第19話
夕方の六時ごろ、珍しくチャイムが鳴らされた。外はもう真っ暗闇になっている。今日は朝から厚い雲に覆われていたせいか、星ひとつ出ていなかった。
訪れたのは財団職員の女性で、わりと誉の親身になってくれるひとだった。沈鬱な表情の彼女が話す事柄は、誉をひどく狼狽させるもので。
本宮流風が何者かに誘拐されたらしい。それも、裏社会の者だと思われるギフト・ホルダーに。
誘拐。裏社会。ホルダー。それらが頭の中でぐるぐると巡る。遠い記憶を起こさせる。まあ、流風とは違い誉は誘拐ではなかったのだけれど。
誉は売られたのだ、じつの親に。いらない子だったから。悪魔、だったから。
オークションに出品されるために檻に入れられていたことを思い出した。まるでペットのようだった自分を。いま、流風もそうなっているのだろうか。それとも強いアンチ・ホルダーで、見目麗しい彼は蝶よ花よと愛でられているのだろうか。
「誉くん? 大丈夫?」
思い出の海に溺れ、黙り込んだ誉を職員が気遣わしげに見やった。彼女は知っているのだ、誉がここにやってきた経緯を。「大丈夫です」と安心させるように微笑む。しばし眺めたあと、彼女は「部屋からあまり出ないように、気をつけてね」と言って去っていった。
気をつけるもなにも、頑張っているとはいえ現状の誉はみそっかすなアンチ・ホルダーだ。裏社会の人間が進んで目をつけるとは思えない。けれど心遣いはありがたく、素直に嬉しいので、誉はしばらくは外出を控えることにした。裏社会の人間が怖いということもある。
けれどやっぱり落胆は抑えられない。外出できないということはつまり杜和と出かけられないということだ。あの星がまたたく夜空のような、きらめく瞳を見ることができないのが残念でたまらない。誉は時間が移ろうように、いろいろな表情に変わる杜和の瞳がなにより好きで、特別に思っているのだ。
(連絡、してみようかな)
今日は杜和の仕事の関係で訓練はなかった。仕事終わりにはとまり木に行くと言っていたから、いまごろ店内にいるかもしれない。誉はテーブルに無造作に置いてあったスマホを取った。するとタイミングを見計らったかのように、ぶるぶるとスマホが震えた。
杜和から電話が来たのだ。誉は慌てて電話に出る。
「もしもし、杜和さん?」
『誉、おまえいまどこにいる?』
「え? えと、家です、けど……」
とたんにスマホから安心したような吐息が聞こえた。『ならいいけどよ』と言い、杜和は続ける。
『しばらく外には出んじゃねえぞ。どうしても図書館とか買い物とか行くってなったら、俺や……涼二とか季央でもいいから、絶対に言え。ひとりで行動はすんな。いいな?』
「はい……わかりました」
『ん、いい子だ』
杜和がどうしてそんな忠告をしてきたのかは明白だった。誘拐事件のことを聞いたのだろう。そうして心配して、気遣ってわざわざ連絡までくれた。本当に優しい人だ。大好きだなあと改めて思った。
スマホ越しに騒がしい声がする。少し高めの温かみのある声音は季央のもので、低く冷淡に聞こえるのが涼二のものだ。
『誉くん! まじで俺らのこと頼ってね!』
『ひとりでの行動だけはすんなよ。俺らの迷惑とか考えなくていいから』
『そうそう、迷惑なんかじゃないからね! 誉くんは俺の癒やしだし!』
『おまえらうるせーよ、俺がいま電話してんだってーの。ちょっと黙れ、とくに季央』
杜和の声のあとに、軽い打撃音と『ぎゃんっ』という犬の鳴き声のようなものが聞こえた。次いで『ひどいっす~!』という泣きごとも。ふふっと思わず笑ってしまう。
『てかその様子だと、やっぱおまえも聞いたんだな、誘拐の話』
「はい……。その、誘拐されたのって、本宮くんなんです」
『はあ? まじか。そこまでは聞いてなかったわ。まああれでも強いアンダーだったみたいだしなあ、もしかしたら個人的に狙われたのかもな。強いアンダーってのは、やっぱり裏からも狙われやすいから』
「やっぱりそうですよね……」
『だからって、おまえが警戒しなくていいってことにはならねえからな』
強い口調に電話ということも忘れ無言でこくこくとうなずいた。『返事は?』と催促され、「っは、はい」と返事する。
『よろしい。でもまじで気をつけろよ』
重ねて心配される。涼二や季央、それに久我や司の同調する声が聞こえた。司もアンチ・ホルダーなのだから誉と同じく警戒する側では? と言うと、『俺はおまえほどやわじゃない』とぴしゃりと跳ね返された。
『おまえ、いかにも弱そうだからな。ひとの心配する暇があるなら自分の心配してろ』
つんとした物言いだが、心配してくれているのだ。司も、優しい人だなあと思った。杜和と出会ってから知り合うひとは、みんな優しいのだ。類は友を呼ぶという言葉通りに。
杜和と、涼二と季央と、久我と司。あの日檻の中で、なにもないと嘆いていた自分のことを、こんなにも気にかけてくれる人がいる。それがとても嬉しくて、舞い上がるように幸福だった。
『あのさ、誉』
ふいに杜和が声を落とす。なにか秘密でも打ち明けるかのように。自然と誉の声も細くなる。
「? はい」
『その……この間のことなんだけどよ』
そう言ったっきり黙り込む杜和。最近よくこういうことがある。この間のことと言ったきり、杜和が口を閉ざしてしまうのだ。この間がいつのことだかわからない誉は、ただ言いあぐねる彼のことを待つしかない。
ややあって、杜和が意を決したように『あのな』と口にしたときだった。
ドガアアアアァァンッ。なにかが激しく壊れるような音が響いた。
「ひっ……!?」
『! どうした!』
杜和のほうからもなにかが倒れるような音がした。けれどそんなことには構ってられない。心臓がばくばくと激しく脈打っていた。息が荒れるばかりで、杜和に何度も名を呼ばれているが返事もできない。ひたすら身を固くしていた。
「あは、おまえが誉?」
ひとりの男が、ひしゃげた扉を踏みつけながら入ってきた。ガシャン、ガシャンと破片を踏み潰しながら。真っ白い、人間味を感じさせない男だ。優しげな笑みを浮かべていて、それがいっそう恐怖心を煽る。身体中に怖気が走った。ずるずるとその場に座り込んでしまう。腰が抜けてしまって足腰に力が入らない。思考が、回らない。
力の入らなくなった手からスマホが滑り落ちた。画面はすでに真っ黒になっている。
誉はがたがた震えながら、痺れる唇を開いた。
「ぁ、だ、れ……」
「んー? ふは、んなことどうでもいいじゃん。とりあえず着いてこいよ」
「ゃ」
「言うこと聞かねえと足と腕折るから。あ、あと騒ぐなよ、あんまりうざいと手が滑っちゃうかも」
どこまでも楽しげな男。もう誉は声も出なかった。
「おまえっ、なにをしてる……!」
「捕まえろ!」
「はーうざ。雑魚がしゃしゃり出てくんじゃねーよ。暇つぶしにもなんねー」
騒音に駆けつけたギフト・ホルダーたち。誉が助かったとほっとしたのもつかの間、職員たちは一瞬にして倒れ伏してしまう。それほどまでに、男はギフト・ホルダーとして格上だったのだ。
(俺、どうなるんだろう)
誉の絶望が深くなる。自分の先行きが見えず、眼の前は真っ暗だ。見るからに裏社会と関係がありそうな男だ。誉はこれから売られるのかもしれない、あの日のように。
ふんふんと男は鼻歌を奏でながら、誉を無理やり連れ出した。細く白い腕を握ってぐいぐいと容赦なく引っ張っていく。スリッパが脱げ、破片が足裏を切り裂いた。細かい欠片が足裏に突き刺さっている。ずきずきと痛んで、けれどそれ以上に怖くて、誉は震えるしかできない。誉の通った道はナメクジが這ったような赤い跡になった。
(杜和さん……)
心細さから心の中でつぶやく。
空にはやはり、星ひとつ見つからない暗闇が広がっていた。
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