第5話
「…アニア王女」
「お会いしたかったですぅー」
うるうると輝く大きな黒い目にサラサラの黒髪。少し唇を尖らすさまはいかにも庇護欲をそそる。何よりも頭に生えた柔らかそうなネコミミが可愛らしい。
他の女性を目に入れるつもりはないようで、一心に王太子を見つめている。
(嫌だな)
リリアナは率直にそう思った自分を、我ながら意外だと思った。
しかし相手は一国の王女、いかに不快な思いを被っても苦言を呈するわけにはいかない。マルカとディアナも薄い笑顔のまま静かに見守る。
「…アニア殿下、親しくもない男にそのように気安くさわるものではないよ?」
マリオナークが寸の乱れもない笑顔で王女の手を引きはがした。
「えー、アニアはマリオナーク様のことが好きですニャン」
(え、突然猫語?)
ふとリリアナは親友たちの顔を見た。二人ともすっかり笑顔が抜け落ちている。同じように王太子の顔も無になっていた。
「マリオナーク様ぁ、アニアと結婚してくださいニャ~」
空気を読まないのか、王女は男の腕を掴んで揺さぶる。
(あれ…?殿下の顔色、悪くない?そういえば媚びてくる女性は苦手だって以前言っていたような)
ここは恋人(仮)の役目を果たすべきところだと、リリアナは決心した。
「殿下、私少し疲れましたわ…」
控えめに反対の腕に触れてみる。
「リリアナ嬢…大丈夫かい?少し奥で休もう」
意図をくみ取ってくれたようで、王太子はその手を取った。
三人に
「…殿下、大丈夫ですか?どこかお具合が…」
いっこうに顔色の戻らない王太子をリリアナは案ずる。異変を察した護衛のケアンも合流していた。
「どこかお部屋で休憩を取りましょう。こちらへ」
ケアンが侍女に目配せをして先を行く。
王宮奥の私用の部屋へと落ち着き、王太子はようやく一息入れた。
「ふぅ…」
王太子付きの侍女がお茶の準備をしてくれる。彼女はリカといってマリオナークの乳母の娘だそうだ。
「手間を取らせた。あの王女の甘ったるい匂いがどうにも…」
そんなに香水がきつかったかしら、とリリアナは記憶を探るが、匂いまでは思い出せなかった。
(まあ、殿下は密着されてらしたから)
殿下は香水の匂いが嫌い、心のメモに書き込んで、あることに気付いた。彼は今まで婚約者を決めなかったし、妹姫以外の女性をエスコートしたところも見たことがない。
(私は偽装だから数には入らないんだろうし。もしや女性自体が苦手、とか?)
うなだれる王太子をじっと見てしまう。
「…うん、何だい?」
「あ、いえ、あの…」
「何でも言ってくれ」
「もしかして、殿下は女性が余りお好きではないのですか?」
「…はぁ?いや、え?なんでそんな話になった?」
「も、申しわけありません。ただ、以前も女性が寄って来て困ると仰っていたので…」
「いや、女性は好きだ…」
「えっ」
「…殿下」
王太子が軽く問題発言をしそうになったところで、ケアン卿が話に入って来た。
「ハノーバー嬢には事情を説明しておいた方が良いのでは?」
「う…そうか、もしれないな」
事情とは何だろうか。後ろの二人、ケアンとリカは王太子の事情とやらを知らされているほどの腹心なのだろう。表情も変えずに立っている。
「……こが、嫌いなんだ…」
「え?」
考えに囚われていたのと声が小さかったことで、王太子の声はリリアナの耳に届かなかった。
「私は女性が苦手なのではなく、猫が嫌いなのだ!」
半ばやけくそなのか、王太子は大きな声で叫んだ。
「ねこがきらい…」
それでアニア王女に触られてあんなに顔色を悪くしていたのか。
(彼女たちは猫ではないけど…同じ原因物質を持ってるのかしら、ネコミミ部分とかに?)
「ハノーバー嬢…殿下のソレは猫アレルギーとかそういう
「…そうなんですか」
なぜ考えていたことがばれたのだろう。
「そうなんだ!私は猫を一生受け入れることなどできない!あいつら、ゴロゴロ懐いたふりしておいて、突然抱き着いてきて噛んだり引っかいたりするだろう!」
「ああ、しますね、猫」
あれ何だろうね。愛情表現なんですかね。ツンデレ的な?
「テーブルや棚の上のものを落としたり!」
「猫、立体移動しますからね」
狭いコレクション用の棚とかに限って入り込むんですよね。的確にお高い花瓶、狙ってくるし。
「うるうる見つめて来たかと思えば!エサを食べ終わったらさっさといなくなるし!」
「基本、人間はただのゴハン係ですからね」
ご飯前とご飯後の態度の違い、えげつないですもんね。
「理由をあげたら切りがない!猫と結婚するくらいなら死んだほうがましだ!」
「え、そこまで?!」
いや、だから彼女たちは猫じゃないんだってば。
「いいや、あの仕草は猫そのものだ。私のことを好きと言っておきながら、本当はこの国を好きにしたいだけに違いないんだ…」
「それは…」
違うとも言えない。国同士の婚姻は色々大変なのは事実だろう。
しかしリリアナには一つ残念なことがあった。
「殿下は…猫もお嫌いなんですね…」
動物全部が苦手なのだろうか。リリアナは動物好きだから、生涯何かしら飼っていたい。
「…うん?『も』、って何?」
「え、っと、殿下は犬もお嫌いなのでは?うちの犬を気にしていらっしゃいましたよね?」
「え、うん、すごく気になっていたよ。とても毛並みがいいし、お利口そうだからね!」
「へ?」
「いや、どうして誤解しているのかわからないが、私は犬は好きだ。むしろ大好物だ!」
王太子は勢いあまってガタリと椅子を鳴らして立ち上がった。
「白状しよう、君を婚約者に選んだのも、君がテイラー邸で犬を庇ってケガをしたと聞いたからなんだ。君は本当に素晴らしい女性だ!」
「…あー、そうなんですか」
ケガをしたというのは大げさで、ドレスが少し破れただけなのだが。しかし、それが最大の理由だったとは。どう反応していいかわからない。
「本当は私だって君のガーディ君を撫でまわしたい。床に転がしてわきの下の匂いを嗅ぎたい!」
「わぁ…」
「もっと言うなら、たくさんの子犬に埋もれたい…あのちっさな足で顔を踏んでもらいたい…」
「うわぁ…」
「私の夢はね、いつか犬だけのテーマパークを作ることなんだ!私が王位に就いた
「まさかのマニフェスト!」
「もう名前は決めてある。『バウバウ動物園』だ!」
「待って、その名前、大丈夫?!」
「犬だけのサーカス団に、大型犬ふれあいコーナー、子犬しつけ教室…ああ、なんて素晴らしい…まさに夢の国だ!」
「いえ、夢の国は別のパーク!犬じゃなくてネズミ!」
「それなのに世の中は、猫も
「あ、そこは『猫も杓子も』なんですね」
「街に出れば猫のファイティングポーズが可愛いだの」
「ああ、話題になってましたね」
「ハエトリグモの『やんのかステップ』の方がよほど可愛いわ!」
「クモ、じっくり観察したんですね…」
「だいたい、『猫は散歩しなくていいから』とか言って気軽に飼うヤツ!口があるものは犬でも猫でも世話はそう変わらないだろう!」
「すごい正論!」
「私は犬がいい、犬を飼いたいんだ。毎日犬に『お帰り』って言ってほしい。私が死んでも駅でずっと待っていてほしい!」
「飼い主、先に死んじゃだめですよ!」
「昔の偉い人も言っていた。『犬の
「いや、どこの故事成語?!」
一通り思いのたけを吐き出した王太子は再び椅子にその身を落ち着けた。
「だから、君には私の計画に協力してもらいたいんだ」
「わんわんな動物園を作る計画ですか?」
「そうだ」
「ウーオッホン、殿下!」
「…いや、そうではなく、イミモケンの王女を遠ざける計画だ」
「…そうでしたね。具体的にはどうするのですか?」
「まずは仲良しアピールをしたらいいんじゃないかな」
「仲良し…今日は結構うまくできたのでは?」
「うん、あとは…君のことをリリーと呼んでもいい?」
リリアナをリリーと呼ぶのは親友二人だけだ。少し照れくさい気もする。
「は、はい」
「週に一度くらいは茶会をしよう、君の家で」
「私の家で…わかりました」
これはガーディ目当てだろう。
「とりあえずはこれくらいだろう。ああ、私のことはマリオンと」
「へあ?さすがにそれは…」
「呼べないならこれから特訓でもするかい?」
「い、いえ、わかりました、マ、マリ、オン…」
「うん」
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