狂愛のサイコメア

チモ吉

狂愛のサイコメア

 黒。一面の黒。


 ジジ……ジジジ……と明滅する街灯の頼りない光だけが光源となる曇りががった闇夜、僕の目の前に広がるのは黒く淀んだ水たまりだった。

 中央には二人の人物が浮かんでいる、否、水たまりの発生源だ。水は、二人の人物から流れ出ている。


 カメラを手に、僕はシャッターを切る。使い捨てカメラのフィルムを巻く。ざりざりとした指の感触が、昂った僕の心を唯一慰めてくれた。

 がちり、と抵抗感。

 指を元の位置に添えて、ぱしゃり。ざりざり、がちり、ぱしゃり。ざりざり、がちり、ぱしゃり。


 僕はただ、ひたすらに、夢中になって、彼女の姿を撮り続けた。


 白い髪、白い肌、細くしなやかな体つき。街灯の光が一瞬だけ明るくなった時、彼女の体から溢れる闇が色彩を取り戻す。

 黒、赤、黒、赤……黒というには赤すぎて、赤というには黒すぎる。喉と胸、そして腹部から零れるその色は、彼女が纏う衣装すらその色に染めあげる。


 美しい。


 闇夜の黒も、零れる黒も、真っ白な彼女自身も、全てがただ美しかった。


 だからだろう。そんな状況であるにも関わらず僕は落ち着いていたし、同時に全然冷静じゃなかった。正気じゃなかった。どうかしていた。

 だからだろう。どう見ても助からないはずの彼女の体が起き上がることに違和感を覚えることが出来なかったのは。


 まるで生きているかのように彼女は立ち上がり、赤と黒に染まった白髪の隙間から僕をじっと見つめてきた。


 ぱしゃり。


 自然と、そうするのが当然というように僕は彼女の姿を写真に収めた。


――――


 どうしようもなく好きで好きでたまらない。そういうものが誰しも一つくらいはあると思う。僕にとってそれは彼女だった。


 田舎から都会へ、大学進学とともに引っ越した僕がその日に出会った人。いや、正確には出会ってすらいない。ただ道ですれ違っただけ。僕は彼女が誰なのか、どういう人物なのかすら知らないし知ろうとすら思わない。


 その人はただ、ひたすらに美しいだけの人だった。


 白い髪に白い素肌。透き通るような、という言葉がこれほど相応しい人もいないだろうと思えるほど、透明で、繊細で、いまにもいなくなってしまいそうな、そんな人だった。


 僕が彼女を見かけたのはこれから暮らすことになる学生アパートに向かう最中のことだった。


 美しいと思った。僕が今まで生きてきたのは、この世に生まれたのは彼女を見るためだったのかもしれないとすら感じた。天啓を得た気分だった。


 好きだと感じた。初めての感覚だった。


 そして奇しくも、そんな僕の感情を阻んだのは僕が持つ社会性だった。人間社会で生きていくために必要なそれは、僕にとって邪魔で仕方がなかった。


  具体的には、僕は僕の感情と相手の感情が必ずしも一致しないことを知っていたし、僕には僕の、他人には他人の生活があることも知っていた。

 感情の話だけをするのであれば、僕は彼女にすぐにでも話しかけたかった。僕のことを好きになって欲しかった。


 常識が僕の邪魔をする。


 だから僕はカメラを買った。デジカメじゃない、使い捨てのフィルムを巻くタイプのカメラだ。


 彼女は美しい。けれど、生きている以上年老いていく。そうでなくとも、者も物も存在しているだけで時間とともに劣化していく。それが僕には許せなかった。

 カメラの中の彼女はきっといつまでも美しい。僕はそのカメラで彼女を撮った。


 始めは彼女を見つけることすら叶わなかった。当然だと思う、なにせ僕は彼女について何も知らない。ただ彼女がひどく美しいことしか知らなかった。

 けれど何日も、何週間も、何か月も経つうちに、偶然彼女を見かける機会にも恵まれて、その偶然が感覚的に偶然でなくなるまで、それからそう時間は必要じゃなかった。

 偶然は、必然となった。


 その日も僕は、大学の講義を終えてすぐに席を立った。学内には会話をする程度の関係性の者はいるけれど、友人と呼べる人は誰もいない。当然だ、余計な人間関係は彼女を追う邪魔になる。

 いつものように電車に乗って、治安の悪い区域を目指す。県境、夜の街と怪しい店が多く、警察官も多い。僕自身、数度ばかり職質を受けた。

 僕の行動はきっと発覚すればそれなりに面倒になる。けれどカメラが使い捨てなこともあって持ち物を確認されようと僕が困ることはなかった。フィルムは感光してしまえばなにも写さなくなる。


 僕は彼女の写真を現像したことはなかった。写真にしてしまえばそれが劣化していくことに耐えられなかったからだ。だから使い切ったカメラはタンスの奥にそのまま眠っている。カメラもフィルムもその内劣化していくのだけど、それが僕に許された最大の自己欺瞞だったのだ。


 この街で彼女はただひたすらにうろついている。平日も、休日も、祝日も。日夜問わず、一体いつ眠っているのか分からないほど。どうやって生活しているのかも分からない。けれどそんなことは僕にとってどうでも良かった。彼女がどんな暮らしをしていようと、どういう人間関係を持っていようと、彼女が美しいという事実は変わらないのだから。


 僕は昼過ぎから夜にかけて、彼女をひたすらに追った。何枚も何枚も写真を撮った。

 そしてそろそろ帰るか、という頃合いにそれは起きた。


 一人の男が、彼女を突然路地裏へと引きずり込んだのだ。

 暗く、暗く、星も月の明かりもない夜、頼りない街灯だけが明滅する夜に彼女の姿は飲み込まれた。


 突然のことで思考が追い付かずに固まってしまう。思わず周囲を見渡すも、そこは人通りが少ないどころかまるでない。僕以外誰もいなかった。


 夜の冷たい静寂が凍みる。悲鳴すら聞こえない。聞こえるのはなにか、柔らかいものを潰すような湿った音だけだった。


 僕はその音の正体に気付かないふりをした。駄目だ。それは誰かが壊していいほど安いものじゃない。少なくとも僕にとってはそうだ。駄目だ、それは駄目だ。


 だから僕は路地裏を覗き込んだ。


――――


 その匂いが、ひどく鼻に触る匂いが分かるほどに近づかれてなお、彼女は綺麗だった。


 口をぱくぱくと動かしている。けれど、声は聞こえない。喉が裂けているから声が出ないのだ。

 乱れた髪に隠れて彼女の表情はうかがえない。


 ぱしゃり、と。僕はその姿も撮る。


 彼女は路地裏へと戻ると、倒れていた男の首元から何かを抜き取った。


 牛刀、と呼ばれるタイプの肉厚の包丁だった。滴る血液は誰のものなのだろう。


 ぱしゃり、ざりざり、がちり。ぱしゃり、ざりざり、がちり。


 気が付けば、フィルムは巻けなくなっていた。押しても押してもカメラのシャッターは切られない。


 赤と黒。黒と赤。僕に一歩ずつ近づいてきて、それを見てやっぱり綺麗だとだけ思った。


 ごぼり、と僕の喉が鳴る。


 ああ、汚してはいけない。

 僕はそう思って、彼女から口を逸らした。


 赤と黒が、地面に零れる。


 最後まで僕は、彼女のことを美しいとしか思わなかった。

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