第18話

 ああ、イライラする。

 最近、不愉快なことばかりだ。一月の寒空の下を歩きながら、流風は唇をぎりりと噛んだ。人通りの少ない裏道に薄く溜まった雪に足を取られ、転ぶ。くそ、と内心で悪態をついた。


「大丈夫か、流風」

「どうぞ、手を」

「うん、ありがとう」


 支えてくれた取り巻きに微笑みかけると、頬を染めて嬉しそうにされた。自身を崇める存在も現状ではなんの役にも立たない。

 せっかく取れた認定が剥奪されそうだった。認定を取って、請け負うこと三人目のヒーリングに失敗したのが原因だ。取るに足らないギフト・ホルダーならばともかく、財団の上役の関係者だったなんて。本当についていない。

 しかしそれ以上に流風を腹立たせ、不快にさせることがあった。あの役立たずの落ちこぼれが調子に乗っていることだ。


 ――もう二度と、杜和さんに近づかないで。


 あの日の、あの言葉が蘇る。腸が煮えくり返って、思わず流風は唇を噛み切っていた。どういう手品を使ったのか知らないが、あいつは流風をコケにした。


(絶対に許さない)


 燃えたぎるマグマのような黒いなにかが、腹の奥でぐるぐるととぐろを巻く。誉に食らいつくのをいまかいまかと待ちながら。


「流風、血が……!」

「寒いからな、唇が切れたのか。おまえティッシュ持ってなかったっけ」

「ちょっと待って下さい、いま出しますから」


 慌てた様子の取り巻きがティッシュを一枚差し出してきた。拭き取るとべったりと血痕が付着していた。それでも滲む血は舌で舐め取る。

 ちょっとした間を埋めようとしてか、取り巻きのひとりがぼやくように言った。


「てかさ、あいつら見る目ねえよな。流風ほど強いアンダーなんていねえのに、認定剥奪なんてありえねえよ」


 流風ほどではないが憤っている様子だった。心底不可解という顔をしている。もうひとりも強く首肯した。


「本当に。ほかのアンダーが嫉妬から陥れられたとしか考えられません。例のギフターには懇意にしているアンダーでもいたんじゃないですか? 厳重に講義するべきですよ」

「――へえ、おまえ、強いアンダーなんだ?」


 突然知らない声が割り込んできた。低くも高くもない、吐息が混じったような声。はっとして声のほうを向けば、そこには知らない、けれど一度見たら忘れられそうにない姿の男がいた。

 透き通るような白い肌に、真っ白な髪から覗く薄青の瞳。儚げな、まさに雪のような容姿とは裏腹に、耳にはおびただしい数のピアスがついている。にやついた笑みはどこか狂気じみていて、近寄りがたかった。

 取り巻きたちが警戒するように流風の前に出る。けれどそれからはまさに一瞬のできごとだった。

 誰何する声を発する前に、どさり、どさりと取り巻きたちが崩れ落ちたのだ。ややして目前の光景に「……は?」と流風は呆気にとられるしかない。

 だって彼らだってそれなりの強さを誇るギフト・ホルダーなのだ。それがこうもあっさりとやられてしまうなんて。それは、つまり。

 自分に対しておそらく害意のある格上のギフト・ホルダーに、流風は身体が震えたのがわかった。ひっひっと息が上がる。


「あは、なにこいつら弱すぎ。つまんねーの」


 男が倒れ伏す取り巻きのひとりを思いっきり蹴り上げた。「起きろよ、おーい」と爪先でつついている。


(逃げなきゃ)


 あいつらに気がそれているうちに。流風は脇目も振らず走り出した。雪に足を取られながらも、転びながらも、止まらずに走った。取り巻きたちのことなど頭になかった。自分が助かるならば殺されようが知ったことかとすら思っていた。

 そもそもあいつらが悪いのだ。本来なら身を挺しても流風を守らなければならないのに、ああも簡単にやられてしまうなんて。役立たずどもめ。流風は内心で悪態をつく。


「どこ行くの。あ、もしかして鬼ごっこ?」


 ギフト・ホルダーとアンチ・ホルダーのフィジカルには圧倒的な差がある。楽しげな声音はどこまでもついてきた。ときおり先回りをされることすらあった。なぜかアンチ・ホルダーの力が効かず、焦りが増していく。

 流風は袋小路に追い詰められたネズミだった。

 いったいどれだけ走っただろう。自身がどの路地にいるのかもわからず、ついに突き当りまで来てしまった。これではもう逃げられない。


(そ、そうだ! スマホで誰か助けを……!)


 ここに来てようやくその存在を思い出し、震える指で連絡先を探す。くそ、早く、早く。しかし電話のアイコンを押そうとするより先に叩き落されてしまった。


「ぐっあぁ……っ」

「もー、誰に電話しようとしてんの。面倒なまねすんなよな」

「手が、手がぁ……!」


 流風の手は変な方向に折れ曲がっていた。脂汗が額から滲んでくる。ぼろりと涙が溢れた。真っ青な顔で、それでも上目に見上げて、いたいけなふりをする。けれどそんなことには興味ないとばかりに腹につま先を叩き込まれた。臓器が抉られる。


「ぐぎゃっ……っ!」


 地面に転がって「なんで、こんなこと」と呻く流風に男はにやついたまま言った。


「んー? ああ、最近遊び過ぎちゃってさあ、ボスが怒ってんだよね。めんどくせえしどうしようかと思ってたところで、ちょうどおまえを見つけたってわけ。おまえ、強いアンダーなんだろ? だからおまえ土産にしたら少しはボスの機嫌もよくなって、俺のこと多めに見てくれるかなって」


 賄賂だよ、賄賂。と続ける男はどこまでも楽しげだ。イカれている。流風はいっそう背筋を凍らせた。


(くそ、どうする、どうする、どうしたらいい!?)


 混乱する流風は、ふと男のセリフを思い出した。


 ――おまえ、強いアンダーなんだろ?


 強い、アンチ・ホルダー。流風のように、流風よりも、強い――。そこで思い浮かんだのは、あの日のあのできごとだ。どんな手品を使ったか知らないが、流風に尻もちをつかせたあの役立たず。あいつが流風よりも強いなんてことはありえないが、けれど使えると思った。

 あいつを、あの落ちこぼれの誉を、変わりに捧げてしまおう。流風は内心で嘲るように笑いながら、「ま、待て!」と言った。自身をコケにした誉を陥れる高揚感からか、もう身体の痛みも忘れていた。


「んー? なんだよ」

「そっ、それなら僕よりいいのがいる! とびきりのが!」


 男は目をぱちくりとさせ「いいの?」と小首をかしげた。


「ああ、そいつは強いアンダーで、そう! ゼロイチ……! ゼロイチだ! そいつを土産にしたほうがいいだろ!?」

「……まあ、ゼロイチなんてほんとにいるなら、そっちのがいいよ。もちろん」


 男は懐疑的な眼差しで流風を眺める。口元だけは笑みを象っているのがなんとも恐ろしい。

 じっさいにゼロイチなんてものは存在しないが、ここでバレるわけにはいかない。あの忌々しい誉を葬る絶好の機会なのだから。流風は畳み掛けるように言った。


「ほんとなんだ、信じて。ゼロイチは誉っていう男で、ソフィア財団の敷地にいる。本部の裏にある寮か、敷地内にある図書館にいることが多くて……今日もそうだと思う」


 はあはあと興奮に息を荒げながら、流風は男にすがるような視線を向ける。


「ねえ、教えたんだから僕のことは逃してくれるでしょう? ねえ、お願いだよ、ねえ」


 猫なで声で、甘える。力だって込めた。流風は自身の容姿にも、力にだって自信がある。自分がここまで下手に出たのだから、今度こそ男は従うはずだ。なにより代わりも差し出したのだから。

 男は考えるように「んー、そうだなあ」と囁く。次いで、一瞬の間に距離を詰めてきた。思いっきりこめかみに拳を叩き込まれる。


「え」

「おまえのこと逃がすなんてひとことも言ってねえよ、バーカ」


 流風が倒れる音とともに、男は満面の笑みで楽しそうに声を上げた。

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