第9話
びゅうびゅうと冷たい風が葉のすっかり落ちてしまった木を揺らしている。落ち葉が歩道をからからと撫でていた。
十二月三日。雪はまだ降りそうにないが、今日は一段と冷え込みがひどい。夜にもなるとことさらで、寒さに弱い杜和はもこもこと着膨れていた。かじかんだ指先を袖の中にしまい込む。カイロを貼ってくるべきだったかもしれない。風邪を引いてしまいそうだ。
ここ最近、杜和は体調を崩すことが少なくなった。数ヶ月まえまでほとんど毎日のように頭痛や目眩に襲われていたというのに。本当に見違えるほど健康になり、気分は晴れやかだ。
(やっぱ仕事セーブして正解だったな)
これならばそのうちアンダー・ビーストという診断を受ける以前の仕事量にも戻せるかもしれない。それがいつになるのかはいまだ未定だけれど。
(ヒーリング受けられたら一発なんだろうけどなあ)
しかしそれが無理だということは自分が一番よくわかっている。
最初に杜和のヒーリングを請け負ったのは、杜和より少し年上くらいの女だった。艶のある黒く長い髪。白く透き通るような肌に、くっきりと浮く真っ赤な唇が印象的な、美しい女。
――ほぅら、私の声に身を委ねて。そう、いい子。
毒のような甘ったるい声。するりと彼女の肩から落ちた髪が額を撫でた。ねっとりと自身の頬に触れた指先を思い出し、杜和は身震いした。寒さでなくぞっとして、自身を守るように縮こまる。あの声を思い出すだけで怖気が走ってしまう。ぐるぐると胃の中が暴れまわり吐き気が襲ってくる。あれから何度かヒーリングを受けたけれど、人を変えてもあの声や感覚が思い出されてしまいだめだった。
それにヒーリングの、強制的に意識が静められていく感覚がどうしても生理的に受けつけない。まるで深い海の底から手が伸びてきて、それが杜和という存在そのものを引っ張り込むような……。
結局最初の女のときも、その後も無理やり飛び起きてしまい、ヒーリングは中断されたのだった。
(……いつか、誉のヒーリングなら、受けられるかな)
現状、誉の訓練にはさほど進展はない。けれどきっといつかヒーリングをできるようになるだろう。そのときに、彼のヒーリングならばと、少々期待している自分がいる。
誉は不思議な子だった。少し卑屈でうしろ向きなところがあるが、優しくて温かい。そして健気でひたむきだ。不思議なくらい杜和のことを慕ってくれていて、いつだって気にかけてくれる。隣にいるとまるで昔からの知り合いのように気が安らいだ。
深い夜空のようなふわふわの髪の毛にはついつい触れてしまう。つねにマスクをしているせいか、あの大きな目の印象がとくに強かった。夕暮れの空を思わせるような、深く思慮深い紫色。笑みを浮かべると若干じわりと滲む。そういえばそんな色を、かつてどこかで見たことがあるような――。
ぼんやりと考えながら歩いているうちに『とまり木』に到着した。店内に入ると時計が目に入る。時刻は夜の九時前。セーブしているとはいえ、仕事をまったくしないわけではない。任務を終え、本部にて報告を済ませた帰りだった。
残念なことに、今日は誉と鉢会うことはなかったけれど。つい視線を巡らせ探してしまうのはもはや癖になっていた。涼二もそうらしいし、最近では季央も探すと言っていたから別段珍しくはないだろう。
誉はいまごろきっともう部屋でのんびりしている。寝ると言っていた時間まではまだあるし、あとでメッセージでも送ってみようか。
「あ! 杜和くん、こんばんは!」
「おー、おまえらも来てたんだな」
「はいっす! ほら杜和くん、いつもの席に座って座って」
店内には涼二と季央がいた。季央の前には皿が積まれているが、涼二はすでに食べ終わったあとらしく、コーヒーを飲んでいた。
季央に促されるままいつものようにカウンター席につく。すると季央がきょろきょろと周囲を見渡した。
「……今日は誉くんはいないんすね」
「おう。もう部屋で休んでんじゃね」
「そうなんすか、メッセージ送ったら気づいてくれるかな」
「さあな、あいつあんま見ねえからなぁ」
誉はスマホをあまり活用しない、いまどき珍しいタイプの子だ。夜に送ったメッセージの返事が翌日の昼前に来ることがたまにある。存在自体を忘れてしまう、ということらしいが。
「会いたかったのか?」
「っす。だって俺だけ最近誉くんに会ってないんすよ!? 涼二くんは昨日会ったらしいし! 仲間はずれはよくないっす!」
恨めしそうに騒ぐ季央の横で涼二は涼し気な表情だ。
「今度誘って遊ぼうかなー……でも時間がー……」
ぐぬぬ、と季央が突っ伏して呻く。久我に「こら、食事中に行儀が悪いよ」と注意され慌てて起き上がっていた。
季央にとって誉は初めてできた、自分を慕ってくれる後輩的な存在だ。だからこそ会ったときにはせっせと世話をやいている。その光景は小型犬が子犬を必死に毛づくろいしているように見え、たいへん微笑ましい。
(ま、仲よくできてるみたいでよかったわ)
誉も、季央も。杜和は心の底からそう思った。
「クマさん、オムライスお願いします。腹減った~」
「今日は遅かったけど、仕事終わりかい? 体調は?」
メニューを見ることなく注文した杜和に久我が気遣わしげに問いかけてくる。アンダー・ビーストの症状が悪化していないか心配しているのだ。「はい、大丈夫です」と答えると、しばし杜和のことを見つめた久我がほっとしたように口端を上げた。それが嘘ではないと悟ったのだろう。
「そっか。じゃあすぐに作るから、少し待っててね」
久我が奥へと引っ込んでいくのを見送った杜和は涼二たちのほうを見やる。じっくり観察するとよくわかる。なんだか二人に覇気がないようだが、気のせいだろうか。
「……なんかおまえら疲れてねえ? 最近忙しいっつってたけど、そのせいか?」
そんな杜和の言葉に季央が待ってましたとばかりに騒ぎ出す。意外と元気かもしれない。
「聞いてくださいよ杜和くん! もう最近すっごい忙しくて……!」
「お、おう、なんだよ」
音を立てて席から立ち上がった季央の勢いに若干引いてしまう。「落ち着け」と間に挟まれた涼二が季央を座らせた。
「う……すみません」
「いやいいけど」
しょげる季央にそう返すと、いったいなにがあったんだと涼二に視線をやった。
(まあ、たぶん、仕事のことだろうけどなぁ)
そう当たりはつくが、しかし仕事をセーブしいている杜和には入ってこない情報のほうが多い。
涼二が不機嫌そうな面構えで、ぼやくように言った。
「ここのところ、ギフターによる暴力事件が増えてんだ。犯人は同一人物で……たぶん、裏のやつ」
「ハロウィンのときと同じ犯人っすよ。……あそこで取り逃がしたのが痛いっす」
季央が追記するように述べた。はあ、と深いため息をつく。
「そのせいで上からはいまだにいろいろ言われるし。事件が起きたら一番に駆り出されるし。だからって、べつの任務がないわけじゃないし……俺もう疲れたっす」
その表情には普段の快活さがない。相当疲れた様子で、だいぶダメージが蓄積しているはずだ。そろそろヒーリングを受けなければならないのではないだろうか。それは反論がないらしい涼二も同じく。
(……俺が、俺がヒーリングさえ受けられたら)
そうすれば彼らの負担を軽くすることだってできただろうに。手伝うことができず、ただこうして話を聞くだけの自分の現状に胸の奥がざわついた。どす黒くねっとりとしたタールのようななにか不快なものが、腹の奥にたまっていく。
誉は自分のことを落ちこぼれだの役立たずだの言うが、そんなのは杜和だって同じだ。いつ擦り切れるかもわからない精神という爆弾を抱えたギフト・ホルダー。
上の人間が自分のことを持て余していることを、杜和は知っていた。
オムライスを作り終えた久我が戻ってくる。優しい塩気のある、いつものオムライス。なんだか少しだけ気分が落ち着いた気がした。
「そういえば、二人とも最近ヒーリングは受けたのかい?」
オムライスを頬張っていると、久我がそう涼二たちに尋ねた。
「受けてないっす」
「同じく」
季央と涼二が首を横にふる。久我は「忙しいのはわかるけど、だめじゃないか」と心配そうに注意すると、店内を動き回っていた司を呼んだ。
「司くん、悪いけど、二人を軽くヒーリングしてあげてくれるかい?」
「まあ、いいですけど」
ぶっきらぼうに司が了承する。お礼を言う涼二と季央に、司は「べつに。クマさんの頼みだし」とつんと言い放っていた。
三人が連れ立って厨房とは逆方向にある、奥の部屋へと入っていく。そこは司が簡単にヒーリングを行うための部屋だった。
オムライスを食べ終わるとデザートを食べる。ホットミルクを頼み待っていると、三人が戻ってきた。司のうしろにいる二人は若干顔色がよくなっている気がする。しかしやはり疲労を感じられた。
「無理に時間を作ってでも、本部でヒーリングを受けなさい。早めにね」
久我が強い口調で言った。季央が神妙な顔でうなずく。
「はい……。司くんもほんとありがとね。だいぶ楽になったよ!」
「どーいたしまして。でもクマさんも言ってるけど、早めに本部に行ったほうがいいよ。俺みたいな平凡なアンダーがあんたらみたいにお強いギフターに対してできるのなんて応急処置だけだし」
「もーそんなこと言って! ほんとに感謝してるんだよ俺。だってすごい楽になったもん!」
「あーはいはい」
いかにもどうでもいいというふうに返し、司は店内での仕事を再開した。
「はい、ホットミルクだよ」
「お。ありがとうとざいます、クマさん」
「ハチミツたっぷり入れたからね」
久我の言葉通り、ホットミルクは甘くておいしかった。つい頬が緩み、気持ちも落ち着いていく。
「うわ、杜和くんがまた激甘ミルク飲んでるっす……」
「あいかわらずの子ども舌だなおまえ」
引いたような二人の声に「うっせー、うまいからいいだろうが」と反論する。ふうふう、と冷ましてから、ゆっくりとまた一口飲んだ。「おまけに猫舌だし」と涼二がつぶやくのが聞こえた。
ゆるゆると喉を焦がしながら、胃の奥に溜まっていくミルク。
役立たずな自分に対する失望、焦燥、嫌悪。この胸に巣食うどろどろとしたタールのような感情を、溶かし押し流してくれないだろうか。
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