第10話
店を出たのは十一時が回ったところだった。暖房のおかげで暖かかった店内から一変、外はますます寒さが身にしみる。強い風が木々をざわりざわりと揺らしていた。
誉の家もある財団の敷地方面は人通りの少ない山の麓だが、杜和が住んでいるのは逆方向の住宅街エリアだ。ギフト・ホルダーの特性で車やバイクでの移動には耐えられないのでだいたい徒歩で移動する。自転車を使うくらいなら走ったほうが速かった。
(あー、さみぃ)
せっかくぬくもった身体が指先から冷えていく。ぶるりと震え、指先をポケットに隠した。そのとき指先が触れていたスマホが通知を知らせた。いったい誰だろうか、こんな時間に。
【涼二】帰り道には気をつけろよ。おやすみ。
仕事がまだあるとかで先に帰った涼二からだった。最近はいろいろと物騒なため全快とは言い難い杜和を心配したのだろう。昔から変わらない、不良みたいな見た目に反して優しく気遣いのできるやつだ。
忙しいだろう相手に長文を返すわけにもいかない。簡単に返信すると、スマホをしまった。それにしても、と思考を巡らせる。
(裏のやつ、ね……)
裏のやつ――つまり、裏社会に身を置く人間のことだ。もちろん普通に生活をしていて関わり合いになる人間ではないのだが、杜和のように財団で仕事をしていると彼らが関わっている事件にぶつかることが多々ある。
そんな中でも、杜和には印象的な出来事があった。それは杜和が初めて裏社会と関わった事件でもある。
大仕事だった。高校時代は財団で見習いのような、バイトのような形で働いていた杜和は、高校を卒業し、本格的にギフト・ホルダーとして任務を受けるようになった。そんな杜和に下ったのは、とある闇オークションで商品として売られる子どもたちの救出。もちろん激戦が予想される突撃部隊ではなく救出部隊だったが、強いギフト・ホルダーであることを見込まれての仕事だった。
そして子どもと年齢が近く、警戒されにくいだろうということも選考理由のひとつだ。
商品である子どもたちが押し込められている部屋を見た瞬間の憤りをいまも覚えている。
同じ人間にこんなことができるのか、と。まさしく悪魔の所業だと思った。
子どもたちは檻の中に閉じ込められていた。まるで犬や猫などのペットのように。みんな檻の隅で怯えていて、身を寄せ合っていて、恐怖心に染まった視線を向けられ胸が張り裂けそうだった。
子どもたちを檻から出して一息ついたところで、ひとりの子どもが目についた。ぼんやりと中空を見つめるその子は、暗く底のない夕闇が滲んだような紫色の目をしていた。黒い髪の毛はぼさぼさで艶もなく、薄汚れたTシャツから伸びる腕は細く枯れ枝のように頼りない。一目で栄養失調なのがわかった。
けれど杜和がもっとも気になったのはその虚ろな目だった。光のいっさいが失われたような絶望の色を浮かべる瞳が無性に悲しくて、それでもたしかに生きているのが嬉しくて、杜和はまるで自身の弟たちにでもするように、気づけば手を伸ばしていた。
それからなんて声をかけたかは、覚えていない。子どもが泣き出したことですべて吹き飛んでしまったのだ。
――ありがとうございます。
ぼろぼろと大粒の涙が、滲むような紫から溢れていた。絞り出すような、なにかを噛みしめるような感謝の言葉を、ずっと忘れられずにいる。
あの子が感謝したことを後悔しないような人間でありたい。あのときの気持ちをこのさきも忘れずにいたい。ときおり折れそうになる杜和の心を、いまでも支えていることを、彼はこれからも知らないままだ。
ふ、と小さな音がすぐそばでしたのを、ぼんやりと考え込んでいたからか直前まで気づかなかった。
「――っ、くっ」
「っ、へえ、いまの避けんだ?」
とっさにしゃがんだ頭上をなにかが鋭く過ぎた。男の足だ。突然蹴りを入れられたのだ。男は蹴りを入れたほうの足を軸に、回し蹴りをする。これも杜和は避けた。しかしギリギリだった。頬の数ミリ先を男のつま先が撫でていく。
(俺と同格か? こいつまさか)
杜和と同格の強いギフト・ホルダー。そんな存在に杜和は覚えがあった。
(裏のやつか……!)
殴りかかってきたのを躱し、カウンターで拳を入れるが避けられる。ちっと思わず舌打ちをした。「あっはは、行儀悪いぜ」と男は楽しげだ。
(こっちはまったく楽しくねえよっ、クソッタレ)
男の白髪が動くたびにひらひらと動く。かっと見開かれた青い目には狂気が宿っていた。内心悪態をつきながらも男の容姿を脳裏に刻み込む。髪も目の色もいくらでも変えられるため、あてになるかは不明だが、まあないよりはいいだろう。
幸い人の姿はなかった。ただ近くに年中無休のスーパーがあるため、油断はできない。つねに人の気配を探りつつ、男の攻撃を避ける。
硬直状態だった。けれどそんな状況が長く続くはずもない。
「ほらほら、どうしたんだよ、もう終わりかぁ?」
「っ、ぅ、ぐ」
「せっかくここ最近では一番楽しかったのにさあ、もう終わりとかサイアク。もうちょっと頑張ってよ」
ただでさえ同格のギフト・ホルダーで、片や健常、片やアンダー・ビーストだ。始めから勝敗など見えていたようなものだが、杜和は徐々に押され始めた。顔や身体に傷が増えていく。男の鋭い蹴りが服の上から腕を裂いた。
これまではそこまで問題にはならなかった、ヒーリングを受けられないという事実が足を引っ張る。
神経過敏になり、耳元をかすめていく拳や蹴りの音にすら頭が揺さぶられた。頭痛がひどくなっていく。耳鳴りがした。目の前が歪んで相手との距離がわからなくなる。それでも引くつもりはなかった。
プルルル、プルルル、プルルル。
突然、そんな音が響いた。目前まで迫っていた拳を止める。次の瞬間、男が腹に蹴りを入れてきた。
「ぐっ、ぅ」
頭痛とめまいのせいで踏ん張りが効かず、杜和はあっけなく吹き飛ばされてしまった。プルルル、プルルルとなおも音は鳴りやまない。
おそらく電話だろうが、杜和のものではない。しかし男はそんな音にはまるで興味がないようで、杜和から視線を逸らせようとはしない。にやにやと始めと変わらず楽しそうな笑みを浮かべている。クソッタレ、と内心で吐き捨てた。
いつまでも転がっているわけにはいかない。杜和は震える膝には気づかないふりをして立ち上がった。くらり、と頭が揺れる。しっかりしろ、倒れるな、と白み始めた視界に自身を叱咤した。
じゃり、と小さく砂を踏むような音がしたのはそんなときだ。それはどんどん近づいてくる。おそれていた事態が起きた。誰かがやってきたのだ。
電話音は一度切れたあと、再び鳴り始めた。電話音に紛れるようにして、たしかに足音が大きくなっていく。
それが誰であれ、守らなければと決意した杜和とは裏腹に、男は突然つまらなそうな顔で「あーあ」と言った。
「なんか興醒めしちゃったな。せっかく楽しかったのに、誰か呼ばれたらつまんねえし、俺今回は帰るね」
ばいばーい、となんとも軽い様子で手を振ると、男は去っていった。
「ふっ、はぁ、はぁ、う……」
疲れ果て、ぼろぼろになった杜和はその場に崩れ落ちるようにして座り込んだ。めまいがひどく、立ち上がることなどできない。意識が霞んでいく。もう目を開けることすらできそうにない。
そんな杜和が最後に聞いたのは。
「は、杜和……?」
という司の声だった。
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