歩くウイルス

 国境基地での戦いから一年が過ぎた。条約の恩恵を受けて、多くのモグロボ国民はノストワへ一時的に移住していた。しかし最近は抗ウイルス薬の開発に伴って、モグロボへ帰国する人が増えている。


 モグロボはノストワの支援を受けながら、主要都市をはじめとして生活基盤の復興に勤しんでいる。食糧自給率が壊滅的に陥ったため、大量の食料品が国境を越えて運ばれてきた。また、感染対策に必要なマスクや消毒薬などの物資も輸入され、少しずつ民間人の手に渡っていった。


 マルテは国の南部に位置しているため、国境のある北部へ向かっていた人による荒らしの被害は少なかった。今では役所や病院などの公共施設が半数近く再稼働し、職業斡旋所や学校にも人が戻りつつあった。大きな警察署も配置され、暴力団絡みの事件は珍しくなった。




 サンドラの病院は以前よりも敷地が広くなり、新しく大きな施設も建てられた。多くの優秀な医師が集まり、サンドラを中心に抗ウイルス薬の研究開発を進めるためだった。


 感染者により症状が異なるため、完成した治療薬が有効な感染者から順に病院へ足を運んだ。オレグは九ヵ月前、ニーナは四ヵ月前に投与している。




 そして今日、ミカイルの番が来た。




 ミカイルはサンドラの病院の待合室に座っていた。予定の時間は午後三時だったが、もう四時を過ぎようとしている。周りには多くの人が座っていた。予約している感染者だけではなく、一般の外来や急患もいるはずだ。予定がずれ込むのも無理はない。


 それでもミカイルは待ち時間が長いと感じなかった。自分の症状が治るという期待と、本当に大人へと成長する体に戻るのかという不安の間を、ずっと行ったり来たりしているからだった。


 もう体は七歳の頃まで小さくなってしまっている。今は再び中学に通っているが、かつての不良や同級生はからかってこない。それがミカイルの活躍を知っているからなのか、からかえないほど症状が顕著であるからなのかは分からなかった。




「ミカイルさん、どうぞ」




 受付から看護師が声を掛けてきた。ミカイルはゆっくりと席を立ち、最上階の奥の診察室に向かった。表札には「病院長 ウイルス研究所長 室」と肩書が横並びで書いてある。




「ミカイル……」




 サンドラは治療してあげられる喜びと、体が想像以上に小さくなってしまった悲しみで、涙を浮かべ複雑な表情でミカイルを見つめた。ミカイルはそれに小さな笑顔で返した。




「いやー、やっとこの日が来たな。もう待ちくたびれたぜ」




 ミカイルはわざと大きな声で言いながら、患者用の丸い椅子にドカッと座った。




「はいはい、ごめんなさいね。お待たせしました」




 少し調子を取り戻したサンドラは、看護師に運ばれた抗ウイルス薬のラベルと、カルテの内容を真剣な眼差しで確認し始めた。


 ミカイルがちらっと目をやる。難しい言葉が並んでいてさっぱり分からないが、薬の種類や効能が記載されているのだと思った。




「元気にしてた?」




 サンドラは聞きながら、ミカイルの体に聴診器を当て始めた。あまり眠れていないのか、目の下にクマがある。




「あぁ。この前仕事も見つかったんだ。学校は相変わらず。まぁ、俺に茶々いれてくる奴はいなくなったかな」


「それは良かったわ。じゃあケンカの治療費も掛からないし、ツケはすぐ返してもらえそうね」


「げ……、忘れてた」




 ミカイルが目を点にすると、サンドラがくすくすと笑った。




「先生はずっと忙しそうだな」とミカイルが話題を変える。


「仕方がないわ。まだ感染した人はたくさん残ってるから。でも、タチアナのおかげでずいぶん研究がはかどってるのよ」




 タチアナは警察に監視されながら、病院の隣の施設で薬の研究に協力しているらしい。全ての感染者へ薬が届けられた後、懲役十年が予定されている。




「研究が終わったら刑務所に行くのに、あの子ったら国境基地にいた時よりも元気なの。研究にも協力的だし。あなたが必死に『タチアナは悪くない』って庇ってくれたからなのかもね」




 本来は無期懲役のはずだった。これを聞いたミカイルは、タチアナが暴力団から抜け出して保護を求めたにも関わらず、警察は取り合ってくれなかったことを政府へ訴えた。それによって情状酌量されたらしく、治療薬の研究開発に協力することを条件として、刑が軽くなった。


 それでも十年だ。出所する頃には、三十歳を過ぎる。まだその半分しか生きていないミカイルには、遥かに遠い未来のように思えた。




「ボレルの感染ナントカ施設にも届いたのか?」


「感染者隔離施設。全員分じゃないけど、薬が効く患者さんには発送されているわ。でも、まだ開発しなきゃいけない薬がたくさんある。あちこちで色んな症例があるから。ボレルだけじゃない、隣のラギーナとか他の地域の病院や施設にも、たくさん届けなきゃ」




 ミカイルは配給所にいたおばさんを思い出した。配給所は再開しているが、その係の人はほとんどが入れ替わっていた。ボレルで偶然遭遇した時はひどい症状に見えたが、無事に投与できたのだろうか。


 やがて綺麗なエメラルド色をした薬が注射器に入れられ、鋭い先端からピュッと雫が噴き出した。




「さぁ、左腕の袖を捲って。肘をこっちに向けて力を抜いて。痛いけど、すぐに終わるから我慢してね」


「ガキ扱いすんじゃねーよ」




 サンドラは悪戯っぽく舌を出した後、顔をほころばせてミカイルを見つめた。




「……こんなこと言ったら悪いけど、なんか懐かしい」


「ん?」


「初めて出会った頃と、今のあなたが一緒だから」




 サンドラが暴力団のアジトに連れてこられたのは、ミカイルが七歳の時だった。今はちょうど、その頃と同じような体型まで戻ってしまっているということだ。




「……あん時みたいに、また先生に借りができちゃうな」


「今回は違う。あなたが私たちを助けたのよ」




 サンドラはゆっくりと息を吐きながら、アルコールで湿らせた綿で血管の脈をなぞった。すぅっと冷たくなった皮膚に、注射針が当てられる。




「いくわよ」


「おう」




 注射器が刺さり、チクッと痛みが走った。液体が注入され、注射器がエメラルド色から元の透明に変わっていく。完成に一年掛かった薬は、僅か五秒で体に吸い込まれていった。役目を終えた注射器の針がゆっくりと抜かれ、銀色のトレイにカランと音を立てながら置かれた。




「刺したところに貼るテープは、一時間経ったら剥がして大丈夫。もし気分が悪くなったり、体の調子がおかしいと思ったら、すぐに知らせてね。一週間経ったら、マスクなしで外に出ていいから」


「分かった」


「あと、症状がきちんと治ってるか様子を診るから、一ヵ月くらいしたらまた来るのよ」




 サンドラが注射器の片づけやカルテの記入をしている間、ミカイルはデスクに置いてある写真を見つめた。当時の夫と息子に挟まれ、サンドラが笑っている。以前ペンダントに入れていた写真と同じだ。もっと感染が遅ければ、治療薬の開発が間に合っていたかもしれない。そう考えていると、サンドラの視線に気がついた。ミカイルはつらい過去を思い出させてしまったと後悔した。




「たくさんの患者さんが投与する様子を見てもらいたいと思って、飾ってるの。それに、ミカイルを助けてあげられるんだから、もう胸元に閉まうのはやめようと思って。なんとなくね」




 ミカイルは少年の目を見つめた。生きていれば自分と同い年だ。ウイルスに感染しなければ、同じ学校に通い、同じ授業を受けていたかもしれない。もしかしたら同じ職場で働き、同じ店でしゃべりながらご飯を食べていたかもしれない。


 ミカイルはしばらく考えた後、少し顔を赤らめて言った。




「……サンドラ母ちゃん。ありがとう」




 サンドラは目を丸くして、ゆっくりとミカイルの方を向いた。だんだんと頬が朱に染まり、口元が小さく震える。椅子から離れて膝を床につき、涙の伝う頬をミカイルの顔に重ねた。小さな体を両腕で力強く抱きしめる。それは亡くなった時の息子と、そして出会った時のミカイルと、同じ大きさだった。






* * * * * * * * * * * *






 ミカイルは病院を後にして、学校へ向かった。


 今日はニーナが所属するサッカー部の試合だった。比較的被害の少なかったマルテに各地の代表チームが集まり、トーナメント戦が行われている。学校そのものの復旧が遅れている地区も多いらしく、全国大会にも関わらず、集まったのは僅か八チームだった。しかし勝ち抜いたチームのメンバーには、名門高校へのスポーツ推薦の権利が与えられる。参加するチームは何とか練習場所を確保して、特訓に励んでいたらしい。


 学校に着く頃には、日が落ちかけていた。夕焼けに染まったグラウンドを覗いてみると、「ありがとうございました!」と選手たちが挨拶をしていた。ちょうど試合が終わったようだ。ミカイルは校門でニーナを待つことにした。




「お疲れ」


「ミカイル! あたしの会心のゴール見た?」


「わりぃ、病院の待ち時間が長くて遅くなった」


「なにそれ~。来週の決勝戦は見てよね」


「ってことは、今日も勝ったんだな」


「あったり前でしょ! 五対一で圧勝!」




 ニーナは得意げに、右手の人差し指と薬指を立ててピースをした。以前なくなっていた親指と中指は半分くらい伸びている。薬を投与して、無事に症状が回復してきているらしい。未だに小指は生えてこないが、ニーナはあまり気にしていないようだった。ミカイルはそのピースにハイタッチで返した。


 二人は試合結果を報告するために、孤児院へ向かって歩き出した。




「次が決勝か」


「うん。メンバーも気合入ってるよ」




 すると後ろの方から「ニーナ! 明日の練習、八時からね!」と声がした。同じチームのメンバーらしい。ニーナは「了解! おつかれー」と振り返ってバッグを大きく振り回した。




「仲良いんだな」


「え? あぁ、まぁね。先輩とはどっちが上手いかって、いがみ合ったりするけど」とニーナは少し照れくさそうにして、再び歩きだした。




 学校が再開した後、ニーナは以前殴ってしまった先輩と顧問の先生に謝りに行った。先輩はニーナの入部を嫌がったが、顧問が三ヵ月の仮入部期間を設けてくれた。


 指や孤児院のことはからかわれなかったものの、初めのうちはメンバーとプレーの息が合わず、しょっちゅう野次を飛ばされた。強靭な脚力があっても、チームプレーができなければ試合では勝てない。ニーナは素直に自分の欠点を認め、毎日練習に励んだ。


 三ヵ月後に正式な入部が決まり、徐々にメンバーとも気兼ねなく話せるようになっていった。今では、因縁の先輩とエースの座を争うまでに成長している。もう脚の力は一般成人男性くらいに落ちていた。しかし一年前に活躍したその力は、今のニーナには必要のないものだった。




「ニーナ! 試合見たよ! ナイスゴール、おめでとう!」




 自転車に乗ったオレグが遠くから手を振っていた。夕日が差し込み、小型のヘッドホンがキラリと光る。異常な聴覚が元に戻りつつあり、今では小さなヘッドホンで十分に音を抑えられた。痛み止めの薬も、最近は量が減ったらしい。




「サンキュー! 仕事の日なのに試合見てくれたの?」


「うん、父さんに許可もらって。でもこれから夜まで配達なんだ」とオレグはサドルの後ろの荷台を指差した。宅配用の弁当が紐で括られ、高々と積み上がっている。




 マルテに戻った後、ゴランはオレグの薬代と街の復興のため、需要の高い土木工事の仕事に精を出した。そしてオレグが抗ウイルス薬を投与した後、ゴランは貯めたお金を資金にして飲食店を再開した。ゴランが感染していないことが証明され、オレグも薬を投与したことで、かつての飲食店のウイルスに関する誤解は払拭されていった。


 飲食店の客足が伸びて忙しくなった頃、オレグはゴランの仕事を手伝うようになった。朝は市場で食材の買い出し。昼は通学。そして夕方からは、今のように弁当の宅配をしていることが多い。




「決勝戦に勝ったら、うちを貸し切って盛大にお祝いしよう」


「じゃあ孤児院のみんなも連れて行くから、美味しい料理たくさん用意しておいてね!」


「言うねぇ。父さんに伝えておくよ」


「あ、あと『今週のお弁当も美味しかった』ってソーニャ先生が言ってた。いつもありがとうって伝えて!」


「まいど! じゃあまたね!」とオレグは自転車をこぎ始め、道の角を曲がって姿が見えなくなった。




 孤児院は僅かながらも国の補助金を受け取れるようになり、近所の人を雇い始めた。そしてゴランの心意気で、格安の弁当が配られるようになった。ソーニャは余った時間とお金を使って少しずつ孤児院を大きくし、他の地区の孤児も救おうとしている。二ヵ月前からは、ボレルで出会ったクルトもソーニャの孤児院に入っていた。




「ソーニャ先生も忙しそうだな」


「色んな地区を回ってるみたい。今日も試合の始めは観ててくれたんだけど、打ち合わせがあるから途中でラギーナに出かけたよ」


「孤児院は留守なのか?」


「雇った人が見てくれてるから大丈夫。あたしもサッカーに専念できるようになったし。これから世界の大会で勝ちまくって、賞金もらうんだ。そしたらソーニャ先生に恩返しができる。あ、あとゴランのおじさんにも、お弁当のお礼をしないと」




 ミカイルはソーニャが『ニーナを孤児院に縛りつけてしまっている』と心配していたことを思い出した。ニーナがソーニャのジレンマに気がついていたかは分からないが、人を雇えたおかげでそれも解消されたようだった。




「だから、来週も絶対に勝つ!」とニーナは肩に掛けているバッグを叩いた。


「相変わらず、そのボール持ってるんだな」




 ニーナは破けたボールを肌身離さず持ち歩いていた。マルテから国境までずっと一緒に旅をして、最後はレヴォリの首を折って破裂した、あのボールだった。




「……大切なお守りだから」とニーナは優しくバッグを撫でる。


「そんなでっかいお守り、見たことないな」




 ミカイルは国境に向かう途中や基地での戦いで、ニーナが蹴ったそのボールに何度も救われたことを思い出した。




「だから御利益ありそうでしょ」とニーナが笑顔をはじかせた。




 ビル工事の金属音があちこちで響いている。夕日が再建中の建物を照らし、道に長い格子状の影を作っていた。




「薬もらいに行ったんでしょ? どうだった?」


「注射打ってすぐ終わった。今んとこ変わりはないな」


「そっか。これからやりたい事とかあるの? あたしたち、もうすぐ中学卒業だよ」




 ミカイルは戦いの後、政府から度胸を買われたのか、将来は軍隊に入らないかと勧誘された。そしてマルテに戻ると、今まで経験したことのない様々な仕事に就いた。土木工事や食料の運搬、赤ん坊の世話やお年寄りの介護までこなしてきた。今では、サンドラに勉強して医者になることを勧められている。


 ニーナに出会う前まで、自分の将来を考えたことはほとんどなかった。今でも、何が自分に向いているのか、何をしたいのかよく分からなかった。




「まぁどうするにせよ、まずは体を大きくしないとね。一応男なんだから、少なくともあたしより」とニーナが悪戯っぽく笑い、ミカイルの頭をポンポン叩いた。




 ミカイルが俯きながら黙っていると、ニーナが「ちょっと? ごめん、冗談だよ?」と心配そうに顔を覗き込む。




「小さくたって、できるぞ」


「ん? なにを?」とニーナがきょとんとする。


「ニーナの彼氏」




 立ち止まったニーナの肩から、ずるりとバッグが落ちた。それを素早く両手で抱え、赤くなった顔を隠した。




「はぁ? なに言ってんの……。い、意味不明……」とニーナはか細い声を漏らしながら、もじもじと後ずさりする。




 それを見てミカイルも赤面し、ポケットに突っ込んでそっぽを向いた。




「……になりたいって奴がいたら、ぶっ飛ばしてやるよ。俺より弱っちいなら、男勝りのニーナの尻に敷かれ……」




 ゴスッと鈍い音を立てて、ニーナのかかと落としがミカイルの脳天を直撃した。ミカイルは両手で頭を押さえながら走り始める。




「痛ぇな馬鹿力! それが男勝りだってんだよ! 今のはガキ扱いしたお返しだ!」


「うるさいバカイル! 誰があんたみたいなチビガキなんか! 待てぇっ!」




 バッグを振り回し追いかけてくるニーナから逃げながら、ミカイルは思った。




 これからどうするかなんて、すぐには決められない。




 もしかしたら、大人の体には完全に成長しないかもしれない。検問所や国境基地で味わった絶望より、大きな壁にぶつかるかもしれない。




 そして、そんな時こそ忘れない。みんなが自分のそばにいてくれて、自分もみんなのために生きていることを。

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