第15話

 ハイネックのクリーム色のセーターにインディゴのデニムを合わせる。変にしわになっている部分はないか軽くチェックをして、ボア素材でできているブラウンのコートを羽織る。オーバーサイズで着られている感が満載だが、防寒着はこれしか持っていないため選択肢はない。いつもの履き古したスニーカーを履いたら、きちんとマスクをしていることを確認してようやく外へ出た。

 今日は十二月十日だ。朝から雨がざあざあと激しく降っている。そのせいで体感温度はいっそう冷えて、凍えそうだった。これからさらに寒くなるという予報なので、少し憂鬱になる。誉は杜和と同じように寒さに弱かった。着膨れてぶくぶくの杜和を思い出し、小さく笑った。とたん、びゅうと風が首筋のむき出しの部分を撫でていき、誉は首をすくめながらコートのフード部分を持ち上げた。

 杜和との訓練は夕方四時からだ。それまでの空き時間に勉強をしようと図書館へと向かっていた。


「……ぁ」


 正面から現れた流風と目が合ったのは、本部のロビーだ。妙に機嫌がよさそうな流風が、花のような笑みを浮かべてこちらに歩み寄ってくる。取り巻きの姿はなかった。

 誉のすぐそばまでやってくると、流風は愉快でたまらないとでもいうよう唇を歪ませる。


「やあ、その景気の悪そうな顔からすると、きみはまだ制御もできないみたいだね。僕はもう認定にも受かったよ?」


 ご機嫌なのはそれが理由らしい。「そう、なんだ」と言うと、「まあいままで受からなかったことがそもそもおかしいんだけど」と嘲笑混じりに吐き捨てる。


「その証拠に、いまの試験官になったとたんに受かったんだから。僕を不当に扱ったあのギフターは処分すべきだよ」


 当然のような顔をして言った流風は、薔薇のような華やかな笑みを浮かべて、しかし笑っていない目で誉を見やる。上から下までをバカにするように眺められた。居心地が悪く思わず半歩下がってしまう。


「きみは一生認定試験に受かりそうにないね。ふふ、まあ、そのままずっと制御訓練でもやってれば? 無様にさ」

「……」


 嘲るような眼差しを残し、流風は去っていった。ロビーにぽつんと残ったのは、反論も反抗もせず肩を落とした誉だけ。

 誉は横を通ったひとに肩をぶつけられ、「邪魔」と言われところでようやく動き出した。

 三時半ごろまで図書館で過ごし、四時からは訓練室で待ち合わせた杜和と訓練をする。

 マスクを外し、ひたすら力を込めたつもりで会話をする。何度も杜和の名を呼んだ。力を使っているつもりだった。


「……ちょっと休憩するか」

「はい……」


 けれどだめだった。いくら力を込めても普通の声にしかならず、これではノン・ホルダーと変わらない。


(やっぱり俺にはどうやっても無理なのかな……)


 一生認定試験に受かりそうにないね。流風の言葉が頭から離れない。

 なんで、と俯いてしまう。どうしてうまくいかないんだろう、と涙が滲んだ。杜和にたくさん協力してもらっているのに、進展はゼロだ。いまだにまともに使うことすらできない自身に対する嫌悪が湧き上がる。どうして、なんで、どうして。

 どうして俺は能力を使うことができないの。


(いや……)


 ふとそもそも使ってはだめなのだ、となぜか確信めいたものが頭をよぎった。誉は能力など使ってはいけない。だって誉が能力を使ったら――。


(使ったら……?)


 どうなるんだっけ。

 はたと目が覚めた。そもそもなぜ使ってはいけないなどと、一瞬でも思ってしまったのだろう。使ってはいけないどころか、自分は使うことができないのに。誉は内心で首をかしげた。


「なあ誉」


 向かい合うようにしてソファに腰かけていた杜和が、ゆっくりと身を起こす。彼が背負う窓の外は、すでに薄暗い。やがて彼の目の色に変わっていくだろう。

 雨粒が激しい音を立てて窓に打ちつけていた。


「なんかあったか? なんでそんなに焦ってんだ」


 彼の夜空色の目は静かだったが、たしかに心配が滲んでいる。誉は一瞬だけ迷ったあと、至らない自身へのうしろめたさを感じながらも、助けを求めるように口を開いた。


「本宮くんが……」

「本宮? 誰だよ」


 怪訝そうな顔をする杜和に誉によく絡んでくるアンチ・ホルダーだと教えると、少し逡巡したあと「ああ、あいつか」と得心したようにうなずいた。


「んで、あの野郎がどうしたんだ? またなんか言われたのか?」

「……その、認定に受かったらしくて」

「は? 認定って、ヒーリングのだよな?」


 確認するように問いかけてくる杜和に首肯することで返す。「嘘だろ」と杜和がつぶやいた。


「それは絶対ねえって。あれが受かるわけがない。涼二たちに聞いても間違いなくそう言うぜ」

「でも、受かったって言ってて、すごく機嫌もよさそうで……」

「機嫌よさそう、ねえ……」


 杜和は納得がいかないといったふうに眉を上げたあと、ややして小さく「あ」となにかに気づいたように言った。


「検査官が変わったんじゃね?」

「え、あ、はい。そう言ってました」

「あーはいはい、なるほどな」


 杜和が謎はすべて解けたとばかりにしきりにうなずく。どういうことだろう。誉は首を捻った。杜和が深く吐息する。


「たまにあるんだよ、強いアンダーに対する忖度」


 吐き捨てるように言った杜和は、けれど誉に対してはいつだって優しい。


「なあ誉」

「? はい」

「あいつが認定に受かったからって、おまえだってすぐに制御できなきゃいけないわけじゃねえんだぞ。おまえにはおまえのペースってもんがあるんだから」


 流風と誉は違う。人の歩みがそれぞれなように。それは誉だってわかっていた。けれど、それでも。

 誉は泣き出す寸前のように顔をくしゃくしゃにする。どうしようもなく、怖かった。流風の言う通り、このまま一生まともに使うことすらできなかったらどうしようと、不安で不安で崩れ落ちそうになる。

 どんどん周りが先に行ってしまう。誉はひとり、いつまでも同じ場所に取り残されている。できてあたりまえの世界だ。待ってと声を上げることすらできず、誉はうつむくしかない。

 杜和が誉の縮こまった心に寄り添うようにゆっくりと語りかけてくる。


「でもまあおまえの気持ちもわかる。痛いくらいな。……苦しいよなあ、周りだけどんどん先に行っちまうのはさ。ひとりぼっちになったみたいで」

「……、杜和さんも、ですか」


 思わずそう口にしていた。「ん?」と杜和が首を傾ける。


「杜和さんも、いま、怖い?」

「……」


 杜和はしばらく無言だった。じっと彼の返答を待っていると、ふいに自嘲気味に微笑む。


「そうだなあ。……ずっと怖いよ。このままヒーリング受けられなくて、仕事もどんどんできなくなって……最後には死んじまったらどうしようって、ずっと怖くて仕方ない」


 情けねえだろ? と問われ、誉は本心から首を左右に目一杯振った。

 杜和が情けないわけがない。いつだって優しくて頼りになって、恐怖心に負けないようにしっかりと立っていて。それはとてもすごくて、泣きたくなるほど尊いことだと思う。


(俺が杜和さんにできることってなんだろう)


 いつも世話になるばかりで、なにも返せていない誉が杜和のためにできること。したいと、思うこと。

 そんなのはひとつしか思いつかなかった。


(……頑張らなきゃ)


 もっともっとたくさん頑張ろうと決意する。諦めずにが訓練を続ければ、いつか絶対に能力の制御ができるようになると信じて。

 そうしていつか制御できるようになって、認定を取った暁には。


「……俺のヒーリングひとり目は、杜和さんがいいです。その、がんばる、ので」


 もしもできなかったらどうしよう、とか。自分なんかが本当に能力を制御できるようになるのか、とか。下から誉の足を引っ張ろうとする不安には気づかないふりをして、誉は杜和のことをじっと見つめた。


「誉……」


 目をぱちくりさせたあと、杜和はふわりと破顔する。


「おう、そんときゃ頼むわ。……でもその前にまずは能力の制御、な?」

「はい!」


 陰鬱な雰囲気を吹き飛ばすように元気よく返事をすると、口端を上げた杜和が誉の頭をぽんぽんと撫でた。


「大丈夫だ、俺がついてる」


 身の内の恐怖心など微塵も感じさせない、力強い声。そんな杜和の力になりたい、彼の献身に応えたい。そう気持ちを新たにしたのだけれど、これまでできなかったことがそう簡単にできるはずもなく。

 この日もまた、結局不発に終わってしまった。


(……だめだった。なにがだめなんだろう)


 がっくりと落ち込む誉の肩を、元気出せとばかりに杜和が叩く。

「気にすんなって。いまはだめでも次はいけるかもしれねえだろ? それでもだめならその次が。大丈夫だ、絶対に制御できるようになるから。俺が保証してやる」


「……それは、心強いですね」

「だろ?」

「はい。……、ありがとうございます。負けずに頑張るので、今後もよろしくお願いします」

「おう、こちらこそ。認定取った誉にヒーリングしてもらうの楽しみにしてるからな」


 はい、とおずおずとうなずいた。

 外はすっかり闇が広がっていて星なんて見えない。けれどもう雨音はしなくなっていた。

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