第4話 退院

「暑…」


病室で目覚めてから二週間。ようやく退院した雄馬は現在、家族から渡された地図を頼りに1人自宅へ帰ろうとしていた


雄馬の家族達は数日間この街に滞在していた。だが、共働きで妹も夏休みが終わり、学校が始まるという事で、別れを惜しみながらも東北の実家へと帰って行った


現在9月2日。ずっと病室にいた為に気が付かなかったが、外は30度を超える猛烈な暑さで、地面にはゆらゆらとした陽炎が見える


雄馬は頬を伝う汗を手の甲で拭い、とある小綺麗なマンションの前で立ち止まった


「ここか」


レジデンス天曽根… 地図によれば、間違いなくここが雄馬の住んでいるマンションだ。階層は5、6階程度だが、洒落たエントランスとオートロックのドアから、それなりに高級そうな雰囲気を感じる


雄馬は鍵でオートロックを開け、エントランスへ入った。涼しい。玄関口まで冷房が効いているのはありがたい。そのままエレベーターに乗り込み、ついに4階の自室の前までたどり着いた


「なんか…緊張するな」


記憶を失う以前の雄馬が生活を送っていた家。一体どんな部屋なのだろうか。期待と不安を抱きながら、開錠しドアを開く


部屋に入り、キョロキョロと周囲を見回す


「…これは」


なんというか、普通の部屋だ。ベッドとソファがあり、テレビがあり、本棚がある。キッチンの方を覗くと、冷蔵庫と炊飯器、電子レンジとその他調理器具がある。どうやらちゃんと自炊はしていたらしい


それにしても、部屋全体に言える事だが一人暮らしの男の部屋とは思えないほど綺麗すぎる。突発的な入院だったと言うのに、まるでしばらく家を空ける事を知っていたかのような整頓ぶりだ


雄馬はとりあえず、本棚を漁ってみる事にした。どれも初めて見る本だ。ざっと見ても百冊近くの雑多な本が置いてある。小説や図鑑、経営や教育に関する本。特に多いのは人体の構造に関する本だ。靭帯や関節にのみ着眼したような限定的な本もある


「まあ…気が向いたら読んでみるか」


他に何か面白い物はないかと探し回って見るが、特に雄馬の興味を引く物はなさそうだ。しばらくソファに座りボーッとテレビを見ていたが、それも飽きてきたので滞在時間15分にして部屋を出る事にした


「この街の道も覚えないといけないしな」


雄馬の住む街、東京都天曽根市。ここは日本に4か所ある異能都市のひとつだ。異能都市というのは、統治をアンラベルが全任した、異能力者の為の都市だ。都市内部で起きた事件や事故、犯罪の対処は警察ではなく全てアンラベルが対処するらしい


というのも、異能都市は異能力者及びその家族が居住するにあたって、莫大な補償金と恒久的な生活支援を提供しており、その人口は40%近くを異能力者が占めるというから驚きだ。故にこの街で起こる事件や犯罪も、その多くに異能力者が関わっている


異能力者の発生から約10年。世界人口の0.01%が異能力者となっているが、やはり普通の人間からは理解を得難く、異能都市外部では未だ根強い差別や偏見に晒される事も少なくないのだという


———というのは全て入院中に実から聞いた話であり、雄馬が記憶喪失に際して失っていた一般常識のひとつだ。なぜ異能力者と、それに関連する事柄に関しての常識だけが失われてしまったのかは甚だ疑問だが


それにしても、こうして歩いていると至って普通の街のように見える。とてもすれ違う人の中に異能力者が混ざっているとは思えない


「ん…?」


10分ほどあてもなく歩いていると、前方から鼻腔をくすぐる香ばしい匂いが漂ってきた。そのまま匂いのする方へ歩いていくと、赤い暖簾に「らー麺大森」と書かれた、趣のあるラーメン屋が現れた


そういえば昼食がまだだった。小腹も空いて来たし、入ってみるとするか。この所病院食ばかりだったし、たまに家族や実が持ってくる差し入れくらいしか食の楽しみが無かった。雄馬は初の外食に心を躍らせながら暖簾をくぐった


「すみません。一名で」


「あいよぉ!奥のお席どうぞ…って、なんだ!兄ちゃんかい!」


店主に言われ店内の最奥のカウンター席に着くと、雄馬の顔を見た店長が嬉しそうに声を上げた


「えっ?あ、はい、どうも!」


咄嗟に返事をしたが、もしやこの店主と雄馬は顔見知りだったのではないだろうか。何となく匂いに惹かれ入った店だが、以前からの行きつけの店だった可能性がある


「はい。こちらお水ね。いつものでいいかい?」


「は、はい」


やはり間違いない。雄馬はこの店の常連だったのだ。思わず返事をしてしまったが、以前自分が好んで食べていたラーメンならまあいいだろう。多少性格が変わったとはいえ、味の好みまで変わる訳ではあるまい


雄馬は記憶喪失の件を店主に伝えるべきか否か考えながら、水を一口飲んだ


「ん〜。何だ兄ちゃん。ここの常連か。初めて見る顔だなあ?」


突然、隣の席に座っていた中年の男が声をかけてくる


「はは…どうも」


「若いなぁ。いくつだ?」


「20です」


「お、じゃあ飲めんじゃねえか。どうよこの後一杯。って、それじゃあラーメン食う順番が逆だな!だはは!」


「はは…」


どうやら昼間からかなり酔っ払っているようで上機嫌だ。初対面の相手にこのテンションで話しかけるに人間にロクな奴はいない。雄馬はひたすら愛想笑いを繰り返していた


「おい八重樫。食ったならさっさと出ていけ。うちのお客さんに絡んでんじゃねぇ」


そんな様子を見かねた店主が、ドスの効いた声で中年の男に注意する


「あ〜?俺だってお客さんだがぁ?…ってなうぜえオッサンはこの辺にしといて、ちょっと仕事が入っちまったから帰らせてもらうわ。兄ちゃん、悪かったな」


「あ、いえ…」


八重樫と呼ばれた男はフラフラと店を出て行った。ああいう大人にはなりたくないものだ


「ったく…すまんな、兄ちゃん。あいつこれだよ。これ」


店主は小声でそう言いながら、頬から顎にかけて指を上下にジェスチャーした


「ヤクザですか?」


「バッ…でかいよ声が!他のお客さんに聞こえちまう」


「あ、すみません」


なるほど。しかしアンラベルが統治する異能都市天曽根においても、ヤクザのような反社会性力が居座っているものなのか。やはり異能力者が数多く集う街という性質上、金の匂いを嗅ぎつけた悪い大人たちが集まって来ているのだろうか


「そういや、今日はいつもの姉ちゃんは一緒じゃないんだな。喧嘩でもしたのかい?」


「えっ?」


そんな事を考えていると、店主がなにやら聞き捨てならない事を言い出した。いつもの姉ちゃん?実の話では雄馬に彼女は居ないはずだが、もしやいい関係の女性がいたのだろうか


これは、記憶喪失の件を店主に伝えた方が良いかもしれない。別に隠すつもりはなかったが、何となく説明が面倒くさくてなあなあにしていた。しかしその女性の情報を店主から聞き出すためには、まず雄馬の置かれた状況を伝えなければいけない


「あの…実は俺…」


「おっ?そんな話してたらちょうど来たじゃねえか」


「えっ?」


店主の声で振り返ると、そこには見覚えのある女性が立っていた。この人は確か…


「こんにちはー、今日は一名で…え、隊長?」


城内美琴。間違いない。面会初日に祇園と共に来ていた、女性隊員だ。なるほど、雄馬は自分の後輩である彼女を連れてここに来ていたのか


「やあ」


「ど、どうも…」


城内は少々気まずそうにしながらも、店主に案内され雄馬の隣、先ほど八重樫の座っていた席へと着いた


「ちょうど姉ちゃんの話をしてたんだ。いつも2人で来てたから、今日は喧嘩でもしたのかーっつってな」


「あはは…そうでしたか」


店主。あまり余計な事を言わないで頂きたい。城内が照れくさそうに笑っている


「隊長…もしかして記憶のことまだ…」


城内が小声で尋ねる


「ちょっとタイミングがね…」


「えぇ…ちゃんと説明した方がいいですよ」


言おうとしたら城内が入って来たんだが。と思ったが、やはり最初に説明しなかった自分が悪いので、店主に一から話す事にした


「おう、どうした。本当に喧嘩中だったのか?」


「いや、違うんですよ。実は…」




「なるほど…そんな事になってたとはな。すまんな気付いてやれなくて」


「いえ…俺の方こそ最初に説明すればよかったものを」


「にしても兄ちゃんは役者だったなあ。すっかり騙されちまったよ」


「大将!麺上がります!」


そんな話をしていると、奥で麺を茹でていた店員が店主に声をかける


「おう!見ててやるから仕上げまでやってみろ」


と言って店主は店員の方へ駆け寄って行った


「新人さんですかね」


と城内


「ぽいな。ところでさ、俺『いつもの』で良いかって聞かれたからそれにしちゃったけど、何ラーメンが来るんだ?」


「え…?あれを頼んだんですか…?」


城内が驚いた表情を見せる


「流石に退院一発目であれは…お腹大丈夫だと良いんですけど…」


「え、何。怖いんだけど」


城内のただならぬ反応に雄馬が怯えていると


ドンッとカウンターの上に巨大な器が置かれた


「はいよ!いつもの…って、よく考えたら病み上がりでこれって大丈夫か…?」


店主がふと冷静になり、不安げな表情を浮かべる。恐る恐る器を取り、覗き込んでみる


「これは…」


赤。一面の赤。明らかに通常のサイズより2回りはあるであろう巨大な器に、なみなみと入った真っ赤なラーメン。器の縁には唐辛子が隙間なく円を描くように配置されており、中央にはこれでもかと載せられた粉末状の唐辛子


「いただきます…」


雄馬は半ば絶望しながらも、どこか食指のそそられる真っ赤な特大ラーメンに、今まさに箸を突き立てた

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