第3章
第1話
出向命令がとかれて鎌倉署に戻ると、加瀬の立ち位置は百八十度変化していた。
ちょっと要領が悪いが、やる時はやる人好きのするいい人というカテゴリーから、相棒をむざむざ殺された無能な刑事という烙印である。
この烙印が実に目立った。
今から思えば、過去の自分はどれほど地味な存在だったかと、加瀬は皮肉に考えるしかなかった。
鎌倉署内を歩くだけで、廊下で、エレベーターで、控え室で、階段で、トイレで、さまざまな人びとが加瀬を注目する。いきなり表舞台の主役になったような脚光を浴びる自分に、加瀬はとまどった。
(これは、俺本来の姿じゃない)
捜査一課に戻った当日も、すぐ大脇警部が、こっちへ来いと手をふってくる。思わず背後を見たが、どう見ても加瀬を呼んでいた。
「先に俺に報告しておくことはある?」と、彼が聞いた。
少し躊躇してから、加瀬は藤島から届いた『死体検案書』を提出した。大脇は渋い顔している。その理由がわからないでもなかった。
三賀の遺体をクリニックから盗んだことを彼は知っているのだろう。
「これ、今更だけどね。横浜の例のクリニックから死体を盗んだそうだね。そんな人間だったのか、君は。それに、この『死体検案書』のこともね。正式な手続きで行ったものじゃないようだが」
「そこは、それ。あの、まあ、あれですから。ともかく、藤島医師は、大学の法医学教室で講義をしている上に、正式に監察医の免許を持つ非常に優秀な人材ではあります」
「まったく、加瀬よ。県警本部に出向して偉くなったもんだ」
椅子にふんぞりかえった大脇が嫌味を言う。
「しかし、奇妙じゃないですか。三賀さんが最初に送られたクリニックは、刑事事件を専門としていませんよ。本来は『承諾解剖』しか行わないクリニックです。なぜ、あそこに送られたのか、そこは疑問じゃないですか」
「そこは、それ。まあ、あれだから、今は忘れておけ。現場の手違いだ」
「まさか」
「混乱していたからな。まあ、そういうことで。つまりだな、結果オーライということだ。気づいて良かったということにしておこう。お互いのためにもな」
大脇は腫れ物でも触るようにして、『死体検案書』を受け取ると、それをぽんと指で弾いた。それから、パラパラとめくって内容を読む。加瀬が何度も繰り返し読んだものだ。
−−−−−−−−−−
【
⚫️ 死亡推定時刻、四月二十九日午後十一時から三十日午前一時の間。
⚫️ 全身に灯油をかけられた形跡あり。
⚫️ 赤紫色の死斑が広範囲に発現しており、絞殺と見られる。
[主死因]
⚫️ 直径五ミリほどの紐で気道圧迫したことによる窒息死。首に残る形状と、巻きつけられた紐の形状は一致。
毛細血管の破裂により、まぶた及び眼球結膜に
⚫️ 防御創を含めて目立った外傷はなし。手の甲に若干の引っ掻き傷あり。内臓(心臓・肺)などに、窒息死特有の溢血点や鬱血が認められる。
骨格に異常なし。毒物などの結果は後日報告。
注:血液反応など二頁第一項に記述。
備考欄:左手に数本の毛根を握っている。毛根についてはDNA検査に送致、結果が出次第、報告予定。
上記の観点から、死因は頸部を圧迫されたことによる絞殺と断定される。
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二枚目の報告書には、さらに詳細な内容が記載されていた。
どんな思いで藤島がこれを書いたのか。それを考えたとき、加瀬は胃の淵にドンと重い石が落ちたような沈鬱な気分になる。
キャンパスでの別れ際、彼はこう言っていた。
『僕は一方的に彼を愛していた。だからこそ、復讐に生きる有吏を放っておくことになったが、こんな結果になるなら……。後悔ばかりだ、加瀬さん、あなたにどんなことでも協力する。必ず犯人を挙げてくれ。でなければ、有吏があまりにも憐れだ』
その後の言葉は、生前の三賀からの伝言なのだろうか。
『この件は加瀬さんも理解しているだろうが、九曉家が係わっているのはまちがいない。三月末に洋館で起きた焼死体には他殺を疑う証拠は出なかった。しかし、運が作用したのか、今回は焼かれていない。これは、きっと有吏の執念だよ。手のひらに握った髪の毛は有吏からのメッセージだ。犯人のものに違いない。なんとか証拠を残すために髪の毛を引き抜き膝をつかんで隠したのだろう』
いつもなら、適当に慰めたかもしれないが、この時、加瀬はただ言葉を失うしかなかった。藤島の必死の思いだけが強く伝わった。
しかし、今、大脇を前にして、それを言うわけにはいかない。
盗んだのは自分の独断にするしかないと、加瀬は覚悟を決めている。だからこそ、大脇を目前に加瀬は意味もない、愛想笑い顔で立っているのだ。
「大脇さん、藤島先生以上に、三賀さんの解剖を行える人はいないと思います」
「ああ、そうかもしれないな。どういう人物か知らないが、詳細な検案書だ」
「それでですが、これを大脇さんに頼んでいいですか?」
「わかった。県警本部にコピーして送っておこう」
『死体検案書』は大脇の手から神奈川県警捜査一課に渡った。
結果として、他殺が確認され、『特別捜査本部』いわゆる『帳場』が立つことになった。『帳場』は、慣例通り事件現場のある鎌倉署。神奈川県警の捜査一課から派遣された刑事たちと鎌倉署の地元警官との組み合わせが発表されたのは、その翌日だった。
総勢三十名の兵隊に、県警から来る管理官が指揮官になると発表された。
管理官は桂川敦といった。
国家公務員一般職に合格した準キャリアで、捜査一課のエースと呼ばれる男らしい。明晰な頭脳を持つが、普段は何事にも興味がなさそうな茫洋とした表情を浮かべ、感情が読み取りにくいと評判だ。
あとで知ったが、三賀とは同期で入庁した関係だという。
中肉中背で、とぼけた表情が似合う痩せた男だ。平凡な容姿だが、あなどると後で痛い目にあうともっぱらの噂だった。
鎌倉署内はピンと緊張の糸が張られた雰囲気になったが、どこかお祭り騒ぎの浮ついた雰囲気もあった。
加瀬は、そうした全てを醒めた目で見ていた。
「うちの隠れエースが帳場で誰と組みたいか、先に聞いとくよ。これ、俺の好意だよ」と、大脇に言われた。
「では、田部と組ませてもらえれば」
「わかった、そうしとこう」
加瀬は帳場で『
被害者の人間関係を洗い出す班であり、誰よりも三賀や九暁を知る加瀬にとって、最適な班でもある。
帳場の初日は、臨時本部となる講堂に集まった。
整然と並べられた机のひとつで自分のノートパソコンを見ていると、田部が隣に来た。机に腰をあずけ、背中を曲げて話しかけてくる。
「加瀬さんってば、時の人ですよね。加瀬さんと仲がいいってことで、僕まで知らない人から注目を浴びちゃって。で、これ、やはり九暁家に関わりがありますか」
「……」
「九暁のこともだけど、加瀬さん、今回の指揮官、どんな人だか知っています?」
「あいかわらずな田部よ。同時に二つの質問をまぜるな。俺が知るわけないよ」
「桂川さんって名前だそうっす」
「それで?」
「神奈川県警のエースと呼ばれている人で」
「田部は知り合いなのか」
「まったくぅ、知り合いなはずないっしょ。嫌味ですかっつうの。でも、聞くところによると、彼は現場主義で相当なキレ者らしいっすよ。『難事件の桂川』って別名があるそうで。そういう意味では『はずれキャリア』と影で呼ばれていた三賀さんとは対照的っすよね。おふたりは、もとは入庁が一緒で同期だったそうですけど、準キャリアとキャリア組だから、それほど関係はなかったかもしれないけど」
「そろそろ帳場がはじまる時間だ。ともかく、すわれ」
「はい、ついていくっす!」
特別捜査本部が立てられた署の講堂に、県警本部捜査一課から来た捜査官と、鎌倉署の捜査官が集まった。
彼らをまとめる指揮官として管理官が正面の机にすわる。
「あの人か」と、加瀬は田部の耳もとでささやいた。
「そのようっすね」
捜査員たちがすわる机の対面に長机が設置され、三人の男たちが腰をおろした。
ざわついていた講堂がシンと静まる。
真ん中にいるのが、桂川管理官。右隣に県警の捜査一課課長の高橋警視、左隣が鎌倉署の刑事課課長の大脇警部だ。
誰もが緊張しながら、桂川の第一声を待った。
その桂川管理官は先ほどから顎に親指をあて、鼻の下を人差し指の脇腹で、ずっとさすっている。
ときどき、上目遣いで周囲を観察する様子は勤勉な検事のようにも、生真面目な学校教師のようにも見える。
中肉中背で、これといって特徴のない平坦な顔。黒縁メガネをかけた顔は平凡にしか見えないが、ある角度によっては知的にも見える。
この男のどこがキレ者なのだろうか。
三賀はナイフで常に切りかかってくるような狂気があった。キレ者とは、彼のような男をいうのではないだろうか。
「じゃあ、はじめようか」という桂川管理官の声で加瀬は我にかえった。
(つづく)
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