第5話

 十月に入ってからもまだまだ日は長く、暑い日が続いている。首筋をつ、と流れる汗をハンカチで拭いながら、誉はほうっと息をはいた。頭上から照りつける太陽が誉の首筋を焼き、アスファルトに濃い影を作る。

 遠くに視線をやるとぼんやりと景色が滲んでいた。

 ぐらぐらと脳の奥が燃えている。直接脳みそが茹でられているような不快感があった。あつい。そういえば最後に水を飲んだのはいつだったっけ。


「っ、……」


 くら、と立ちくらみがした。あ、なんだかまずい気がする。胃の中をかき回されたような心地がして、吐きそうだった。耳の奥が膨張したようになり、やかましいセミの声がどこか遠くに聞こえる。

 この間の杜和みたいだなあとぼんやり思った。ちょうど場所も本部前であるし。

 本部の入り口のほうを見やる。ほんの数メートルの距離がどこまでも遠く感じられた。


「あれ、きみ、こんな時間にこんなところでなにしてるの。まさかさぼり? きみみたいな落ちこぼれが?」


 誰の声だろう。回らない思考をそれでもぐるぐると回す。流風だと気づいたのは彼とその取り巻きが目前に現れたからだ。誉が反応しないからだろう、不愉快そうに表情を歪めている。


「ちょっと、返事もしないなんて何様なの。そんな態度が許されると思ってるわけ」

「……」


 流風の姿がぐんにゃりと歪み、揺れている。ゆらゆら、ゆらゆらとまるでクラゲのようだ。「おい、聞いてんのか」という取り巻きの声が頭のどこか裏側のほうで響いた。


「ちょっと、いい加減に」

「なにしてんだ」


 流風の腹立たしそうな声を誰かが遮った。


(とわさんに、あった、ときみたい)


 ふふ、と内心で笑ってしまう。絡まれていて、そんな状況では決してないのに。

 声の主といくらかやり取りをしたあと、流風は去っていった。それを誉はぼんやりと見ていた。景色がぐるり、ぐるりと回っている。あれ、地面ってこんなに柔らかかっただろうか。ふんわりぐんにゃりと足元がおぼつかない。足に、力が、入らない。


「おい、おまえ大丈夫か?」

「……ぁ……?」

「おい? っ、おい!」


 ぐにゃぐにゃと歪みながら暗くなっていく世界。どこか焦ったような声を最後に、誉の意識は沈んだ。





 ふっと意識が浮上する。


(あれ……? 俺……)


 自分の状況がなにひとつ理解できず、白い天井を見上げたまま混乱した。起き上がろうとしたとたんズキンと頭が激しく痛み、ふたたびベッドに沈みながら奥歯を噛みしめる。治まったところで周囲を見渡した。どうやら医務室のベッドで寝かされているようだった。

 左腕には点滴の針が刺さっている。ああ、そういえばと、これまでのことを思い出した。


(俺、倒れたのか)


 たぶん熱中症にでもなったのだろう。そして流風たちに絡まれているところを、誰かに助けられた。そのあとのことはよく覚えていないが、現状から見て倒れたのは確実だろう。

 知らない人に迷惑をかけてしまった。誉は深く息をはいた。申し訳なかった。

 ジャッと閉ざされていたカーテンが開く。「起きたか」と言う強面の男にはたしかに覚えがあった。金色の短髪に、切れ長の海のように青い瞳。大量についたピアス。杜和よりも大きくたくましい体躯。助けてくれた男で間違いない。

 誉は慌てて身を起こした。その瞬間ぐらりと身体が傾く。「無理して起き上がるな」と支えられ、再び寝かせられながら「は、はい。すみません……」と声も肩も小さくなる。


「軽い熱中症らしい。今後はこまめに水を飲むことだな」

「はい、すみません……ご迷惑をおかけしました」


 申し訳なさにしゅんとしてしまう。身体はまだ休息をほっしているのかだるくて、思考がいまいち回らない。寝転んでいるのもあって気を抜けば眠ってしまいそうだった。


「べつに怒ってねえからそんなにびくびくすんな。しっかり休んでから帰れよ」


 そう言うと男は引き止める間もなく足早に去ってしまった。せめて名前を聞きたかった。そんなことを考えながらも身体は正直で。

 誉はいつの間にかまた眠ってしまった。

 次に目を覚ましたときには、室内は茜色に染まっていた。いったい何時間眠っていたのだろうか。すでに点滴も外されている。

 慌てて起き上がった誉に医務室勤務の職員が声をかけてくる。


「よく眠ってたね、体調はどう? よくなってる?」

「は、はい……」

「そう、それならよかった」


 ほんわりと微笑む職員はいかにも優しそうだ。誉は勇気を出して助けてくれた男について尋ねることにした。「あの」と切り出す。


「俺のこと、ここに連れてきてくれた人って、誰かわかりますか……?」

「ん? ああ、あの人はギフターの一ノ瀬さん。一ノ瀬涼二さんだよ。あの人がどうかしたの?」

「え、と……助けてもらったお礼がしたくて」

「あー、それなら彼の任務終わりを狙うしかないね。僕も彼の連絡先を知ってるわけじゃないんだ、ごめんね」

「いえ! その、ありがとうございました」


 看護してもらったことにたくさん頭を下げつつ、医務室をあとにする。


(一ノ瀬さん、かあ)


 次会ったらお礼をしよう。そもそも会えるのかもわからないけれど。もしどうしても見つけられないときは、杜和に相談しよう、と誉はカバンの中にしまいっぱなしのスマホを思い浮かべた。

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