第18話 一国の破滅への秒読み
アズベルトは身を低くしながら、地面を滑るように移動して何かを躱した。
見ると、先程まで覗いていた大鏡が粉々に打ち砕かれている。
そこに存在していた者は人間ではなかった。
ひびが割れたかのような角質化した肌。
滑らかな曲線を描きながらも、柔軟そうな体格。
獲物を睨むというよりも、観察するかのような両眼。
それは、二足歩行で活動する大トカゲであった。
(何だ、この化け物は?)
アズベルトは夢でも見ているかのような錯覚に陥った。
頭では状況を理解できないアズベルトも、いつの間にか腰に携えられた剣を抜剣して正眼に構えていた。
その剣の切っ先は、目の前に存在する大トカゲに向けられている。
頭より早く、身体がその場の状況を理解していた。
(殺らなければ殺られる!)
アズベルトは正眼に構えた剣を、顔面右横に移動させた。
右手で剣を振り上げ、これに左手を添えた形になるこの構えは〈トンボ〉と呼ばれる東方の大陸から伝わった剣術であった。
「グルルルッ」
アズベルトとほぼ同じ体格の大トカゲは、獲物を狙うようにジリジリと歩み寄ってくる。
それはアズベルトも同じだった。
構えを崩さず剣の間合いに詰め寄ろうとする。
背中に流れた冷たい汗が、熱い高揚に変わっていくのを肌で感じながら、剣を握る両手に力を込めた。
「ギシャアアアアアッ」
アズベルトから放たれる裂帛の気迫を感じ取ったのだろうか。
大トカゲは大気を震わすような低い雄叫びとともに飛びかかってきた。
これを待っていたかのように、アズベルトも前に飛び出した。
左足をやや前方に出し、斬り込んだ瞬間に足全体を地面に打ち込んだ。
身体を沈めた時に発生する力と、踏み込んだ両足から上半身に伝わる力とが見事に合致し、アズベルトの剣の威力を何倍にも高めた。
「イエエエエエイッ!」
豪快な絶叫とともに繰り出されたアズベルトの剛剣は、稲妻の如き速さで大トカゲを頭上から股間の位置まで一気に斬り伏せた。
剣と体とを完璧に一致させた〈トンボ斬り〉と呼ばれる必殺の一撃であった。
大トカゲは唐竹割りの要領で、胴体を真っ二つに斬られて絶命した。
激しく噴出する鮮血が、部屋の床を血の池に変える。
そんな血の池の中に横たわる大トカゲの死体の刀傷からは、むせるような異臭が放たれた。
(くっ……毒霧か)
咄嗟にその匂いで毒だと判断したアズベルトは、左手で口を押さえつけ吸気を止める。
アズベルトは部屋が薄暗かったことと、一瞬の出来事だったために、自分に襲いかかってきた大トカゲの正体に気がつかなかった。
目を凝らして横たわる大トカゲの身体に注目する。
よく見ると、大トカゲの身体には破れた衣類が残っていた。
「……どういうことだ」
その衣類には見覚えがあった。
この部屋に入る前に自分が払いのけた、使用人の女性が身に着けていた衣服であった。
「部屋の外にいたあの女が、この化け物だと? そんな馬鹿な……」
言葉では今起こった状況を否定したアズベルトも、心当たりがなくもなかった。
帝国内での集団失踪、細切れに散乱した猟奇死体、そして王宮内に響く謎の声。
偶然とは思えない事件が立て続けに起こるインパルス帝国は、一部では〈魔都〉と呼ばれるくらいにまでなってしまった。
確実に何者かの謀略が見え隠れしているのは間違いなかった。
そして、アズベルトの脳裏には一人の男の姿が浮かんだ。
「まさか……カルマが?」
証拠は何もなかった。
だが、この状況がアズベルトにそう教えているとしか考えられなかった。
シバ国王の身の回りの世話をしているはずの使用人が化け物だったのだ。
シバ国王の側近であるカルマが知らないはずがない。
もしこれが、カルマが仕組んだ陰謀だとしたら――
自分の心臓の鼓動が徐々に加速していくのを感じながら、アズベルトは部屋を出ようとした。
その時、
(フフフ……)
「!」
アズベルトの身体が緊張した。
咄嗟に何もない空間に向かって剣を構える。
目の前には誰もいない。
しかし、確実にどこからか声が聞こえてきた。
肌が粟立つ感覚を覚えながら周囲に気を配る。
(……で待っていますよ)
その声は耳にではなく、直接アズベルトの頭の中に響いていた。
低く、そして氷のような冷たさが伝わるその声は、アズベルトがよく知っている男の声であった。
「カルマ!」
アズベルトは声に導かれるままに部屋を後にした。
シバ国王の寝所からその場所までは、王宮内の中央階段を上った先にある。
王宮内はかなり広く造られており、無数の石製の柱が幾重にも連なっていた。
アズベルトは中央階段を上がり大広間に出た。
大広間は舞踏会などの社交場にも使われるため、数百人が入れるような広さがある。
(おかしい、見張りがいない)
大広間には更に上に続く大階段があり、その先が玉座の間であった。
普段は最低でも四人の見張りがついているのだが、今は誰もいない。
アズベルトは警戒しながらも、玉座に続く大階段に足を一歩踏み入れた。
ザワッ……
不意に、アズベルトの足がピタリと止まった。
アズベルトはそれ以上先には進めなかった。
進まなかったのではなく、進めなかったのである。
「待ちかねましたよ。アズベルト殿」
大階段の最上部に現れたその男は、アズベルトを見下ろしながら不敵な笑みを浮かべていた。
「きさま……カルマか?」
アズベルトは我が目を疑った。
目の前に現れた男――カルマの印象や風体が明らかに以前とは違っていた。
肌にピタリと張り付いている黒革の服。
以前は病人のように痩せ細っていた身体が、今では一目でわかるほどの高密度に発達した筋肉に覆われていた。
また、両の眼光は鷹の如く鋭く輝き、その態度は自信に満ち溢れているようだった。
「カルマ、聞かせてもらおうか」
アズベルトはすでに腰の剣を抜剣し、臨戦状態になっていた。
アズベルトと幾多の闘いをともにした片刃の刀身が、カルマの存在を否定するかのような輝きを放っている。
「シバ国王はどこにいる?」
「……シバ?」
カルマは頭を傾げた。
「きさま、ふざけるのもいい加減にしろ!」
カルマの人を小馬鹿にするような態度が、アズベルトの怒りを逆撫でした。
アズベルトは剣を下段に構えたままカルマに突進した。
巨躯な身体が暴風を纏い、階段を数段ずつ飛ばしながら一気に駆け上がっていく。
「チエイ!」
鋭い裂帛の気合とともに繰り出されたアズベルトの斬撃が、カルマに襲いかかった。
アズベルトはカルマの足を狙った。
凄まじい怒気が込もった白刃が、空気を切り裂く電光と化してカルマの足を薙ぐ。
タン!
カルマは足元の地面を軽く蹴ると、その肢体を飛翔させた。
同時に、アズベルトの剛剣が空を切った。
(上か!)
瞬時に上へ飛んだのだと確信したアズベルトは、空を切った手首を返し、そのまま上空へと剣を跳ね上げる。
それはまるで、生き物のような動きであった。
アズベルトの剣はかなりの重量がある。
かつて、インパルス帝国に来訪した〈ジーファン〉の鍛冶屋に特注で作らせた剛剣を、アズベルトは信じられない速度で斬り返したのである。
並みの膂力ではなかった。
しかし、斬り返したその剣は、またもや何もない空間を切り裂いた。
その動きと交叉するように、アズベルトの頭上を一陣の風が通り過ぎる。
カルマは直立不動の姿勢でアズベルトの頭上を通り過ぎると、身体を反転しながら大広間の地面に音も立てずに着地した。
まるで背中に羽が生えたようなその動きは、人間の身体能力をはるかに凌駕した動きだった。
カルマとアズベルトは互いの身体の位置が逆になった。
普通の人間であれば、カルマの異常な動きに何かしらの反応を見せるのだろうが、アズベルトは深く落ち着いた様子でカルマを見下げた。
アズベルトには最早ためらいはなかった。
自分の眼前に映るこの悪魔を斬り伏せるのみ。
そんな思いが殺気へと変わり、ジワジワとカルマに放たれる。
「くくく……」
肌に纏わりつくようなアズベルトの殺気を、まるで心地良い演奏でも聴くような表情で心酔しているカルマがいた。
「何がおかしい!」
不敵な笑みを浮かべるカルマとは対照的に、一段とアズベルトの表情が険しさを増していく。
「いえ、大事なことを思い出しましてね」
ギイイイイイイッ……。
カルマがそう言い放つと、玉座の間の扉がゆっくりと開き始めた。
アズベルトはカルマを警戒しながらも扉の方に視線を移した。
開いた扉の奥からは、人影らしき物体が見えた。
その動きからは、普通の人間ではないことは予想がついた。
薄暗かったせいもあり、アズベルトは緊張しつつも、どちらにでも斬りかかれる体勢を取っている。
やがて、その物体が完全に闇の中から姿を現した。
のそのそと身体を小刻みに揺らしながら現れたその人影は、アズベルトがよく知っている人物であった。
「シバ国王!」
アズベルトは声を張り上げ叫んだ。
目の前に現れた人物は、以前より痩せ細ってはいたが、間違いなくインパルス帝国の国王シバであった。
だが、シバの瞳の奥からは生の輝きが伝わってこない。
目の前にいるアズベルトの存在すら確認できないでいるかのようであった。
「ご、ご無事でしたか」
そのことに気付いていないのか、アズベルトは大階段を上り終えると、シバの元まで歩み寄っていった。
「シバ国王、ここは危険です。一刻も早く安全な場所へ……」
アズベルトの言葉が静止する。
メキィ……ビキィ……
アズベルトの身体が無意識のうちに後退する。
「そんな……馬鹿な」
異様な音とともにシバの身体が変貌した。
最初は肩が倍以上に盛り上がった。
それに呼応するように各箇所も骨と肉が軋む不気味な音を立てながらその姿を変えていく。
虚ろであった両眼は、獲物を狙う貪欲な眼光へと変わり、爪は鋭く伸び、鍛えられた名剣のような切れ味を感じさせた。
そして、白かった肌が異常に発達した針のように尖った剛毛で覆われていく。
その姿は二足歩行で佇む巨大な人狼であった。
まったく別の生き物へと変貌したシバからは、全身が総毛立つ恐ろしさしか感じられなかった。
歪んだ口元からは白い牙が覗いており、一噛みで人間の五体を食い千切る破壊力があることは容易に想像できた。
シバの寝所でアズベルトが倒した大トカゲとは、まるで異質な存在感を放っていた。
おそらく闘ったところで返り討ちにあうだろう。
そうアズベルトの思考が瞬時に答えを弾き出した。
「グウオオオオオオッ!」
人狼と化したシバが、右の獣腕を真上からアズベルトに向けて振り下ろした。
死を感じ取ったアズベルトは、体勢を崩しながらも紙一重でそれを躱した。
空を切った獣腕は地面に勢いよく突き刺さり、土煙と衝撃波が放射状に広がった。
地面を穿った衝撃で飛び散った石飛礫が、アズベルトの身体を打ち、大階段の中央付近まで吹き飛ばした。
「うっ!」
大きく身体を吹き飛ばされたアズベルトは、大階段の手すりに摑まったことで致命傷は避けられたが、肋骨に強い痛みが走った。
(この感じ……折れたか)
アズベルトは肋骨を手で押さえつけながら、その場にへたり込んでしまった。
人狼と化したシバは、その鋭い視線をアズベルトに向けたまま、しなやかな肢体に力を込める。
躍動する筋肉の緊張が、次の動作のための準備であることを如実に語っていた。
もちろん、アズベルトにとどめを刺すためだ。
「ガアアアアアアアッ」
人狼と化したシバは、空気を震わす咆哮とともに、その身を天高く飛翔させた。
まるで重力を無視したかのようなその動きは、本来の獣の能力と人間の能力を最大限に発揮させたような動きであった。
剥き出しになった牙の隙間からはよだれがダラダラと流れ、必殺の武器と化した両腕の爪が、上空からアズベルトに襲いかかる。
(この体勢では躱せん)
空中から眼前に迫りくる人狼と化したシバを見上げながら、アズベルトは死を覚悟した。
そのときである。
「〈――虚空槍閃――〉!」
それは、後方から突然放たれた。
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