第13話   現れた刺客

「ふうー、生き返ったぁ」


 サクヤは滝壺の水で身体を洗い流しながら、気持ちよさそうに声を上げた。 


 丸一日ぶりの沐浴は、それほど心身の疲れを癒してくれる。


「本当ですね、サクヤ様」


 サクヤの隣ではジェシカが髪を洗い流していた。


 ジェシカの沐浴をしている姿は、同姓のサクヤも思わず見とれてしまうほど魅力的であった。


 二人が沐浴をしている滝壺は水量が多く、池のように溜まっていた。


 また、近くにある清涼な滝の音が、何ともいえない風情を感じさせる。


 季節は夏の初め。


 水の冷たさもさほど気にならないくらいの適度な温度である。


 サクヤは一通り身体を洗い流すと、そのまま身体を反転させ仰向けになった。


 水面には未成熟な二つの膨らみと、幼さが残る顔だけが浮かんでいる。 


 月の光が雲の間から注がれ、サクヤの身体を怪しく映えさせていた。


(このまま、時間が止まってしまえばいいのに) 


 サクヤはゆらゆらと水面を漂いながら空を見上げる。


 無数の星や綺麗に半月に欠けた月が、サクヤの瞳の中に一枚の絵画のように映っていた。


 サクヤは瞼を閉じ、その情緒を五感で味わっていた。


 徐々に背後から迫ってくる危険があるとも知らずに……。 


 突如、目を閉じて思考を停止していたサクヤの身体がピクンと跳ねた。


「うひゃあ!」


 サクヤは両手で胸を覆い隠すと、盛大な水飛沫を上げてその場から勢いよく離れた。


「な、何をする!」


「えへへ。すいません、サクヤ様。つい……」  


「つい、で胸をワシ摑みするやつがあるか!」


 ジェシカは水面に浮かんでいたサクヤの背後にゆっくりと回り込むと、両手で勢いよくサクヤの胸を摑んだのであった。 


 というより揉んだ。


「ちゃんと成長していますね。子供の頃は男の子みたいな体型だったのに」


 ジェシカは、両手でニギニギと何かを揉むような動作をしている。


「あ、当たり前だ! 子供の頃と一緒にするな!」


「うふふ、そうですよね」


 ジェシカは皇宮親衛隊の仕事と兼任で、サクヤの家庭教師をしていた時期があった。 


 お互い年齢も近かったし、何よりジェシカの旅芸人として培った人生経験の豊富さが、家庭教師に抜擢された大きな要因であった。


 そんなジェシカは、サクヤにとって父親の次に心が許せる存在だった。


 時には友のように親しく、時には姉のように優しいジェシカが傍にいるだけで、サクヤは力強い気持ちになってくる。


 そんなジェシカは、サクヤにゆっくり近づくと後ろから優しく抱きしめてきた。 


 まるで母親に抱きしめられたような暖かい抱擁感が、サクヤの心までも優しく包み込んでいく。


「私はこれからも、ずっとサクヤ様の味方ですからね」


 ジェシカは耳元で囁くようにサクヤに呟いた。


 それを聞いたサクヤは、思わず涙が出そうになった。 


 どんなに強気な態度を取っていても、サクヤはまだ十六歳の少女である。 


 インパルス帝国に近づくにつれ、不安な思いが募っていくばかりだったからだ。


「ジェシカ……うひゃあ!」


 サクヤの未発達な二つの膨らみが、再び敏感に反応した。 


 油断しきっていたせいか、今度は両手で隠す暇がなかった。


 ジェシカは嬉しそうに、空中でニギニギと何かを揉む動作をした。 


 気のせいか、先程よりも揉む動作の速さが上がっている。


「いい加減にしろっ!」


 心を許しきった瞬間を狙った悪質な行為に、サクヤの怒りが爆発した。


 サクヤの硬く握られた拳が、恐ろしい速さでジェシカの頭部に振り下ろされる。 


 自然の神秘が生んだ清涼な滝の音に混じり、不気味な衝撃音と「いったーいっ!」とジェシカの悲痛な叫びが辺りにどこまでも鳴り響いた。


 ――30分後。


 サクヤは一人で滝壺の水面をゆらゆらと漂っていた。


 一度ならず二度までも、乙女の胸を欲望のままに揉みまくる。 


 と、本来ならば極刑を言い渡してもおかしくないジェシカを、穏便に愛の鞭程度に許してやり、滝壺から追い出したのだ。


「まったく、いたずら好きも全然変わってないな」


 胸を両手で覆い隠すような格好で水面を漂っていたサクヤは、鎮痛な面持ちでジェシカが逃げ帰った方角に視線を向ける。 


 子供の頃から何かとサクヤを可愛がってくれたジェシカも、時に可愛さゆえに度が過ぎてしまうこともしばしばあった。 


 今回のように胸をワシ摑みするなんて行為は、まだ軽い方であった。


「ふう……」


 サクヤは軽く顔を洗うと、少し冷えてきた身体を温めるために、岸辺に向かって泳ぎ出した。 


 岸辺に着いたサクヤが、服を取ろうと手にかけたその時、


「!」


 サクヤは再び水中に身体を沈めた。


 何かがいる……人間か獣かはわからないが、間違いなく気配がしたのは感じられた。


(まさか……刺客!)  


 サクヤの身体が小刻みに震え、全身に鳥肌が立ってくる。 


 それは身体が冷えたためではないだろう。


「遅いんだよ」


 サクヤの感じた緊張感を、風のように吹き飛ばす声が聞こえてきた。


 見ればその声の持ち主は、相変わらずの緩んだ笑みで、近くの岩場にどっしりと腰掛けていた。


「シュ、シュラ……」  


 声の持ち主がシュラだと気付くと、固く縮込めていた身体の緊張が一気に解けた。 


 同時に、安心と喜びに似た思いが全身に広がる……が、恥ずかしさと、シュラに対する奇妙な感情がそれを表に出させなかった。


「の、覗きにきたのか? この変態!」


 必死に搾り出した言葉だったが、相手を威嚇するほどの力は入っていなかった。


「ひどい言い草だな。まあ、全部見ちまったけど……」 


「見てるではないか!」


 あまりにも惚けた様子で淡々と受け答えをするシュラに、サクヤはそれ以上怒る気も失せていた。


「帰ってくるのが遅かったから様子を見に来たんだが……無事のようだな」


 そう言うとシュラは、おもむろに夜空を見上げた。


 その動作につられて、サクヤも視線を夜空へと向ける。


 すると、一羽の鳥が自分の頭上を旋回している姿が確認できた。 


(何だ……鳥か?) 


 その鳥は身体を黄金色に輝かせ、優雅に天空を旋回していた。 


 だが、光る鳥が存在するなんてことは、サクヤは聞いたことがなかった。


 困惑しながらその光鳥をサクヤは眺めていると、突然、閃光のように強く輝き、火花のように消えていった。


「え……」   


 サクヤは何が起こったのかわからない表情で、シュラに視線を移した。


 目の前で起こった不可思議な現象について、一緒に目撃していたシュラに意見を求めようとしたのかもしれない。


 だが、シュラはサクヤの方を向いてはいなかった。


 サクヤはシュラに身体を背けると、深い森のほうへと視線を移した。 


 その先が、シュラの鋭い双眸が向けられている方角だったからだ。


「商売熱心だな……いいのかい? 観客は二人しかいないぜ」


 シュラがそう言い放った直後、サクヤの身体に緊張が走った。


 目の前に広がる暗黒の森の中から、強烈な威圧感が大気を伝わり、サクヤに向かって突風のように放たれていたからだ。


(この感覚……)


 サクヤは震える身体を無理やり押さえつけ、自分の身体を蝕んでいる者の正体を確かめようとした。


 その威圧感の持ち主は、静かに姿を現した。


 灰色の髪の毛を後頭部で束ね、身長は2メートル近い巨躯な体格。 


 そして、全身を鍛え抜かれた筋肉の鎧で武装しており、右胸から左腰にかけて龍の刺青が彫られている。


 また、男が手にしている槍が凄い。 


 燃えるような赤銅色の柄。 


 不気味に輝く白銀の穂先。 


 柄の先端にある口金の部分は、人目でわかる本物の黄金で作られていた。


「あ、あいつは……」


 サクヤはすぐに男の正体がわかった。


 イシスの街の広場で見事な技を見せてくれた大道芸人。 


 自分の名前をゲンジロウと名乗っていた、巨漢の槍術使いであった。

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