第2話

 陰鬱な気持ちをお気に入りの訪問着に隠して、リリアナは婚約者の屋敷に来ていた。


 あのパーティーから半月ほどが経っていたが、ガイアスからはお茶の誘いどころか、手紙の一つも届いてはいなかった。


 らちが明かないので、訪問のむねを手紙にしたため、少々、不躾ぶしつけかもしれないが、返事も待たずに希望した日時に押しかけることにしたのだ。


 そんなリリアナの到着を家令はどこかバツが悪そうに迎えた。


 顔なじみのケインというこの家令は、ガイアスが幼い時から侯爵家に仕えている。主人の不義理をしきりに詫びながら応接室へと先導してくれる。


 その時、二階からガイアスの怒号と、キャンキャンという悲痛な鳴き声が聞こえて来た。


「ガーディ!」


子供の頃から勝手知ったる婚約者の家、リリアナは階段を駆け上がる。


「ガイアス!何をしているの!」


二階の廊下では、ガイアスが猫耳エイミンを背に庇いながら、テイラー家の飼い犬ガーディに向かって鞭を振り上げていた。


「リリアナ!?何でお前が…」

「ガーディはあなたのご両親が可愛がっていた大切なじゃない!なんて酷いことを…!」

「うるさいっ、コイツがエイミンに牙をむいたんだ!」


そういえばイミモケン人は犬が嫌いだと聞いたことがあったが、彼女らの方も犬に嫌われているのだろうか。


 リリアナがふと、そんなことを考えていると、ガイアスが再び鞭を振り上げた。


「だめ!」


―ぱしん。


鞭はリリアナのドレスの袖をかすめた。最近流行りのパフスリーブなので大した痛みはないが、花柄のレース部分がピリッと裂けた。


 居合わせた家令とメイドたちが青くなってリリアナに走り寄る。


 さすがにまずいと思ったのか、ガイアスの顔色も悪い。


 そんな緊迫した空気を破ったのは、甘ったるい声だった。


「ゴメンなさーい。みんなエイミンが悪いんですぅー。わたし、ワンちゃんとも仲良くなりたくてぇ」


そう言いながら、懲りずにガーディの方へ手を伸ばそうとした。


 ガーディは「ウウゥ…」と抗議の声をあげる。良く躾けられ、あまり人見知りもしないガーディにしては珍しい反応だ。


「きゃぁ、こわぁーい…」

「エイミン!大丈夫か!」

「くすん、やっぱりわたしのこと、嫌いなんですね…」

「おお、エイミン、可哀想に。泣かないでくれ…この、バカ犬!お前なんて捨ててやる!」


ガーディに向かって指をさし、唾を飛ばし始めたガイアスを見て、リリアナは「もうダメだな」と思った。


「…わかりましたわ。ガーディは私が預かります。今後のことは父を交えてお話ししましょう」


思ったよりも冷たくて落ち着いた声が出た。


 それを聞いたテイラー家の誰もが事の深刻さに言葉を失ったが、当のガイアスだけは違った。


「ふん、やっとお前も自分の至らなさに気付いたか。お前なんて、このエイミンの可憐さの足元にも及ばないからな!喜んで婚約を解消してやるさ」


 ガーディを引き取ってから更に半月後、めでたくリリアナとガイアスの婚約は解消された。


 事の顛末を聞いた父、シスル・ハノーバー伯爵はあっさりと婚約解消を承諾してくれた。もちろん相手の有責として、それなりの慰謝料ももぎ取って来た。


「動物を虐げるようなやからはいつその矛先を人間に変えるかわからないからね。あまつさえ、過ちといえどウチのリリアナ(のドレス)を傷つけておきながら、謝罪の一つもないとは」


 父と前侯爵は無二の親友で、互いの子供たちを縁付けようと盛り上がったのだが、シスルも今のガイアスの素行を見て、今やそんな義理を果たす必要もないと決めたようだ。

 

 「お二人がいらした頃には、あの人だってあんな風じゃなかったのにねぇ…」


ガーディの長い鼻面はなづらを指でくすぐりながら、リリアナは苦笑いをした。ガーディは大人しくリリアナの話を聞いている。


「ふふっ、あなた、本当にお利口さんね」


リリアナも前侯爵夫妻とは仲良くしてもらっていた。


 前侯爵がこのガーディを飼い始めた時、犬のしつけの知識があったリリアナもガーディの訓練に手を貸していた。そのため、ガーディもリリアナの指示には喜んで従う。


「あなたが無事でよかったわ…それにしても…」


公園のベンチに座ってため息をつく。


「ドラゴンも魔法もないノンファンタジーな世界かと思ったら、まさかのネコミミ少女がいるなんてねぇ…」

「クゥ?」


聞き慣れない言葉に反応したのか、ガーディが小首を傾げた。


 そう、実はリリアナ・ハノーバーには前世の記憶があった。


 ニホンという国で、普通に学び普通に働いていた記憶があると気付いたのは、十才を迎える頃だったか。細かいことは覚えていないのだが、時折生きていく上では何の役にも立ちそうにないことを思い出したりする。


 この世界は、前の世界ほど技術は進んでいないが、決して暮らしにくいというわけでもない。


 貴族社会に生まれてしまったからには、多少の不自由さはあるが、裕福な生活を享受している側の義務は果たそうと思う。それに生まれた時から馴染んだ世界なので、今の生が自分なのだという実感はしっかりあった。。


「まあね、婚約はダメになってしまったけど…」


頬杖をついて空を眺める。


 その視界の端に、リリアナは怪しい人影を捕らえた。


 そもそもここは王立公園で門衛もいる、貴族御用達だ。そんな怪しい人間がいるとは思えないのだが…。


 若い男のようで、ハンチング帽にサングラス、地味なジャケットとスラックスを身に着けて、少し離れた大木の影からチラチラとこちらを窺っているようだ。


 こういう時は刺激しないように直視を避けなければ…、そう意識しすぎたのか、頭を出した男とバッチリ目があってしまった。


「…あ」


相手はサングラスをかけているのではっきりと視線が交わったわけではないのだが、向こうも固まっている。


(こ、ここは逃げるべきかしら…)


そう考え、リリアナは立ち上がった。


「あっ、待って、待ってくれ、ハノーバー嬢!」

(え、私の名前も知っているの?やだ、怖い…)


男は走り去ろうとするリリアナの腕をパシリと掴んだ。


「キャー!離して、離して下さい!」


リリアナは恐慌状態になりかけて、腕を振った。


「い、いや、ちょっと待って…話を…」


いきなり見知らぬ男に名を呼ばれ、腕を掴まれて、話を聞く令嬢がいるだろうか。


 頼りのガーディは尻尾を下げてうろうろするばかりである。エイミンとガイウスに立ち向かった時の気概きがいはどこへ行ったのか。


(私、どうなっちゃうの~!)


男が何か必死に言おうとしているが、恐怖で耳に入らない。


 「おい、マリオン!」


すったもんだを続ける二人の間に入ったのは一人の騎士だった。


「いったい、何をしてるんだ!白昼堂々、ご婦人に無体を働くとは…」

「むた…、え、ちがっ、…いや、違わ、ないか…申し訳ない、ハノーバー嬢…」


 リリアナは放心していた。彼女は割り込んできたこの騎士に見覚えがあった。彼はケアン・ラーク、侯爵家の子息で、王太子付きの近衞だ。夜会や行事で遠くから見たことがあるくらいだったが、彼の赤毛と端正な容姿はとても目立つ。


 そして、彼の主人、マナデュース王太子の名前はマリオナーク殿下、濃いめの金髪に茶色の目…こちらも国中の婦女子が呆れるほどの美貌だ。


 リリアナは、サングラスと帽子を外して髪をかき上げる貴公子を見た。ラクダ色のジャケットと茶色のチェックのスラックスはダッサいけども、これほどの美男が着るとそれなりに様になってしまうとは…そんな余計なことを考えていたが、ハッと気づいて礼を取る。


「申し訳ございません、知らなかったとはいえ、大変ご無礼を…」

「いや、私も悪かった」

「とにかく、ここじゃ何だ。場所を変えよう。マリオン、彼女に話があるんだろ?」

「ああ。少し付き合ってはもらえないだろうか、ハノーバー嬢」

「…仰せのままに。あ、しかし、ガーディ…犬を置いて参りませんと…」

「いや!その必要はない。一緒に連れて行って構わない、ぜひ!」


一度、出直した方がいいのではないかと思ったのだが、なぜか被せ気味に言われてしまった。


 こうして、ガーディと共に、王家の馬車に恐縮しつつ乗り込み着いた先は、王太子宮であった。


 所々青や緑のモザイク模様に彩られた白亜の建物は、両陛下と妹姫が住まうお城のような華やかさはないが、若い王太子には相応しいものに思えた。


「まあ、掛けてくれ」


外観を裏切らない、落ち着いた雰囲気の応接室に通される。ガーディも一緒でいいのかと思ったが、特に咎められないのでかまわないのだろう。


 王太子はケアンと侍女一人を残して人払いをした。侍女は未婚のリリアナに対する配慮だろうか。


 そこまでして話したい内容とは何だろう。リリアナは気を引き締めて王太子に向き合う。


「実はね…君に頼みたいことがあるんだ」


そう言った切り、彼はリリアナの横にお行儀よく座るガーディをじっと見た。


「ウオッホン!」


後ろに立つケアン卿が咳払いをした。


「実はね…君に頼み…」

「殿下、それは先ほど言いましたよ」


ケアンが耳元で囁いている。


 王太子マリオナークの評判はすこぶるいい。容姿は言うに及ばず、頭脳明晰、外交手腕も文句なし…のはずなのだが、目の前の男はどこかそんなイメージとは遠い。


「…うん、リリアナ・ハノーバー嬢。私の婚約者になってはくれないだろうか」

「…はいぃ?」


ちょっと失礼な声が出たのは仕方がないことだろう。


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