訴えるウイルス

 荷台には、たくさんの食料が詰め込まれた袋と、台車が置かれていた。トラックは二十年も使っている古い代物だが、ゴランの丁寧な整備のおかげで、埃っぽさは全くない。天井の四隅の電球が鈍い光を放ち、三人と荷物を照らしている。


 ゴランが車のラジオのスイッチを入れた。そしてつまみを回して、国営のチャンネルに切り替える。




「お前ら、よく聞いてろよ。毎日この時間に、政府の会見が放送されるぞ。外国との関係や、ウイルス対策の進み具合とかな。もしかしたら、政府に協力させてもらうための、ヒントが見つかるかもしれねぇ」




 三人は荷台の運転席側に寄り、高い位置にある格子窓に耳を傾けた。ちょうど運転席の背後の窓が割れており、ラジオの音も耳に届いた。


 係が会見の進行を仕切りつつ、政府の役人が報道陣の質問に答えている。記者の声には、少し訛が混じっていた。どうやら、ノストワや他の国の記者が質問しているらしい。モグロボが国境を接しているのはノストワだけだ。つまり他国の記者は、ノストワを渡ってモグロボに入国していることになる。


 一方、モグロボの記者はいないようだった。彼らも国境を越える必要があり、社員が散り散りになった放送会社で働いている場合ではないのかもしれない。




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「えー……。我がモグロボ国はこれまでも、ノストワ国に軍の派遣を要請しております。しかしながら、現状はノストワ国も経済的な観点から、対応が難しいと回答をいただいております」


「すみません、本当に経済的な事情が理由なのでしょうか? 援軍を送ることができない、何か別の背景はないのでしょうか?」


「いえ、ですから……」




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 記者の鋭い質問に対し、役人はまごまごした様子で答えていた。




「なぁ? レヴォリとか他の感染者が国境を越えちまったら、困るのはノストワだろ? だったら協力してくれたっていいじゃんか」とミカイルが口を尖らせた。


「確かにな。だが、この役人の言い草だと、何か事情がありそうな感じだ。最悪、援軍は派遣されないかもな」とゴランが答えた。


「そんな……。それで感染が広がったら、困るのはノストワや他の国なのに……」とオレグが呟いた。




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「すみません、最近噂になっている殺人鬼について、政府や軍が把握されていることを教えてください」




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 話がレヴォリの件に変わった。役人の代わりに、軍の役職者らしき人が回答し始める。その軍人もひたすら「殺人鬼」という表現を使っていた。やはり、未だに名前さえ把握できていないらしい。


 レヴォリは既に要塞門を抜け、その先の国境基地と間の付近にいると推測されている。点々と移動しているようで、居場所は特定できていない。たまに、食べられた軍人や民間人の死体が発見され、そこから動きを推測しているようだった。




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「我が軍は、全力を持って捜査にあたり、殺人鬼を捕らえ始末します」


「今後の具体的な作戦はあるのでしょうか? 話を聞いていると、殺人鬼にひたすら逃げられ続けているようですが?」


「この付近は、軍の数が少ない場所なのです。ですが、国境基地には大勢の軍隊が待機しています。詳細な作戦は申し上げられませんが、そこで一網打尽にします」


「殺人鬼の目的は何なのでしょうか? もし国境を越えることが目的であれば、ノストワはもちろん、世界にも危険が及ぶ可能性があります。現に殺人鬼が貴国の要塞門を突破した際、危機を察知したノストワが、門の閉鎖を要請しています。その点について、見解をお聞かせください」


「はい、つまりですね……」




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 報道陣の質問攻めに遭い、軍人も慎重に言葉を選んでいるようだった。




「国境基地で一網打尽だってよ」とミカイルが言った。


「本当かな……、ちゃんと作戦があるならいいけど」とオレグが不安を漏らす。


「こればっかりは分からんな。それに殺人鬼……、レヴォリだっけか? そいつの力も未知数だ」




 ミカイルがレヴォリに遭遇した時、暴力団は銃やナイフを持っていたにも関わらず、一瞬で壊滅させられた。軍隊というものが、どれだけ強い武器を備え、どれほどの人数で構成されているのかは分からない。しかしミカイルには、レヴォリがあっさりと軍隊に捕らえられる様子が、想像できなかった。


 ラジオでは、軍人の質疑応答が終わろうとしていた。報道陣はまだ質問があるようだったが、軍人は苛立ちの混じった声で、時間を理由にして退席した。




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「皆さん、すみません。本来の任務もございますため、殺人鬼に関するご質問は、一旦ここまでとさせていただきたいと思います。えぇ……、それでは次は、ウイルス対策機関の責任者であります、サンドラ博士です。博士、よろしくお願いいたします」




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 進行係の声が聞こえると、ミカイルが叫んだ。




「うおぉぉぉぉぉぉ! おい聞いたか、サンドラ先生だ! 責任者だってよ! やっぱスゲェな、先生!」


「すごいのは知ってるから、静かに聞きなさいっての!」




 ニーナが手でミカイルの口を塞いだ。オレグはヘッドホンを強く抑えている。




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「皆さん、こんばんは。ウイルス対策機関のサンドラです」




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 サンドラは報道陣に向かって挨拶をすると、活動状況や研究成果について話し始めた。


 ウイルスは飛沫感染が少なく、物理的な接触による感染が多いらしい。そのため、人との距離を保ち、こまめにうがい手洗いをすることも、有効な予防方法である、というような説明がされた。


 また、感染者の八割は発熱や体の傷みといった症状を訴え、一週間から一ヵ月で、吐血や下血といった重い病状に進み、死に至る。一方、感染者の二割は、比較的生存期間が長いものの、体の異常な変化に苦しんだり、特殊な能力を持つようになる。体の変化の仕方によっては、やがて死に至る場合もある。


 ウイルスの特徴や症状の解明と平行して、より有効な感染拡大の防止策や、異常な症状の緩和、ウイルスの撲滅方法について、研究が進められているという。


 やがて、質問の内容は治療薬の開発に移った。モグロボの感染者や政府はもちろん、世界中が注目している。会見を聞いているミカイルたちの目に、力が入った。




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「治療薬の研究開発を進めているとのことですが、進捗はいかがでしょうか?」


「現状を率直に申し上げますと、想定より難航しております。まだサンプル数、つまり血液の採取にご協力いただける感染者の方が少なく、精製中のワクチンや抗ウイルス薬をテストできるマウスが、手に入りづらい状況であるためです」


「研究が進みづらい環境であるということかと思いますが、機関の研究員の方々の生産性や、成果についてはいかがでしょうか。モグロボは経済的にも大変な状況のようですが、最大限の資金や人材が投入されていると伺っています。それでもなお、機関自体の体制や管理に問題がないのか、責任者としての見解をお願いします」




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 記者の挑発的な質問に、ミカイルがムッとした。




「は!? なんだよこいつ、先生がダメみたいに言いやがって!」




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「……ご指摘のとおり、機関に出資いただいている資金や人材の多さを踏まえると、それに見合った研究成果を出せているとは言えません。それは、現場監督者である私に責任があります。大変申し訳ございません。現在は投資効率を見直して、海外からの医療機器の輸入を、性能の優れたものに絞って進めています。また、研究の進めやすい組織体制や、人材配置に改善しています。さらに、政府との連携を今まで以上に強化して、優秀な人材の採用や、サンプルの収集を進捗させています」




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 サンドラは冷静に指摘を受け止めて、今後の動きを具体的に説明していた。報道陣は静かに聞き入っている。ミカイルは以前、病院の環境を良くする方法について、サンドラが雑談がてら話していた時のことを思い出した。




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「もちろん、まだ課題はありますが、私含め全研究員の力を持って、一刻も早く治療薬の精製を実現したいと思います」




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 サンドラの力強いコメントで締めくくられると、記者会見は休憩時間に入った。ラジオの内容が世界経済のニュースに変わると、ゴランはラジオの音量を小さくした。


 ミカイルたちは互いを見合って頷いた。まだ、希望はある。そして、自分たちにできることもある。サンドラの声を聴き、三人は胸が熱くなった。




「なぁ、これは賭けなんだが……。サンドラ先生に頼み込んでみるのはどうだ?」とゴランが提案した。


「え!? どういうことだよ?」


「さっきの会見を聞く限り、先生には責任がある分、研究機関について大きな決定権を持ってる。ある意味、権力者だ。それに『政府との連携を今まで以上に強化して』とも言っていた。先生の話し方や人柄から考えると、嘘じゃないだろう。そうすると、政府の奴らにけっこう顔が効くんじゃないか? だから、先生が頼み込めば、お前たちが殺人鬼との戦いに協力するのを、政府が認めてくれるかもしれない。可能性は薄いが、俺やお前らがいきなり交渉するより、よっぽどチャンスがある。もちろん、先生がこの計画に賛成してくれればの話だがな」


「そっか! その手があったな!」とミカイルが拳をぎゅっと握りしめる。


「珍しく冴えた発想だね、父さん」とオレグが意地悪く言った。


「てめぇ、このやろう! 無事に治ったら、また殴ってやるからな」とゴランが嬉しそうに脅かした。


「でも……、先生は賛成してくれるかな?」とニーナが不安を漏らす。


「あったりまえだろ! 先生は真面目で頭が固いところもあるけど、誰より優しくて病人想いだ。きっと聞いてくれる」




 三人はサンドラに会って相談することに決めた。


 ミカイルがサンドラからもらった地図を広げる。要塞門から国境基地までの、地形や建物が描かれていた。そしてラジオで聞いた内容から、会見が行われた場所がどこかを推測した。きっとその辺りに、サンドラがいるはずだ。三人が地図を頭に叩き込むと、ニーナがジャンプして、地図を格子窓から運転席に投げ込んだ。ゴランはそれを受け取り、要塞門を突破した後にどう進めば良いか確認する。


 三人は荷台に保管されている食料を食べ始めた。保存食用の缶詰ばかりだったが、どれも美味しく夢中で食べた。そして要塞門に到着するまで、仮眠を取ることにした。要塞門にぶつかる衝撃に備え、食料袋を覆っていた毛布に包まる。


 久しぶりにお腹が満たされ、誰にも襲われない場所にいる安心感もあり、三人はすぐ眠りについた。荷台の方から寝息が聞こえ始めると、ゴランはラジオのスイッチを切った。






* * * * * * * * * * * *






 トラックで走り始めてから、一時間ほどが経った。要塞門は辺りを多くのライトで照らしており、近づくにつれて視界が明るくなってきた。検問所が封鎖されたことで、路頭に迷う人たちも増え、あちこちで群れを成している。ゴランは轢かないように、注意深くハンドルを切った。荷台が激しく揺れる。三人は目を覚まし、近くの荷物にしがみついた。




「門が見えてきたぞ!」




 ミカイルはジャンプして荷台の格子窓を覗き、一瞬だけ運転席の窓の向こうを確認した。門の奥の建物から、無数のライトが地面をなぞり、検問所近くの人たちを照らしている。一つのライトがトラックを捉え、格子窓から光が差し込んできた。ゴランは眩しさで視界を失い、トラックが左右に揺れ始めた。




「そこのトラック。直ちに止まりなさい」




 要塞門から警告が発せられた。近くの人々がトラックに注目し始める。あと三百メートルほどの所まで近づいた。ヴゥゥゥゥゥゥという大きな警告音が鳴り響く。耳が破けるかと思うような爆音だった。




「オレグ、大丈夫か!?」とゴランが声をかける。


「うん、何とか耐えられそう……」とオレグが両手でヘッドホンを必死に抑えながら、ポケットから薬を取り出して飲み込む。


「よし。じゃあお前ら、しっかり掴まってろよ!」




 荒々しいエンジン音が荷台の下で響くと、トラックのスピードが上がった。危険を察知した民間人が逃げ始める。辺りを警備している軍人たちが、トラックを止めようと前に立ちはだかったが、ぶつかる手前で左右に飛び避けた。




「おい、そこのトラック! 早く止まれ! 止まらなければ攻撃するぞ!」




 ゴランは椅子にもたれ掛かり、運転席から視界が見えるギリギリまで、姿勢を低くした。すると銃声と共に、運転席のフロントガラスが割れた。敵とみなされて、軍人が攻撃を開始したらしい。




「父さん! 大丈夫!?」


「心配いらん! それより、もうすぐ門にぶつかるぞ!」




 ゴランが検問所の入り口に向かって車のハイビームを当て、クラクションを鳴らす。三人は体を包む毛布を握りしめて、目をつぶった。




 ドゴォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォン




 トラックが激しい音をたてて衝突し、三人は反動で荷台の壁にぶつかる。


 その瞬間、まるで死んだように、ミカイルの五感が消え去った。しかし、徐々に体が正常な感覚を取り戻し始め、荷台の外から人の声が聞こえるようになってきた。




「おい! トラックが突っ込んだぞ!」


「なんだよあれ……。狂った感染者か?」




 ミカイルは目をゆっくりと開け、毛布から顔を覗かせた。食料や備品が袋から飛び出て、あちこちに散乱している。天井の四隅の電球のうち三つが割れ、残った一つが鈍く荷台の中を照らしている。公園の砂場を蹴り飛ばしたように埃が宙を舞い、口を押さえながら咳き込んだ。




「ごほっ、ごほっ……。おい! 大丈夫か!?」


「うぅ……。なんとか……」とニーナがうめき声を上げながら、毛布から顔を出す。




 オレグの返事がない。ミカイルが駆け寄り、オレグの毛布を揺すった。




「おい、オレグ!」




 ミカイルは急いで毛布を開いた。オレグは目をつぶっている。




「うそ……。オレグ……」とニーナが不安げな声を漏らす。




 ミカイルが肩を揺すると、オレグがパッと目を開いた。どうやら気絶していたらしい。




「おい、生きてるか!?」


「うん……、ここは……? もう門を抜けたの? ぐうっ……」




 オレグは痛そうにヘッドホンを抑えた。衝突時の爆音で耳に激痛が走り、気絶したようだった。


 一応無事だと分かり、ミカイルがホッと息を漏らす。すると外から、荷台を激しく叩く音が鳴り響いた。




「おい、中に誰かいるだろ!?」


「開けないと撃つぞ!」




 嚙みつくような声が聞こえた。それも大勢いる。どうやら軍隊に囲まれたらしい。ドンッという音と共に、荷台の扉が揺れる。




「やばい、どうしよう!」とオレグが慌てる。


「こんなの想定内! 一気に出るよ!」




 ニーナはそう言いながら、運転席の方の端に寄った。そして小さく飛び上がり、荷台の運転席側の壁を思い切り蹴った。まるで瞬間移動のように扉へ飛び、前に伸ばした足で扉をぶち開ける。鍵や蝶番が壊れ、扉が激しい音を立てて地面に落ちた。扉の上にニーナが飛び降り、下には数人の軍人が下敷きなって呻いている。その周りの軍人たちは、何が起きたのか理解できず、目や口を大きく開けて突っ立っていた。




「何してんの!? 早く!」




 ニーナが急かすと、ミカイルがオレグの手を掴んで、外に飛び出す。


 トラックは検問所のど真ん中に突っ込んでいた。椅子や机、注射器などの医療器具が、地面に散らばっている。アクセル全開で突っ込んだはずだったが、荷台が分厚い門に引っ掛かり、突破できず停車したらしい。門の奥の建物からは、幾つかのライトがトラックの辺りを照らしている。




「やべぇ、早く門の中に行くぞ!」とミカイルが叫ぶと、運転席のドアがギイッと開き、ゴランが地面に転げ落ちた。丸めた毛布を体とハンドルの間に挟んで、衝撃に備えていたが、激しく体を打って脚を痛めたらしい。


「父さん!」




 オレグが駆け寄ると、門の外から出てきた軍隊に取り囲まれた。軍人たちが一斉に剣を抜く。向けられた刃先にライトが反射し、二人の首元でギラッと光った。




「おい、早く!」とミカイルが叫ぶ。


「いいから行け! 大丈夫、すぐに殺されはしない! ここを突破するチャンスは今だけだ!」とゴランが両手でオレグを庇った。




 ミカイルが躊躇していると、ニーナが「しょうがない、行くよ!」と言いながらミカイルの胴を抱きかかえ、素早い動きで軍人の間をすり抜けて、門を抜けた。何人か追ってきたが、その差はぐんぐんと開いていく。




「おい! 本当にあいつら大丈夫かよ!?」とミカイルが宙に浮いた足をばたつかせながら叫ぶ。


「おじさんも言ってたでしょ! 今は捕まるだけ。すぐに何かされたりしないよ。早くサンドラ先生を見つけて、二人を助けてもらうよう頼まなきゃ!」




 ニーナは、トラックの中で頭に叩き込んだ地図を思い出す。要塞門の中は外と同じように、土の地面が広がっており、建物があちこちに点在していて殺風景だった。民間人の姿は見えず、軍人が建物の周りで警備にあたっている。状況を察知してニーナを捕まえようとする者もいたが、追いつけないと分かると、通信機を取り出し、何かを話し始めた。




「やべぇ、あいつ仲間を呼んでるぜ! もっと大勢来るかもな」


「大丈夫。もう、人が集まってる場所が見えてきたよ! きっとあそこだ!」




 ミカイルは前の方を向いた。大きな建物の入口付近で、大勢の人が群がっている。カメラのフラッシュが小さな花火のようにパチパチと光り、政府の役人らしき人の顔が照らされていた。ラジオで聞いていた記者会見は、まだ終わっていないようだった。




「でも、これからどうしよう?」


「考えてもしょうがねぇ! 突っ込んで割り込むぞ!」




 ニーナは「やっぱりね……」と言うと、そのまま会見場に向かった。




「おい、何だあいつら!?」


「門を突破したと通信があった奴らだ! すぐに止めろ!」




 会見場の周りを警備している軍人たちが集まり、前に立ちはだかる。ニーナはぶつかる直前で高くジャンプをして、その群れを飛び越した。しかし、ミカイルを抱えていたせいでバランスを崩し、そのまま役人の前にある会見台に突っ込んだ。役人がその勢いで倒れこむと、そばの軍人たちが保護するように抱えて、その場から避難させる。報道陣の中には、会見場から逃げ去ろうとする者もいれば、スクープを察知してカメラを向ける者もいた。




「いててて……。こんな所に落ちんなよ……」


「ぐぅ……、文句あるの? 言われたとおり、突っ込んで割り込めたじゃん……。感謝してよね……」




 すると瞬く間に、軍人たちに取り囲まれた。抜かれた十数本の剣が、二人の顔に向けられる。




「おい、待て! 俺たちは怪しいもんじゃないんだ!」


「そうなんです! あたしたち、殺人鬼と戦いたいだけなんです!」


「あと、オレグとゴランのおっちゃんを助けてやってくれ! いい奴らなんだ!」


「あたしたちが協力するから! ねぇ、サンドラ先生を呼んで! お願いします!」




 軍人たちは聞く耳を持たず、縄で二人を縛ろうとした。ミカイルがそばに落ちていたマイクを拾って振り上げ、ニーナが素早い蹴りで警戒する。しかし、たくさんの銃がガチャッと音を立てて向けられると、二人は静かになって、ゆっくりと両手を上げた。


 すると、白衣を着た一人の女性が、群れの間を抜けて入ってきた。




「博士、下がってください。危険です」と軍人が止めようとする。




 二人は見上げると、宝物を見つけたような表情を浮かべた。しかし、すぐに気まずくなり、それは苦笑いになった。




「あなたたち……、いったい何やってるの!」






* * * * * * * * * * * *






 甲高い声が会見場に響き渡る。そしてその直後、「あぁ、本当にミカイルなのね……。それに、ニーナも。会えて、良かった……」と涙しながら、サンドラは二人を力強く抱きしめた。


 記者会見は一時中断となった。報道陣は、会見場から離れるよう案内される。中にはミカイルたちについて取材したいと申し出る記者もいたが、会見の進行係に断られていた。




「いい? あなたたち、絶対に暴れ回っては駄目よ。これ以上問題を起こしたら、本当に牢屋行きなんだから」




 軍人に取り囲まれる中、サンドラが二人に注意する。ミカイルは「あぁ、分かったよ」と答え、ニーナは「はい、すみませんでした」と謝った。




「サンドラ。君の知り合いか?」




 一人の役人が問いかけ、サンドラがこれまでの関係や経緯を説明する。しかし、二人はそれに被せるように叫び始めた。




「なぁ、聞いてくれよ! 俺たち、レヴォリって奴に会ったんだ!」


「さっきは急に乱入して、すみませんでした。あ、ええっと、レヴォリっていうのは、例の殺人鬼の名前です。あたしもオレグも、特殊能力を持ってます。きっとレヴォリとの戦いで役に立てます!」




 わちゃわちゃと声が入り交じり、役人は聞き取りづらさにイライラし始めた。サンドラはため息をつきながら、振り返って二人をたしなめる。




「ちょっと黙ってて! あなたたちが免責になるよう、お願いをしているんだから」


「免責ってなんだよ! 俺たち、何も悪いことしてないぞ!」


「門をぶち破って、記者会見場に突っ込むことの、どこが悪くないのよ?」とサンドラがミカイルの頬をつねる。


「いでででで。いきなり門を閉める政府も悪いだろ! それに俺たちは、レヴォリに関する情報を持ってんだ! きっと役に立つ」


「さっきから言ってるけど、その『レヴォリ』っていうのは何者なの? 殺人鬼だっていう証拠は?」


「証拠は無いけど、間違いないんだって! 俺はそいつに襲われたから分かるんだ!」


「……前に話してくれたアレね。だけど、ミカイル。今は一刻も抗ウイルス薬の……」


「なんで分かってくれないんだよ!? ちんたらしてる間にも、そいつは人を襲ってるかもしれないんだぜ? ウイルスの研究は、みんなを助けるために大事かもしんねぇけど、殺人鬼を野放しにしたら、その助けたい奴もいなくなっちまう! 前に『人のことを考えて動かない政府が嫌いだ』って言ったじゃんか! 俺の知ってるサンドラ先生は、いつも人のために何かしてくれるぞ!」




 役人が眉間にしわを寄せている傍ら、サンドラは息を飲んで、ミカイルをじっと見つめた。


 確かにそれは、これまで幾度も漏らしてきた愚痴であった。戦争で損害を受けた医療機関への補償の少なさから、民間人ではなく国富のことしか考えていない政府を批判していた。だから自分は、人のためにありたいと思い、ずっと医師の仕事に努めてきた。


 しかし、先の治療薬の開発だけに捉われ、いま襲われている人を蔑ろにしては、元も子もない。研究機関の責任者というプレッシャーで、盲目になっていたことに、今更ながら気がついた。




「……分かった。私から頼んでみる」




 サンドラは二人の話を政府に聞いてもらえないか、役人に相談し始めた。しかし役人は、破壊された門の損失は見過ごせず、話を聞く以前に、すぐ監禁するべきだと主張した。


 話は平行線を辿り続ける。ミカイルとニーナは、このまま牢獄に入れられるのかと不安になり、互いの顔を見合った。




 すると突然、低く冷たい声が会見場に鳴り響いた。




「聞こえるか。政府要塞門にいる役人、そして軍人。俺の名はレヴォリという」




 サンドラと役人は目を丸くして固まった。ミカイルが「なぁ、こいつだよ! レヴォリだ!」と叫ぶと、ニーナが「静かに! 何か話すつもりだよ!」と制した。周囲の軍人や記者たちは、建物の壁に備え付けてあるスピーカーを見た。そこから声が聞こえている。




「俺は感染者だ。最近『殺人鬼』と噂されている。それが俺だ」




 辺りが一気にざわつき始めた。号令と共に、軍隊が戦闘準備に入り、陣形を組み始めている。記者の中には、頭を抱えしゃがみ込んだり、怖さのあまり叫び出す者もいた。




「これから俺の目的と、政府に対する要求を伝える。よく聞いておけ」




 そばの役人が怯えながら、辺りをキョロキョロと見回し始めた。




「まず、目的。それは国境を越えてノストワに入り、ウイルスの治療薬を開発させることだ。俺は、感染から自分の力で治癒した奴を連れている。この回復者の体をウイルスの研究機関に提供すれば、すぐに薬が精製されるはずだ。そうすれば俺はもちろん、世界中の感染者を救うことができる」




 ミカイルは注意深くレヴォリの話を聞いていた。回復者というのは、きっとタチアナのことだ。




 世界中の感染者を救う?




 話の内容からは、前に会った時のような残虐性が感じられない。何か隠しているか、別の目的があるのかもしれない。




「そして、政府に対する要求が二つ。まず一つは、俺の安全を保障し、ノストワの研究機関まで案内することだ。そしてもう一つは……」




 ニーナが曇った空を見ながら、グッと息を飲み込む。




「治療薬が精製されて、俺が回復するまでの間、感染していない民間人を食料として、俺に提供することだ。俺は治らない限り、食人を続ける。だから協力した方が、結果的に犠牲は少なく済むぞ」




 役人が「そんな、無茶なこと……」と喘いだ。




「もちろん、難しい要求であるのは分かっている。だが、理解してほしい。俺は感染し、人肉しか食べられない体になった。他の食べ物を飲み込もうとしても、体が受け付けない。お前たちが無理やり土や虫を食べようとするのを想像してみろ。それと同じだ。自分ではどうしようもない。理解できないだろうが、俺は常に苦しんでいる」




 軍隊があちこち駆け回り、レヴォリを探している。建物の放送室は襲われておらず、そこにはいないようだった。どうやら自力か、もしくは捕らえた技術者を脅して、自分の声を通信させているらしい。




「だが、つらいのは俺だけじゃない。他の感染者も、それぞれの症状に苦しめられている。体の穴から、得体の知れない虫が湧く者。体の一部が縮小し、欠けていく者。五感が著しく狂う者。顔が膨張し、動けなくなる者。骨が伸長し、内臓や皮膚を突き破る者。どれも言い表せない恐怖と痛みだ。感染していない奴には分からないだろう」




 ニーナが両手をぎゅっと握りしめる。ミカイルはそれを見て、「化け物」と言ってしまったことを思い出した。




「それは全て、ウイルスを開発したノストワ国、そして敗戦して国民を救えなくなったモグロボ国の責任だ。つまり、ノストワには薬の精製に協力する義務があり、モグロボには感染者を救う義務がある」




 するとスピーカーから、別の声が微かに聞こえ始めた。




「そうだ! そのとおりだ!」


「レヴォリの言うように、政府が悪い!」


「私たちの! 苦しみを! 代弁してくれてありがとぉぉっ!」




 偶然近くにいたのだろうか、賛同した感染者の声が、レヴォリのマイクに拾われたらしい。


 サンドラはミカイルに目をやった。ミカイルは黙ったまま、首を横に振る。




「俺は感染者の味方だ。だから約束しよう、感染者は襲わない! そして治療薬を精製し、症状に苦しむ全員を救ってやる!」




 門の外から、けたたましい獣のような声が聞こえた。それに対抗するようにサイレンが鳴り響くと、一人の軍人が役人に小声で何かを伝達した。役人が「早く何とかしろ。これ以上被害を大きくするな」と慌てて命じる。すると、軍隊が次々と門の方に向かっていった。どうやら、レヴォリの宣言に感化された感染者が暴れ始め、それを鎮めなければならないらしい。


 もうレヴォリの声は聞こえない。いつの間にか通信を切っていたようだ。周囲に軍人はほとんど残っていない。警備が薄くなると、報道陣が役人に詰め寄った。




「今のが例の殺人鬼ですか!?」


「政府はどう対応されるんでしょうか? 先程の要求を受け入れる可能性は?」


「レヴォリの発言を支持する感染者もいるようですが、あなたの見解をお願いします!」




 雪崩のように記者が押し寄せると、役人が足を躓かせて、ミカイルたちの前で転んだ。




「もう嫌だ……、私にどうしろって言うんだ。誰か何とかしてくれ……」




 すると、ニーナが役人の肩に手を置いた。




「じゃあ、あたしが何とかするんで、話を聞いてくださいね」






* * * * * * * * * * * *






 ニーナはボールをミカイルに預けると、トラックが突っ込んだ場所まで全速力で戻った。破られた門から感染者が侵入し、軍隊が応戦している。




「レヴォリって奴をノストワに渡らせろ! 治療薬を作ってもらうんだ!」


「こんな検問は人権侵害よ! 政府は私たちの命を何とも思ってない!」


「団結して戦うんだ! 俺たちの力で国境を越えるぞ!」




 暴徒化した人の数が多すぎて、軍は手こずっている。感染者だけではなく、検問を受け損ねた民間人も侵入しているみたいだった。これでは、感染者とそうでない人の見分けがつかない。




「ねぇ! この騒ぎを何とかしに来たんだけど、どうすればいいの!?」




 ニーナはそばにいた軍人の肩を掴んで聞いた。




「なっ、なんだお前は!? お前も侵入者か?」




 軍人が手錠を掛けようとすると、ニーナは近づいた手を蹴り上げた。手から離れた手錠が宙高く弧を描き、ニーナが高くジャンプをして、それをキャッチする。人間離れした脚力に驚いたのか、軍人は口を大きく開けながら、尻もちをついた。




「ふーん。この手錠で侵入者を捕まえてるんだ」




 ニーナは、軍人の腰にジャラジャラとぶら下がっている手錠を奪った。そして、素早い動きでそれを侵入者の両足に付け、身動きが取れないようにしていった。




「おい、誰だあいつ!?」


「感染者だ! だが……、味方か……?」




 あちこちから聞こえる動揺の声を尻目に、ニーナは次々と手錠をかけ、足りなくなると軍人の腰から奪っていった。こうすれば、感染者とそうでない人の区別を気にせず、とりあえず侵入者を一網打尽にできる。




「まずい! 民間人用のビルに入っていく奴がいるぞ!」


「早く捕まえろ! 犠牲者を出すな!」




 ニーナは軍隊が向かっている方を見た。おぼつかない足取りの人影が、二百メートルほど先の建物に入っていく。どんな症状や特殊能力を持っているか分からなかったが、感染者であることは間違いなさそうだった。


 全速力で建物の方へ走り、どの軍隊よりも早く入り口に着いた。中の天井には、オレンジ色の電灯がぶら下がり、そばには花瓶の乗った下駄箱があるだけの、シンプルな玄関だ。その下駄箱の隅に隠れるように、腰を抜かした女性があわあわと口を開けている。




「ねぇ、いま変な奴が入ってきたでしょ? どこに行ったの!?」




 女性は震える手で、近くの階段を指さした。どうやら上の階に上がったようだ。


 ニーナは一度のジャンプで、二階に駆け上がった。すると廊下の奥で、人影が扉をぶち破ろうと、体当たりしている。明かりがなくて顔などはよく見えないが、部屋の中にいる人を襲う気らしい。止めようと近づいたが、捕らえるもう少しの所で、扉が開いた。




「きゃあぁぁぁぁぁぁぁ!」


「うわぁぁぁぁ! なんだこいつ!?」




 部屋に入ると、三メートルほど長い舌を、女性の足首に巻き付けている、怪物が目に入った。その周りを、怯えた民間人が取り囲んでいる。「助けてぇ!」と女性の悲鳴が部屋に響く。


 怪物は三十歳くらいの女の顔をしている。ただ、大きく見張った目は瞳孔が開き、頬は魚の鱗のような模様で覆われていた。




 これが、感染者。




 気味の悪い容姿に、思わずニーナの脚が止まる。もしかしたら、自分もこうなってしまうのかと、不安が過る。周りに指を見られないよう、手をポケットに入れた。すると感染者がその隙をつき、女性から離した舌を、ニーナの腕ごと腰に巻きつけた。




「しまった!」




 舌の力は思った以上に強い。踵で踏ん張っても、感染者の方に引き寄せられていく。一メートルほどの距離まで近づくと、人の三倍もの大きな口が、グワッと開いた。既に誰かを食べたのか、尖った歯は赤黒く染まっている。




 このままじゃ、食われる……。




「ニーナ! ニーナなの!?」




 部屋の奥から、聞き覚えのある声がした。すると、立ち上がった老人と、それを囲むたくさんの子供たちが見えた。




「ソーニャ……、先生!?」


「ニーナなのね! 待って、今助けるから!」




 ソーニャはそう言いながら、群衆をかき分けて、一人で感染者の方へ走り始めた。




 ニーナの脚に力が入る。右足で素早く舌を踏みつけると、感染者が金切声のような悲鳴を上げた。すかさず左足で、口元から伸びている舌を蹴り上げる。




 ぶちいっ




 嫌な鈍い音が聞こえた。大きな口元と太い舌の切れ端からは、ドクドクと大量の血が流れている。感染者は天井を仰ぎ、動かなくなっていた。


 部屋が再び大勢の悲鳴で包まれると、ニーナはソーニャのもとへ駆け寄り、思い切り抱きついた。子供たちも集まり、久しぶりの再会にはしゃいでいる。




「先生! やっと会えた! みんなも元気そう!」


「あぁ……、ニーナ。良かった、ここまで来れて……。本当にごめんね、一緒に車に……」


「大丈夫! あれ以上乗れなかったんだから、しょうがないよ!」


「いいえ、あなたには悪いことしたわ。……あと、さっきあの怪物と戦ってたみたいだけど……?」


「あ、うん……、後で話すよ。それよりさ、あたし結構前に、街のテレビに映ってるみんなを見たんだよ! 検問所の前で映ってた」


「あの辺りであなたを待ってたんだけど、『これからもっと混むから、早く行け』って無理やり列に並ばされたの。先に検査を受けちゃって、本当にごめんなさい。でも、国境行きの車を待つ場所なら、ニーナに会えると思って、この建物に泊まってたのよ」


「まさか、まだここにいるなんて思わな……」


「当たり前でしょ。みんなで一緒に国境を越えるんだから」




 ニーナの言葉を遮るように、ソーニャがぎゅうっと抱きしめた。


 まだ騒ぎが収まらない中、ニーナは自分の周りの空間だけが部屋から切り取られ、孤児院に帰ってきたかのように感じた。そして熱くなる目頭を隠すように、顔をソーニャの胸にうずめた。






* * * * * * * * * * * *






 軍隊が部屋に駆けつけ、後始末や事情聴取が始まった。死体がズルズルと引きずられ、床に血の跡が伸びていく。まるで巨大な筆で、呪いか何かの印が描かれたようだった。


 ニーナが感染者の暴動や侵入を抑えたことを受け、トラックで要塞門を突破したことは、特別に免責となった。また、オレグとゴランの釈放も認められた。どうやら、事の顛末が会見場にいた役人の耳にも届き、サンドラたちが交渉してくれたらしい。


 ミカイル・ニーナ・サンドラは、要塞門の建物にある来客用の簡素な部屋に案内された。ニーナの希望が叶い、ソーニャたちも入室を許可された。


 ミカイルはこれまでの経緯や、レヴォリとの戦いに参加させてもらおうとしていることを、サンドラに話した。




「冗談じゃない! 自分が何を言っているか分かってるの!? 軍隊でも手を焼いてる殺人鬼なのよ。子供のあなたたちが戦って、どうなるっていうの!?」


「俺たちがやらなきゃ、レヴォリを倒せないんだよ! ニーナやオレグには特殊な力がある。俺は、奴や連れの女に会ったことがある。きっと役に立つんだ!」


「だからって、危険すぎ……」




 二人が親子喧嘩のように言い合っていると、解放されたオレグとゴランが部屋に入ってきた。




「こいつらは本気です。お願いです。どうかオレグたちを戦わせてやってください」




 ゴランがサンドラを説得しようとすると、椅子に座っていたソーニャが立ち上がった。




「ちょっと待ちなさい。あなた、その子の父親でしょう」




 ゴランは「はい、そうですが」と答えながら、ソーニャをじっと見つめた。




「ニーナを保護してくれたことには、本当に感謝しています。ありがとう。だけど、さっきのは聞き捨てならないわ。あなたは子供たちを戦場に行かせるの? 軍隊に参加させるっていうの? とんでもないことだわ。政府や軍は、全く当てにならない。怖ろしい殺人鬼と戦わせるなんて、私は反対よ」


「この子たちや、自分たちにもできることはあります。確かに政府はくそったれです。まぁ、俺も他人のことは言えない、クソ親父ですが。それでも、批判だけして何もしないのは間違いです」


「大切な子供を戦場に向かわせることこそ間違いよ! みすみす死に行かせるようなものだわ。あなたも父親でしょう!? 息子のことを何とも思わないの? それに彼だけじゃない。ニーナもミカイルも、これからを生きていく子供たちよ。この子たちには未来があ……」


「分かってるんだ、そんなことっ!」




 ゴランが遮って大声を出すと、思わずソーニャが口を閉じた。そばの子供たちが、怯えながらゴランを見る。




「分かっています……。こいつはかけがえのない、俺の大切な一人息子です。でも、このまんまじゃ、未来はないんです。こいつらは……、感染してます。だから、未来は……」




 ゴランは膝から崩れ、嗚咽を漏らした。そして、そばのオレグの腰に手を回し、腹の辺りに顔を寄せた。




「父さん……」




 オレグは下唇を噛みながら、涙がこぼれるのを必死に堪えた。




「感染……、ってどういうこと? ウイルスに感染してるの!? そうなの、ニーナ!?」とソーニャが震える声で聞いた。




「先生。あたし……」




 ニーナはソーニャの方に駆け寄り、胸に顔をうずめて泣き出した。




「そんな……。だから、さっき怪物と……」とソーニャがニーナを抱き寄せながら、サンドラを見た。サンドラは床に目を落とし、申し訳なさそうに頷いた。




 ゴランが太い腕を振り下ろして、ドンと床を叩く。




「ならせめて、こいつらに命がある限り、生き延びる可能性が少しでも上がるよう、戦わせてやる……。そうするしか、ないんです……」




 するとサンドラが顔を上げ、ミカイルに聞いた。




「……やっぱり、本気なの?」


「こんな冗談言わねぇよ。俺たちは、感染してる。ニーナは指が短くなってきてる。オレグは耳の痛みがひどくなってる。それに俺は……、体が小さくなってる。いつまで、今の自分たちでいられるか分からない。じゃあせめて、みんなが生きられる可能性に賭けたい。ここにいる、全員。他の感染者やモグロボ人。みんなだ」


「でも、今はサンドラ先生がお薬を開発してるんでしょう? それを待てばいいじゃない」とソーニャが思い留めようとする。


「それも、待ってる。でも、たぶん……、レヴォリが国境を越えるのが先になる。そしたら、爆弾を投下されて終わりだ」


「そんな……」とソーニャが呟いた。




 すると、ニーナが覗き込むように顔を上げる。




「ソーニャ先生、心配かけてごめんなさい。でも、あたし強くなったんだよ。脚の力が信じられないくらい上がったの。すごく速く走れるし、ボールも大砲みたいに飛ばせる。でもね、その代わり……、なのかな。指がどんどん短くなってくの。たぶん、このまんまじゃ、手や腕もなくな……」


「もう、それ以上はやめて」とソーニャは首を横に振って、ニーナを力強く抱きしめた。


「……あたし、もっとやりたいことがある。前も言ったでしょ? サッカーの世界大会で優勝して、賞金を孤児院にプレゼントしたいの。今まで育ててくれた、恩返しだよ。でもさ、このままじゃ大会に出場できない。っていうか、レヴォリが国境を越えたら、大会どころじゃないよ。だから、先生や子供たちのためにも、それにあたし自身のためにも、戦いたいんだ。だから行かせて、先生」




 ソーニャは引き留める理由を探すのをやめた。そしてニーナが小さい頃を思い出しながら、優しく頭を撫でた。




「あんまり、のんびりしてる時間はねぇんだ。政府とか軍隊に頼めないかな?」とミカイルがサンドラに聞く。


「……待ってて。話してみる」とサンドラは部屋を出て行った。






* * * * * * * * * * * *






 二時間後、ミカイルたちが政府と交渉する場が、特別に設けられることとなった。普通なら民間人、ましてや感染者が軍隊に入りたいなんてわがままは、聞き入れられない。しかしサンドラは研究機関の責任者としての発言力、そしてニーナが感染者の暴動を沈めた功績をもって、なんとか交渉の機会を得ることに成功した。


 ミカイル・ニーナ・オレグ・サンドラは、要塞門の最上階である五階に案内された。絨毯が敷かれた通路に沿って、大きなドアが連なっている。また、等間隔にボレルの方角に向かって伸びる細い通路があり、その奥では軍人が警備にあたっていた。


 ミカイルは陽性と診断され、門から去った時のことを思い出した。感染者が行き場を失い、門の前で彷徨うのを、軍人はどんな気持ちでこの高さから見下ろして、銃を持っているのだろうと思った。


 通された会議室には、コの字にテーブルが並べられていた。四人はコの字の開いている場所に立たされた。テーブルの奥からは、モグロボ国の歴代の国王が、肖像画となって見下ろしている。




「なんだよ、俺たち席に座れないのか」とミカイルが口を尖らせた。


「まぁ、少なくとも歓迎はされていないようね」とサンドラが腕を組む。




 しばらくすると、政府の役人や軍人が十人ほど入ってきた。役人は奇妙な黒いマスクで顔を覆っていた。目が見えるよう、大きめの丸いガラスが付けられ、口元からは三つの円柱型の部品が伸びている。




「ちょっと何あれ。気持ち悪い……」とニーナが向こうに聞こえないくらいの小声で囁いた。


「あれはガスマスク。感染を防ぐためのものよ。高額で生産量も少ないから、偉い人やお金持ちしか手に入れられないの」とサンドラが答える。


「俺たちのウイルスが移らないようにか?」とミカイルが遠慮のない声の大きさで言った。




 サンドラが「こらっ」と制している傍ら、役人たちは何も言わず、さっさと席に着いた。全員が着席すると、軍人の一人が口を開く。




「私は軍の大佐だ。お前たちのことを聞きたいと、こちらの方々がお時間をくださった。話をきちんと聞き、質問には丁寧に答えるように」




 オレグはミカイルが何か言おうとしたのを察し、手をさっと出して制した。




「君たちがミカイル・ニーナ・オレグだね?」とガスマスクの一人が聞いた。


「あぁ、そうだ」ミカイルが答える。


「『そうです』だろうが貴様!」と大佐が怒鳴りながら、机を叩いて立ち上がる。


「なんでそんな偉そ……」と言いかけたミカイルの頬をつねりながら、サンドラが「すみません、この子こういう場所に慣れていなくて」と大佐を宥めた。


「いちいち止めるな。話が進まん」とガスマスクが言うと、大佐はミカイルを睨みつけたまま腰を下ろした。


「君たちが門の包囲を破って、ここまで来たのは聞いている。そして、レヴォリの宣言に共感した感染者の暴動を沈めたこと、戦いに参加したいと望んでいることも把握している。だが、あらためて君たちの口から聞かせてほしい。君たちが何者で、何を考え、何を求めているのか」




 ミカイルが答え方に迷っていると、ニーナが授業で発言する時のように手を上げた。




「えっと……。私たちは、マルテの中学生です。爆弾投下の発表があった日から、歩いてここまで来ました。それで検問の時に、感染していることを告げられました。それから……、特殊な力があることも知りました。あたしは脚の筋力。こっちのオレグは、聴覚が発達しています。それからミカイルは……、レヴォリに会ったことがあります。目撃者はほとんど生き残っていないと聞いています。だから、きっと役に立つと思います」




 ニーナは話し終わると、静かにふーっと息を吐いた。




「なるほど。しかし君の脚の力と、オレグの聴力で、レヴォリと戦えるのかね? 我が国の軍が手を焼いている相手だ。人間離れしていて、剣や銃も効かないと聞いている」と別のガスマスクが言った。


「その……、戦い方とかはよく分からないんですけど……。でも、私の脚の力も人並外れてます。例えば、このボールを蹴ったら……、銃ほどじゃないですが、それに匹敵する威力だと思います」とニーナは脇に抱えたボールを、くいっと前に出した。




 すると大佐が「ガキのそんな細い足が武器になるってのか」と嘲った。




「そのガキに門を突破された、軍の人に言われたくないんですけど」とニーナが反射的に吐いた。




 オレグが慌てながら「ちょっと、ニーナ!」と宥める傍ら、ミカイルがにやっと笑い、サンドラは諦めたようなため息をついた。




「ほざけぇっ! あれはふいを突かれたからだ! お前らなんぞ、援軍を送ればすぐ一網打尽だ」


「じゃあ、感染者の暴動を止めたのは誰ですか?」




 大佐は立ち上がると、剣を抜いてニーナの方へ近づいた。隣に座っていた軍人が腰をあげながら「大佐……」と止めようとしたが、頭に血が上り、聞こえていないようだった。


 ミカイルが庇うように、ニーナの前に立つ。




「なんだよ、おっさん。やるのか?」


「我慢ならん。切る」




 するとサンドラが、ミカイルと大佐の間に割り込んだ。




「なら、先に私を切りなさい。研究機関の責任者として、政府から正式に任命された、この私を」




 大佐はサンドラの首筋に剣を当てがった。鋭い刃がペンダントのチェーンに触れる。ミカイルが「てめぇっ」と吠えながら大佐に掴み掛ろうとしたが、サンドラが「動かないで!」と制した。




「大丈夫。この人は私を切らない」




 サンドラは分かっていた。ウイルスの研究は、政府が重要視している取り組みだ。大佐とはいえ、その第一人者をやみくもに殺害したとあれば、大罪に当たる。少なくとも、罷免されるのは間違いない。大佐はサンドラを睨みつけたまま、ゆっくりと剣を鞘に納めた。


 惨事が起きる心配がなくなったことを確認すると、先程のガスマスクが続けた。




「君たちの戦いの様子は、直接目にしていないが、確かに小さな部隊よりは頼りになりそうだ。しかしな、それも軍全体の一部にすぎない。戦力を僅かに上げるためだけに、子供を軍に入れさせることはできないんだ」


「何でですか? 少しでも戦力になるなら、戦いたいです。ノストワはほとんど協力してくれそうにない、ってラジオで聞きました。その代わりと言ったら変ですけど……。あたしたちを戦力に加えたら、きっと少しでも勝てる可能性が上がると思います」


「なるほど……。しかし、引っ掛かることがある。そもそも、どうして戦いたい? 君たちは感染者だ。こう言ってはなんだが、レヴォリに加担してもおかしくはない。宣戦布告のとおり、奴の目的は治療薬の精製だ。それこそ君たちが望むものだろう? もちろん我々としては、そこのサンドラ博士をはじめ、自国の医師たちの力で薬を精製してほしいと思っている。しかし正直、現段階では難航している。もしかすると……、感染から回復した者を連れているレヴォリの方が、精製に成功する確率が高いかもしれない」


「はぁっ!? 何言ってんだよ! 先生の方がすごいに決まってんだろ!」とミカイルが叫んだ。


「あたしも先生を信じます。それに、レヴォリのやり方は感染してない人を巻き込みます。国境を突破されたら、感染はあっという間に世界に広がる。でもレヴォリを止められたら、犠牲になる人を最小限に抑えて、薬を待つことができます。感染した子供たちも助けられるし、感染していない子供たちも安全な場所で暮らせます」


「……子供たち?」と軍人の一人が聞いた。


「ボレルで出会った、感染者隔離施設の子供です。親が感染したから、隔離されていたんです。親は動けない状態なので、その子供たちも一緒にいます。その中には、親と同じように感染した子もいれば、そうでない子もいました。でも外は物騒だし、食料も限られる。だから、同じ場所に住むしかないんです。感染した子は親も頼れず、薬ができるのを待ち続けています。感染していない子は、マスクで予防しながら、家族や仲間と一緒に生活しようと努力しています。みんなを助けるには、レヴォリを倒して、薬が完成するのを待つしかありません」


「奴を倒せたとしても、ノストワが早めた投下日が元に戻るだけだ。せいぜい、一週間後ろ倒しになるくらいだろう。いずれにせよ、この国が爆弾で消えるのは、そんなに先じゃないぞ」


「それでも! 僕たちは信じて待ちます!」とオレグが噛みしめるように叫んだ。




 サンドラは僅かに肩を震わせながら、誇らしげな顔で三人を見つめた。




「……なるほど。君たちがもっと早く生まれ、軍に入っていたら、どんなに心強いことか」




 大佐が目を丸くして、ガスマスクの方を振り向いた。




「だが、それでも不十分だ。国が子供を戦地に向かわせるには、理由が足りない」


「え……、理由って?」とニーナはきょとんとして呟く。




 すると、オレグがゆっくりと手を挙げた。




「あの、もしかしてですけど……。体面ってやつですか?」


「はぁ!? なんだよそれ!」とミカイルが叫んだ。




 大佐の眉が微かに動いた。他の誰も答えない。




「そんな……、人の命が掛かってるんですよ? そんなこと考えてる場合じゃないと思います!」とオレグが声を震わせた。


「彼の言うとおりです」とサンドラが一歩前に出る。


「ノストワがレヴォリの制圧に協力的でない理由。大戦後の経済停滞や、感染から国民を守ることが理由だと噂されているけれど、それは違う。このモグロボの軍事力に疑いを持って、レヴォリに勝てないと判断しているからですね。もし子供を軍に参加させたと知られれば、そこまでモグロボが追い詰められていると、露呈することになる。そうしたら、ノストワはモグロボを完全に見捨てるかもしれない。そうしたら……」




 ミカイルたちは不安げにサンドラの方を向いた。




「……ノストワがモグロボに断りもなく、予定日よりも前に爆弾を投下するかもしれない。もしレヴォリが勝ったら、感染が世界中に拡大してしまうから」


「えぇっ!?」


「そんな!」




 ニーナとオレグは思わず叫んだ。軍人たちは、目線をテーブルに落とした。




「でもよ、それなら爆弾が落ちる前に、俺たちがさっさとレヴォリを倒せば済む話だろ?」とミカイルが腕を組んだ。


「そうね。でも仮に倒せたとしても、軍に子供や感染者が参加したと世界中に知られたら、もともと敗戦国のモグロボの尊厳は、今度こそ地に落ちる。国として認めてもらえず、どこかの植民地になるか、国自体が吸収されるかもしれない。きっと権利や身分は平等に与えてもらえず、ひどい扱いを受けることになる。……すみません、憶測なので、もし間違っていたら言ってください」


「……いや、間違ってはいない。だからこそ、ことは慎重に判断しなければならない」とガスマスクが答えた。




 部屋が静まり返った。戦いに参加したい感染者たち。リスクと葛藤する役人や軍人。肖像画となった歴代の国王たちが、今を生きる者がどんな結論を出すのか、見届けようとしているようだった。




「あ~もう! めんどくせぇぇぇぇぇ! あと、ジロジロ見んな偉そうに!」




 ミカイルが急に叫びながら、奥の肖像画を指さした。誰に対して偉そうだと言っているのか分からず、全員が辺りを見回す。やがてオレグが、「……もしかして、昔の国王に言ってるの?」と聞いた。




「そうだ! 特に一番右の! あいつのせいで戦争になったんだろ?」




 ミカイルが指差しているのは、現国王の父親だった。国富の拡大のため、戦争の参加を命じたが、敗戦後は戦犯として、戦勝国の軍人に処刑されている。




「……何が、言いたいんだ?」と軍人の一人が眉間にしわを寄せる。


「だ・か・ら! ここにいる全員、別に悪いことしてるわけじゃなく、レヴォリを止めたいと思ってるんだろ? だったらそれで良いじゃんか。『モグロボや他の国のために、レヴォリを倒します。そのためには特殊能力を持った感染者の協力が必要で、それがたまたま中学生でした』って発表しちゃえよ」




 ニーナとサンドラは思わず噴き出した。オレグは「あの……、すみません……」と言いながらクックックと笑いを堪えている。その様子を見ながら、ガスマスクや軍人は呆然としていた。




「まったく貴様は……、今までの話を聞いてなかったのか!?」と大佐が声をあげる。


「嫌になるほど聞いてたよ。ノストワの裏切りとか、モグロボの面子とか。でもレヴォリが国境を渡って感染が広がったら、そんなこと言ってられないだろ? だったら意地張ってないでワケを話して、ノストワにも協力してもらおうぜ」


「まだ分からんのか。それではノストワや他国が、我々に対し……」


「どうなるか分かんない自分たちの先を心配すんな! みんなの今を考えろ!」




 ミカイルが大声をあげると、思わず大佐が固まった。




「……みんなの、今……」




 ガスマスクの一人が、言葉の意味を探るように呟いた。




「そうだよ。俺はこいつらと一緒に国境を目指してきて、分かったんだ。お互いのことを考えないと、結局自分が痛い目見るってな。変な奴らに絡まれて食いものを失くしたり、暴力団に襲われてピンチになる。でも協力し合ったら、食料や寝床も確保しながら、何とかここに辿り着けた。たぶんそれって、人だけじゃなく、なんていうか……、国も同じだと思う。俺らにできることは限られる。だからそれを打ち明けて、他の国に助けてくれって正直に伝える。そしたら、モグロボ人もノストワ人も、みんな助かる気がするんだ。力合わせなきゃ、レヴォリなんて一生かかっても倒せっこねぇよ。俺は奴を間近で見たんだ。それは断言できる」




 軍人は誰も反論しなかった。




「あらためて、私からもお願い致します。少しでも勝てる可能性が上がるなら、この子たちに参戦の許可をいただけないでしょうか。私が責任をもって、抗ウイルス薬の開発を実現させます。ですから……」


「もういい、分かった」




 中央のガスマスクが口を開いた。サンドラは言いかけた言葉を飲み込む。




「事態は深刻だ。君たちの言うとおり、我々だけで対処するという考え方を、払拭しなければならないようだ。だが、私たちに最終的な決定権はない。これから君たちの意向を国のトップに伝える。結論が出るまで、しばらく待っていてくれ」




 そのガスマスクが立つと、他の者も席を立って退出した。


 ミカイルたちは互いを見て、黙ったまま頷いた。そしてこの部屋まで案内してくれた軍人が、再び四人を連れて外に出る。先ほどの部屋に戻ると、ソーニャとゴランが立ち上がった。




「よっ! 政府のバカどもに、ぶちかましてやったか!?」とゴランがオレグの背中をバシッと叩いた。


「イッテ! ぶちかますって何さ。一緒に戦いたいって伝えただけなんだから」と口を尖らせ、少し笑いながらミカイルと肩を組んだ。




 ニーナは一目散にソーニャの方へ駆け寄って、抱きついた。




「それで、どうなったの?」とソーニャはニーナの頭を撫でながら、サンドラに確認した。


「今、政府のトップに指示を仰いでもらっています。可能性は……、五分五分ってところかと」


「……そうなのね」と呟きながら、ソーニャは力強く抱きしめた。






* * * * * * * * * * * *






 一時間ほど待っていると、一人の軍人が部屋に入ってきた。




「特別に許可が下りた。ミカイル・ニーナ・オレグの三名の入隊を許可する」




 三人は若干の間の後、すぐに飛び上がり叫んだ。




「やったぁぁぁぁぁぁ! これで一歩前進!」とニーナが右脚を天井に突き上げた。


「レヴォリと戦えるんだね! はは……、嬉しいような、怖いような」とオレグが控えめに喜んだ。


「よし、俺があいつらを止めてやる」とミカイルが拳を握りしめていると、軍人が「あぁ、ちなみにミカイルは司令室で待機だ」と付け加えた。


「はぁっ? 何でだよ!?」


「君には戦力ではなく、情報源として協力してもらう。特殊能力がないのに、どうやって戦うんだ?」


「それは……」


「今、政府は各地区の軍隊を国境基地に集めている。敵が動き出す前に、体勢を整えるためだ。彼らに君たちを基地へ連れて行ってもらうことになった。それまで待機だ」




 軍人はそう言うと、さっさと部屋を出て行った。




「ちっ。何だよ、俺だけ司令室って」


「でも良かったじゃない。一応、この門を正式に抜けられたんだ」とオレグが宥めた。


「そうそう。ミカイルが軍に入るなんて、あり得ない奇跡なんだから」とニーナが茶化す。


「うるせえ! お前のこと、ナントカ室って所から、こき使ってやるからな!」


「やれるもんなら、やってみなぁぁぁ!」




 ニーナが両足でミカイルを腕ごと締めあげる。ミカイルが笑って悲鳴を上げている間、ソーニャが目に涙を浮かべながら呟いた。




「私はニーナを子ども扱いしていたみたいね。孤児院という場所に縛られてしまっていると思ったけど、ちゃんと自分で考えて、意志を持って行動している。孤児院でずっと一緒にいることを、私が勝手に当たり前と思っていたのかも」




 サンドラはソーニャの肩にそっと手を乗せた。




「あなたのその優しさで、あんなに成長されたんですよ。私だけじゃ、ミカイルにあんな子供らしい笑顔を取り戻させてあげられなかった。それに、少し見ないうちに、ずっと逞しくなってる。ニーナやオレグのおかげだと思ってます」




 ふとゴランがオレグに近寄り、締め付けるように抱きしめた。




「痛いぃぃ! なんだよ急に」とオレグが悶えながら逃れようとする。


「いいか! 絶対に死ぬんじゃねぇぞ! 生きて帰って、俺と一緒に弁当屋を頑張るんだ。母ちゃんのためにもな」




 オレグは抵抗するのをやめた。そして「うん」と短く言いながら、温かく分厚い体に頭をもたれた。


 それを見たニーナは、すっとミカイルを解放して、ソーニャの方を向いた。




「先生。行ってくるよ」


「……お願いだから、無理だけはしないでね。あなたに何かあったら、わたし……」とソーニャはほろほろと泣き出した。


「大丈夫だよ。ちゃんと帰ってくる。先生やみんなが好きだから」




 ニーナは今にも膝から崩れ落ちてしまいそうなソーニャを、支えるように抱きしめた。


 ミカイルとサンドラはその様子を黙って見ていた。そして目が合うと、サンドラがさっと両腕を広げた。


 ミカイルは頬を赤くしながら、ぶんぶんと首を横に振った。するとサンドラが走って近づいた。ミカイルは逃げようとしたが、首の襟を掴まれて引き寄せられ、強引に抱きしめられる。




「がぁーっ! やめろって! 恥ずいだろ!」とミカイルが抵抗する。




 サンドラは「まったく、いつまでも親心が分からない子ね」と呟き、一緒に過ごしていた昔の日々を思い返していた。






* * * * * * * * * * * *






 ミカイルたち三人は軍人に案内され、車で移動し始めた。車中では紙製のマスクを手渡され、常に着用するよう指示された。やはりガスマスクのような高価な代物は、偉い人しか身につけられないらしい。


 サンドラは別の車で研究施設に戻る。基地の近くに施設があるため、途中までの道のりは三人と同じだった。


 ソーニャたちとゴランは他の民間人と同じように、要塞門と基地の間に点在する建物で、寝泊まりすることになった。


 門を突破して皆に再会できたことで、緊張感が解けた三人は、車の中で死んだように眠った。途中、道路が舗装されていない所で車が激しく振動したが、後部座席のいびきは途絶えなかった。




「ほら、着いたぞ! 国境基地へようこそ」




 運転していた軍人の声で目が覚めた。いつの間にか車が止まっている。門を出発したのは真夜中だったが、辺りはすっかり明るくなっていた。


 ミカイルは運転席と助手席の間から身を乗り出し、フロントガラスの向こうの景色を覗き込もうとした。




「うおぉぉぉ! すげぇ~」


「ちょっとミカイル! 早く車から出なさい!」とニーナがミカイルの上着を引っ張り、車から引きずり出す。


「すごい。あれが国境なんだ……」と先に車から出ていたオレグが呟いた。


「やっと着いたんだな」とミカイルが両手を腰にあてる。


「……うん」とニーナとオレグが、これまでの長い道のりを噛みしめるように頷いた。


 


 三人が見つめる先には、まるで山のようにそびえ立つ、巨大な建物が建っていた。その両脇には、自然が作り上げた絶壁の崖が雲を突き抜け、頂上が見えないほど空高く伸びている。手前には、基地らしき建物が点在していた。


 これが国境だ。そしてこの先に、大勢の国民が爆死から逃れようと向かっていたノストワ国がある。




「すっげぇ、高い建物……。誰があんなの造ったんだ?」とミカイルが遠くを捉えようと目を細める。


「へへへ、馬鹿デカいだろ? あれは九十九階まであるんだよ」と軍人が子供をからかうように言うと、ニーナとオレグが「九十九階!?」と同時に叫んだ。


「大戦争は知ってるだろ? その後にノストワ側の半分をノストワ、モグロボ側の半分をモグロボが建築したんだ。九十九階に扉があって、正確にはそこが国境だ。そこからお互いの国に行き来できる。万が一攻められても大丈夫なように、建物の中は複雑で迷路みたいな構造になってんだ」


「あそこに軍人がたくさんいるのか?」とミカイルが聞いた。


「あぁ。全フロアじゃないが、武器庫や食料庫もあるからな。その整備や点検とかも軍の仕事なんだ。一階には司令室があって、あちこちに設置されたカメラで、部屋や廊下の様子が分かるようになってる。もし侵入者が現れても、どこにいるかすぐ分かるから、一網打尽さ」と軍人は自慢気に話した。


「確かに基地は凄そうだけど……、あっちの山から迂回して、ノストワに行くことはできないんですか?」とオレグが基地の両脇に伸びる崖を指差した。


「そりゃ無理だ。あそこは年中ひどい雷雪で、人が生きて渡れるような場所じゃない。ほら、建物の上まで雷が光ってるだろ? だから建物の中を通らないと、国境は渡れないんだ」




 しばらく待っていると、カーキ色の軍服を着た男が近づいてきた。




「君たちが、えーと……。ミカイル・ニーナ・オレグだね?」とメモを見ながら三人を確認する。


「僕は案内係の者だ。もうすぐ会議が始まるから、一緒に来てもらうよ」




 軍人は案内係と少し雑談をした後、挨拶もせず、車でどこかへ行ってしまった。それから三人は案内係と共に、会議が始まる建物へ向かい始めた。


 ミカイルは歩きながら、辺りをキョロキョロと見回した。国境基地というくらいだから、政府がお金を掛けて、豪華な建物や厳重な警備がなされていると想像していた。しかし実際は違った。歩いている道路はあまり補整されておらず、土の塊や石がゴロゴロと転がっていた。また、国境基地以外の建物は、マルテで見かけるものとあまり変わらず、それほど大きくもなかった。


 ただ違ったのは、道を歩く人が役人や軍人であること。そして、途方に暮れて徘徊する人や感染者がおらず、混沌としていないことだった。まるで既にモグロボを抜け、別の国に入ったような感じがした。


 途中で来客用の棟に寄り、部屋に荷物を置いた。四階建ての建物で、三階の一室が貸し与えられた。部屋には二、三人が並んで眠れる大きなベッド、台所と冷蔵庫、そして隅に小さなテレビがあった。きっとソーニャやゴランが案内された所も、似たような造りなのだろう。この部屋は三人用にしては簡素で手狭であったが、今までと違って誰にも襲われる心配がないせいか、不思議と豪勢で立派な部屋に感じられた。




 そこからさらに十分ほど歩くと、比較的大きな建物が見えてきた。ドアの両脇には、帯刀した警備員が立っている。案内係が首に下げているカードのようなものを見せると、警備員がドアを開けた。


 中に入ると、幅の広い大階段が目に入った。赤い絨毯が敷かれ、手すりには細やかな装飾が施されている。階段は二階へと続いており、その先には開きっぱなしの重厚なドアが見えた。


「なんか、豪勢だね。何かの演劇の舞台みたい」とオレグが呟いた。


 案内係が「会議室はこの先だ」と言いながら階段を上り始め、三人もそれに続いた。軍人たちが書類を手にしながら、せわしなく階段を上り下りしている。会議の準備に追われているようだった。


 二階のドアの奥には、大きな会議室が広がっていた。口の字型にテーブルが並び、各席には役職や名前の記載された札と、水が置かれている。既に多くの軍人が席に着き、書類を読んだり通信機で誰かと話したりしていた。




「じゃあ、自分の名前の札がある、そこの席に座って。僕の案内はここまでだ」と言うと、案内係はさっさと部屋を出て行った。




 三人の席はドアの近くだった。ずっしりとした木製の重い椅子を引いて座ると、「ほーう。なんか偉くなったみたいだな」とミカイルが満足けに腕を組んだ。




「ミカイルが偉くなったら国家はお終い。あんまりはしゃがないで」とニーナが制した。




 するとオレグが「うん、その方がいいかも」と周りをチラチラと見た。どの軍人も左胸に煌びやかな勲章をつけている。これは役職の高い人が集まる会議らしい。その中には、前の会議でやたらと盾突いてきた大佐の姿も見えた。




「げ……、あいつもいんのかよ。でも、ますます偉くなった気分」とミカイルが嬉しそうに言うと、「バカイル」とニーナが呟きながら、足でミカイルの椅子を小突いた。




「時間になりました。それでは始めさせていただきます」




 背の低い軍人が、マイクで会議の開始を宣言した。会議の進行係らしい。すると、奥の席の軍人がマイクを取った。




「諸君。この会議では、レヴォリに関する情報を整理し、倒すための作戦を決定する。まず、現状把握できている情報を全て共有してくれ」




 軍人たちが机の書類を手に取った。三人も同じように読み始める。しかし難しい用語や表現が並んでおり、なかなか読み進められない。




「……期末テストの方がマシだ」とミカイルが頭を掻く。


「それでは私から説明させていただきます。まずは、敵の直近の動きからです」と一人が立って話し始めた。三人はお互いを見て少し笑うと、書類を置いて話を聞くことに集中した。




 レヴォリと連れの回復者は、三日前に要塞門を突破して、この国境基地のどこかに身を潜めているようだった。軍人が物置や建物の天井、人通りの少ない路地など各所を見回っているものの、居場所を頻繫に変えているようで、未だ手がかりが掴めていない。たまに人を襲い食べているらしく、あちこちで死体が発見されている。しかし、現場の目撃者はいなかった。


 また、二人の生立ちや戸籍などの情報は、ほとんど収集できなかった。本来は、国民の名前や住所などが役所に記録されているようだが、該当する名簿が見つからなかったらしい。


 考えられる理由は複数ある。たまに、民間人が役所への届け出が必要なことも知らず、戸籍が登録されないケースもある。また、一部の地域では、戦後から役所の環境や体制が復旧しておらず、戸籍などの管理がずさんになっているらしい。戸籍登録をしても、何らかのミスで情報が紛失されることさえ珍しくないようだった。




 次に、レヴォリが国境を渡ろうとする目的や、政府に対する要求についても整理された。内容自体は、数日前に通信で伝えられたものと同じだった。一つは、自分たちを安全にノストワ国へ案内し、治療薬の精製の手伝いをさせること。もう一つは、それまでの食料、つまり人肉を提供することだった。


 そして、レヴォリが要塞門近辺で放送した方法が判明した。昨夜の警察の調べにより、門の放送室から宣言の録音テープが発見された。問い詰められたそこの放送係は『数日前にレヴォリに襲われ、テープを流さないと家族を殺すと脅された』と白状した。また、脅されたのは深夜の仕事帰りの道中で、暗くてレヴォリの顔や手掛かりになることは分からなかった。なお、放送の途中で賛同した感染者の声が聞こえたが、彼らは放送室に近い所から叫び、誤ってオンになっていたマイクに収音されたものと推定された。




 当然のことながら、政府はレヴォリの要求など呑めない。既にモグロボはノストワからほぼ見捨てられている状況にあり、レヴォリの案内を依頼することは不可能だった。そもそも残虐で凶暴な感染者など、受け入れられるはずがない。また、爆弾で感染者を葬り去るという反道徳的な決断に加え、犯罪者への人肉の提供などできるはずがなかった。そんなことをすれば、モグロボ政府は全ての人や国から信頼を失い、滅びてしまう。


 レヴォリ自身、無茶な要求であることは分かっているはずだった。それでは、なぜそんな宣言をしたのか。それは、レヴォリには自らの力で国境を越える自信があり、要求自体はダメもとだったと推察された。




「ダメもとで、わざわざテープなんて用意するかな……」とオレグが呟く。




 そこで話は、レヴォリの戦闘能力に移った。見つかった死体の解剖結果が発表され、攻撃の特性や威力について議論が交わされた。しかし、それも想像の域を超えておらず、「こんな憶測ばかりの調査じゃあ、作戦が立てられん!」と苛立ちの声も上がった。


 すると進行係が、ざわつきを宥めるようにマイクを取った。




「えー、皆さん。本日は貴重な目撃者を呼んでおります。ミカイル君、敵について知っている情報を全て話してくれ」




 軍人たちが一斉にミカイルの方を向いた。ミカイルはニーナに促され、席を立って話し始めた。




「えーと。俺はこの基地に向かう途中、ボレルでレヴォリに会ったんだ。暴力……、悪い奴らに襲われてる時、レヴォリが急に現れた。男たちが騒ぎだしたのを見て、そいつが国境に向かいながら人を襲っていると噂されてた殺人鬼だと知ったんだ。レヴォリは男たちを殺し始めた。あっという間だった。銃で撃たれても、ちょっと痛そうにするくらいで、傷つかない。すごいスピードで走るんだ。信じられない距離をジャンプする。それで手足を折って動けなくして……」




 ミカイルは手で首筋を覆った。軍人たちは沈黙したまま、鋭い眼差しを向けている。




「男たちの首元に、かぶりついていった。血を吸って、肉も食べていた。残った奴らは、血相を変えて逃げた。俺も殺されるかと思った。でも、タチアナが俺を襲わないようレヴォリに言ったんだ。レヴォリは、逃げた男たちを追いかけて行った。それからタチアナは、俺が怪我をしている所に手を当てて、傷を治してくれた」


「待ってくれ。そのタチアナってのは?」


「レヴォリの連れだよ。感染から回復して、傷を治せる力があるんだ」




 会議室が一気にざわつき始めた。タチアナが感染から回復した者であることは把握していたものの、治癒能力については初耳だったようだ。一人が手を挙げ、「傷が治るって、具体的にはどんな感じだ?」と聞いた。




「ん……、何て言うか、手の触れている所が温かくなったんだ。そこだけお湯につけたタオルを当ててるみたいな感じだ」




 皆が顔を見合わせた。にわかに信じがたいようだった。




「どうして、タチアナという女は君を逃がしたんだ?」




 ミカイルはしばらく沈黙した。服の襟で見えないはずだが、首元の印を見せまいと、肩を斜めに向ける。オレグが心配し、小さく「ミカイル?」と声を掛けた。




「……はっきりは分からない。でも、きっとタチアナは悪い奴じゃない。さっきも言ったけど、俺の怪我を治してくれた。たぶん、レヴォリに無理やり連れていかれてる、可愛そうな奴なんだ。だから、助けてやんなきゃいけない」




 再びどよめきが走ると、大佐がそれを鎮めるように大きな声を発した。




「全く説明になっていない! それならお前だけでなく、他の男たちも逃がしたはずだ。それに傷を治した後は、またレヴォリの後を追っていったんだろう? やはり、自らの意思で奴に加担している」と理詰めをした。




 すると「待ってください!」とニーナが立ち上がった。




「すみません、ミカイルはバカで説明が下手で……。あたしの推測なんですけど、ミカイルだけ特別扱いした事情があると思うんです。ほら、ミカイルは……、あたしやオレグもですけど、感染者ですし。もしレヴォリが感染者を味方につけるつもりなら、あたしたちを襲うのはおかしいじゃないですか! うん、そうですよ、きっとそうです! すみませんけど、レヴォリたちに会ったのは一回だけなんです。これ以上は詳しく分かりません」




 しばらく軍人たちは何かを話し合い、三人はその様子を黙って見ていた。やがて大佐が再び声を上げる。




「静かに! これ以上は議論しても仕方がない。ミカイル、奴らの手がかりになることを他に思い出したら、すぐ知らせろ。さあ、残りの情報の整理だ」




 進行係の軍人が議題を変えると、ミカイルとニーナはゆっくりと座った。




「おい、みんなの前でバカって言いやがったな」


「助けてあげたんだから、文句言わないの」




 すると、一人の軍人が慌てて会議室に入ってきた。




「会議中失礼いたします! たった今、ノストワから正式に発表がありました。我が国に援軍を送るとのことです!」




 会議室が歓声に包まれる。どうやらノストワも殺人鬼の侵入を恐れ、軍の派遣を決定したらしい。そしてそれは、モグロボでは敵を止められないと判断したことを意味していた。しかし軍人たちは気がつかないフリをしているのか、それについては触れなかった。


 その後は、レヴォリを倒す作戦について議論が行われた。難しい内容は分からなかったが、基地の各階に少人数の小隊を配置して迎撃する作戦であることは、何となく理解できた。




「ねぇ。よく分からないけどさぁ、この作戦でレヴォリを倒せそうかな?」とオレグが小声で二人に聞いた。


「大丈夫。いざとなったら、あたしの蹴りでボッコボコだよ」とニーナが議論に燃える軍人たちを見ながら答えた。


「あぁ、それに俺が何とかしてやる」とミカイルが拳を握る。




 ニーナとオレグは顔を見合わせ、「何とかって、どうするの?」と聞いた。




「うるせぇっ。とにかく何とかするんだ!」とミカイルは腕を組んで、ドカッと背もたれに寄り掛かった。二人はため息をつきながら、机の水を一気に飲み干した。






* * * * * * * * * * * *






 作戦や各隊の配置が決まると、軍人たちは会議室を出て、それぞれの準備を始めた。武器の在庫や基地の構造の確認をする者もいれば、部下に体制を整えるよう指示を出す者もいた。


 三人は軍人用のトレーニング場に案内された。特殊能力があるといっても、戦いについては素人で、何よりまだ十四歳の子供だ。いつ戦闘が始まっても隊の一員として動けるよう、最低限の知識や体術、武器の使い方を習う必要がある。


 トレーニング場は、作戦会議が行われた建物に併設されていた。ミカイルは学校の体育館を思い出した。トレーニング場のドアには、受付係の者らしき軍人が立っており、出入りする人を確認している。




「この三人は戦闘に参加することになった例の子供たちだ。トレーニングを受ける必要があるから、通してやってくれ」と案内係が言った。すると「……戦うのは二人と聞いている。そうじゃない者の入室は許可できない」と受付係がミカイルの入室を拒んだ。


「何でだよ!? 俺も戦うかもしれないぞ! 訓練受けたっていいじゃねぇか!」とミカイルが嚙みつく。


「今は大勢が戦いに向けて準備していて、中はいっぱいだ。訓練を受けなければならない者を優先する」と受付係は正論で返した。




 しばらくごねていたが、結局中に通されたのはニーナとオレグだけだった。


 ドアをくぐったところでニーナが「それじゃね。大丈夫、訓練はあたしたちに任せなさいって」と手を振る。ミカイルが羨み睨んでいると、受付係がその視線を遮断するように、ドアを閉めた。


 ミカイルは訓練の様子を見たくなり、建物から出て周りを歩き始めた。中からは気合の入った号令や、たまに銃声が聞こえてくる。建物の壁には、所々ガラス窓が設置されていた。しかし、大人がジャンプしてやっと見える高さにあり、ミカイルでは飛び上がっても、手を触れることさえできなかった。




 歩き続けてニ十分ほど経ち、建物を一周するところまで差し掛かった。ミカイルがため息をつきながら地面に目を落とすと、ネズミがトコトコと走っているのが見えた。これまでの道中や寝泊まりした空家では嫌というほど見かけたが、国境基地では初めてだった。調理場かゴミ捨て場で拾ったのか、口には野菜の切れ端を咥えている。ネズミは建物の壁を上り始めた。そして窓よりも高い位置にある通気口を通り、建物の中に入っていった。


 ピンときたミカイルは、建物を一周して、出入り口をそうっと覗いた。受付係が相変わらずドアの近くに立っている。そして受付をしている間に目を盗み、出入り口を通って、そばにあるトイレに向かった。




「あった!」




 思わず声が漏れる。トイレの個室の天井には、通気口に繋がる小さな扉が設置されている。周りに誰もいないことを確認すると、ジャンプして個室の壁によじ上り、扉を押し上げた。そしてすばやく天井裏に身を潜め、音でバレないように、そっと扉を閉める。一瞬真っ暗になったが、すぐに目が慣れて、見えるようになってきた。どこからか僅かに光が入ってきているらしい。


 天井裏はひんやりと冷たい空気が緩やかに流れていた。さっきネズミが入ったような通気口から、空気が出入りしているのかもしれない。中は思ったよりも綺麗で、床や壁には艶やかなステンレスが鈍く銀色に光っていた。


 頭の中で方向を整理し、トレーニング場がありそうな方へと進む。通路の高さや幅は、五十センチメートルくらいある。大人では通るのが難しく、ミカイルの体の大きさでもハイハイでやっと進める広さだった。途中で食べ物の破片やゴミが落ちていた。きっとネズミか他の小動物の仕業だ。




 少し上り坂になっている長い通路を黙々と進んでいくと、人の声が反響して聞こえてきた。トレーニング場の上に来ているのかもしれない。近くの扉をゆっくりと開け、小さい隙間を覗く。


 すると下には、学校の体育館のような作りの運動場が広がっていた。ただ体育館の四倍ほどの広さがあり、大勢の軍人が訓練に励んでいる。幸いにも天井は高く、大声を出さない限り気づかれる心配はなさそうだった。


 運動場は幾つかのエリアに分かれ、それぞれ異なる訓練が行われていた。組み手で試合のようなものをしていたり、ナイフや剣など武器の使い方を練習している。また、通信機や小型モニターを持っている者もいた。機械の点検や操作も、トレーニングの一貫なのかもしれない。




「いいな。俺もやりてぇ」




 しばらく眺めていると、ニーナを見つけることができた。更衣室で着替えたのか、緑と茶色の混じった迷彩服を着ている。前には大柄な軍人が立っており、ニーナは相手の頭や胸の辺りに、ゆっくりと手や足を延ばしている。どうやら体術を習っているらしい。軍人の掛け声に合わせ、リズムよく体を動かしている。ミカイルは、ニーナの馬鹿力に体術が加われば、レヴォリに勝てるかもしれないと思った。


 隣のエリアにはオレグがいた。軍人の動きを真似ながら、ナイフや剣を振り下ろしている。ニーナと同じ迷彩服に着替え、ポケットには幾つかのナイフが収納されているようだった。よく見ると、ヘッドホンが迷彩柄に変わっていた。別のエリアで銃を持っている軍人たちも、同じヘッドホンをしている。防音効果の高いものが、特別に支給されたのかもしれない。これなら銃撃戦が繰り広げられても、オレグが爆音に悩まされずに済む。


 二人とも真剣な表情で訓練を続けていた。時々大きな声を出し、額には汗が流れている。まるで本当に軍に入隊し、新人教育を受けているように見えた。


 ミカイルは、どうレヴォリと戦えば良いか、そしてどうすればタチアナを説得できるかを考えた。ニーナには脚力、オレグには聴力がある。でも自分には、小さな体しかない。長い時間トレーニング場を眺めていたが、結局答えは見つけられなかった。






* * * * * * * * * * * *






 やがて訓練が終わると、ミカイルは来客用の棟へ戻ることにした。もし出歩いていたことがバレたら、またニーナに小言を言われると思ったからだ。


 元来た通気口を戻り、天井の扉を静かに開ける。そして誰も近くにいないことを確認してから、トイレの個室の中に降りた。


 建物を出て、いそいそと来客用の棟へ向かう。途中、高そうな服を着た中年の女性とすれ違った。政府と関係があり、特別に来客用の棟に案内されているのかもしれない。他の民間人の姿はなく、レヴォリを恐れて部屋に身を潜めようとしているみたいだった。


 部屋に戻ってしばらくすると、ニーナとオレグが入ってきた。




「あ~。疲れた、疲れた!」


「ニーナ、頑張ってたもんね」




 二人は互いの健闘を称えながら、ミカイルと同じようにマスクを外した。そして、背負っていた重そうなリュックを、ドカッと床に置いた。




「なんだ、そのリュック」


「武器とか食べ物が入ってんの。いざ戦闘が始まった時にすぐ動けるよう、持っておけだって」とニーナはそばの椅子にぐったりと座った。


「どんな訓練だったんだ?」




 ミカイルはトレーニングの様子を覗いていない体で聞いた。




「銃とかナイフの使い方。あとは相手の急所の突き方かな。目とか心臓とか、あと関節技とか。例えばこんな風に~!」




 ニーナは悪戯そうな低い声を出しながら、ミカイルに羽交い絞めを仕掛けた。




「ぐおぉぉぉぉ。やめろ! やめろって馬鹿力女!」




 オレグはその様子を見ながら、耳を抑えて笑った。




「ニーナすごいんだよ。組み手をしたんだけど、軍の人に全然引けを取らないんだ。片脚で相手の武器を抑えて、もう片方の脚で倒してた。僕なんて護身術が精一杯だった。ナイフ使うのも自信ないな……」


「これがサッカーで鍛えた成果ってもんよ。今までのサバイバルでもタフになったし。ま、楽勝ね」


「さすが馬鹿ぢ……」




 言葉を遮るように四の地固めを仕掛けられ、部屋にはミカイルの悲鳴が響いた。




 夜の七時過ぎ、茶色のエプロンを着たおばさんが、たくさんの食器トレーを収納したワゴンを運んできた。来客用の夕食で、食パンと野菜のスープだけの簡素なものであった。おばさんが玄関にワゴンを止め、トレーを差し出す。




「なぁ、これだけか? 軍の基地なんだから、もっとあるのかと思った」とミカイルが口を尖らせながら受け取った。


「失礼でしょバカイル! この状況なんだから、作ってもらえるだけありがたいと思わなきゃ」




 ニーナが注意すると、おばさんが「あ、みんなには他のもあるのよ」と大きなトレーをワゴンから出した。そこには大きな鶏肉が入ったチキンライス、たくさん具材の入ったマッシュポテト、茹でられた様々な種類の豆が盛り付けられていた。


 ミカイルが踊りだしそうな勢いで「こんなにたくさん、すげぇぇぇ! うまそうだな!」と叫んでいる中、オレグが「あの、これってどうしたんですか?」と聞いた。




「あたしも詳しくは知らないんだけどねぇ。あんたらのお連れさんが、どうしてもって頼み込んで、厨房を貸してもらったらしいわよ。食材は持ち合わせがあったみたいで。とっても優しいのね。あんたらの親かしら? それにしても、よくこのご時世にこんなに野菜や肉があったわねぇ」




 三人は、ゴランのトラックに積まれていた食材だと分かった。きっと政府が用意する食事では足りないと思い、作ってくれたのだ。ホクホクと湯気の立つチキンライスを見つめながら、オレグは母親を思い出して肩を震わせた。チキンライスは、生前に母親がよく作ってくれた大好物だった。




「このマッシュポテト。孤児院の人気メニューだよ。よく取り合いになって、子供たちがケンカしてたっけ」




 ニーナはおばさんからトレーを受け取り、部屋のテーブルに置いた。




「……ソーニャ先生も、作ってくれたんだ」とマッシュポテトの乗ったお皿の縁を優しくなぞる。


「ここには政府のお偉いさんが来ることもあるから、選りすぐりの料理人が多いんだよ。でも、お連れさんは腕が良いって、厨房で評判になってたらしいよ。にしても嬉しいもんだねぇ、こんな時に家族の作る料理が食べられるなんて」




 おばさんがワゴンを押して別の部屋に向かっていくと、ニーナとオレグは大きな声で礼を言った。


 ミカイルはその背中を見つめながら、マルテの配給係のおばちゃんを思い出していた。国境近くで再会した時は、気味悪がって何もできず逃げてしまった。もし、また会うことがあっても、自分には症状を治したり痛みを和らげることはできない。それでもせめて、ご飯だけでも渡してあげたいと思った。




 料理を平らげると、三人は備え付けの台所で食器やトレーを洗った。そして歯磨きや入浴をして寝る準備を済ませ、大きなベッドに並んで横になった。ニーナとオレグは、明朝に再び訓練を受ける。早めに体を休ませる必要があった。


 オレグが部屋の電気を消す。外はもうすっかり暗くなっていた。曇っているせいか、空に星はほとんど見えない。監視用のライトの光が時々窓をなぞり、部屋を一瞬だけ明るくした。




「レヴォリはいつ現れるのかな」




 オレグが窓を眺めながら呟いた。




「さあねー。うちの隊長は二、三日後じゃないかって言ってたけど」




 ニーナは寝転がりながら足を宙に浮かせ、円を描くようにグルグルと回している。寝る前の整理運動だった。




「戦いが始まったらどうなんのかなー。なんか、想像つかねえや」


「そりゃあ、ミカイルの頭じゃ想像つかないでしょ。あたしたちに任せて、司令室でおとなしくしてなって」


「まだからかうのか馬鹿力。俺は何とかしてレヴォリを倒して、タチアナも助けてやるんだ」


「会議でも言ってたけど、なんでそんなにタチアナを助けたいの?」とニーナが聞いた。


「別に何でもいいだろ。……前に会った時、あいつは俺を助けたんだ。借りを返すだけだ」


「ふーん。でも『何とかして』って、司令室でどう戦うの?」


「それは……、とにかく何とかするんだよ!」




 オレグがベッドに戻って横になりながら「ミカイルが何とかするの楽しみだね」と笑った。




「おい。信じてないだろ」


「信じてるよ。でも本当に想像つかないね。戦争なんて、教科書で習っただけだもんな」


「始まったら……、たぶん一瞬じゃないかな。その時は長く感じるだろうけど。終わってみたらあっという間みたいな」とニーナが天井の奥を見透かすような目をして言った。


「俺たちがマルテを出てからみたいにかぁ~?」とミカイルが大きなあくびをした。


「そうそう! もう一ヵ月以上経ってるのにさ、なんか一週間くらいに感じない?」


「確かにそうかも。ここに辿り着くまで夢中だったからなぁ、色々」とオレグが昔話を語る老人のように呟いた。


「ねぇ、もしさ。レヴォリに勝って、あたしたちの体が治ったら、何したい?」とニーナが上半身を起こしながら、オレグに向かって聞いた。


「え? なんだよ急に」


「いいから! 考えた方が『何が何でも勝ってやる』って気になるでしょ?」


「そうだな……」




 オレグは再び窓の外を眺めた。




「僕は、父さんの仕事を手伝いたい。前は……、いつまでも飲食店の仕事に拘る父さんが、理解できなかったんだ。店を手伝うと、どうしても母さんのことを思い出す。未だにウイルスを撒き散らした店だって倦厭されて、お客も来ない。結局お金も入らなくて、生活も苦しくなる。痛みを抑える薬を買うのも、やっとだ。だから、父さんには別の仕事を始めてほしい、って思ってた。でも、最近さ……、もし自分が父さんの立場だったらどうだろう、って考えたんだ。そうしたら不思議なんだけど、店を閉じるのが、何ていうか……、悔しいって思うようになったんだ。だって、もし閉じちゃったら、父さんの料理がウイルスを媒介したって認めることになる。それに、今まで良くしてくれたお客さんの気持ちも、裏切ることになる。あとたぶん……、噂が広まって、僕も学校で感染者扱いされるようになったと思う。耳の障害で厄介者扱いされるだけでも、つらかったのにさ……。その上、感染者だっていじめられたりしたら、たぶん立ち直れなかった。下手したら、自殺してたかも。だから父さんは、僕が傷つくことも心配してたんじゃないか、って思うようになったんだ。僕、父さんに分かってもらいたくて、わざと店を手伝わなかった。今思うと、馬鹿だよ。結局それでお金が入らなくなって、自分の首を絞めてたんだ。だから、これからは僕が手伝って、店を大きくしてやろうって。そうしたらウイルスの件も疑いが晴れるし、生活費もたくさん稼げる。もし時間が掛かるなら、それまで僕が別の仕事をして、頑張ればいいって思うんだ」




 オレグはそこまで話すと、視線を窓の外から二人に向けた。すると急に恥ずかしくなり、顔を赤らめながら、再び外の景色を見つめた。




「えっと、何かベラベラしゃべっちゃったけど……。とにかく、レヴォリを倒して感染が治ったら、お店を復活させたい、ってことかな」




「そっか。きっとゴランのおっちゃんも喜ぶな。病院にも店を紹介してやるよ!」とミカイルが言った。


「うん! あたしも、ソーニャ先生にお弁当買ってもらうよう、頼んでみる!」とニーナが拳をオレグに向けた。




 オレグは二人の方を向いて、照れくさそうに笑った。




「……ありがとう。じゃあ、次はニーナの番だよ」


「あたしは、まず学校のサッカー部に戻る。当たり前だけど、やっぱりサッカーは一人じゃできないし、チームに所属してないと試合にも出られない。昔はこの手のことを笑われるのが嫌だったけど、もうどうでも良くなったかも。そんな奴らには言わせておく。あたしはめちゃくちゃゴールを決めまくって、そいつらを黙らせる。そうすればいいんだって思った。それで実力が認められたら、国の代表に選ばれて、世界で戦える。勝ってたくさんお金をもらって、ソーニャ先生や孤児院を助けられる! ついでに、あたしはサッカー界の女王!」




 ニーナは右足を天井に向かって、力強く蹴り上げた。ミカイルが「怪力の女王の間違いじゃ……」と言いかけると、その足を踵からミカイルの腹にドスンと落とした。




「ぐほぉっ!……。でも、サッカー部の先輩、嫌いじゃなかったか?」




 ニーナは落とした踵をグリグリと回した。




「ダ・イ・キ・ラ・イ! でも、結局サッカーはチームプレイだもん。仲間として力を合わせないと試合で勝てないし、孤児院も助けられない。あたしの意地より、ソーニャ先生や子供たちの方が大事。悔しいけど、顧問の先生と怪我を負わせた先輩には、頭下げないとね。一応!」とニーナは最後のとどめとばかりに、踵をぐいっと押し当てた。




 ミカイルが攻撃をかわして、ハァハァと呼吸を整えている間、オレグが聞いた。




「そういえばさ。例の……、感染者は探し続けるの?」


「ん……。もう、探すのは諦めようかなって。実は訓練の休憩時間中に、軍の人に頼んで、事件の記録ファイルとか犯罪者リストを、特別に見させてもらったんだ。でも、手がかりはなかった。やっぱり戦後だから、民間人の生死や被害情報とかは、完璧に記録されてないみたい。それに、これだけ感染者が増えちゃったら、もう探しようがないじゃん? 家族を殺したことは許せないけどさ。感染者もある意味で被害者だし。もう、ふんぎりがついた。サッカーに専念する」




 オレグは「……そうか。うん、そうだね」と言いながら、家族の死を思い出させる質問をしてしまったことを後悔した。


 ミカイルは黙っていた。もし犯人に会ったらどうするのか聞こうと思ったが、結局質問するのをやめた。




「で、ミカイルは?」とニーナがミカイルの方を振り向く。


「だから、俺はタチアナを助けるんだって」


「それはさっき聞いた。戦い終わった後のこと!」




 ミカイルは黙って天井を見つめた。そういえば、戦い終わった後に何をしたいかなんて、考えたこともなかった。




 薬が完成したら、体は元に戻るのか。




 もし戻ったら、自分は何をしたいのか。




「俺は……」




 ミカイルが口を開いた瞬間、外が急に赤く染まった。そして大きなサイレン音が鳴り響き、アナウンスが流れた。




「敵が基地に侵入した! 各隊は直ちに、配置に着け!」




 三人は驚いて、しばらくの間硬直した。しかし、すぐ互いを見て頷くと、ベッドから飛び降りて、力強く部屋のドアを開けた。

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