プロローグ③

 あれから六月に至るまで、瑞木先生と授業以外で関わる機会は全くなかった。

 なかったのに、ただ、新学期に文芸部のことで話しかけられてしまっているせいで、瑞木先生が私のことを認知しているのは確定。先生が泣いている私を見たとき、私が新倉実梨であるということに気付いたのは間違いないだろう。



 翌週の朝、例によって月曜日の一限を控えて、どうして私がこんなにやきもきしなくちゃならないんだと心の中で毒付いた。


 瑞木先生は授業に来るのが遅い。チャイムが鳴るギリギリに駆け込んできて、終わりの挨拶の時にはもう荷物をまとめて出ていく準備ができている。帰るのは早いのだ。今日もチャイムの方が先に鳴り始めた。


 汗だくで駆けてくる瑞木先生の足音が聞こえて、正直ホッとした。少なくとも授業前に先生の意識に私が介入することはない。平然と授業を受けていれば何も言われないだろう。

 うん。そうだ。

 何年も先生をやっていれば進路とかで悩んで涙を流す子だって見てきただろう。先週私がうずくまってたのだって特段気に留めるような異常事態じゃない。



「はーい、号令お願いしまーす」



 飄々としている先生がちょっと憎らしい。同時に、どこまでも自分勝手な私にも嫌気がさした。気にかけて欲しい、なんて思わない。どうしたの、なんて聞かれても困るだけだし、それに。

 正直に事情を話したって、先生の方が困るだけだ。






——まこっちゃん、大阪に帰るらしいです!






 泣き出しそうな空、なんて残酷な予感、あの日はなかった。後輩からそんな連絡をもらったのは、中学校を卒業したばかりの三月、快晴の朝。ぼんやりあくびをしていたら、助走付きで思いっきり殴り飛ばされたような衝撃だった。


 その連絡が来る数日前に、まこっちゃんが——もう、こんな馴れ馴れしい呼び方はやめよう——長田おさだまことが、うちの中学を去ると聞いたときから、みんな、薄々察してはいたのだ。

 通常四月に行われる離退任式が三月末になったこと。長田先生に異動先を聞いた友達がはぐらかされたと言っていたこと。そして極め付けは、卒業生と連絡先を交換し始めたこと。


 卒業式の日に長田先生がこぼした、「会えなくなる」という言葉。


 だってあの「まこっちゃん」が、いつでも俺に会いに来いよ、なんて笑って見せてくれなかった時点で、何かおかしいんだ。

 その全てを繋ぎ合わせた結論が見えないほど、馬鹿じゃないよ、先生。



 大阪府大阪市、長田先生の地元。

 出身地についていきいきと語る長田先生の顔も、ふとした瞬間に隠せず現れる訛りも、大阪にいる恩師の話も、長田先生が大阪で働きたいだろうと予想するには十分な根拠だった。


 だからこそ、悔しかった。私と、私たちと過ごした三年間は、長田先生が東京に留まる理由にはなれない。


 悔しかった。

 悲しくて、寂しくて、涙が止まらなかった。





 ああ、それなのに、つまるところ私は結論が見えていない、大馬鹿者だったんだ。


 大阪の大学を出て上京して、数年のキャリアを積んで地元に帰省して。ついこの前、メールで28歳の誕生日をお祝いしたじゃないか。そういう年齢だったじゃないか。

 ねえ実梨、あなたはずっと叶わないまま、思いを燻らせておくつもりだったの? 






——まこっちゃん、したって!






「……さん、新倉さん!」

「っはい!?」


 目が合った。デジャヴだった。唾を飲み込んだら、一緒に熱い塊が喉奥に押し込まれていって、泣きそうだったことに今気が付いた。

 元々大きい瑞木先生の目が、まんまるになってこちらの様子を伺っている。


「暗唱だよ!」


 小声で後ろの席の子が肩をつついて教えてくれる。


「うあっ、えっと、すいません、えー……隴西の李徴は博学才穎、天保の末年、若くして虎榜に名を連ね……」


 『山月記』の最初の一文。文芸部で近現代文学を読み耽っているため、最初の数文字が出てきてしまえば残りは思考するまでもなくすらすら出てくる。

 首をもたげた邪念が、するすると心の奥底に大人しく沈んでいく。

 そういえば先生、先週の授業で言えるようにしようみたいなこと言ってたなあ。


「ああ、よかった、ありがとねー」


 瑞木先生はまんまるい目のままだったが、こちらを覗き込むような視線をやめて、軽く頷く。ホッと息を吐き出して教科書に視線を落とす。


「大丈夫?」


 少し落とした声のトーンで尋ねられて、今度は私がびっくりする番だった。はっと顔を上げたらもう一度目が合って、そういえばこの人には泣き顔を目撃されていたんだよなあ、と他人事のように冷静に思い出した。


「はい」


 背筋を伸ばして返事をしたら、瑞木先生はあのにへら顔で笑って、何事もなかったかのように授業に戻った。




 それが先生の不器用な気遣いだとわかったのは、同じくらい不器用で優しい先生を知っているから。





「はーいじゃあお疲れ様でした、今日の授業はここまでですー、号令お願いします」



 そう言って、瑞木先生は荷物をまとめたカゴを抱えている。

 会釈をして去っていく間、その背中を見つめていても、もう私に視線を向けることはなかった。

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