プロローグ②

 瑞木先生との出会いは四月に遡る。


 背が高くて、スーツがとびきり映える人。出会った日の印象はそれだけだった。最近は夏が近付いてきたからか、単純にこの学校に慣れたからか、ワイシャツすらほとんど着てこなくなったけど。


「えー……初めまして」


 教卓から上半身がほとんど出るくらいの身長。初めての授業は月曜日の一限目で、着任したばっかりの先生はめいっぱいの緊張を感じさせる辿々しさでそれだけ言った。

 多分、二十代くらい。


 黒板の方に向き直ったとき、翻ったジャケットの裾が他の先生と比べて明らかに短くて、物凄く羨ましかったから今でも覚えている。だって、自分の身長が高くて、しかも脚が長いって自覚がないと出来ないバランスだ。

 綺麗なシルエット。


「今年一年間、文系クラスの皆さんの、えー、文学を担当します、瑞木みずき直人なおとと言います」


 どこか頼りない筆圧で、それでも丁寧な字で、黒板に縦書きのフルネームだけが書かれた。


「何か聞きたいことありますか? 自己紹介これでいいですかね。……まああの、もちろんこの高校は皆さんの方が先輩なので、出来る限りやっていくつもりでいますが、こう、暖かい目をね、向けていただけると……」


 にへら、という効果音が付きそうな、苦笑いのような泣き笑いのような、やっぱり頼りなさげな表情を浮かべて軽く頭を下げた。


 正直その後の授業のことはほとんど覚えてない。指名されたりもしなかったし、特筆すべき面白い授業でもなかったのだろう。

 先生ごめんなさい。


 授業が終わって、先生が去っても黒板に残されたままだった「瑞木直人」。

 「人」の字の払いが、「木」と比べて大袈裟なまでに長かったのが、どういうわけか記憶に焼きついている。



 瑞木直人。出会った日の放課後、部活に向かう用意をしながら、その名前を口の中で転がした。名前が好きだ、と直感的に思った。名前以上でも以下でもなく、ただその漢字の並びと、発音と、黒板に刻まれた白い文字。


 みずきなおと。瑞木先生が名乗ったときの声が頭をぐるぐる回っている。フルネームで名乗る瞬間なんて、もしかしたらもう二度と聞けないのかもしれない。


 瑞木直人。持ち上げたスクールバッグに確かな重みを感じながら、頭の中でその字をなぞる。


 先生の名前は綺麗だ。瑞木という苗字も、直人という名前も、その漢字も。

 青々としたしなやかな木の肌が、ごつごつした、それでいて触れるとたっぷり湿っているようなひび割れを作りながら、どこまでも伸びていく。青空へ向かってすこやかに、太陽へ向かって真っ直ぐに。


 その字を思い出すたびに、瑞木先生があの顔でにへらって笑うたびに、そんな風景が眼前に迫ってくる気がするのだ。


新倉しんくらさん……?」

「わひゃっ?!」


 原生林にトリップしていたら、張本人から声をかけられて思いっきり変な悲鳴をあげてしまった。

 というかいつ私の名前を……? どうして私に声を……?

 衝撃と疑問が顔に出ていたのだろうか、瑞木先生はまたあの顔で笑って、少し迷ってから言葉を続けた。


「あの、これから文芸部行くところかな?」

「あっ、えっと、はい」


 どうして私が文芸部だと知って……?


「その、私、今年から文芸部の副顧問になったから挨拶に行こうと思って……さっき遠藤先生に新倉さんが部長って聞いたから」

「副顧問」

「うん、だから正直メインの顧問は変わらないし、あんまり関わらないとは思うんだけど一応ね」

「なるほど。……副顧問ってもう一人いらっしゃいませんでした? 私会ったことないんですけど」

「ああ、五本いつもと先生のことかな。私が加わるってだけで特に変更はないみたいだよ」

「了解です、ありがとうございます」


 先生は私の微妙に斜め後ろをついてくる。まだ部室の場所に自信がないのかもしれない。


「こんにちはー」


 なんとか平静を装っていつも通りの挨拶をする。立て付けが悪い部室のドアがミシミシと軋んだ。

 春休み中の部活で私が机に散らかした大量の文学は、先輩方の手によって端に綺麗に積み重ねられていた。

 こんにちは、と返事が上がる中で、みんなの視線は私の後ろへ。そりゃそうか。軽く後ろを振り向いたら、立ち止まった先生はどうしたらいいかわからない様子でそわそわ部室を見回していた。


「えーと、実梨みのりちゃん、その人は……」


 先輩から声をかけられて、向き直って紹介する。


「今年から着任した瑞木先生で、文芸部の副顧問になるそうです」


 目線で促すと、瑞木先生も姿勢を正した。目を合わせるのに思い切り見上げなくちゃならなかった。やっぱり背高いな。


「瑞木直人と言います、よろしくお願いします」


 あ。フルネーム。鼻先を掠める樹皮の匂い。


「じゃああの、私仕事に戻るんで、わざわざありがとね」


 小声で私にそう告げると、ふにゃりと笑ってちょっと首を傾げ、先生は部室を出て行った。

 入ってきた時に私が開け放った扉を丁寧に閉めてくれる音が、さっきよりも静かに響いた。


 瑞木先生が理系クラスの副担任についていると知ったのは、翌週のことだった。

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