第3話

 汗が滝のように流れる。背中はぐっしょりと濡れそぼっていてシャツが貼りついて気持ち悪い。シャワーが浴びたいと思いつつ、誉は額の汗をハンカチで拭った。

 九月の下旬だがいまだにセミは盛りのように鳴き、空には目が眩むほどの快晴が広がっている。雲ひとつなく、日差しは痛いくらいに肌を焼いた。

 誉はほとんど太陽から逃げるようにして図書館へと入った。


(涼しい)


 クーラーが効いている館内は天国のようだった。ほうっと息をついた誉は、ひとけのないテーブルへ向かいカバンを下ろした。さて、今日はなんの勉強をしようか。

 誉は――というよりアンチ・ホルダーは高校に通わない者が多い。高校で勉強したところでアンチ・ホルダーであることが求められる仕事上ではまったく役に立たないからだ。それならば少しでも早く認定試験を突破し、仕事をこなすべきだろう。無駄な勉強などしている場合ではない。

 それならなぜ誉がこうして勉強をしているのか。ただ単に時間があるからだ。財団の職員だって忙しく、いつも能力制御の訓練につきあってもらえるわけではない。空いた時間を持て余し、こうしてひとり勉強しているのだった。

 一通り勉強を終えるとホルダーについて書かれた本を読む。このあいだ読んだものとはべつのものだ。といってもこれももう何度も読んでいるため、いい加減暗記してしまいそうだけれど。

 ぱらぱら、ぱらぱらと、本をめくる音だけが響く。今日の館内は来館者がないようで、いつも以上に静かだ。誉を見て内緒話をする者もおらず、快適だった。

 図書館にやってきたのは昼過ぎだったが、ふと時計を確認すると五時を回ったところだった。


(そろそろ行かなきゃ)


 今日は夕方の六時から制御訓練が行われる。誉を担当してくれているのは二人の財団職員だ。片方がギフト・ホルダーでもう片方がノン・ホルダー。ノン・ホルダーはもし誉の能力がなにか誤作動でも起こしたときに、対処するのが仕事だ。アンチ・ホルダーの力はノン・ホルダーには効かないから。

 図書館を出ると訓練場へと向かう。訓練場は本部に併設されている。この場合はおもにギフト・ホルダーだが、未制御者による万が一の事故などが起きた場合に、本部勤めの大人のホルダーたちで対応するためだ。


「はぁ……」


 それにしても暑い。せっかく図書館で冷えた身体はまたも芯からぐつぐつと煮えたぎる。額に滲んだ汗を手の甲で拭う。首筋につうと汗が流れた。早く本部へ行こう。そこならクーラーがよく効いているだろうし。

 誉は歩を早めた。そうして本部前までやってきたとき、前方を歩く人影が見えた。


(……ん? あれは……)


 杜和だ。すっとまっすぐ伸びる背、ゆったりと歩く黒豹のような男。誉が彼を見間違うはずがない。彼に会うのはじつに一月ぶりだ。財団に所属するギフト・ホルダーとして任務を受ける杜和は、報告するために本部へとやってくる。そのたびに会えるわけではないので今日は運がよかった。嬉しくてぱあっと心も顔も明るくなる。暑さなんて一気に飛んでいった。


「……?」


 ふと杜和の様子になにやら違和感を覚えて誉は内心首を捻った。なにかがおかしい。でもなにが――と思ったところで、杜和が少しぶれたような気がした。気のせい、だろうか。

 いや、気のせいなどではない。


「――杜和さんっ!」


 近づきつつ観察していると、彼はぐらりと傾いた。まるで立ちくらみでも起こしたかのように。誉は慌てて彼に近づいた。膝をつきうつむく杜和に寄り添う。


「杜和さん、杜和さん、大丈夫ですか……!」

「……、っ……」


 杜和からの返事はなかった。なにかを耐えるように目をつむり、下を向くばかりだ。


(もしかして熱中症!?)


 それならばまずは日陰に移動するべきかもしれない。熱中症の対処法など知らないが、こんな炎天下の中では治まるものも治まらないだろう。いくら日が落ちてきて昼間よりはいくぶんかマシとはいえど。


「杜和さん、すみません、動かしますよ」


 いまにも熱さられた地面へと倒れ込んでしまいそうな彼の厚みのある背中へと腕を回した。そのまま脇を支えるようにしてゆっくりと立ち上がった。誉と杜和の体格の差はすさまじく、少しでも気を抜けば杜和ごと倒れてしまうだろう。誉だけが転がるならいいが、杜和に怪我をさせるわけにはいかない。誉は慎重に、けれど急いで彼を日陰のほうへ連れて行った。


(熱中症なら……水?)


 あいにく水筒もペットボトルもない。コンビニへ買いに行こうと杜和に声をかけるがなぜか止められてしまう。


「いかなくていい」

「でも、熱中症かもしれません」

「ちげえ。だいじょうぶだから」

「でも……」


 また「いかなくていい」と念を押すように言われ、その上腕をしっかりと掴まれた。どうしていいのかわからず途方にくれていると、杜和はようやく顔をあげた。やはり顔色はよくなく、血の気が引いたように真っ青だ。


「杜和さん、やっぱり俺、水買って来ます」

「いいって、だいじょうぶだから。ちょっとめまいがしただけで、すぐによくなる」


 どうしてここまで頑ななのか。しゃがれたような、絞り出したような声はどう考えても大丈夫なんかじゃないのに。


「……しんぱいかけてわりぃ、でも、ほんとにだいじょうぶなんだ。なれてる、から」


 それっきり杜和は黙り込んだ。回復に努めているのかもしれない。誉はとりあえず彼の慣れているという言葉を信じることにして、その横にしゃがみこんだ。

 その間もずっと杜和に腕を掴まれたままで、こんなに暑いのに杜和の手は氷水にさらしたように冷え切っていた。

 どのくらいそうしていただろうか。隣から「はー」という吐息が聞こえてきた。


「わりぃ、変なとこ見せちまったな」


 苦笑している杜和。血の気が引いていた頬には血色が戻り、健康的なものに戻っている。ひとまずは安心してほっと胸をなでおろす。


「あの、杜和さん」

「ん?」

「その、慣れてるって、どういうことか聞いてもいいですか?」


 んん、と杜和は唸った。言うべきか考えあぐねているようだ。「熱中症じゃない、んですよね?」と尋ねると「それはちげえ」と返ってきた。やはりなにか原因に心当たりがあるらしい。


(なんだろう……)


 杜和の体調不良の原因。熱中症ではない。杜和はギフト・ホルダー。ギフト・ホルダーの体調不良といえば――。


(……! まさか)


 誉ははっとして杜和を見つめた。それで誉の考えを悟ったのか、杜和は「たぶん、おまえの想像してる通り」と苦笑した。


(そんな……杜和さんが)


 アンダー・ビーストだなんて。

 ギフト・ホルダーはその能力の特性から心身ともにダメージを受けやすい。優れた五感は彼らに安寧をもたらしてはくれないのだ。眠りたくてもかすかな物音が彼らには騒音に感じられる。人の陰口がまるで耳元で言われているほど大きく聞こえる。研ぎ澄まされた感覚は、そうやって些細なことでも反応してしまい、やがて神経をすり減らす。そして限界を超えると精神を壊し暴走してしまう。

 暴走したギフト・ホルダーをビーストと呼び、暴走する可能性のある精神のダメージが蓄積した者をアンダー・ビーストと呼ぶ。

 まさか杜和がそうだとは思ってもみなかった。どうしよう。どうしたらいい? だってこのままでは杜和は。

 ――自殺してしまうかもしれない。

 ギフト・ホルダーの死因でもっとも多いのは、ビースト化後の自殺だ。杜和がそうなるなんて耐えられない。

 そしていつまで杜和の精神が保つかなんて誰にも、それこそ本人にもわからない。

 ならば誉が取る行動はひとつだった。


(本部にいるアンダーを、誰でもいいから連れてこないと)


 アンチ・ホルダーは杜和のようにダメージを蓄積させないためにいる。アンチ・ホルダーのヒーリングはギフト・ホルダーを癒やし、ダメージをリセットすることができるのだ。

 誉はすくっと立ち上がった。杜和を見下ろし、「本部から誰かアンダーを連れてきます! 少し待っててください!」と言う。


「まあ、待て待て」


 すぐに掴まれたままだった腕を引き寄せられてしまったけれど。「行かなくていい」と引き止めてくる杜和に困惑するしかない。だって早くしないと、杜和さんが。

 顔をくしゃりと泣きそうに歪める誉に杜和はしかたねえなあとでも言いたげな顔をする。


「行かなくていいんだ。ヒーリングは必要ねえから」


 そんなわけがない。誉は首を横に振る。このときばかりは手を離してほしくてぐいぐい引っ張るけれど、余計に指に力を込められてしまった。少し痛い。


「ほんとにいらねえんだよ」

「ど、して……」


 わからなくて、声が震える。それでもじっと彼を見つめていると、がしがしと自身の頭を描いた杜和が「あー」と小さく呻く。ややあって、杜和は「だめなんだ」と自嘲するようにつぶやいた。


「だめ?」

「そ。俺、ヒーリング受けらんねえの。……前にいろいろあってさ、それ以来どうしても拒絶しちまう。深い海の底に引きずり込まれるような感覚になるっつうか……。正直に言うとぞっとすんだ。それが無理で、気分悪くて、余計体調が悪くなる。だからヒーリングは受けられない。もちろん受けなきゃやばいってのはわかってんだけどなあ」


 杜和の告白に誉は言葉を失った。じゃあ、じゃあ杜和はどうすればいいのか。ビースト化するのをおとなしく受け入れて待つしかないとでも言うのか。


「んな顔すんなよ。大丈夫だ、きっとなんとかなる」


 きっとひどく泣きそうな顔だったのだろう。

 根拠のない励ましを、一番つらいはずの杜和にさせてしまっている自分が情けない。それでも自分にできることなんてなにもなくて、誉は沈黙を保ち、ただ彼のそばにいることしかできなかった。

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