第1話 witch and doll and human㉝

 ゆっくりと露わになっていく彼女の肌に現れた無数のそれが、ライアンの頭からサッと熱を奪っていった。

 対するように、心の中ではただ、怒りだけが凄まじい速度で、噴火直前のマグマのように湧き上がってくる。


「――そ、れッ」


 しかし、ライアンの口から溢れた声は酷く掠れていた。

 ニヤニヤと笑ってこちらを見るムアヘッドとは対照的に、自らの身体を必死に隠すように掻き抱きながら崩れ落ちるフィーはただ、「見ないで」と繰り返しながら泣きじゃくっている。


 きっと、誰にも知られたくなかったはずだ。

 きっと、できることならずっと隠しておきたかったはずだ。


 そりゃそうだ。真っ白な肌に刻み込まれた、数えきれない程の傷跡を、誰かに見せたいはずがない。

 その無数の傷跡だけで、彼女がそのナイフで何をされてきたかが分かった。分かりたくなんかないのに、分かってしまった。


 彼女はそんなものを隠して、あんなに明るく振る舞ってたってことか?


 次の瞬間、ライアンの中で、何かがハッキリと音を立てて切れた気がした。


「こんの……こんの腐れ外道がァ! テメェは腐っても警察だろうが!! 人としてやっていいことと悪いことの区別もつかねぇのか!? あぁ!?」

「人? こいつが人だとぉ? クククッ虫ケラは面白いことを言うなァ。訊こう。ここの、どこに、人がいる? こいつは人様の物を盗まなければ生きていけない哀れな寄生虫にしかすぎん! そんな哀れな虫を、万物の霊長たる人間様が瑣末に扱って何が悪い」


 そう言って、あまりにも楽しそうに笑う目の前の男の姿に、ライアンはぐっと拳を強く握る。握った拳から、ギチギチと嫌な音が零れ落ちた。


「……けあるか」

「あん? なんだァ虫ケラ。何を言ってるか、虫ケラの言葉は小さ過ぎてまーったく聞こえんなァ」

「んなわけあるかって言ってんだろクソハゲジジイがッ!! 今すぐ訂正しろ、フィーは俺たちと同じ人間だってなぁ!」

「はん! それなら貴様も此奴と同じ虫ケラと言うことだ。よかったなァ、虫ケラ」

「例え虫ケラでもなあ、意地ってもんがあんだよ。それをてめぇが人間だからって蔑ろにしていいわけねぇだろうが!!」

「――ヒッ」


 ムアヘッドはそんな間抜けな悲鳴を上げるも、すぐに自身の優位性を思い出したのか、こほんと咳払いして威厳を保とうとする。


「ふ、ふん。まあ弱い犬程よく吠えると言うからな。まあいい。どうせこいつはこのナイフの恐怖からは逃れられんのさ。まあ、ここでもう一つトラウマが増えるかもしれんが、なぁッ!!」


 ムアヘッドがそう叫ぶと同時に、背後から無数の金属片が現れると、勢いよくライアン目掛けて降り注いでいく。


「ッ!? ライアン!!」


 フィーが叫ぶよりも早く、まるで流星群のようにライアンへ金属片が轟音と共に降り注ぎ続け、先程までライアンが立っていた場所にはもくもくとした土煙が立ち上っている。

 ゆっくりと土埃が晴れていくと、舞台の下あたりにできた瓦礫の山から、ライアンのものらしき血だらけの腕が突き出ていた。


「ライ、アン……? う、嘘だよね……? ねぇ、ライアン。まさか死んじゃった、の? ねぇ、返事してよ! ライアンッ!!」

「ハハハハハハッ!! さすがにあれだけの量の刃物が降り注げば生きてはいまい! 残念だったなあ、虫ケラ」


 粘り気のある笑みを浮かべるムアヘッドとは対照的に、フィーの目からは今までとは異なる意味の涙が零れ落ちていく。


「あたしの、せい……? あたしが一緒に行きたいなんて言ったから? ううん。あたしが、普通に生きたいなんて願ったから……?」

「貴様がまともな生活を願うか。ハハッ、アーハッハッハッハッハ!! できるわけなかろうがッ! 貴様は一生地べたに這いつくばって、他者に支配され、やっと生きることができるのだ。まさに宿主がいなければ生きられぬ、寄生虫のお前にはお似合いの姿よなぁ!」


 わなわなとフィーの唇が震え、目からは大粒の涙がぽろぽろと零れる。

 あぁ、あたしはなんでいつも間違うんだろう。

 なんであたし、いつもこうなんだろう。

 一体どこで間違えたんだろう。

 あたしは……あたしは……。


「ライアン……もう自由なんて願わないから……もう、幸せなんて願わないから。嫌だ、よ。死んじゃ、嫌だよぉ……」


 ぎゅっと握った拳に、ポタポタと涙が落ちる。どうせ一人になるのなら、あたしもここで死――。


 瞬間、微かに鼓膜を揺らした音に、ハッと顔を上げる。しかし、視線の先にある瓦礫の山に変化はない。やっぱりライアンはもう……と、ぎゅっと目を閉じた時、ムアヘッドの恐怖に慄いた声がフィーの耳をつんざいた。


「き、貴様ッ! なぜだ! なぜあれだけの鉄塊を喰らったのに生きているッ!?」

「――え?」


 驚いてフィーが目を開くと、そこには頭から血を流したライアンが、瓦礫の山から立ち上がってくるところだった。


「……あー感動的な話悪いけどよぉ。俺がいるのも忘れないで欲しいね」


 言いながら、ライアンは血の混ざった唾を吐き出す。その姿は満身創痍のように見えたけれど、それでも彼が生きていたことに、胸の奥から喜びが、溢れてくる。


「……で、アンタが言う鉄塊ってこれのことか?」


 言いながらライアンが服を払うと、破けた服の間からいびつな格好をした金属片がボロボロと地面に落ちた。


「さすがに一発頭を掠った時は死んだと思ったけど、あいにく俺は人よりも運がいいみたいでな。おかげで冷静になった」


 それから、フィーに向かってニッと笑いかける。まるでその笑みが安心しろと言っているようだった。


「フィーから服を返してもらっててよかったよ」

「ま、魔法じゃあるまいし、そんな冗談みたいなことがまかり通るか!」

「残念ながらまかり通っちまうんだよなぁ、これが。それに、あんたの攻撃が鉄に関係してるって事前に分かってたから、ある程度対策ができた。なあ、イニ」

「ねぇ、それって私ありきって忘れてない?」


 イニがため息をつきながら、ライアンの服の胸元からひょっこりと顔を出す。


「忘れてねえって。そんじゃあイニ。ショータイムと行こうぜ」

「あーもう好きにしなさいよ。私しーらない」

「ハハッありがとな。それじゃあぶっ飛ばしますか」


 その言葉に呼応するように、ライアンの耳に付けていたピアスが強く輝き始める。その輝きはゆっくりとライアンの右腕まで広がっていったかと思うと、彼の手の平に、ぽうっと真っ赤な炎が浮かび上がる。


 ライアンの手の中で燃えるその美しい炎が、まるで世界を照らす希望のように、フィーの目には映った。


「なぁ、フィーはこの世界に魔法なんてないって言ったよな」

「うん……言った……言ったよ」


 大粒の澄んだ涙と共にフィーの口から零れ落ちたその言葉に、ライアンはどこか嬉しそうな顔をする。


「そしたら今から本物の魔法ってやつを見せてやるからさ。今度は、信じてくれよ」


 メラメラとライアンの手の平の上で燃え上がっていく炎に、ムアヘッドは情けない声を上げながら、後退りする。


「デ、デメリットなしで使えるその奇跡……。さてはその耳飾り、本物のラクリマか!」

「だとしたらどうした。ビビっててめぇの持ってるそのラクリマのカケラを渡す気になったかよ?」


 ライアンの問いかけに、ムアヘッドは怯えた表情ではあったものの、ニヤリと不適な笑みを浮かべた。


「ハッ! 寝言は寝て言え虫ケラが! 貴様の持っているそれを手土産に、あの方から更なる寵愛を受け、ワシはより強い奇跡を得るのみよ!!」


「あの方だかその方だか知らねえけどさ。てめぇはちょっとやり過ぎなんだよクソハゲ。力ってのは正しく使わないとダメだって教わらなかったか? ……あーまぁいいか。どうせアンタに言ったところで分かんねぇだろうし。だからまっ、とりあえず俺とアンタで本気の大喧嘩。やろうぜ、クソ署長さんよ」

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