第4話

 体調が回復すると、杜和はすぐに行ってしまった。本部でなにやら用事があるそうだ。


「おまえもなんか用事あんだろ? 引き止めちまって悪かったな。あと、心配してくれてありがと」


 そう言って、別れぎわには頭を撫でられた。

 ぼうっとしながらも時間を確認するともう六時前で。誉は慌てて本部内で杜和を追い越して訓練場へと向かった。予定時間は少し過ぎてしまったが、職員はまだ来ていなかったのでよかった。

 それからしばらくして職員がやってきて、訓練が始まった。けれどだいたい十分ほどでそれも終わり、寮へ戻るために本部へと向かう。

 誉が落ちこぼれだというのは周知の事実で、もはや呆れられている。訓練が短いのはそのためだ。落ちこぼれの役立たずにかける時間などないということだろう。

 いくら発声してもまったく力の籠もらない誉に対して、どんどん冷え切っていく職員の目。何度も何度もため息をつかれた。「どうしてこんなに簡単なことができないんだ」「まじめにやってるのか」「いい加減にしろ」彼らの目はそう語っていて、じっさいに言われたこともあって、思い出すだけで気持ちがしぼんでいく。どうして自分はこんなにもだめなやつなのだろうか。仕事だからとはいえ面倒を見るしかない職員に対して申し訳なかった。


「! 杜和さん!」

「よ、誉。おまえも帰りか?」


 ちょうど帰るところだったらしい杜和と本部のロビーで出くわした。少し沈んでいた気持ちが浮上する。けれど杜和が心配な気持ちもあってじろじろ見つめていると苦笑された。


「大丈夫だって。心配性だなあ」

「そういう問題じゃないと思います」

「ん、わかってるって」


 あ、と杜和がなにやら思いついたような声を上げた。「喉乾いてねえ?」と尋ねられる。どうしてそんなことを聞かれたのかわからなかったが、正直に「少しだけ」と答えた。


「んじゃあなんか飲もうぜ。さっき面倒見てくれた礼だ、おごってやる」

「えっ」

「ほら行くぞ」

「ちょっ」


 問答無用だった。杜和は意外と強引なところがあるのかもしれない。

 自動販売機はロビーから左に伸びる廊下を進んだ先にある、休憩スペースの斜め向かいにあった。「どれにする?」と聞かれ、並んでいる缶ジュースを眺めた。

 この廊下は寮への通り道のためいつも通っているが、自動販売機で飲み物など買ったことはなかった。いつも足早に、それこそ逃げるように通っていたからだ。

 だからどれがいいのかわからない。ただ、できるだけ安いほうがいいとは思うのだけれど……。


「え、と……じゃあ、このカフェラテを」

「ん、これな」


 お金を入れた杜和が「ボタン押して」と言う。言われたとおりにすると、ガシャン、とカフェラテが落ちてきた。おお、冷たい。


「俺はなんにしようかなー」


 ややあって杜和は大きいサイズのカフェオレを買っていた。これ好きなんだよなあなんて言いながらキャップを外している。


「おまえも飲めよ。ペットボトルは捨てて帰ろうぜ」

「は、はい」


 じつのところ、カフェラテを飲むのは初めてだった。いつも無難にお茶や水ばかり飲んでいたので。一口飲んで思わず「おいしい」とつぶやくと「だろ?」と得意げに笑われた。まるで子どものような笑み。誉は気落ちしていたのも忘れて、微笑み返した。

 話をしつつカフェラテを飲みつつしているとあっという間にペットボトルは空になった。それでもせめて、と杜和が飲み干すのを待っていると休憩スペースに誰かがやってきた。二人組のようだ。観葉植物と衝立が邪魔で姿は見えないが、声はこちらまでよく聞こえた。


「今日もめちゃくちゃ気まずかったですねー」

「だな。ほんとあの子いつまでやってんのかな。いい加減にしてほしいんだけど。こっちも暇じゃないんだから」

「ほんとに。というか十五にもなって制御もできないってどうなんですかね。いまだにアンダーって信じられないです。本当はノーマルなんじゃないんですか?」

「それは俺も思ってる」

「先輩ギフターなのに?」


 笑い混じりの声だった。誉は自然と身を固くしていた。だって彼らが話しているのはどう考えても自分のことだったからだ。声にも聞き覚えがあった。少し前まで訓練場で聞いていた。ほんの十分ほど。


「誉?」


 どうかしたのかと名を呼ばれる。なんでもない、大丈夫だと言わなければ。けれど言葉は出てこなくて、曖昧に微笑むことすらできない。

 気づいてほしくないと思った。だってあまりにも情けなさ過ぎる。こうして陰口を叩かれている現場に遭遇するなんて。それに対して反論の言葉ひとつ持ち合わせていないなんて。

 なにもないふりをしたかった。けれど表情がどんどん強張っていくのが自分でもわかった。杜和が怪訝そうな顔をする。そうしてふいに声のほうへと顔を向けた。


「だってさあ、あの子の声いくら聞いてもなんも変化ねえんだもんよ。弱いアンダーでも多少は効果があるはずなのになあ。ほんと、一ミリもねえから、才能」

「アッハハ、落ちこぼれもあそこまでいくと逆にすごいですよねえ」


 バカにするような笑い声が頭の中で木霊して思わず目を伏せる。呆れられているのも、バカにされているのも知っていた。けれどつらかった。自分だって頑張っているつもりなのにと悲しかった。

 傷ついた心を抱えて、そろりと杜和を見上げる。杜和は不機嫌そうな表情を休憩スペースのほうに向けていた。ああ、気づいたのだ、彼らの言葉が誰に向けられているのかを。そして誉の内心を慮って憤ってくれている。

 優しい人だ。本当に、優しくて温かい人。だからこそ、そんな杜和に悪口を聞かれているのが、自分がどれほどの落ちこぼれなのかを知られるのが恥ずかしかった。情けなくて、苦しかった。

 まるで恥部を晒して歩いているような心地がして、いますぐ部屋に引きこもりたいと思った。

 職員たちはそれからすぐに立ち去った。気まずい沈黙の中、杜和と目が合う。気遣わしげに眉を下げる彼に、惨めさと羞恥が襲ってきて泣き喚いてしまいたくなった。

 ぐっと歯を食いしばりその衝動を堪え、熱い目頭には気づかないふりをして「あはは」とわざとらしく笑う。まるで気にしていませんよ、とでも言いたげに。


「早く制御できるように頑張らなきゃですね」

「……あのな、誉、べつに」

「あの! すみません、俺、用事思い出したので帰りますね。ジュースありがとうございました」


 いつもは絶対にしないのに杜和の言葉を遮って、そう捲し立てた。なにかを返されるまえに彼の横をすり抜けるようにして寮へと逃げ帰る。

 ペットボトルを捨て忘れたと気づいたのは、自分の部屋に着いてからだった。

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