盲目のユーサネイジア

月上みかげ

盲目のユーサネイジア


 飼い犬に病気が見つかったのは一ヶ月ほど前のことだ。以前から気になっていた口元のイボは日を追うごとに大きくなっていた。体にもところどころ同じようなイボが見つかって、「大丈夫だ」と言い張っていた父もようやくその重たい腰を上げた。糖尿病、と診断された飼い犬―トイプードルのクルミは、病院から帰ってくるといつもと変わらずおやつの犬用チーズを求めて母の足元で吠えた。

「クゥちゃん、だめよ。クゥちゃん病気になっちゃったのよ。しばらくおやつは無しにしましょうね」

 母はそう言ってクルミを抱き上げた。病院に連れて行った父から話を聞いた母は泣きそうな顔で「だから何度も病院に行きましょうって言ったのに……!」と声を震わせていた。その声を聞いたときは喧嘩でも始まるかと身構えたが、母はどうにか病気のことを受け入れたらしかった。クルミはしばらく強請るように母の口のまわりを舐めていたが、やがて諦めたのか一度鼻を鳴らして母の肩に顎を乗せた。

「ごめんねえ、クゥちゃん。ママがパパに『人のご飯をあげないで』ってもっとちゃんと言えば良かったのよね。おやつの量も決めずにあげていたし……」

「俺も悪かったよ。お前の言う通り、クルミを甘やかしすぎていた」

 それまで黙ってニュースを見ていた父も、テレビの音量を下げて気まずそうに言った。

 二人とも、もうクルミの病気を受け入れている。私はまだだった。だってクルミは昨日と変わらない毛の色で、昨日と変わらず家の中を駆け回っている。いや、昨日は分かっていなかっただけで病気にはなっていたのか。だとしても、体の小さなイボ以外ほとんど変わった様子もない。そこに急に「あなたの飼い犬は病気です」と言われてその事実を受け入れられないのは、私がまだ子供だからだろうか。

「真由子も注射打つの手伝ってちょうだいね。散歩ももう少し増やして、朝晩四十分ぐらいにしましょう」

「……分かった。朝は変わらずパパが行くんでしょ?」

「もちろんだ。こうなってしまったのは俺の責任も大きいからな。……頑張ろうな」

 父はクルミの頭を撫でてそう言ったが、私にはどうしてか、それが私に向けられた言葉であるような気がしてならなかった。


 クルミの容態は診断を受けた次の日から目に見えて悪化していった。二週間も経つ頃には糖尿病によって併発した白内障のせいで、ほとんど目が見えなくなってしまった。光と音だけの世界は怖いのだろう。散歩も嫌がるようになり、今では気分転換にと学校帰りの私が抱きかかえて十五分ほど町内を歩くだけになっている。インスリンの量は、三日に一度病院に行く度に増えていった。

「インスリンの効きが少し悪い子なのかもしれませんね。ちょうどいい量が見つかるまでは通院を続けていただいて、量も増やしていきましょう」

 インスリンの量がまた増えると聞いて眉根を寄せた父に、お医者さんはそう言っていた。〝少し〟というのは本当に少しなんですか。それとも慰めに付け足した意味のない一言ですか。そんな言葉が喉を駆け上ったが、愛犬の未来を心配する父の前で言えるわけもない。病院の待合室の独特な空気が嫌いなのか、クルミは病院に行くたびに悲痛な声で鳴く。待合室のぐったりした様子の犬猫を見ていると、こちらまで重苦しい気分になった。

 最初の診断から三週間。クルミはもうボロボロの様に見えた。一日二回のインスリン注射と目の炎症を抑える目薬が二本。目が見えないまま歩き回って怪我をしてしまった足の消毒と鎮痛剤。あれもこれもと投与されている彼女の体は、もはや人によって〝生かされている〟ようにしか見えなかった。

「ねえ、クルミ。クルミはしんどくない? お薬いっぱい飲まされてさ、苦しくない? あなたとまだ生きていきたいのは、私たちのエゴなのかな」

 丸くなってひなたぼっこをしている栗色の背中を撫でる。彼女は何も答えない。包帯の巻かれた右足をつつくと、顔は上がらず足だけが引っ込んだ。彼女の顔を覗き込む。その目に目ヤニがついているのに気がついて、ティッシュをとってこようと立ち上がった。私の動きにつられるようにクルミの顔が私の方を向く。しかし、その目は閉じられたままだ。彼女は最近、目を開かない日が増えてきた。もしかしたらもう光も分からなくなっているのかもしれない。真っ暗闇の中、自分が目を開いているのか閉じているのかさえ分からないのかもしれない。そんなことを考えてしばらくクルミを見つめていると、彼女は急に立ち上がり、鼻先を上に向けて「くうん、くうん」と鳴き始めた。

「どうしたの、クゥちゃん。私はここにいるよ」

 頭を撫でると彼女は尻尾を振って私の手にすり寄ってくる。私が動く音がしなかったから私の場所を見失って不安になってしまったのだろう。健気な飼い犬のその姿は痛々しく、可哀想に見えた。水を含ませたティッシュを持って戻ってくると、クルミは座ってこちらに顔を向けていた。鼻をヒクヒクさせて私が近くに来るのをじっと待っている。彼女が顔を背けてしまわないようにそっと手を添えて、彼女の目元を拭ってやる。あらかた綺麗になり、彼女から離れると彼女はゆっくり目を開いた。大量の目ヤニで目がくっついてしまっていたようだった。しかし彼女の開いたまぶたから覗いた目は白く濁って、私の左肩あたりを見つめていた。

「クゥちゃんはどこ見てるの」

 体をつついて小さく呟くと彼女の目が動く。だが、それでも目は合わない。

病気になる以前の、家に帰ってきた私に飛びついて抱っこをせがんで見上げてきたくりくりの目を思い出して、鼻の奥がツンとする。

 ふと思った。

 クルミを、安楽死させてあげようか。


 それから、私は犬の安楽死について考えてみた。安楽死とは言っても、病院で薬を打ってもらうわけではない。ただ、治療をやめた方が良いのではないかと思ったのだ。目薬や鎮痛剤は痛みを軽減させるために仕方ないとして、インスリンだけでもやめて、好きなものを好きなだけ食べさせてあげて、それで死なせてあげたほうがいいのではないか。延命治療なんて彼女は望んでいなくて、ただ苦痛が違うベクトルに変わっただけなのではないか。そう思うようになっていた。今までずっと、クルミとは心で繋がっているだなんて考えていた。私が小学校の時にうちに迎えてからずっと一緒に育ってきて、彼女の鳴き方で何を求めているかは大抵分かるし、私の心も彼女に伝わっていると思っていた。でも今は、考えれば考えるほど彼女の心が分からなくなっていく。ドリップコーヒーみたいに一滴、また一滴と自分の心に黒い感情が溜まって広がっていく。

 悩んだ末、私は父に相談することにした。

「パパ、ちょっと相談があるの」

 ある休日、ソファでテレビを見ていた父にそう声をかけた。父は私がいつもと違う様子だと気づいたのか、「分かった」とだけ言って私をドライブに連れだしてくれた。近所の喫茶店チェーンで飲み物をテイクアウトして、どこへ行くともなく車を走らせた。

「クゥちゃんのこと、パパはどう思う?」

「クルミ? ……どう、とは? 真由子はどういうことを聞きたいんだ?」

 私は少し考えてから、キャラメルラテを一口飲んで深く息を吸った。無意識のうちに緊張していたのか、鼓動のペースは速く、指先は冷たくなっている。息を吐く。

「私は……クルミを殺してあげた方がいいんじゃないかと思う」

 赤信号に引っかかり、車が止まる。父が私の方を向いた気がしたが、私は父を見ることができなかった。うつむいて、飲む気もないのにまたストローに口をつける。そのまま先端をかじって車が動き出すのを待った。何かを飲む気分ではないのに、ひどく喉が渇いた。

「……なんでそう思ったんだ?」

 父は否定も肯定もせず、ただいつもの調子でそう尋ねた。怒ってはいなさそうだ。不謹慎なことを言うなと怒られるかもしれないな、なんて考えていた私はその声を聞いて安堵した。

「最近、私にはクゥちゃんが可哀想に思えるの。あれもこれも薬を打たれて、好きなおやつもおいしいご飯も食べられなくなって、目も見えなくなっちゃってさ。それならいっそ、インスリンを打つのをやめて、満足するまで好きなものを食べられるのが、一番の幸せじゃないのかなって。……延命治療は、ずっと一緒にいたいって思うのは、私たちのわがままなんじゃないのかな」

 父はしばらく黙っていた。私も何も言うことができなかった。社内が静まりかえって、外の音がはっきり聞こえる。道を歩く人々を追い越して、どんどん車は進んでいく。散歩をする犬を見る度にそれがどんな大きさでも、何色でも、犬種が何であってもついクルミを連想してしまう。じわ、と少しだけ涙が出てきて、私はあくびをするフリをして袖で涙を拭った。けたたましいサイレンを鳴らす救急車とすれ違う。そのサイレンも次第に遠ざかっていく。

「パパは、クルミの治療を続けてやりたいと思ってる」

 父はしばらく考えてそう言った。やはり私の考えは間違っていたのだろうか。どちらが正しいという確証も根拠も得られず、私はただ黙り込むしかできない。父が小さく笑う声が聞こえた。

「どちらも正しい考え方だと思う。ただ……クルミは死んだほうがマシだと思ってるんだろうか。パパや真由子が帰ってきたときの様子はどうだったかな。おはようって声をかけて背中を撫でてやったときの様子は? 一度、クルミをよく観察してみなさい」

 私には父の言いたいことが分からなかった。それもやはり、私がまだ子供だからなのだろうか。焦りのような、さみしさのような、言いようのない想いを胸に抱え、腑に落ちないまま私は返事をした。父はまた小さく笑った。


 父とクルミについての話をした数日後。春休みだというのに特に予定もいれず、私はクルミを眺めていた。彼女はお気に入りの犬用ソファの上で昼寝をしている。起きて彼女の隣に座ったときは膝の上に乗ってきたり撫でろと言わんばかりに私の手をたたいたりしていたが、しばらくすると飽きたのか疲れたのか、ソファに丸まった。そっと顔を覗き込む。ぴく、と耳が動いたから起きてはいるのだろう。彼女の顔を覗き込むが、目は閉ざされている。

「クルミ」

 名前を呼ぶと尻尾だけがパタパタと動いた。体を撫でてやるとごろんと彼女は仰向きになった。足を伸ばして大きく欠伸をする。その仕草は以前となんら変わらない。うれしくなって笑いをこぼすと、ゆっくり彼女の目が開いた。濁った目。相変わらず焦点はあわない。それでも彼女が目を開けるという選択をしてくれたことが嬉しかった。のそのそと起き上がって、彼女はしゃがんでいた私の膝の上に飛び乗った。驚いた、ここ数日小さな段差すら飛べなくなっていたのに。

「クゥちゃんおやつ食べよっか」

 そういうと彼女は私の顔にすり寄ってくる。お医者さんも少しなら良いと言っていたし、あとで両親に今日はもう与えないように言っておけば良いだろう。

「おやつ取ってくるね」

 そう言って彼女を膝から下ろす。ソファーに乗せるが、おやつが嬉しいのか彼女はたったままこちらを向いて尻尾を振っていた。キッチンに行って、おやつの入った棚の戸を開ける。

 すると、後ろからカチャカチャと音がした。ワン! と甲高い声が背中を叩いた。驚いて振り返るとクルミがいる。

「クゥちゃん歩いてこれたの? 偉いねえ」

 おやつの瓶を開ける音に彼女はちぎれんばかりに尻尾を振って、私の太ももに手をついて棒のように細い二本足で立ち上がった。早く、という風に彼女が二回吠える。彼女が立つのを見たのは数ヶ月ぶりだが、その姿は病気になる前の彼女とまったく同じだった。呆気にとられ、何も考えないまま彼女に犬用ボーロを差し出す。手に乗せた分を一気に食べきった彼女は、おかわりを催促するように膝に乗り上げてきて私の口周りをペロペロと舐める。

 気がつけば私は泣いていた。次から次へと涙が溢れて止まらなかった。彼女の病気が発覚してから数ヶ月。初めて彼女の生を実感できた気がした。初めて彼女の病気を受け止められた気がした。私の友人はこんなにも健気に生きていたのだ。

「ごめんね、クルミ……」

 思わず彼女を抱きしめると、耳元で短い呻きが聞こえる。ごめんね、ごめんねと私は何度も繰り返した。彼女に伝わらなかったとしても、どうしても謝らずにはいられなかった。謝らなければいけなかった。彼女はこんなにも必死に生きていたのに、私は全く彼女を見ていなかったのだ。自分の気持ちの整理で精一杯になっていて、ずっと気づかずにいた。

 クルミは私の塩味の頬を舐めた。やはり彼女の目はどこか変なところを向いており、視線は交わらない。でも彼女は私を見ている。私がここにいることを知っていて、私をまっすぐ見つめている。光しか見えない真珠のような双眸で私を捉えている。見えていないのは私だった。見つめ合えないのはずっと私のせいだった。

「生きててくれたんだね。こんなに、頑張って。……ありがとう、クルミ」

 クルミは首をかしげて鼻を鳴らした。何をしているんだとでも言いたげに足踏みをする。その肉球の温かさが、いつの間にか伸びていた爪の小さな痛みが嬉しくて仕方がない。

 早くこの愛おしさを母に、そしてこれに気づかせてくれた父に伝えたい。両親が帰ってくるまで数時間。私は低糖質のおやつでも探してあげようとパソコンを開いた。検索フォームの履歴やブックマークをすべて消す。もう彼女には、私には必要のないものだった。










  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

盲目のユーサネイジア 月上みかげ @pbsun25

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ