるように。はたまた、なにもやりたいことが思いつかない現実から逃げるように、僕は通学路にあるアパートの一室のドアを開けた。


 外の暑さを地獄に例えるならこの部屋はまさにオアシス、いや、天国といっても過言ではないのかもしれない。

 ドアを開けた瞬間、心地のよい冷たい空気が狭い玄関から放出される。灼熱と極寒が入り混じらないようにすばやくドアを閉め、流れ作業かのように靴を脱ぎながら荷物を玄関に置く。


「今日もきたよー!」

「……おう」

「今日はサークルないの?」

「今日はないな。明日はあるけど」

「兄さんもいろいろ大変だねぇ」

「……まあ、高校生よりかは楽だぞ」


 ベットで仰向けになって漫画を読んでいる、"だらしない"を具現化したようなこの男こそ、この一室の部屋主である大学生の親戚のお兄さんだ。

 いつきてもベットに寝転んでいる兄さんだが、そんなだらしない行動とは裏腹に、部屋はきれいに掃除されているし、本棚にある数えきれないくらい多い漫画も、順番通りに並んでいる。最初は彼女でもいるのかと思ったが——


『1人暮らしだからな。お前は親が掃除してくれるかもしれないけど、自分で掃除しないとダメだろ?』


と言われ、僕は人生で初めて深く感心した。普段はだらしない人かもしれないけど、実はいざという時にすごく頼りになる人なんじゃないかと勝手に思っていたりする。


「今日は何時までいるつもりなんだ?」

「塾あるから早めに帰る予定だけど、明後日はもっとお世話になるかな」


 そう言って、僕も本棚から漫画を取り出し、室内の一角にある1人用のふかふかのソファーに座る。

 地獄のような暑さから逃れ、わずらわしい蝉の音もあまり聞こえず、おまけにくつろぎ放題。誰もが一度は憧れる空間を僕は満遍なく満喫する。

 

 こんな空間に毎日居られる兄さんが羨ましい限りだ。早く大学生になりたいけど、憎むべき進路決定が立ちはだかると思うと、まだ高校生のままでいたいと思ってしまう。


 しかし、終わりのない世界はないというべきか、それともサボってきたツケが回りに回ってきたというべきか。エアコンの音が少しだけ響く、静寂に包まれた空間で兄さんの言葉が僕の耳に入った。


「なあ、お前進路決まってないのか?」

「……は?」


 16年間生きてきて、これほどまでに低い声を出したことがあっただろうか。明らかに怒った声を出してしまったせいでお兄さんに図星だと察されるまでに時間はかからなかった。

 僕は漫画本を閉じ、ベットに寝転がってページをめくっているお兄さんを見て言った。


「そういう兄さんこそ、将来どうしたいとか決まってるの?」

「そりゃそうだろ。決まってないとい行きたい大学を決められない」

「……」


 ぐうの音も出ない正論パンチ。普段ならもう少し言い返せるのに、こんな内容のせいで僕は下を向いて黙っているだけになってしまった。


 部屋中を流れる沈黙。さっきまでは微かに聞こえていた蝉の音も、今ではすっかり無くなっていた。

 やがて、兄さんがベットを降りる音がして、僕は反射的に顔を上げた。


「よし、たまには外にでも出てみるか。そうだな……海、海にでも行こう」

「……わかったよ」


 おそろおそる立ち上がり、荷物を取り、靴を履く。

 外に出た瞬間、まるで鍋の中で蒸されているような蒸し暑さに身体が揺れる。さっきまでまったく聞こえなかった蝉の音も、いつも以上に強さを増していた。

 駐車場へ向かうと、お兄さんは慣れた手つきで車を起動し、僕を乗せてくれた。しかし、車の中は外以上の暑さだった。


「あちっ」


 座った瞬間、まるでお尻を鉄板に乗せられて焼かれているような感触がスボン越しに襲いかかる。シートベルトの先の部分も、とてもじゃないが触れないくらいに熱かった。しかし、兄さんは何一つ動じずにハンドルを握っている。


「兄さん、熱くないの?」


 今すぐにでも立ち上がりたいのを我慢しながら、依然として表情すら変えない兄さんを見る。ずっと日光に晒されていたハンドルなのだ。おまけに黒は熱を吸収しやすいし、熱くないはずがない。


「ああ、熱いな」

「それだけ!?」


 やっぱりこの人、只者じゃないな!?と思っていた矢先、今度は兄さんの口が動いた。


「進路、悩んでるのか?」


 さっきとは違い、少し申し訳なさを感じさせるように兄さんはもう一度僕に訊ねる。もうシラを切ってもしょうがない。


「……うん」


 どこから得た情報かは知らないが、できることなら兄さんに知られたくなかった。しかし、事実である以上認めざるを得ない。


 

 車に乗ってしばらくして、海沿いの道に出た。兄さんにもう一度進路について訊かれてから、僕らの会話は一切なく、これ以上ないほど気まずい車内を、潮風が吹き抜ける。

 そして、赤信号で停車した瞬間、兄さんの口が再び動いた。


「実は俺も進路、決まらなかったんだ。おまえと同じようにな」

「……そ、そうなんだ」


 意外と言われれば意外だったが、それ以上に『だからなに?』という辛辣な言葉が喉元まできていた。そして、兄さんは続けて言った。


「それと、俺は今でも進路が確定で決まっているわけじゃない。さっきは進路が決まっていると言ったが、あれは半分本当で半分嘘だ。ごめんな、見栄張って」

「……」


 いいんだよ、自分自身のことなんだから。将来の夢がない僕が悪いんだから。兄さんは兄さんで、いつもみたいにあの気だるい感じでいて欲しい。夏休みに入ってもバイトとかサークルのこととか、僕以上に忙しい兄さんは気を遣わなくていいんだよ。


 自分の中でいろんな感情が渦巻くのがわかる。気づけば、車は既に駐車場に停まっていた。


「じゃ、行くか。気に入ってる良いところがあるんだ』

「……うん」


 荷物の中から水だけ取り出し、車を降りた。刹那、海辺特有の肌を焼きにきている日光と、それによる暑さを中和する潮風が僕たちを襲った。あまりにも日差しが強く、腕でガードするのを試みたが効果はないだろう。

 等間隔に波が砂浜に打ちつける。辺りを見渡すと、ゴミも漂流物もあまり落ちてない、綺麗な砂浜だ。遠くを見ると、上下ともに果てしない青が広がっている。


 少し歩いて、兄さんはお気に入りの場所についたのか、防波堤の上に座った。


「こっちこいよ。風が気持ちいいぞ」


 どうやらこの砂浜の真ん中あたりの防波堤がお気に入りの場所だったらしく、兄さんの手を取り、僕も防波堤に上がり、ザラザラしたコンクリートの上に座った。

 駐車場より潮風が強く、僕たちの間を吹き抜ける。この広大な景色を無心で眺めて、しばらくしてから兄さんは言った。


「この砂浜、元々こんなに綺麗じゃなかったんだぞ?」

「え?」

「今はゴミ一つ落ちてないけど、元々はペットボトルやら缶やら、すごかったんだからな?」

「そ、そうなんだ……」


 得意げに言う兄さんの話が聞こえるが、それ以上に僕は目の前の景色に魅了されていた。自分でもどうしてかわからない。けれど、今はただ、この広大な青を見ていたい気分だった。


「良いところだろ?ここ」


 そう言って兄さんはポンっと、懐に引き寄せるように僕の肩に手を乗せる。僕の頭はすっかり兄さんの頑丈な肩にもたれかけていた。


「正直に言うと、叔父さんからお前の進路について手助けしてくれって頼まれたんだ。両親が言うよりも、俺の口から言った方がいいだろって。でも、俺も高校時代は進路が決まらなかった身だった。だから、役に立つアドバイスはできないけど、一つだけ言えることはある」

「……っ!」


 強い潮風が、虚無に沈んでいた僕を起こすように頬に直撃する。そして、兄さんの言葉は続いていく。


「自分のやりたいことを見つけるんだ。俺も今まで自分のやりたいことを見つけるためにいろんなことをやってきた。ボランティアでここの砂浜を掃除したのもそうだ」

「……」

「お前は俺と違って、少なくともあと2年はある。その未来はこの海のように広い。やりたいことを見つけるには、十分なほどに時間がある」

「やりたいことを、見つける……」


 気づけば、兄さんは優しく頭を撫でてくれていた。暑い。汗が額を流れ、兄さんの袖はびしょ濡れだろう。

 しかし、汗とは別の水滴が顔流れている感触がする。


 兄さんの服を濡らすのは申し訳ないと思い、僕は顔を上げ、兄さんの抱擁を解いた。防波堤のコンクリートに水滴が落ちる。


「兄さん、僕、がんばるよ」

「おう。迷ったときはいつでも相談しに来い。良いアドバイスをあげられるかどうかは別な」

「……そこは、絶対助けるから的なこと言ってよ」


 いつの間にか渇いてしまった喉を潤すために、一回水を口に含む。買った時にあった炭酸はすっかりなくなっていて、コンクリートの熱と太陽光に温められ、ぬるいどころか、少し熱いくらいだ。


「新しいの買うか?久しぶりにジュース奢ってもいいぞ」


 水と兄さんの言葉を同時に流す。半分くらい残っていた炭酸なし炭酸水を全て飲み干し、立ち上がる。

 灼熱の日光は様子を変えずに照りつけるが、潮風は僕の背中を押してくれている。


「新しいの買って!」

「おう!」

 

 僕の声を聞いた兄さんもすぐに防波堤を飛び降り、僕らは駐車場にある自販機で炭酸水を買った。

 買ったばかりの炭酸はやっぱりおいしい。しかも海辺であることがさらにその美味さを一段階底上げしている。

 

 やっぱり、僕は冷たいものが好きだと再実感する。

 それでもこの真夏日に飲んだ熱い炭酸も、クラクラするような暑さも、僕の記憶から消えることはないだろう。勢いよく買いたての冷たい炭酸を思う存分飲み、僕は海に向かって叫んだ。


「さーーーーいこーーーーーー!!!!!!」

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