3. 後編

打球はお手本のようなセンター返しとなり、カズトは悠々と一塁に進んだ。3回にして初めてのヒットとなり、沸き立つベンチ。しかし、カズトは急に不安になった。


チームは先制の好機。色々戦略を使ってみたい監督の思惑もある。ここは何かしらの攻撃のサインが出る場面だった。

塁上でベンチに手を上げ、監督を見るカズト。監督は素早く手を帽子に当てたりベルトを触ったりと、打者とカズトを見ながらサインを送った。

(良かった。右肘を触らなかった。)

打席に立つ前、再読確認したカズトのメモには、右肘がこの試合のキーサインと書いていた。右肘を触らなかったことを確認したカズトは、安堵あんどの思いで了解の返事を帽子に手を当てて送る。


ピッチャーから1球目が打者に投げられる。

――ボール。

キャッチャーからピッチャーへボールが返されるのを確認し、カズトは再び監督を見た。監督はサインを送る。カズトはそれを頭の中で復号する。

(あ、右肘を触った。)

カズトは焦った。キーサインの次の次が実行サインになるからだ。それを流れるように動く手の動きから読み取らなければならない。慌てて変換ミスをしてもいけない。

しかし、監督は右肘の2つ後にも右肘を触り、その後はどこも触らなかった。キーサインが実行サインとなるとき、それは「前回と同じ」を意味するサインだった。


2球目が投げられた。打者が鋭く打ち返す。

打球はカズトの左へ強く飛んだ。

「やばい!ファーストライナーになる!」

急いで一塁へ帰塁しかけたが、打球はファーストミットに触れることなく、ライト線の内側へ飛んでいった。

「カズト!走れ!」

目の前の一塁ランナーコーチが叫んだ。カズトはライトの動きを見つつ、二塁へ駆け出した。

二塁へ到達する直前、三塁ランナーコーチの方を見ると大きく手を回していた。

「カズトー!回れー!」

ライトはまだ、打球に追いついていないようだった。打球に背を向けているカズトには見えなかったが、どうやらフェンスまで行ったのであろう。

カズトはランナーコーチを信頼して、二塁ベースの角を左足で強く蹴り、三塁に向かって踏み出した。

ランナーコーチの「滑ろ」のジェスチャー。それに応えてスライディングするカズト。ボールはライトからセカンドを経由してサードへ送球された。一瞬、カズトの脚がベースに届くのが早く、無事、カズトは三塁まで進んだ。

ノーアウト一三塁、チームはチャンスとなった。


更に沸き返るベンチ。トモロウも大声で何かを叫んでいる。だが、心拍数の上がったカズトには自分の心臓が速く鼓動する音しか聞こえなかった。

心拍数が上がった理由は、単に一塁から三塁まで全速力で走ったからだけではなかった。ノーサインでここまで来たチーム。打て打てムードで得点の好機となったからこそ、逆に何かしらの戦略があってもおかしくなかった。

カズトにとって監督の出すサインを見るというのは最早もはや、味方のためであるとは言えない。それは相手チームがどんな作戦で来るのかを考えるかのようであった。


しかし、9番バッターには何のサインも出されず、3球目に打った打球はショートの正面へ弱く飛び、二塁へ送球されて、一塁ランナーはフォースアウトとなった。

ただ、セカンドが一塁へ投げたボールはワンバンとなり、ファーストはそれを上手くさばけず、打者走者はセーフとなった。

内野ゴロでは三塁のカズトは動けない。試合の局面はワンアウト一三塁とさほど変わらなかった。


打席は先頭に戻り、この試合2打席目のキョウヘイが左バッターボックスに入った。カズトはキョウヘイを見た。一瞬、2人は目が合ったが、すぐキョウヘイはベンチの方を見た。カズトはキョウヘイの横顔を一瞥いちべつした後、監督のサインを確認した。

(帽子、顎、ベルト、胸、……)

監督の左手右手が滑るように動く。

(右肘……!)

キーサインが触られた。右肘を触れた左手は素早く胸を経由し、左耳を触り、ベルトでサインが終わった。

(左耳!左耳が意味するサインは……)

この場面で初めて意味のあるサインが送られてきた。カズトは必死でメモ帳に書かれたサインの意味を思い出す。

ところが、心配していたことが起きてしまった。何かしらのサインであるはずなのに、それが何なのかが思い出せない。頭に浮かんでいるメモ帳には、消えかかった文字が現れている。


カズトは焦った。

この局面ではいくつかの作戦が考えられる。オーソドックスなのはスクイズだ。ワンアウトでも当然あり得る。

一塁ランナーの盗塁もある。場合によってはキャッチャーからの二塁送球時に三塁ランナーの本盗ほんとうも組み合わされる。

エンドランなんていうのも有りだ。バッティングセンスを買われて、1番になったキョウヘイのことだ。打ち上げることなく、必ず転がしてくれるだろうという監督の考えもあるはずであろう。

考えている内に、本当に意味のあるサインだったかが怪しくも思えてきた。実行サインは左耳じゃなく右耳だった気もしてきた。


(どうすりゃいいんだ。)

三塁上のカズトは心の中で嘆き、泣き付くようにバッターボックスを見た。

すると、バッターのキョウヘイはふと、カズトの方を見たかと思うと、一瞬、微笑ほほえんだように口角を上げた。

(あ。)

カズトはキョウヘイのその微笑みを見た時、「俺を信頼して走ってこい」と言われたように感じた。

カズトはその直感を信頼して三塁から足を離し、リードを取った。


ピッチャーが右手をテイクバックする。カズトは目線をピッチャーからバッターのキョウヘイへ移し、走り出す。

キョウヘイはテイクバックの瞬間、立てていたバット横にし、バントの構えを取った。

(スクイズ!)

既に三本間さんぽんかんの中間を走っていたカズトはそう思いながら、ホームに滑り込むイメージを作った。

警戒の無い速いストレートのボールはキョウヘイの華麗なバントによって、一塁線上をお手玉のように勢いを失って転がった。

慌てて駆け寄ったピッチャーはボールを拾った後、ホームを見ることもなくファーストへ送球した。

三塁ランナーのカズトは悠々とホームベースにスライディングしていた。


(もう一話続く)

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