第2話

 数冊目を読み進めていたところで司書に声をかけられ、誉は図書館をあとにした。日中は暖かかったが、夜になるとまだまだ肌寒い。街灯に照らされた歩道をひとり寂しく、腕をさすりながら帰路につく。

 誉は敷地内にある寮にひとりで住んでいる。寮があるのは敷地内の北西で、いつも散歩がてら歩いて帰っていた。ちょうどいい時間帯のバスがないというのも理由だ。

 寮に戻るためには敷地内の中央に位置する建物――財団職員が多く働いている本部内を通らなければならない。もちろん外からでも帰れるのだが、少し遠回りになってしまううえ、安全面から推奨されていなかった。


(ご飯買って帰らなきゃ)


 たしか冷蔵庫の中は空っぽだったはずだ。本部のそばにあるコンビニに立ち寄り、適当に夕飯を買った。ビニール袋をガサガサ音をさせながら歩いていると、本部の正面玄関から出てくる人影が見えた。とたんぎくりと身体が硬直する。逃げなければ。

 けれど踵を返す前にあっさりと見つかってしまった。誉を視界に入れた瞬間、彼、本宮流風は毒々しいまでに美しい微笑みを浮かべた。

 そしてその表情のままそばまで来ると、男にしては可憐な動作でこてりと顔を傾ける。


「なにしてるの、こんなところで。きみにのんきに買い物してる余裕なんてないと思うんだけど」


 嘲るような色の混じったその言葉は、どこまでも刺々しかった。誉は黙り込んで目を伏せ、言葉の刃が飛ぶのを耐えるしかない。


「……」

「ああ、もしかしてついに理解したのかな? きみはどんなに頑張っても意味のない、どうしようもない落ちこぼれだって」


 流風ははあとわざとらしくため息をついた。


「だいたい十五にもなって能力を使うこともできないなんてありえないから。……きみみたいな役立たずが僕と同じアンダーだなんてほんといい迷惑。生きてて恥ずかしくないの?」


 誉はますます縮こまった。流風の声はそれでも誉を打ち据えることをやめない。


「財団もこんなやつさっさと放りだしちゃえばいいのに。ねえ、ふたりもそう思うでしょ?」


 流風に侍るようにして彼のうしろに待機していた取り巻きの二人が「まあな」とうなずく。


「でも仕方ねえよ。こんなのでもアンダーには変わりねえんだからさ」

「アンダーは貴重ですからね。たとえどんなに使えなくても放り出せないんでしょう。それにあぐらをかいてのうのうと生活している者がいるんですから、本当に困ったものです」

「ふふ、ほんとに。財団の人もかわいそう」


 流風が楽しげに言った。

 くすくす、くすくす、くすくす。嘲笑が耳の奥で木霊する。彼らの言葉が毒となって、誉の身体の芯から傷つけた。

 まるでストレス発散をしているかのようだと思った。実際、流風にはなにかいやなことでもあったのだろう。いつにも増して声に悪意が滲んでいた。自身の鬱憤を、苛立ちを誉にぶつけ、その心を完膚なきまでにずたずたに引き裂き傷つけてやろうという悪意が。

 流風にとって落ちこぼれの誉は、どれほど殴ってもいいサンドバックなのだ。たとえその果てに壊れてしまったとしても、誰も困らないことを彼は知っている。


「ねえ、黙ってないでなにか」

「おいおまえら、そこまでにしとけよ」


 流風の言葉を叩き落とすかのように、低くしっとりとした男の声が割り込んできた。


(え……?)


 突然眼前に現れた大きく逞しい背中に誉は目を丸くする。男の結われた襟足がゆるりと小さく揺れた。


「おまえらひとり相手に寄って集ってなにしてんだ、情けねえ。それでもギフターかよ。見苦しいにもほどがあんぞ」

「……なんですか、あなた。僕らはただ世間話をしていただけですが。突然割り込んできて失礼じゃないですか」


 流風の不機嫌そうな声。その表情は憎々しげに歪んでいることだろう。いや彼のことだ、うまく取り繕い困ったように眉を下げ小さく苦笑しているかもしれない。


「失礼でもなんでもいいけどよ、俺にはとてもじゃねえが世間話してるようには見えなかったんだわ」


 男は吐き捨てるように言った。


「どう見ても胸糞悪いいじめの現場だったぜ?」

「……」

「それは……」


 三人は言葉に詰まったようだった。ややして男が顔だけを振り向かせる。「大丈夫か?」と爽やかな初夏の風のような笑みの中にわずかな気遣いの色が乗っていた。


「――、……」


 誉は目を見開き、小さく息を飲んだ。

 すらりと背の高い男は、通った鼻筋とくっきりした眉、そして意思の強そうな切れ長の目をした美丈夫だった。くくっている襟足が彼が動くたびに揺れるさまは、まるで大型の猛獣の尻尾のようだ。

 しなやかな、黒豹のような男。けれどそこに獰猛さは微塵もなく、夜空のような目の奥には穏やかさがあった。


「おい? どうした、大丈夫か?」


 ぽうっと見上げていると男がかすかに首をかしげた。誉ははっとして「は、はい、だいじょうぶ、です」と慌てて答える。


「ん。ならいい」

「!」


 ふいにその硬い手のひらで頭を撫でられた。ぽんぽんと、優しく。

 こうして誰かに優しくされるのはいつぶりだろうか。なんだか胸がいっぱいになって、目頭が熱くなった。


「なああんた」


 ふいに上がった声は取り巻きのひとりのものだ。「あ?」と男が応対する。


「あんた強いギフターだろ?」

「……だったらどうした」

「なら関わるアンダーは選んだほうがいいぜ。そいつ、ろくに能力も使えねえ役立たずの落ちこぼれだから」


 嘲るように言われた。そんな紛れもない事実を、優しくしてくれたこの男には知られたくなかった。誉は萎縮して肩を小さくした。うつむく誉の耳にもうひとりの取り巻きが同意する声が響く。


「そうです。関わるだけ時間の無駄ですよ。そんなのに構うくらいなら、あなたも流風と親しくしたほうがいい」

「るか? ってそいつか」

「流風はとても優秀なアンダーなんです。認定を取れたら最前線で活躍することが約束されている、本当にすごいアンダーで」


 ぺらぺらと流風がどれほど素晴らしいアンチ・ホルダーなのかが語られる。流風は得意げな顔をしていることだろう。


(認定、か……)


 アンチ・ホルダーは能力の制御ができるようになると、財団によるヒーリング認定試験に合格しなければならない。ヒーリングとは、声を使いギフト・ホルダーの能力を抑制する作業のことで、基本的に認定を持っていない者がヒーリングを行うことを財団は禁止している。もちろんアンチ・ホルダー全員が財団に所属しているわけではないし、例外はあるのだけれど。

 能力を制御するどころか使うことすら満足にできない自分が認定を取る日は来るのだろうかと、誉はますます身を縮めた。

 男はしばし無言だった。たっぷり沈黙したのち「つうかさ」と口にする。


「そもそも認定が取れたらって、まだ認定取れてねえってことだろ。優秀なのに、なあ? おまえくらいの歳になると認定取れるアンダーなんていくらかいるって聞くぞ」

「そ、それは」


 まるで突かれたくないところを突かれたという声音だった。弁解でもするように取り巻きが早口でまくしたてる。


「それは認定試験の試験管をしてるギフターにろくなのがいないのが悪いんです。本当なら流風はとっくに認定を取っているはずなのに……あいつらに見る目がないから」

「ふうん。毎回落とされてるってわけね」


 どうでもよさそうな軽い口調だった。「まあそんなのはどうでもいいんだわ」と男が続ける。


「そいつが優秀だろうがそうでなかろうが、どうでもいい。俺はそいつと親しくなんてなりたくねえし、関わりたくもない」

「は?」


 あっけに取られた、というふうな流風の声。男は気にすることなく口を開いた。


「おまえらさっき言ったよな? 関わるアンダーは選んだほうがいいって。俺は選んだうえで、そいつより……」


 ふいに男が振り返った。彼の身体越しにこちらを見ている流風の姿が目に映る。目が合ったとたん、機嫌悪く睨みつけられた。

 ふと男が誉の薄っぺらの肩に手を置いた。まるで自身で選んだお気に入りを紹介でもするかのように、軽く前へ押しやる。


「え?」

「こいつのほうがいいって言ってんの」


 彼が言っていることを理解できなかった。え、なに、どういうこと。誉は混乱する。しかし男はそんな誉に気づくことなく、なおも言葉を紡いでいく。


「つうかさ、他人をいじめて喜んでるような陰湿なのに関わりたいやつとかいねえだろ。……そいつた認定に落ちまくってんのも納得だな。俺もそいつにヒーリングしてもらいたいなんて思わねえし。優秀なギフターが試験管みたいで安心したわ」


 おまえらみたいのじゃなくて、な。なんてわざとらしく取り巻きたちを煽るようなことを言う。

 当然のごとくプライドが高い取り巻きたちは「なんだと」と怒り顔を赤くした。流風も男をひどく睨めつけている。誉のことはすでに意識外のようだ。

 どこまでも庇われているというのは言われずともわかった。どこまでも優しい、人だ。

 そして彼はとてつもなく強いギフト・ホルダーだった。


「言わせておけば好き勝手いいやがって」

「事実だろ」


 取り巻きたちからふっかけられた喧嘩は、二人がかりにも関わらず男が優勢。いや、一方的だった。二人の蹴りや拳を軽くいなす姿は、まさしくしなやかな黒豹のようで惚れ惚れする身のこなしだ。どこをとっても余裕があって、優雅ささえ感じられた。

 まるで猛獣が獲物をいたぶり、遊んでいるような光景。いや、成獣が幼獣を軽くあしらっているような。

 それほどの格の差というものが取り巻きたちと男との間には感じられた。


「く、くそ……っ」


 まったく攻撃が当たらないどころか遊ばれている二人が悪態をつく。プライドをずたずたにされた彼らは男を鋭く睨みつけた。いまにも歯ぎしりが聞こえてきそうな表情だ。誉は自分に向けられたものでもないのに、思わず身を固くした。


「……もういいよ、やめて」


 静かな声だった。無理やり静めたような、そんな流風の声音に忙しなく呼吸をしていた二人が振り返る。「もういいから帰ろう」と彼は男を強く見据えながら吐き捨てる。


「あなたの顔はもう覚えたから。今後、僕のヒーリングを受けられるとは思わないでね」

「上等だ。つうかそもそもおまえのヒーリングなんて受けたくねえって言わなかったか?」

「……その言葉、いつか絶対後悔するよ」

「だったらいいな」


 暖簾に腕押し。飄々とした返事しかしない男に苛立ったように目を吊り上げた流風は、次いで誉のほうに視線をやる。忌々しそうに睨みつけられ、反射的に萎縮してしまう。けれどまたしても男に庇われる。彼が視線を遮るように誉の眼前に立ったのだ。「行くよ」という小さな声を、彼らが遠ざかる足音を誉は男の身体越しに聞いた。

 やがて周囲は静寂な夜に包まれる。身じろぐたびにこすれるビニール袋。冷えた空気を裂くように鳴く虫の音。いつもと変わらない、平穏が戻ってきたのだ。

 男がゆっくりと振り返る。


「大丈夫だったか? ああいうやつらの言うことは気にしねえほうがいいぜ」


 ぽんぽんと肩を叩かれた。優しい感触だ。彼の人柄が滲み出ているような。


「それじゃあ気をつけて帰れよ」

「あ、あの!」


 爽やかな笑顔で立ち去ろうとする男を慌てて引き止める。


「ん?」

「あの、助けてくれてありがとうございました! その……なにかお礼を、あとお名前は」


 若干の挙動不審になりつつも、なんとか言いたいことは言えたはずだ。男はふっと微笑んで「気にすんな」と言う。


「俺が見てられなかっただけのただのお節介だし、礼なんていらねえよ」

「でも……」

「んー、そうだなあ」


 そんなわけにはいかないと食い下がる誉に男は考えるような仕草を見せた。ややあっていいことを思いついたとばかりに顔を明るくする。


「じゃあこういうのはどうだ?」

「? こういうの?」


 誉はオウム返ししつつ目を瞬かせた。そんな誉に男は目尻をいっそう柔らかくする。


「俺は九条杜和。おまえは?」

「え、あ、支倉誉、です」

「ん、そうか。よろしくな、誉。俺も杜和でいいからさ」

「えと、杜和さん」

「ん」


 名前を教えてもらえたのは正直言ってすごく嬉しい。けれどなぜ突然自己紹介が始まったのだろうか。状況を理解できなくて誉は首を捻った。男――杜和はにかっと満面の笑みを浮かべる。その瞳はまるで星のようにきらきらしていた。

 杜和が誉のことを指差す。


「これで俺とおまえはダチだ。つまり、俺はダチを助けただけってわけだ。だから礼はいらないってことで、な? それとも俺とダチになるのはいやか?」


 そんなことを言うのはずるいだろう。そんなの、いやなわけがないのだ。それどころかむしろ。


(杜和さんと、友だち……嬉しい)


 ぶわわっと頬が熱くなるのを感じながら、誉は勢いよく首を左右に振った。


「やじゃないです!」


 かつてないほど声を張る。杜和は「うるせ」とからかうように笑った。恥ずかしくなり、慌てて口元を抑えた誉は、そこにあるものを思い出して一気に現実に引き戻された。

 幼子がつけるようなマスクをいまだに外せない自分が杜和さんの友だち? 落ちこぼれが調子に乗るのも大概にしろ。

 冷水を浴びせられたような気分だった。高揚していた気持ちがしゅるしゅるとしぼんでいく。

 落ちこぼれでは杜和の友だちとして、決定的に釣り合わない。現実に戻ってきた誉にはそれが痛いくらいわかった。


「誉?」

「……なんでもないです」


 誤魔化すように微笑む。そのあとは連絡先だけを交換して杜和とはすぐに別れた。ひとり寂しく帰宅する。ただいま、と声をかけたところで返事などなく、それでも声をかけるのをやめられないのはなぜだろう。

 ソファ横のローテーブルに買い物袋を放り、誉は行儀悪くソファに転がった。マスクを剥ぎ取ると眼前に掲る。


(……頑張らなくちゃ)


 これが外せるようにならなければ。もっと、もっと、もっと頑張って。

 杜和さんともっと仲よくなりたい。あの人のそばにいたい。それならばどうすればいいのか。結論はやっぱりひとつだけだった。

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