第3話  BAND結成!

高校に入学したら、この暗い性格を明るくしたいという願望があった。

この新たなる希望の場所で、自分の学生生活をまたもや中学と同じくバスケットボール一色にする訳にはいかない。


__小さい頃から「歌手」にも憧れがあった俺は考えてみた。


そうだ!歌手になろう!その為にはバンドだ!メンバーを集めるんだ!

そう思った俺は、とにかく色んな友達に声を掛けまくる。


「俺、楽器出来ないし、そもそも楽器も持ってないよ。」

と言われれば、「楽器を買って今からやろうよ。絶対にモテるよ!」

と、ごまかしてメンバーに無理やり入れる。

そして学校の中でも一番人気の男友達も仲間に入れた。

バンドでライブをする際に、集客が見込める男は必要だ。

そんなイケメンである彼の力も借りるに越した事はない。

動き回ったお陰で、すぐに部活動と並行してバンドを組む事に成功。

男5人組のバンド。バンド名は恥ずかしくて言えないが。とにかく爽やかな名前だった。柑橘系の香りさえ漂うような爽やかなバンドだ。

バンド内での自分のパートは、ボーカル、そして時々ギターをする。

その後分かった事だが、カッコつけで始めたギターは俺には向いていなかったみたいだ。不器用なのかもしれないとこの時に痛感する。指は痛いし、音色が汚い。

とにかくミスピッキングばかりだ。

その為、ギターは諦めて何故かダンスを覚える事に。


そうだ!踊りながら歌うんだと思い、当時流行り始めの”ブレイクダンス”をしている友達の踊りに衝撃を受け、友達から習いつつも、自分でもビデオ等を海外から入手して毎日練習をやる事にした。その結果、少しだが、ダンスを踊れるようになった。


高校のバンド時代は、自分の目指す所は”吉川晃司”大先生だった。

吉川晃司大先生の曲のカバーをやりながら、自分のバンドのオリジナル曲も作ったりと精力的に活動した。

バンドのライブでは腰を前後に振り吉川ダンスも披露した。

残念ながら体は硬く、吉川晃司のライブでいつも本人がやる、”シンバルキック”は全然出来なかった。寧ろそれをやれば無様な姿を晒す事に。

勿論、バンド、ダンスと並行して、部活もバイトも頑張ったりと、かなり多忙な高校生活となった。


このバンド結成、そしてブレイクダンスのお陰で、人前に立つ事が出来るようになってきた俺は、この頃から少しずつ性格も変わりつつあったが、人の根本はそう簡単には変わらないと今は感じる。

とりあえずこの頃は、若干だが人見知りからの脱却が出来た気がしていた。


その楽しい生活とは裏腹に、更に父親の事業が下降気味になっていく。

元々、高校時代はお小遣いも「0」だった。

だが、小遣いが無い事を不安がるよりも寧ろ喜んでいる俺がいた。

親にはお小遣いはいらないからアルバイトをすると言って堂々とアルバイトをやり、お金を自分で稼ぐ事の楽しさを早くから知る事が出来た。

バイト代は専ら、部費、部活のジャージ、学校の追加で払う教材、私服そして交際費、残りは今後の為の貯金となった。

もちろん、そんな状況は親も友達も先生も誰も知らない。その時は人には言いたくなかった。そんな生活から、友達との遊びの時間は取れるわけがなくなった。

日々、授業、部活、バンド、アルバイト、ダンスの暮らし。時給520円のアルバイトだったからとにかく働いた。時間があればバイト。週末の試合後もバイト。夏休みなんかは空いてれば朝からバイト。とにかくアルバイトをしまくった。

その間にせっせとバンドの練習をする。区民会館などで音楽室を借りると非常に安く借りられた。

今考えても、かなりの種類のアルバイトをやり、その合間にバンドも頑張った。

そんな中、バスケ部の友達からこんな事を言われる。


「タカヒロ、付き合い悪すぎだろ。部活後にお茶とかまるっきり来ないじゃないか。」


いや、そもそもバスケをやるつもりもなかったし、更には背の高い選手が俺以外いないからやめられない状況。遠征費も稼がないといけない。何言ってるんだと思った。


「何かあれば何でも言えよ。助けられるかもしれないだろ!」

と、食い下がってくるバスケ部メンバー。


仕方なく今まで言わなかった事を口にする羽目に。


「俺んとこ、お金ないからお前らと違ってバイトして支払いしないといけないんだよ。お前らが決めたジャージ代も俺がバイト代から払ってんだよ!お前ら払ってくれるのか?」


全員が無口になり、俺はそのままバイトへ向かう。

それ以来、誰も俺を誘わなくなった。有難い事だ。

でも、勘違いはしないでもらいたい。

俺はお金が無い青春時代を悲しんだ事も無い。寧ろ有難かった。早くから100円の有難みを知れたから今でも親には感謝している。


高2になるとそろそろ進路を考えなくてはいけない。

自分の中では「歌手」になるつもりだったが、万が一なれなかったら?という想いから友人が話していた事が耳に入る。

「俺は実家も美容室だから美容学校に行くんだ。」という事。

しかも、仲の良かった友達二人が揃って実家が美容室。

こんな偶然は滅多にない!という事で、俺もこの考えに乗っかる事に。

授業料などを計算すれば何とかアルバイト代で行ける事が判明。

もちろん、ぎりぎりの生活しか出来ない感じだったがそのギリギリ感がたまらない。

当時の美容学校は1年間通ってその後1年間美容院でインターンをする。そして免許を取る為の試験を受ける。

その1年間の学費が100万円だった。月に換算すると大体83400円。

バイトを頑張れば払えない金額ではない。

そして車の免許も、専門学校に入る前に取っておかないと取れなくなりそうだったのでその資金も確保しなくてはならなかった。

部活をやりながら貯めた18万円で高3の誕生日前から一括払いをして車の教習所に通う。朝、授業の始まる前に教習所に寄って講習を受けた後に学校に行く。

そして仮免を18歳の誕生日の日に取る。

(※仮免は18歳にならないと取れない為、最短で仮免を取った事になる)

「こみこみパック」という少し割安プランだった為、一つでも試験を落とすと追加料金が掛かるから必死だった。そして、最後の免許取得も何も単位を落とす事なく18万ぴったりで見事パス。


3年間やっていた電気屋さんのアルバイトでは高校生ながら、名刺を持ち、顧客も付いていた。その頃から「売る事」には自信があった。配送も免許取得後は自分が運転しして行く事も。今の時代なら絶対にダメかもしれない。商品の取り付けまで簡単なモノなら、なんでもやれるようになり、すっかり電気屋のオジサンみたいになっていた。

その頃ついたあだ名は「マダムキラー」

年配のお客様が来店したらほとんど購入してもらっていた。

「あなた、可愛いわね!」

と、言われた後は決まってお店のショッピングバックを片手にお客さんがお店を後にする。


高3最後の試合に敗退後はバスケもしなくなる。やっと自由な時間を手に入れた。

バイトはこれで終わりではない。寧ろ始まりだ。色んなお金を貯めなくてはならない。そして、俺は電気屋さん以外でも暇があれば隙間時間に出来るアルバイトをする事に。ティッシュ配り、引っ越し屋さん、洋服屋さん・・・。土方。

なぜか飲食業は選ばなかった。その頃から接客業を選んでいたんだと思う。


そんな中、父の事業が今まで以上にどんどん下降線を辿る。逆の意味でこれがチャンスだと思い、高3になった頃に親に提案してみる。


「練馬に一人で住む祖母が心配だから一緒に住んであげたいと思う。それに、俺は大食いだからこの家の食べ物を沢山食べる事で家計にも迷惑かけている。だからここを出て、とりあえず祖母の面倒を見ながら食事は自分で賄うつもり。ご飯の事は祖母には頼むつもりはないから安心して。」


自分で言うのもなんだが、かなりの偽善者な気分になったのを覚えている。

簡単に言えば、


「家を早く出たい」為に「祖母」を利用する。


しかしこの行為が世間からは「優しいタカヒロ君」になってしまう。

幼少期から長い年月を掛け説得し、家から出るのを高3の春にゲット。

高校卒業式の数か月前から、念願の飛び出し生活が始まるのであった。

最高の喜びはお金には繋がらない・・・。

その時代が教えてくれた最高の「学び」だった。

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