嘆くウイルス

 政府要塞門。


 モグロボ国には、幾つか国境基地が点在している。その中でも、最大の規模を成す基地。それが、国の最北端にあるユレイラの国境基地だった。敗戦国であるモグロボの再建に向けて、国王をはじめ、政府の重役や大勢の役人が集結し、政治の拠点となっている。また、基地の半分は、政府軍の要塞で構成されている。


 役人や軍人の領域であるユレイラと、民間人が暮らすボレル。その境を縁取るように連なる、国境基地の南側の高い壁。それが要塞門だった。政府の関係者でない限り、通常は要塞門に近づくことさえ許されない。しかし、今はウイルスに感染しているか検査する検問所となり、大勢の人が集まり大行列を成していた。


 反対に、基地の北側には、戦勝国であるノストワとの国境がある。その先には、ノストワや各国の大陸が広がっている。




「すげぇ人数だな……。こんなの初めてだ。学校の全校集会より多いな」とミカイルが口を半開きにする。


「当たり前でしょ、全国から人が集まってんだから」とニーナが突っ込む。


「たくさん行列があるね。どれに並べばいいのかな……」




 三人は辺りを見回した。遠くの方は砂埃でよく見えないが、少なくとも二十列はありそうだった。それら全てが、要塞門に向かって伸びている。どれでも検問を受けられると思い、近くの列の最後尾についた。


 人々は疲れ切っていた。今ここにいるのは、モグロボの最南端のマルテや、その周囲の地区から来た人ばかりのはずだ。今日までひたすら歩いて、およそ一ヵ月間かかった。食べ物は十分になく、寝床も限られた旅路。心身共にボロボロなのは当然だった。皆が最後の気力をふり絞り、検査の順番を待ち続ける。




 並び始めて三十分程が経った。既に後ろには、百人以上の人が続いている。


 すると、隣の列の後方から声が聞こえてきた。




「お父さん? ねぇ……、ちょっと! お父さん!」


「お母さんどうしたの? おじいちゃんが動かないよ?」




 三人の家族のようだった。母親と、四才くらいの女の子。そばには、おじいさんが倒れている。母親のお父さんだろうか。母親は泣きながら、おじいさんの肩を必死に揺らしている。女の子は何が起きたのか呑み込めず、不安な表情で二人を交互に見ていた。


 やがて、その列の人たちが前に進んだ。家族の後ろに並んでいた人たちは声を掛けず、ただ申し訳なさそうに順番を抜かして、先の人に続く。家族はいつの間にか列から外れ、取り残された。


 ミカイルたちは顔を見合わせた。




「かわいそう……、ここまで来たのに」とニーナが呟いた。


「あぁ……。あのじいさん、体力がもたなかったんだな……。持ってる食べ物、もう小さい豆の缶詰しかねぇけど、渡してやろうかな」


「ミカイル。気持ちはわかるけど……。たぶん、やめた方がいいよ」




 母親は大声で泣きながら、おじいさんの胸元に顔をうずめていた。いつの間にか、女の子も泣いている。やがて、ミカイルたちが並んでいる列も動き出し、家族は砂埃で霞んで見えなくなった。


 さらに二時間が経過した頃、要塞門の百メートルほど手前まで近づいた。五階くらいの高さの壁が横にずらっと並び、巨大な塀を成している。屋上らしき場所には、等間隔に軍人が立っている。迷彩服を着て、銃を構えていた。


 列の先に、小さな扉のようなものが見え始める。あそこから中に入り、検査を受けるようだった。




「もうすぐだね。あと三十分か一時間、ってところかな」とニーナが検問所の方を見て目を細めた。


「早く検査受けて、座ってメシ食いたいな。なぁ、オレグも腹減っただろ?」




 ミカイルの声が聞こえなかったのか、オレグは目を凝らして遠くを見つめている。




「おい、どうした?」


「……父さん?」


「えっ?」とミカイルはオレグの視線の先を辿った。すると、隣の列の三十人分ほど前方に、見覚えのある大柄の男が立っていた。


「……おい、マジか? ゴランのおっちゃん!?」




 思わず飛び出た大声で、周りの人たちが三人に注目する。その声が耳に入ったのか、男が振り返った。分厚い胸板に、太い腕や脚。顔は髭だらけになり分かりづらいが、間違いなくゴランだった。




「お……、まえ。ミカイル、なのか? それに……、おいオレグ! オレグか!?」




 ゴランは長時間並んでいたであろう列をさっさと抜け、後方にいる三人の方へ走ってきた。そして一目散に、オレグのところへ駆け寄り抱きついた。




「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ! オレグ! オレグぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!」




 ミカイルに負けない大声で、周囲の注目を集める。オレグは父親との急な再会に頭がついていけないのか、目を丸くして直立していた。






* * * * * * * * * * * *






 ゴランは爆弾投下が予告された朝、オレグと共に仕事用のトラックで国境を目指すつもりだった。


そのために出先のラギーナから急いで家に戻ったが、既にオレグはミカイルたちと合流しており、会うことができなかった。


 三日ほど、家の周辺からマルテの隅々までオレグを探し続けた。しかし見つからず、手がかりも全くない。やがて、オレグも他の人と同じように、国境へ向かっているのだと信じることにした。


 そして、ありったけの食料を荷台に積み、オレグを探しながら要塞門を目指し始めた。オレグが徒歩で向かうことを想定し、ゆっくりとしたスピードでトラックを走らせた。そして何度も車の窓から、道行く人にオレグの特徴を説明し、近くで見かけたことがないか尋ねた。しかし結局、手掛かりは得られないまま、この要塞門に辿り着いてしまった。トラックはボレルの人目につかない場所で乗り捨てたらしい。




「いやぁ、しかし感動の再会だな。神様は俺たちを見捨てていなかった!」




 ゴランはいつの間にか、三人のいる列に加わっていた。本来なら、後ろから文句を言われてもおかしくない。しかし、親子の派手な再会を目の当たりにして、それに釘を刺そうとする人は、幸いにもいなかった。


 オレグも、これまでの経緯についてゴランに話した。初めは息子との再会に浮足立っていたゴランも、話を聞くうちに落ち着きを取り戻し、真剣な表情に変わっていった。




「そうか……。そんなに大変だったのか……」




 ゴランは急に跪いて、オレグに頭を下げた。




「オレグ。本当に……、すまなかった。爆弾のことが発表された前の夜に、俺はお前を殴っちまった。自分の店を続けたいって意地のために、お前の気持ちに向き合えてやれなかった。そのせいで、店よりも何よりも大切なお前を、そばで守れなかった。全部、俺が悪い。俺の責任だ。殴られて許されるわけじゃないことは分かってる。だが、せめて……」




 オレグの前では、ゴツゴツした肩が呼吸と共に上下している。父親をその角度から見るのは、小さい頃に肩車をしてもらった時以来だった。両手の震えを抑えるように、その肩をガシッと掴む。




「……殴れないよ。僕だって自分のことばかりで、父さんの店への気持ちを全然考えてなかった。これからの店のことは、すぐにどうこうなるものじゃないと思うけど……。とにかく今は、何て言うか……」




 オレグは一呼吸置いて続けた。




「……また会えて良かった。一緒に国境渡ろう」




 ゴランは立ち上がり、涙を流しながらオレグを抱きしめた。そして二人は、検問所までゆっくりと進む列の中で、もうあんな喧嘩はしないと心の中で誓った。




 それから約一時間後、四人はやっと検問所の入り口まで近づいた。


 検問所は簡素な造りで、打ちっ放しのコンクリートの壁に、等間隔で出入り口の穴が空いている。中は手続きをするための椅子や机がずらりと並べられ、その先には二階に上る階段や、要塞門の奥に広がる国境基地へ続く通路が見えた。


 行列を中に誘導する案内係の人たちは、布切れで手作りしたようなマスクをつけている。受付では自分の名前を用紙に記入し、身分証の提示を求められた。ミカイルたちは学生証、ゴランは運転免許証を係に見せると、さらに進むよう指示された。




「結構簡単な手続きなんだな」とミカイルが机上に並んだ用紙を見た。


「細かく身元確認してたら、大人数を捌ききれないんじゃない?」とニーナが小声で答える。




 ミカイルたちを含め、十名が受付を済ませると、近くに集まるよう指示された。係の人が流れを説明し始める。




「ここからは二階の検査室に進んでもらって、採血や身体検査を行います。その後は診察室で問診があって、それから一時間ちょっとで検査結果が出ます。皆さん、分かってると思いますけど、国境基地に通されるのは感染していない方だけです。その後のことは、基地の手前の通路で案内しますから、まずは検査を受けてください。この後、お医者さんや看護師さんが順に案内するので、ここで待っててください」




 説明が終わると、係の人は次のグループを案内するために、受付へ戻っていった。そしてすぐ、白衣を来た五名程の医師や看護師が二階から降りてきて、名前を呼び始めた。




「なぁ、採血ってやっぱ注射だよな?」とミカイルがぼそっと確認する。


「あれれ、ミカイルちゃん怖いの?」とニーナが小さい子に話しかけるような、甘い口調で聞いた。


「んなわけねーだろ!」




 ミカイルが顔を赤くして大声を出すと、一人の医師がバインダーでその頭を小突いた。




「君。検問所では静かに」


「いてっ。何だいきなり……」




 ミカイルは口を尖らせて振り返ると、その医師を見て目を丸くした。


 医師は包み込むような優しい笑顔を浮かべている。そしてミカイルをぎゅっと抱きしめ、そのまま持ち上げてくるっと回った。ミカイルにとって、とても懐かしく、何より落ち着ける匂いがする。


 ニーナは口をぽっかりと開け、オレグとゴランは突然のことに呆然としている。


 ミカイルは、自分がどんな顔をしているか分からなかった。ただ、それを誰にも見せたくなく、医師のお腹に顔を埋めて言った。




「どこ行ってたんだよ……、サンドラ先生」






* * * * * * * * * * * *






 サンドラは爆弾投下の予告の前日、一般の人よりも一足先に、国境基地へ向かっていた。突然、政府の役人が病院を訪れ、ウイルスの研究機関の責任者を任されてほしいと頼まれたからだった。初めは病院の運営を理由に断った。院長の自分がいなくなれば、残された患者はもちろん、他の医師や看護師たちを含めて、病院全体が混乱する。しかし、モグロボの感染拡大と国境閉鎖、そしてノストワによる爆弾投下について説明を受け、事態の深刻さを知り、渋々了承した。


 せめて病院関係者、そしてミカイルには、これから起きようとしていることを伝えようとしたが、時間がないと断わられた。そして、半ば強制的に役人の車に乗せられ、この国境基地でウイルス研究機関の責任者を担うこととなった。




「さすが! そのナントカ機関で、一番偉いんだろ?」とミカイルがはしゃぐ。


「そんな大したもんじゃないわよ。それより、あなたたちに何も伝えられないまま行っちゃって……。本当にごめんね。それに、病院のみんなや患者さんも心配。まだここに来てない人も結構いるの」


「先生のせいじゃないだろ! っていうか政府の奴らがひでぇよ。勝手だよな!」


「でも、どうしてここで検問をしてるんですか? どっちかっていうと、ウイルスの研究がお仕事なのかなって」とニーナが聞いた。


「確かに、ウイルスの研究が本業よ。ただ検問所も人手が足りなくて、こういうバタバタに慣れていない医師や看護師も多いから、お昼時だけ、ここへ手伝いに来てるの。他の時間は、ずっと基地でウイルスの研究をしているわ」




 ミカイルは、サンドラが以前よりも痩せ、目にもクマができていることに気がついた。




「……夜中も働いてるのか?」


「えぇ、でも仕方ないわ。いち早く、抗ウイルス薬を開発しないといけないしね」


「薬……、ウイルスの症状を治せるってことですか!?」とゴランが食い気味に聞いた。


「完治できるか、対症療法に留まるかは分かりません。とにかく、爆弾が落ちる前の完成を目指して、専属メンバーがフル稼働で頑張っています。治療薬ができたら、もしかしたらノストワを説得できるかもしれないですし。まぁ、簡単ではないですけどね。でも、これで世界が救われるなら、寝ていられません」




 サンドラは話しながら真剣な表情に変わった。厳しい労働環境と、限られた時間。そして無数の命を預かるプレッシャー。責任者の重い言葉に、皆が閉口した。




「先生、そろそろ……」と隣の看護師が声を掛ける。


「あぁ、ごめんなさい。えっと、私の担当はミカイルとニーナね。ゴランさんとオレグは、この子が案内するわ」と言いながら、その看護師の肩に手を置いた。




 皆がぞろぞろと二階に上がった。階段の突き当りから左右に伸びる通路には、たくさんの検査室や診察室が連なっている。ミカイルはマルテの病院を思い出した。




「一人ずつ、そばの検査室に入って、検査を受けてちょうだい。あの奥の部屋に私がいるから、その後に問診を受けてもらうわ」とサンドラは通路の端の診察室を指さした。


「じゃあ後でね、ミカイルちゃん。注射で泣かないでね」とニーナが近くの検査室に入る。


 ミカイルは再び赤くなって追いかけようとしたが、サンドラに襟を掴まれながら「あなたはこっちでしょ」と隣の検査室に押し込まれた。




 検査室には看護師が一人立っていた。その前には机と椅子があり、横にはレントゲンのような大型の機器が置かれている。ミカイルは看護師に案内され、椅子に座って採血を受けた。その後は上半身裸になり、機器の前に五分程立って静止した。レントゲンというよりは、センサーのようなもので全身をチェックされているような感じがした。


 検査を終え、サンドラのいる診察室に移動する。問診は、聴診器を胸や背中に当てられたり、体調に関する質問に答えるだけの、簡単なものだった。




「なぁ。検査結果が出たら、すぐに国境に行けるのか?」


「うーん、タイミングによるわね。一階の受付とは反対側のドアを抜けると、すぐ基地に続く道があって、政府の車が往復して順番に送り迎えするの。だから、車が来るタイミングによっては、何時間か、一日待つ場合もあるわ」


「そんなに待つのか! もう、食料残ってねぇよ……」




 ミカイルの心配事がご飯と聞いて、サンドラは笑った。




「大丈夫よ。この近くには幾つか宿泊施設があるの。本来は遠くに住んでいる政府の人とか、来賓用のホテルになっている建物なんだけど、今は検査の後に車を待つ人が、入れ替わりで宿泊しているわ。そこでご飯も出るから、たくさん食べられるわよ」




 サンドラは検問所から国境までの地図を渡した。国境までの道のりや、周辺の建物や施設について、細かく描かれている。




「よっしゃぁ! 助かった~。もう腹が減り過ぎて、逆にゲロりそうだ」


「ここまで来るの、本当に大変だったでしょ」


「大変なんてもんじゃねぇよ! 何度も死にかけた! 通りすがりの大人に食べ物とか狙われたし、寝てる家に夜襲かけてくる奴らもいたんだぜ。あと……、暴力団にも襲われた。前に、人を食う影のこと話したろ? あの感染者にも会った」


「えぇっ! 大丈夫だったの!?」


「あぁ、何とかなった。色々ややこしかったけど」




 サンドラは首を横に振りながら目を閉じて、ミカイルをぎゅっと抱きしめた。ミカイルは抵抗しようとしたが、懐かしい香りと温もりが、全身の力を奪い、柔らかい胸の中に包まれるがままとなった。




「ごめん。プレゼントしてくれたラジオ、襲ってきた奴らに取られたんだ。取られないようにしようと……」


「いいの。いいのよ、あなたが無事なら。ここで会えて、本当に良かった」とサンドラはミカイルが謝るのを遮り、さらに力強く抱いた。




 しばらくして、検査を終えたニーナが入ってきた。ミカイルは一時的に退室する。


 問診を終えると、ニーナがサンドラに聞いた。




「すみません、先生に聞くことじゃないかもしれないんですけど……」


「どうしたの? 遠慮なく言いなさい」


「犯罪歴のある感染者が検問所に来たかどうかって、分かったりしますか?」


「……あれからずっと、その感染者のことを調べているの?」とサンドラはカルテの記入を止めて聞いた。ニーナは黙って頷く。


「私の専門外だから、受付で記録された個人情報が、どう管理されているかは知らないんだけど……。たぶん、隈なく探せば分かると思うわ。少なくとも、感染者と診断されて、検問所を通れなかった人の記録は残っている。だから、その人たちの情報と、政府が管理している犯罪記録を照合させれば、見つけることはできる。ただ、政府の管理は結構ずさんだから、記録がきちんと残っているか分からない。それに今は、大人数を捌かないといけないから、政府の人に頼んでも、調べてもらうのは難しいかも」


「……受付で身元確認をしていると思うんですけど、あそこで前科があるかどうか分からないんですか?」


「今はそこまで細かい身元確認をしていないはずよ。誰が来たか記録するだけで、犯罪歴があるかとか、国境を渡らせて問題がないかどうかの確認までは、できていないと思うの。さっきも言ったように、人数が多すぎて、受付を済ませるだけで手一杯」


「そうですか……。分かりました、ありがとうございます」


「……もし良かったら、どうして犯罪歴のある感染者を探しているのか、聞いてもいい?」




 ニーナは少し躊躇したが、質問しておいて事情を明かさないのも失礼だと思い、自分に起きた過去のことを話した。




「そうだったの……。ごめんなさい、つらいことを聞いちゃったわね」


「いえ、全然大丈夫です。お世話になってる孤児院の院長先生から聞いた話で、あたし自身、両親の記憶はないですし。それに実は、もう半分くらい諦めてるんです。こんな状況で、名前も居場所も分からない感染者を探すのは、不可能なんじゃないかって。もしかしたら、どこかでとっくに死んでいるかもしれない。もし生きてても、結局……、死ぬことになりますし」


「ここで検査に引っかかって、国境まで行けない。もしくは検問所まで辿り着けない。どちらにしても、爆弾で死んでしまう。ね」


「はい。それなら、もう昔のことは忘れて、国境を渡って前に進むしかないんじゃないかって思うんです。あたしもいずれは大人になりますし。しっかりしなくちゃ」




 ニーナはそう言いながら、荷物置きに乗せたサッカーボールを見つめた。




「本当に諦めて前に進める? 簡単じゃないと思うわよ」とサンドラが言った。


「えっ?」とニーナが思わぬ質問に言葉を詰まらせる。


「自分では忘れようと思っても、簡単に記憶は消えないわ。たとえ目にしたことがなくても、人から聞いたつらい真実があるなら、それを思い出してしまう。何か嫌なことがあったり、受け止められないほど苦しい状況になった時、何もかもその出来事のせいにしてしまいたくなる。そうすると、前に進もうとしていたのに、いつの間にか後戻りしていた。なんてこともあるわよ」


「先生は……、あたしが前に進めないって言うんですか? まだ中学生ですけど、そこまで自分が弱いと思ってないです」とニーナは少しムッとした。


「ごめんなさい、そうじゃないわ」




 サンドラは机の上にあるコップの水を飲むと、首のペンダントを触りながら、自分の過去について話し始めた。最愛だった夫や息子のこと。その家族がウイルスに感染して死んでしまったこと。何とか治療薬を開発しようとしたが、成功しなかったこと。




「わたしもウイルスが本当に憎い。それに、政府も大っ嫌いなの。当時は医療設備が整っていなかったから、今みたいにきちんと研究ができる環境じゃなかったのよ。戦争が原因で、怪我や病気を患っている人は大勢いた。でも政府は医療を軽く見て、軍の整備や政治家の資産を守ることばかりに目を向けている。それで医療施設の整備が遅れて、薬の開発も成功しなかった。だから夫や息子を救えなかったんだって、政府を呪ったわ」


「……じゃあどうして、今は政府に言われて研究をしてるんですか?」


「薬を開発しないと、前に進めないと思ったからよ。そうしないと、ウイルスに勝ったことにはならない。ウイルスに勝てなければ、家族との想い出がずっとつらい過去になる。それを政府のせいにして、医者としての役割を果たさないまま、自分の殻に閉じこもってしまう。それは嫌だと思ったから、たとえ嫌いでも、政府に協力しているの。そもそも、私も政府が提供してくれる資金がないと、研究ができないしね」




 ニーナは聞きながら、サンドラと自分の共通点に気がついた。二人ともウイルスが原因で、大切な人を失っている。そして薬を開発しようが、犯人の感染者を捕まえようが、大切な人は戻らない。それでも、サンドラは政府を嫌いながら、自分にけじめをつけようとしている。




「だからつらい過去を忘れたり、何かを消したりして前に進むのは、思ったより難しいと思うの。それよりも、何かを成し遂げたり、創り上げた方が前に進める。まぁ、まだ薬を開発できていない私も、偉そうに言える立場じゃないんだけどね。でも、今はそんな気がするの」




 ニーナは、自分がすぐ前に進めるか不安になった。両親を殺した感染者。名前や顔さえ分からないのに、憎い。たとえ爆弾で死亡が確定しても、蓄積した恨みは、自分の中で残ったままになってしまう。そんな気がした。




「自分が前に進むために、できること……。良く分からないけど、考えてみます」




 そう言うと、サンドラは優しくニーナを抱きしめた。




 すると急に、診察室の外から騒ぎ声が聞こえ始めた。




「おい! なんで検査を受けられないんだ?」


「何やってるの? 早くノストワに行きたいのに。さっさと進んでよ!」


「まだ検査を受けてない奴らが、大勢いるんだぞ! 俺たち国境を渡れないのか!?」




 なぜか検査がストップしているようだった。列に並ぶ人を「とにかく待ってください!」と宥める係員の声も聞こえる。廊下を走っている軍人の影が、ドアの曇りガラスに映る。万が一の暴動に備えているのかもしれない。




「どうしたんですかね」とニーナが言った。


「分からないわ。検査薬は十分にあるから、切れたりはしないはずだけど……」とサンドラが答えると同時に、診察室にミカイル、オレグ、ゴランが入ってきた。


「先生、何かあったんですか? 一階がすごいざわついてましたよ」とゴランが頭を掻きながら尋ねた。


「えぇ、そうですね。ちょっと様子を見てきた方が良いかもしれないわ」


「先生。僕たち、国境に行けないんですか?」とオレグが不安そうに聞く。


「バカ! なに言ってんだよ、そんな訳ねぇだろ!」とミカイルが声を荒げた。


「大丈夫よ。今はちょっと受付が止まっているようだけど、もうみんなは検査を受けたんだから。そろそろ結果が出る頃だから、それも確認してくるわ。あと、みんなが早めに検問所を出られるよう、係の人に頼んでみるわね」




 サンドラは立ち上がり、診察室を出て行った。




「あ~、やっと検問所を出られるな。あとは国境までのんびり行くだけだ」とミカイルが伸びをした。


「あんまりのんびりはできないでしょ。爆弾が落ちる日も迫ってるんだから」とニーナが釘を指した。


「たしか二週間後くらいってラジオで聞いたな。まぁ、ここからは政府が車で送り迎えしてくれるはずだから、大丈夫だろ」とゴランがオレグの肩に手をポンと乗せた。




 三十分程経っても、サンドラが戻ってこない。ニーナが「先生まだかな……」と呟きながら振り向くと、ドアの曇りガラスにぼんやりと映る影を見つけた。




「ねぇ。ちょっとあれ。誰……?」




 全員が同じ方を振り向いた。影は全く動かず、ドアの前に立っている。慌ただしい検問所で突っ立っている人がいるのは妙だった。




「気をつけろ、みんな」




 ミカイルはそう言いながら、ゆっくりと立ち上がり、近くの丸椅子を武器代わりに持ち上げた。ニーナはボールをいつでも蹴られるように構える。オレグはドアの脇に移動して、ドアノブを握った。反対側にはゴランが立ち、いつでも拳を繰り出せるよう、腕の裾をめくる。


 オレグがミカイルを見る。ミカイルが小さく頷き合図した瞬間、オレグがドアをバンッと開けた。


 しかし、そこに立っていたのはサンドラだった。ミカイルが丸椅子をガチャンと床に降ろす。




「なんだよ! 驚かせんなよなぁ。変な感染者かと思ったじゃんかよ!」




 つかつかとミカイルが近づく。サンドラはカルテを胸元に抱えたまま、青い顔をして俯いている。


いつもと違う様子を察して、ミカイルは黙った。他の三人も心配して廊下に出る。




「先生……、どうしたんですか? 一階で何かあったんですか?」とニーナが声を掛けた。




 サンドラは黙ったままで動かない。




「おい、どうしたんだよ!?」




 ミカイルは腕を掴んで揺すった。サンドラはハッとして、全員の顔を虚ろな表情で眺めた。




「ごめんなさい、みんな……。ちょっと、話さないといけないことがあるわ」




 足元がおぼつかず、少し押しただけで倒れてしまいそうだった。四人は気持ちが急くのを抑え、じっと待った。


 やがてサンドラは深呼吸をして、ゆっくりと口を開いた。




「……ミカイル、ニーナ、オレグ。本当に、気の毒なんだけど……。あなたたち、感染してるわ」






* * * * * * * * * * * *






「どういうことだよ!? 俺たちが感染してるって……」とミカイルが白衣を掴んで見上げる。


「そんなはずはない! 何かの間違いじゃないんですか!?」とゴランも肩を掴んだ。




 サンドラは潤んだ瞳でミカイルを見下ろしながら、カルテを持つ手に力を入れた。




「ちゃんと話すわ。落ち着いて、聞いてね」




 サンドラはニーナに目を向けた。ニーナは一瞬ビクッとして、ボールを胸元で抱きかかえる。




「まず、ニーナ。あなたが感染したのは十年前くらい。三、四才くらいだと思う。たぶん……、その頃から、指が短くなってきたんじゃないかしら?」




 ニーナは目を丸くして、下を向いた。全身が小刻みに震え、汗が噴き出す。




「指が徐々に短くなっているのは、ウイルスが原因なの。詳しくはまだ分からないけど、手先の細胞を中心に浸食しているみたい。それから……、オレグ」




 オレグは不安そうな表情を浮かべながら、片手でヘッドホンに触れた。




「僕は……、これですか?」




 サンドラは申し訳なさそうに頷いた。ゴランは無言のまま、膝を床について俯いた。




「さっき、あなたたちの検査結果を詳しく調べたの。そしたら病的な症状だけじゃなくて、別の力というか……、体の一部が異常に発達しているのが確認できた。ニーナは脚の筋繊維の形状が変わってて、四十五度近い熱を帯びてる。まるで、脚だけ高熱の風邪を引いたみたいに。あと、オレグの耳の神経も、通常の五倍くらい太くなっていたわ。二人とも、何か気づいているはずよ」




 ミカイルは二人を見た。青い顔をしたまま黙っていたが、やがてニーナが口を開いた。




「あたし……。最近、脚に疲れを感じなくなったの。何て言うか……、いくらでも歩いたり走ったりできる感じ。それから、脚の見た目は変わってないけど、すごく硬くなってる。筋肉も骨になっちゃったみたいに」




 ニーナは片手で腿のあたりを撫でた。




「脚の力が、信じられないくらい強くなってる。実はね、二人が寝てる間に、こっそり外に出て走ってみたことがあるんだ。そしたら……、あり得ない速さだった。自分で言うのも変だけど、人っていうより、ヒョウとか動物の脚みたいだった」




 ミカイルはこれまで襲われた時、ニーナが異常な力で敵を蹴散らしていたことを思い出した。素早い速さで相手の懐に入り、強烈な蹴りを食らわせていた。鉄網のフェンスに穴も開けた。そして遠くから狙ったボールも、命中すれば一発で相手を倒していた。初めはサッカーの猛練習で、異様に足の力が強いからだと思っていた。でもよく考えれば、それだけでは説明がつかない。




「……僕も、前より耳が良く聞こえるようになってる。たぶん、一キロ離れた場所でも・物音や人の声も聞き取れる。でも聞こえるようになるほど、頭痛が酷くなってる気がするんだ」


「ねぇ、オレグ。ラギーナで集団に襲われたの覚えてる? 囲まれる少し前から気づいてたみたいだけど……。あれも、そうなの?」とニーナが聞く。


「うん。男たちが遠くで僕らを襲う準備や、合図をしているのが聞こえた」


「そっか……。あの時、疑ったりしてごめん」


「ううん、気にしないで。僕自身も、自分が信じられなかったから……」




 オレグはヘッドホンを手でなぞった。ゴランは、オレグを後ろから震える腕で抱き寄せる。




「本当にすまん……、大事な時に、そばにいられなくて。父親失格だ」 




 オレグは黙ったまま、首を横に振った。


 しばらく沈黙が続いた。周りは相変わらず、検問を受ける人と、その対応に追われる医療関係者や政府の役人で、ごった返している。


 検査結果を告げられた家族が、歓喜の声をあげていた。




「モグロボを出られるぞ! なんか検問所の受付はストップしたみたいだけど、その前に検査を受けたから大丈夫だ!」


「ギリ、セーフ! あぁ、ここまでしんどかった……」




 両親のそばにいた小さな男の子は、状況を呑み込めていないらしく、ポカンとした表情を浮かべていた。


 騒ぐ声が五人の耳に刺さる。誰も、その家族を見ようとしはしなかった。




「俺は……、そんな体の変化は感じない」とミカイルが呟くと、サンドラが膝をついて、目線を同じ高さに合わせた。


「……あなたに、特殊な能力はないわ」


「え……、どういうことだ?」とミカイルは細い声で聞いた。あまりの声の小ささに、自分が発した声なのか疑った。


「検査では、ニーナやオレグのような、身体機能の異常な発達は見られなかったの。そもそも、そういう力が現れるのは稀だから。むしろ二人の方が珍しいのよ。それで、あなたの病状なんだけど……」




 するとサンドラはハッとした。




「いえ。馬鹿ね私、こんな大勢いる場所で。ちゃんと、個別に部屋で話すべきだったわ」




 サンドラがミカイルの腕を掴んで、診察室に入ろうとする。しかしミカイルは、グッと手を引いてそれを拒んだ。




「いいんだ。早く……、ここで教えてくれ」


「……本当にいいの?」




 ミカイルは黙って頷く。むしろ、ここで聞きたかった。独りで受け止められる自信がなかった。




「……分かった」




 ミカイルはサンドラの凍えるような吐息を感じた。ペンダントが小刻みに震えている。




「落ち着いて、聞いてね。あなたの体は……、それ以上成長しない。そしてたぶん、これから徐々に後退していく。つまり、体が赤ちゃんに戻っていくの。同い年の子と比べて、体が小さいのは、遺伝とかのせいじゃない。ウイルスが原因だったのよ」




 ミカイルは妙な浮遊感に襲われた。そして、虚ろな表情で周囲をゆっくり見回した。なぜか景色に色味がない。道中で見かけた、映りの悪いモノクロテレビみたいだった。サンドラが力強く抱きしめてくる。でも不思議にも、こんなに優しいはずなのに、温もりが感じられない。自分の五感が、失われていく感じがする。




「先生。あたしたちの体、どうなるんですか?」


「それは……」とサンドラはニーナを見上げた。


「感染してることは分かったんです。どうせ、もう国境には行けない。どうなるか分からない方が怖いです。教えてください」




 ニーナはそう言いながら、持っていたボールを落とした。両腕を自分の肩に回し、震えを必死に抑え込もうとしている。




「でも……、ここで話していいの?」


「早く教えて!」




 叫び声が廊下に響く。ずっとはしゃいでいた家族が、気まずそうに去っていった。遠くの看護師たちも、目を丸くしてこちらを見ている。


 サンドラは一瞬だけニーナの手を見て、そのまま視線を床に落とした。




「……ニーナ。あなたもこのままだと、指先から手、そして腕へと症状が広がっていって、体が少しずつ……、無くなっていくかもしれない。ごめんなさい、どれくらいの時間が掛かるかは、分からないわ」




 ニーナは転がったボールを見つめながら、すすり泣き始めた。声を必死に抑えながら、それでも目から涙が絶え間なくこぼれていく。




「……先生。僕は?」




 オレグがかすれた声で聞いた。サンドラはオレグも覚悟を決めたことを感じ取り、この場で伝えて大丈夫か聞くのをやめた。




「オレグ。あなたの耳の神経は、この先も太くなっていくみたい。そうすると聴力が今よりも上がっていく。そしてその分、受け取る音の大きさに神経が耐えられなくなって、頭痛も酷くなっていくと思う。そうすると……、もう脳が……」


「もういい! もうやめてくれ!」




 ゴランが急に叫び、膝をついてサンドラの肩を揺すった。




「お願いします、先生。どうしたらこいつを助けられるか、教えてください! そうだ……、俺の! 俺の耳を移植すれば治るんですか? だったら、すぐにそうしてください、手術してくれ!」




 ゴランは必死で助けを求めた。しかしサンドラは目をつぶり、首を横に振るだけだった。オレグは父親の大きな背中に顔をうずめて泣き始めた。


 ミカイルはサンドラを見つめた。ふと、マルテの病院で診察を受けていた時の様子が頭に浮かんだ。ケンカの傷に絆創膏が当てられ、もう揉め事は起こさないように注意される。ガミガミ言われ、疎ましいと思っていた時間。でも今は、今日の記憶を全て消し去って、そこに戻りたいと思った。


 気がつくと、政府の役人がそばに立っていた。




「えーと、お前たちがミカイル? ニーナ? オレグ? ……だな。三人とも、ウイルスの陽性反応が出た。悪いが国境へ通すことはできない。この門から出て行ってもらう」




 役人は手に持ったバインダーに目を通しながら、事務的に要件を伝えてきた。するとゴランが立ち上がり、役人の胸ぐらを掴んだ。




「ふざけるな! こいつらがどんな気持ちか分かってんのか!? 検査の結果なんざ関係ねぇ、三人を国境に通せ!」


「なんだお前は!? どけ! 私は他の検査結果を伝えるのに忙しいんだ!」




 数名の軍人が駆けつけ、ゴランを役人から引き離した。怒号が飛び交う中、サンドラはミカイルたちを守るように、両腕を広げて抱きこんだ。三人は呆然としながら座り込み、軍人に抵抗しているゴランを見つめる。


 突然、要塞門の隅々まで響き渡るような、大きなアナウンスが流れた。




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「緊急事態により、検問の受付は終了します。検査を受けた方は、結果を待っていてください。なお、陰性結果が出た全員が国境基地に入った後、要塞門は封鎖されます。まだ受付が済んでいない方は、検査はもう受けられません。今すぐ、要塞門から出るようにお願いします。繰り返します。緊急事態により……」




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 アナウンスが繰り返され、周囲が一気に混沌と化した。




「緊急事態って何!? ちゃんとノストワまで連れて行ってくれんでしょうね!?」


「おい、どういうことだよ! さっき着いた俺らは検査できないのか!?」


「門の封鎖は待ってくれ! まだ私の家族が、ここに来てないみたいなんだ、頼む!」




 するとサンドラが「みんな、ちょっとここで待ってて」と立ち上がり、近くの軍人に事情を聞き始めた。喧噪はますます騒がしくなり、銃を持った軍人が暴れる人たちを捕まえ始める。中には、無理やり軍人の目をかいくぐって、国境基地へ向かおうとする者もいたが、ことごとく捕らえられていた。


 そしてついに、銃声が鳴り響いた。悲鳴や怒号が飛び交い、辺りは騒然となった。オレグはヘッドホンを強く抑えながら、「父さん! もう抵抗するのはやめて!」と大声で叫ぶ。


 やがてサンドラが戻ってきた。




「みんな……。緊急事態になったのは、最近この辺りで目撃されるようになった殺人鬼が、国境基地に侵入したからなの。すごい危険な奴みたいで、軍も手を焼いてる」




 ミカイルはハッとした。ボレルで出会ったレヴォリが頭に浮かぶ。確信はないが、きっとあの男のことだ。




「それで、ノストワが危機的な状況と判断して、モグロボに検問所の封鎖を要請したの。モグロボは、政府のお偉いさんや感染してない国民の移住を条件として、移民条約を結んでいるから、言われるとおりにしかできないみたい。だから、そのまま検問の終了が決定して、それから……」




 サンドラは涙を堪え、声を詰まらせた。わなわなと肩が震えている。




「……なんだ?」




 ミカイルが声を掛けたが、聞こえているのか分からなかった。周りが騒がしいせいもあるが、何より、自分の声がか細くかすれているのを感じた。




「爆弾の投下予定日が、あと一週間後に早まったの」




 三人は、サンドラの言ったことがすぐに理解できなかった。まるで世界が急に無音になり、何も聞こえなくなったようだった。




「殺人鬼が侵入したことで、この門が封鎖された。もう検査を受けられる人はいない。もともと、ノストワが移民を受け入れた後に、爆弾が落とされる予定だったから、検査の終了が早まった分、爆弾の投下も前倒しになったの。たぶん……、ノストワからの要請を、この国が断れなかったんだと思う」




 すると突然、一人の男がミカイルたちのいる所に倒れこんできた。




「おいお前! おとなしくしろ!」




 軍人が男を捕らえようと手を伸ばす。




「やめてくれぇ! 俺は感染していない。検査の間違いだ! 爆弾に消されるのは嫌だあぁぁぁぁぁぁぁ!」




 男は泣き叫びながら、軍人に捕らえられ、どこかへ連れていかれた。それと入れ替わるように、別の軍人が近寄ってきた。




「おい。さっきも伝えたが、お前たちは陽性で基地には入れない。さっさと要塞門から出ろ!」


「お願い! ちょっと待って! 私が何とかするわ。一刻も早く治療薬を生成する。だから、この子たちは通して!」とサンドラが言った。


「な……。あなたは政府に任命された、研究機関の責任者だろ! 個人的感情でなく、責任ある判断をしてもらわなくては困る!」


「責任逃れをしてるのはそっちでしょ! 軍人なら責任をもって、殺人鬼を捕らえなさいよ! それができないから、ノストワが予定日を早めたんじゃない!」




 しばらくサンドラが言い争っていると、ゆっくりとミカイルが立ち上がった。




「先生」




 サンドラは我に返って振り向いた。ニーナとオレグも不安げにミカイルを見る。




「ありがとうな、サンドラ先生。でも、もういい。いくら何でも、一週間じゃ……」




 ミカイルは要塞門の出口に向かって歩き始めた。少し間をおいて、ニーナとオレグも続く。




「ちょっと待って! ミカイル! どこなの!? ミカイル!」


「おい、オレグ! どこに行ったんだ? 俺が何とかしてやるから待ってくれ!」




 後ろからサンドラとゴランの声が聞こえてきた。オレグは振り返ったが、廊下には人が溢れ返り、どこにいるのか分からなかった。




「父さん……。一緒に行けなくて、ごめん。あと、ありがと……」とオレグは泣きながら、人混みの向こうに声を掛けた。


「ソーニャ先生。みんな……」とニーナが涙をこぼしながら呟く。 




 そして三人は口を閉じ、雑踏に揉まれながら、要塞門を後にした。






* * * * * * * * * * * *






 ミカイルは俯いたまま、当てもなく歩いていた。ただ来た道を戻り、ひたすら要塞門から離れていく。


 二人もそれに続いた。検査の受付が終了したアナウンスを聞いたせいか、周囲の人は泣き叫んだり、絶望して座り込んでいる。


 三人は妙な浮遊感に包まれる。まるで地に足がついていないようだった。自分たちが感染者であると告げられたからかもしれない。国境を越えられる希望に溢れて、昨日歩いたこの道を、今は絶望感に打ちひしがれて引き返している。


 要塞門を出て一時間ほど経った頃、ニーナが口を開いた。




「ねぇ……。これから、どうしよっか」




 ミカイルは黙ったまま歩き続けた。意図して無視したわけではない。ただ、どう答えれば良いかが分からなかった。国境を越えるため、今日までずっと我武者羅に進み続けた。でも今はそれが閉鎖され、爆弾かウイルスで死ぬしかない。




「ちょっと! 聞いてるの?」




 ニーナがミカイルの肩をぐいっと掴んで引いた。ミカイルは反射的にその手を振り払う。




「どうするかなんて、分かんねぇよ!」




 オレグは目を丸くして立ち止まった。ニーナは一瞬怯んだが、すぐに睨み返した。




「分かんないって何? 考えもしないで不貞腐れてるだけじゃん!」


「不貞腐れてんのはそっちだろ! この状況で、すぐ考えなんて浮かばねぇ!」




 オレグはヘッドホンを塞ぎながらしゃがみ込んだ。バッグから急いで薬を取り出し、むさぼるような勢いで口に放り込む。「やめようよ、二人とも……」と声を絞り出すが、二人には聞こえなかった。




「別に、すぐ答えてなんて言ってないじゃん! なにカリカリしてんの? つらいのはオレグもあたしも同じなんだよ! いつもそうやって、自分の殻に閉じこもるじゃん!」


「そんなの、お前も同じじゃねぇか! 孤児院のことを独りで背負いこんで、指のことも昔の事件も、ずっとウジウジ考えてんだろ!」




 オレグが「ミカイル! 言い過ぎ……」と立ち上がろうとした時、ニーナがミカイルの腕を蹴り上げた。目にも止まらない速さだった。つま先が腕に当たって、弾丸がかすめたような切り傷ができ、そこから血が垂れ始めた。




「……ご、ごめん。あたし、つい……」




 ニーナが傷を心配して手を伸ばした。短い指が二本しかない手が露わになる。




「……化け物」




 ミカイルはハッとした。絶対に言ってはいけない言葉。それが口から無意識に漏れた。


 ニーナは呆然とした表情で、手をポケットにしまった。目に涙を浮かべながら、黙って反対方向に歩き始める。


 「ちょっと、ニーナ……」とオレグが追いかけようとしたが、先ほどの叫び声で、再び耳に激痛が走り、しゃがみ込んだ。


 ミカイルもすぐに振り返った。そして二人に背を向けたまま、砂埃が暴れ回る道を進んでいった。






* * * * * * * * * * * *






 ミカイルはとぼとぼと歩き続けた。途中で何度か振り返ろうとしたが、結局ずっと前を向いたままだった。もう自分には、二人を気にかける資格さえないと思ったからだ。


 この一か月、過酷な状況の中で、一緒に歩き続けた友達だった。数えきれないほどケンカをして、何度もいがみ合った。でも、その度に互いのことを少しずつ理解して、ノストワに向かって進み続けた。


 そんなニーナを、化け物呼ばわりしてしまった。自分はたくさんニーナに助けられたくせに。オレグも置き去りにした。自分の怒鳴り声のせいで、まだ耳を塞いで俯いているかもしれない。


 ミカイルは自分の冷たさ、そして器の小ささに絶望した。国境を越えられなくなったのは、自分だけじゃない。感染したのも自分だけじゃない。それは二人も同じだ。でも、突き付けられた運命が重たくのしかかり、受け止めきれない痛みを二人へぶつけた。


 そんな自分は、もう友達じゃない。


 いつの間にか、隣のボレルまで戻っていた。立ち止まって顔を上げる。三人で突破した道を、今はこうして独りで戻っている。滲んだ視界には、座り込む人や転がる死体が映り、廃墟と化した住宅街が広がっていた。




「ねぇ」




 人影の見えない古い住宅街に入ると、ミカイルの耳に、か細い声が届いた。どこから聞こえてくるのかと、辺りを見回す。




「ねぇ」




 同じ声がした。今度は聞こえてくる方向が分かった。恐る恐る右の方に目をやる.。


 背の低い塀に囲まれ、壁があちこち崩れかけている一軒家があった。一階の窓ガラスは割れ、少し中の様子が見える。他の家と同じように、食料を求めた誰かに荒らされているようだった。一階の窓ガラスと塀の間には庭があり、物置小屋が建っている。その物置の陰から、のっそりと人が姿を現し、塀を跨いでゆっくりと近づいてきた。


 確かに、それは人だった。しかし雰囲気がおかしい。まるで人の皮を被った、別の生き物のようだった。前髪が長く垂れ、顔はよく見えない。




「ねぇ。なんで、また逃げるの? ねぇ……」




 ミカイルの全身から汗が噴き出す。生き物は頼りない足取りでも、こちらの姿を捉えて確実に近づいている。




「また、って……、なんだよ?」




 後ずさりしながら聞き返した。さらに生き物が近づくと、顔がはっきり見えた。


 それはマルテを出発する時、「助けて」と言いながらびっこを引いて近づいてきた、配給係のおばちゃんだった。症状が悪化したのか、だいぶ様子が変わっている。白目が紫色に濁ったまま、今度は黒目が真っ赤に変色していた。目の周りの皮膚は、グジャグジャに化膿している。




「目がかゆいの……、助けて」




 おばちゃんは歯をガチガチと鳴らし、目の周りを指で掻きむしりながら近づいてくる。ミカイルは震える足を必死に動かして後ずさりする。すると、後ろの家の高い塀にぶつかり、逃げ道を失った。


 おばちゃんが倒れ込むようにミカイルの腰にしがみつき、顔を見て「かゆいのがぁぁぁぁぁぁぁぁ」と叫ぶ。そして眼球と周りの皮膚の間から、小さなナメクジみたいな虫が、何匹もモゾモゾと沸きだした。




「わあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」




 ミカイルは大声を上げ、おばちゃんを腰から振りほどいて走り出した。ひたすら全力で、脚を前に運ぶ。あの遅い歩調では追いつかれないと分かっていても、脚が止まらない。どこまで行っても残像が追いかけて来て、脳裏から離れなかった。


 やがて肺が限界に達し、自然と脚が止まった。辺りは、昔の戦争で家や建物が倒壊したままの、荒れ地のようだった。


 近くの大きな岩にもたれ掛かり、地面を見ながら呼吸を整えた。顔から落ちた汗が、砂地に吸い込まれていく。すると、汗とは違う細長いモノも地面に落ちた。おばちゃんの眼から這い出てきたナメクジだった。ハッとして腰の辺りを見ると、三匹が服にへばりつき、くねくねと動いている。




「うわぁっ」




 反射的に手で虫をはらう。そして腹の中からこみ上げるものを感じ、その場で嘔吐した。最近何も口にしていないせいか、ほとんど液状だった。汗と同じように、砂地に吸い込まれる。




 しばらくの間、俯きながら咳き込んだ。変わり果てたおばちゃんの姿を記憶から消し去ろうと、残り少ない胃液を吐き出していく。


 まだ気持ち悪い。でも、これ以上吐くものが胃に残っていない。ミカイルは左腕で口を拭いながら、そばの岩に右手を掛けて、ゆっくりと立ち上がった。


 いつの間にか、目の前に男が立っていた。濁った眼と汚い髭面が、こちらを見下ろしている。ボロボロの茶色いレザーを身にまとい、右手にはナイフが握られていた。




「おい、ここで何してる?」




 なぜか声が喉で突っかかり、出てこない。黙ったまま周囲を見渡すと、十人ほどの男たちに囲まれていた。


 それだけではない。大勢の子供たちが縄で繋がれている。四十人……、いや、五十人はいる。泣き腫らしたような表情の子もいれば、生気がなく目の焦点が合っていない子もいた。


 一人の首の印が目に留まる。それはボレルで襲ってきた暴力団と同じ刻印だった。




「お前、ユレイラにはもう行ったか? これから行くのか?」




 今でも国境を目指していたようだ。やはり人身売買で生き延びるつもりらしい。




「待て。こいつ、この前捕まえ損ねた奴だ」




 後ろに立っていた男が、怒りに満ちた表情で近づいてきた。それはレヴォリに襲われた集団の一人だった。ほとんどが喰い殺されたが、その牙を逃れた奴もいたらしい。




「あのイカれた人食い野郎はどうした?」




 質問と同時に、男がミカイルの髪の毛を掴み、みぞおちに拳を食らわせた。ミカイルは目に涙を滲ませながら咳き込む。胃から込み上げてくるものを感じたが、先ほど吐いたせいで、何も口から出なかった。




「おい、この痕……。お前、もう検問所に行ったな?」




 男はミカイルの腕を掴み、注射の痕を周りに見せるように、グイッと高く上げた。




「あの殺人鬼が政府の基地に侵入したおかげで、検問所が閉鎖されたらしいな。だが俺たちは諦めねぇ。何としてでもノストワに行く。検問所について知ってることを全部話せ。要塞門の様子や配置されている軍人の数、全部だ!」




 他の男たちが近づき、頬を殴り腹を蹴った。子供たちはその様子を見て、顔を凍りつかせたり、大声で泣いたりしている。


 ミカイルは昨日のことを思い出していた。ノストワで生き延びるため、ニーナやオレグと必死になって要塞門に辿り着いた。これでやっと助かると思った。でもサンドラに感染者だと告げられ、自分の体が胎児に戻りつつあることを知った。すぐに検問所が閉鎖され、二人とは仲たがいになった。そして今、要塞門のことを聞き出そうとする暴力団に襲われている。


 延々と殴り続ける団員たち。閉じられた要塞門。もうすぐ落ちる爆弾。小さくなっていく体。また独りになった自分。


 昨日まで、生き延びるために必死だったのに。




 俺。まだ、生きたいのか?




「何とか言えよ! あぁ?」




 一人が胸ぐらを掴んできた。男の首元には、牙を剝き出した狼と、一輪の菊花の刻印が見える。その黒い花びらに目を落としながら、「殺せよ」とかすれた声で吐き捨てた。


 男はもう片方の手で、ポケットからナイフを取り出し、ミカイルの首筋に突きつけた。そしてナイフを握る手に力が籠った刹那、何かが男の横顔に衝突した。ナイフは弧を描きながら地面に落ち、男は大の字になって倒れた。






* * * * * * * * * * * *






 ミカイルのそばに、ポン、ポン、と音をしながら転がるものがあった。ボロボロに汚れたサッカーボールだ。そして、その正体に気がつくや否や、ボールがふっと消えた。




「だはぁっ!」


「ぐぅほぉっ!」




 団員が次々と倒れていく。目で捉えられない速さで移動する何かがぶつかり、衝撃で大きな図体がが弾き飛ばされていく。


 次の瞬間、ざぁっと砂埃が上がり、目の前に見慣れた靴が見えた。見上げると、片手にボールを抱えたニーナが立っていた。




「……ニーナ?」とミカイルが擦れた声をあげた。


「話は後」とニーナが答えた。


「なんだてめぇ!」と一人の男が叫びながら、ナイフをそばの子供の顔に当てがった。




 ニーナが素早くボールを蹴り、ナイフを持つ腕に命中させる。腕がボキッと鈍い音を立てて「へ」の字に曲がる。悲鳴が響く合間にニーナが近づき、その子供に離れるように言った。そして、男の背中にかかと落としを食らわせると、顔が地面にめり込み、うつ伏せのまま動かなくなった。


 他の団員たちも襲い掛かったが、瞬く間に返り討ちにされていく。ニーナが現れてから一分もしないうちに、集団は壊滅状態となった。残った数人は戦意を喪失したのか、武器を捨て、散り散りに逃げ去っていった。あとは泣き出した子供たちの声が、砂埃の舞う中で響き渡るだけだった。




「なにボーッとしてんの? 大丈夫?」とニーナが転がっていたボールを拾い上げ、泣いている子供たちをあやし始めた。




 ミカイルはあっという間の出来事に呆然として、地べたに座り込んでいたが、声を掛けられハッと我に返った。逃げた団員の姿はとっくに見えなくなり、先程の争いが嘘のように感じられる。すると、思い出したかのように顔や胴が痛み出し、呻きながらしゃがみ込んだ。ニーナが駆け寄ってミカイルの背中を摩る。




「ちょっと辛抱して。もうすぐオレグと、オレグのお父さんが来るから。傷の手当てができる物があるかも」




 ミカイルは手の温かみを背中で感じた。「化け物」と最低の言葉をぶつけてしまった手が、自分の痛みを和らげようと、背中を摩ってくれている。


 ミカイルは自分の頬を思いきり殴った。




「バカイル! 何やってんの!? 傷が広がっちゃうじゃん!」とニーナが慌てる。


「あぁ……。俺、バカだ。最低のバカだ」




 しばらくの沈黙の後、ミカイルはニーナの方を向いた。




「ニーナ。さっきは……、たくさんひどいこと言って、ごめん。……助けてくれて、ありがとう」




 ミカイルは顔を見られないよう、そっぽを向いた。素直に謝ったり、お礼を言うのは慣れていない。気まずいのか照れくさいのか、自分の顔が熱くなるのを感じた。


 ニーナはその様子を見てしばらくすると、黙ったままミカイルの頭を軽くパシッと叩いた。




「イテッ」


「あたしも、ごめん。ミカイルの気持ち、考えてなかった」


「……なんだよ、それ。叩いたり、謝ったり。どっちだよ」とミカイルは頭を擦った。


「両方ですぅ」とニーナは口を尖らせ、頬を赤らめながら立ち上がった。そして再び、子供たちをあやし始めた。




 遠くからエンジンの唸る音が聞こえてきた。ミカイルが立ち上がると、大きな車が砂埃をあげて走ってくるのが見えた。ゴランのトラックだ。ニーナは自分たちの居場所を知らせるように、それに向かって大きく手を振った。


 トラックが目の前で停車すると、ゴランが運転席から降りてきた。そして、太い腕で二人の首元をガシッと掴む。




「よぉ、お前ら! 無事だったか!? 心配したぞ!」


「いてててて! ゴランのおっちゃん、俺怪我してんだよ!」




 荷台の扉が開くと、オレグが降りてきた。




「ミカイル! 大丈夫だった!?」


「心配かけちまったな、すまん。ニーナのおかげで助かった」


「ほんとだよ! 二人ともケンカしてバラバラになっちゃうんだから! でも、無事で良かった」




 ミカイルの無事を確認すると、オレグは荷台の方を振り向いた。




「おーい、どうしたの? 大丈夫、ここは安全で悪い人はいないよ」




 すると小さな男の子が、荷台からひょいと降りてきた。腕や脚は鳥のように細い。小さいくりっとした目で、ミカイルを見つめる。服はボロボロで、顔や腕には所々痣があった。


 ミカイルは驚きと安堵で崩れそうになる膝にグッと力を入れ、その子の方に駆け寄り、両手で顔をぐしゃぐしゃに触った。




「おい、噓だろ! ほんとに……、クルトなのか!?」


「順を追って説明するから黙ってて。ねぇ、オレグ。薬箱みたいなのあるかな?」




 オレグが荷台から救急箱を出して手渡す。ニーナはミカイルの傷の手当てをしながら、これまでの経緯を話し始めた。




************************************************************




 ケンカ別れの後、ミカイルはボレルの方に、ニーナは反対の要塞門の方に向かった。


 ミカイルと同様、ニーナが当てもなく歩いていると、遠くに見覚えのある男の子が彷徨っているのが見えた。所々破けた服を着て、痛々しそうに裸足を運んでいる。目を凝らすと、それがクルトだと気づいた。奇跡的な再会に興奮しながら駆け寄ると、クルトは初め怯えた表情で警戒した。しかしすぐニーナに抱きついて、何があったのか話し始めた。




 ボレルの公園で暴力団に襲われた時、レヴォリの襲撃で団員たちは散り散りになった。クルトはその混乱の最中に一人で逃げていたが、その残党に再び捕まってしまった。残党は行き場のない他の子供も連れて要塞門を目指し、ユレイラに向かって歩いていた。


 そして先ほど、団員のほんの一瞬の隙を突き、クルトは逃亡した。がむしゃらに走り続け、上手く逃げ出すことができた。しかし、これからどうしたら良いのか右も左も分からず、呆然と彷徨っていたらしい。




 クルトは、他の子供たちを助けてほしいとニーナに頼んだ。震える小さな手が指差したのは、ちょうどミカイルが歩いて行った方向だった。


 ニーナがクルトを抱きかかえて走っている途中、呼び止められる声がした。それはオレグとゴランだった。


 ゴランは要塞門で三人と離ればなれになった後、ユレイラを探し回った。しかし見つからず、ボレルに戻り、乗り捨てたトラックを拾った。そして車を走らせながら、道行く人に尋ね回り、やっとの思いでオレグを見つけたらしい。


 ニーナは残党がいる方角を確認すると、再びクルトが襲われないようオレグたちに預けて、一気に駆けだした。その速さは車を超えており、トラックは後を追いかけるように走った。そしてニーナが先にこの場所へ辿り着き、残党に囲まれたミカイルを見つけた。




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「そうか……。それで、みんなここにいるのか」




 ニーナの丁寧な説明で、ミカイルは何とか経緯を理解できた。




「そういうこと。まぁ、ミカイルも残党に襲われていたとは思わなかったけどね」とニーナがからかう。


「はぁっ!? ちょうど俺が、あいつらをぶっ倒そうとしてたんだ!」




 ニーナが「ハイハイ」とあしらいながら、絆創膏が貼られた腕をバシッと叩き、ミカイルが悲鳴を上げた。


 それを見ていた三人が笑う。しかし間もなく、全員が沈黙に包まれた。その空気を察したのか、子供たちも不安げな表情で何もしゃべらない。




「これから、どうしようか」とオレグが力なく呟いた。


「そうだね……。もう要塞門は閉まっちゃったし、国境は越えられなさそうだし。あの、オレグのお父さん。要塞門は、あれからどうなったんですか?」とニーナが聞いた。


「ほとんどの奴らは、お前たちと一緒だ。国に絶望して、あそこから離れて行ったよ。もう感染しているかどうかなんて関係ない。ただ爆弾を待つしかなくなった。だからせめて、故郷で最後を迎えたいって人が増えたのかもしれないな。ボレルの方に戻る奴も、結構いた」


「故郷かぁ。……今頃マルテはどうなってるかな」とオレグが南の方角を眺めた。


「もう誰もいないでしょ。みんな揃って国境を目指し始めたし。ソーニャ先生たち、もうノストワに行けたかな……」とニーナが呟いた。




 すると、ヴーという警報音が遠くの方から微かに聞こえた。全員が音のした方向を振り向く。それは、要塞門がある方だった。不安になった子供たちが泣き出し始める。ニーナは宥めながら「何かあったのかな」と言った。




「たぶん、正気を失って無理やり門を通ろうとした、民間人か感染者……。いや、暴力団かもしれないな。感染してなくても、門の近くで狂ったように騒いでた奴らもいたんだ。『俺たちは感染してない。爆弾で死んでたまるか』ってな。騒ぎが大きくなると、ああやって警報音を鳴らしたり、銃で脅かして、軍がそいつらを静かにさせるんだ」とゴランが答えた。


「そうだよね……。感染してない人からしたら、国境を越えられないなんて、納得できないな。無理やり門を通ろうとするのも、分かるかも」とオレグがしゃがんで呟いた。




 すると、ずっと黙っていたミカイルが、急に声をあげた。




「それだ! 門を突破すりゃあいいんだ!」




 ミカイルは三人の視線が集まる中、要塞門の方を眺めて、右腕の拳を向けた。それは、唸り続ける要塞門に対して、宣戦布告をしているようだった。




「ちょっと、突破って……。無理やり門を通って、国境に行くってこと!?」とニーナが叫ぶ。


「あぁ、そうだ! ゴランのおっちゃんのトラックで突っ込む。門の壁は厚いけど、たしか検問所の辺りは、作りがもろかった気がするんだ。人が出入りする通路もあるしな。全速力で突っ込めば、コンクリートをぶっ壊して、中に行けるだろ」


「おい、そりゃあいくら何でも無茶だぞ。お前も見ただろ、あの門の厳重な警備を。銃を持ってる軍人が、大勢見張ってるんだ。トラックが気づかれてタイヤを撃たれたら、一巻の終わりだ。百歩譲って突破できても、中は政府の基地だぞ。門の警備とは比べ物にならない数の軍隊のお出ましだ。絶対に捕まっちまう。そしたら牢獄行きか、即刻死刑だぞ」とゴランが手刀で首をトントンと叩いた。


「あぁ、そのまま突っ切って国境に行くのは無理だ。たぶんどこかで捕まる。でも、大事なのはそこからだ。軍と喧嘩するんじゃなくて、軍に協力するんだ」


「協力って、どういうこと?」とオレグが聞く。


「いいか、政府は殺人鬼……、たぶんレヴォリって奴を倒そうとしてる。もし、レヴォリを倒すことができれば、爆弾が落ちるのを遅くできるんじゃねぇかな? その分時間が増えれば、サンドラ先生が言ってた薬の開発も、成功するかもしれない。そしたら俺たちや他の感染者が治って、爆弾を落とす計画自体なくなるかもしれないだろ。そうすりゃ、みんな助かる。だから軍に協力する」


「でも……、協力ってどうやって?」とニーナが聞いた。


「まず『一緒に戦う』って言うんだ。それで俺たちも、レヴォリとの戦いに加わる」


「できるわけないじゃん! あたしたち、まだ子供なんだよ? しかも感染者だし、門を突破したら犯罪者。そんなの『じゃあよろしく』って軍に入れてくれるわけない!」


「えっと、つまりだな……。俺たちがすごいってことが伝われば、たぶん考えてくれると思うんだ。あっちはレヴォリがどんな奴か把握してない。いや、レヴォリって名前も知らないんだぜ。でも俺はレヴォリや、その連れのタチアナって女と話して、特殊能力のことも知ってる。それを教えてやるんだ。でも、それより大事なのはニーナとオレグの力だ。ニーナの脚の力は、たぶんレヴォリと同じくらい強い。さっきだって、一気に暴力団を倒したろ。俺はレヴォリが同じようにしてるのを見たから、何となく分かる。それにオレグは一キロ……、だっけか? とにかく遠くの音も聞こえる。その耳があれば、敵の居場所も見つけて、戦いやすくなると思う。そしたら政府の方から『一緒に戦ってほしい』って頼んでくるかもしれないぜ」


「つまり……、お前たちの戦力と情報を提供する代わりに、軍に入れてもらう。ってことか」とゴランが腕を組んだ。


「ちょっと! 女のあたしに殺人鬼と戦えっての!?」


「待てって! 戦うのはあくまで政府の軍隊だ。ニーナはいざっていう時のとっておきだ。それに、俺だって戦う」


「どうやって!? 特殊な能力なんてないじゃん!」


「それは……、これから考えんだよ!」


「あ~。だと思った……」とニーナはガクッと座り込んで、空を仰いだ。


「あの……、ミカイルさ」とオレグが立ち上がった。


「ミカイルの考えは分かったよ。でもさ、ちょっと、なんて言うか……」


「遠慮なく言えよ」


「うん、その……。希望的観測、って意味分かるかな?」


「バカにすんな!」


「あ、ごめん。だから、その作戦はだいぶ希望的観測って感じがするんだ。トラックで突っ込んだ衝撃で、死んじゃうかもしれない。上手く基地に入れても、軍に殺されるかもしれない。もし参戦できることになっても、レヴォリにやられるかもれない。そんなのってさ……、死にに行くようなもんじゃない?」




 ミカイルは黙って、じっとオレグを見つめた。ニーナは一瞬ひやっとした。ミカイルがカッとなって責めないか不安になった。




「やっぱ、オレグは頭いいな」とミカイルが笑う。




 ニーナとオレグはきょとんとした。




「俺もそのとおりだと思う。いつ死んじゃっても、おかしくねぇ。正直、何がどう転ぶか、全然分からん。なんて言うか……、これは、めちゃくちゃ大きくて大事な決断だ。だからオレグとニーナ、それに感染もしてないゴランのおっちゃんに、無理強いはできない」




 オレグは目線を地面に落とした。ニーナはミカイルを見つめ、ゴランは腕を組んで三人の方に目をやった。


 ミカイルは深呼吸した。そして、少し顔を赤らめて言った。




「だけど、俺は……、みんなとこれからも一緒にいたい。オレグは知ってるかもしれないけど、俺は学校でずっと一匹狼だった。でも、いつもオレグがそばにいて、サンドラ先生が面倒を見てくれて、ゴランのおっちゃんが仕事をくれていた。そのくせ、自分が何でもできると思って、上手くいかないことは、全部他のせいにしてた」


「おい、ミカイル……」とゴランが焦った。


「ん? あぁ、とっくにばれてたよ」




 ミカイルが弁当屋を手伝っていたのがオレグにばれていたことを、ゴランは今初めて知った。オレグがいたずらっぽく細めた目を向けると、ゴランは気まずそうに顔をそらした。




「……それから爆弾の投下が決まって、一緒に国境を目指すことになった。初めは正直……、二人が嫌いだった。俺が何か言うと反対してくるし、思ったとおりにいかないことが多かった。食べ物は大人に取られるし、寝床は何度も襲われた。でも、上手くいかないことや、気に喰わないことを、他人のせいにしてたんだって分かった。結局、独りじゃ何もできねぇ。それからもケンカはしたけど、だんだん三人で協力するようになったと思うんだ。飯も分け合って、見張りを交代して寝床も襲われなくなった。それで、何とか要塞門に辿り着いた。感染者だって言われた後は、ニーナと揉めちまったけど、……さっきニーナは助けてくれた。ただ腐って死ぬのを待っても後悔するだけだって、よく分かった。今は、また会えて良かったと思ってる。それもやっぱり、ニーナがクルトのことを想って、ここまで駆けつけたからだ。それにゴランのおっちゃんだって、オレグを見つけて運んでくれた。おっちゃんがオレグを大事に想ってなかったら、絶対会えなかっただろ?」




 オレグは振り向いて、後ろに立っているゴランを見上げた。ゴランがニッと笑うと、オレグは恥ずかしくなって、すぐにそっぽを向いた。




「自分のことばっか考えると、結局何も上手くいかねぇ。でも、力を合わせたら、何とかなる気がするんだ。だから、もし賛成してくれるなら、俺はみんなと戦いたい。それから、あんな政府でも協力してやるんだ。そうすりゃレヴォリを倒して、みんなで生き延びられるんじゃないかって」




 ミカイルがオレグのそばに寄る。




「オレグ。さっき『死にに行くようなもん』って言ったよな。でもよ、このまま何もしなくたって、どうせ死ぬんだぜ」




 ミカイルはオレグの肩に手を乗せた。オレグは顔を掻くふりをしながら、こぼれそうになった涙を拭った。


 ニーナがボールを両手に抱えて、口を開いた。




「あたしもさ……、サッカー部に入ってたけど、先輩と揉めてやめちゃったんだよね。孤児院のために、世界大会で優勝するつもりだったのに。プレーが上手くかみ合わなかったり、指のことからかわれたりして。それで先輩に怪我させちゃって、退部になった。たぶんそれって……、孤児院のためだけじゃなくて、どこかで自分のためにサッカーやってたから、っていうのもあるのかも。クルトのこともそう。この子を守るんだって、オレグの反対を押し切ったじゃん? あれも、あたしの気持ちしか考えてなかった。だから二人を危険に晒して、クルトも暴力団にさらわれちゃった。うん……、確かに、自分の考えだけ押し通すと上手くいかないってのは、あたしもミカイルに賛成」




 ニーナはボールを右手の指に乗せ、バランスを取りながら左手で横に叩いて、クルクルと回し始めた。




「ま、女のあたしを戦場に行かせるなんて、男としてどうかと思うけどね」


「だから、ちゃんと俺も戦うって言ってるだろ!」




 ミカイルはボールを奪おうと手を伸ばした。ニーナがひょいとボールを高く上げると、手が宙をスカッと空ぶった。




「すごいな……、ちゃんと考えてるんだね」とオレグが呟いた。




 二人がボールの取り合いをやめ、オレグを見つめる。




「僕も……、自分のことで頭いっぱいだったかも。無事にノストワに行きたいからって、クルトを連れていくことに反対した自分が恥ずかしいよ。一緒にどう国境を目指すか、考えてやれば良かったのに。そうすれば、クルトに怖い思いをさせずに済んだかも。クルト、ごめんね」




 クルトはオレグの方を振り返った。しかし何の話かは分からず、ただニコッと笑い返した。




「あと……。父さんに対してもそうだった、かも」




 ゴランが僅かに目を見開く。




「前は、父さんがどうして料理屋に拘るのか分からなかった。家計も大変だし、僕も痛み止めをなかなか買えなかったから。他の仕事の方が、お金が貰えるんじゃないかって。それに、秘密でミカイルがお店を手伝ってるかもしれないって疑った時……、自分が家族の外にいる感じがして、それで絶対手伝わないって意地張ったんだ。理由はミカイルから聞いたから、今はそう思ってないけど」




 ゴランが目を見張ってミカイルを見た。ミカイルは口笛を鳴らすように口を尖らせ、視線を逸らした。




「でも、どんな理由でも料理の仕事をやめちゃったら、結局『母さんのせいで店が潰れた』って認めることになる。ずっと二人で切り盛りしてきた店を続けるのって、父さんにとって本当に大事なことだって、分かってあげられなかった。僕がそれに早く気づけたら、お店を手伝って家計を楽にできたのに」




 オレグは立ち上がり、顔を真っ赤にしながら振り返って、ゴランの方を見た。




「父さん、あの……」




 ゴランがじっとオレグを見つめる。




「店をやめてほしいなんて、言ってごめんなさい。無事にノストワに行けたら、これからは手伝う」




 一瞬だけ、時間が止まったような静けさに包まれた。そしてその直後、野獣のような叫び声が轟いた。




「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」




 ゴランが大声で泣きながら、オレグのお腹に顔を埋めて膝をついた。




「すまん……、本当にすまん、オレグ……。ずっと、つらい思いをさせちまったなぁ。謝らなきゃならんのは俺の方だ! ずっと俺は、母さんを死なせちまった自分が許せなかったんだ。だから……、だから取り憑かれたように、店を続けようとした。それが母さんへの手向けだと思ったんだ。でも、上手くいくはずがないよな。何より大切なお前のことを、考えきれてなかった。そのせいで、耳の痛みで苦しむお前を、助けてあげられなかった。そりゃあ、母さんも悲しむよな……。俺が死んだら、きっとあの世で母さんにフライパンで殴られる。バカなクソ親父を許してくれ、オレグ……」




 オレグのつぶった目から涙がこぼれ、ゴランの頭に落ちていく。ミカイルとニーナは、二人の溝がゆっくりと埋まっていくのを感じた。




 ヴゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ      




 要塞門の方から、先ほどと同じ警報音が聞こえた。また誰かが、門を無理やり突破しようとしたのかもしれない。子供たちが再び怯え始める。




「すまん。大の男が取り乱しちまった」




 ゴランは手で顔をゴシゴシと擦りながら立ち上がり、オレグの頭に手を置いた。




「さっきの、力を合わなきゃって話だが……、それはこの国にも言えることだと思ってる」


「どういうことですか?」とニーナが聞いた。


「俺はそこまで政治は詳しくないが、この国は、政府の奴らが自分の利益ばかり考えて、俺たちの暮らしは二の次だ。だから逆に、国民は政府に何も協力しようとしない。結果的に政府も、国民から何も得られない。そのレヴォリって奴は、相当な数の人を襲ってるんだろ? だったら、民間人から情報提供や助けを求める声があってもいいはずだ。だが、俺たちに嫌われちまってるから、必要な情報が無く、対処できていない。それで要塞門に侵入させちまって、挙句の果てに、ノストワからは爆弾投下を早めるよう要求されてる。いいか? 爆弾で俺たちが死ねば、モグロボ自体が滅びるんだ。ってことは、政府の奴らも、海外でその立場を失う。そしたら、その辺の難民と同じだ。結局自分たちのことばかり考えてるから、ツケが回ってくる」




 ミカイルたちは頷いた。




「このままじゃ、全員お陀仏だ。だから俺は、お前たちの決めたとおりに行動する。情けない話だが……、ウイルスや爆弾から守ってやることはできない。だがミカイルの言ったとおり、トラックで門に突っ込むことはできる。お前たちの生き延びる可能性が上がるなら、俺は何でもやる。オレグ、ニーナちゃん、どうしたい?」


「感染してるあたしたちに、それは愚問ですって」




 それを聞いたゴランがニヤっと笑う。




「このまんまじゃ、ウイルスか爆弾で死んじゃうだけだもん。それを黙って待つなんて、絶対イヤ。まだ、やらなきゃいけないことが、いっぱいあるんだから。あたしは戦うよ」とニーナはボールを手で叩いた。


「僕も……、戦う。門の中まで進めれば、レヴォリと戦わせてもらえないか、政府の人に交渉できるかもしれないしね。どうなるか分かんないけど、ただ死ぬのを待つより、マシだよ」とオレグが言った。


「みんな……、ありがとうな。よし、決まりだ! 基地に突っ込んでやるぞ!」




 ミカイルが小さな拳を要塞門に向かって伸ばすと、他の三人が力強く手を重ねた。




 しかし、クルトをはじめ、拉致されていた子供たちをどうするかが問題になった。人数が多すぎて、全員をトラックに乗せて要塞門に向かうことはできない。それに、小さな子供を荷台に乗せて突っ込むのは危険すぎる。かといって、こんな場所に置き去りにはできない。また別の暴力団や、感染者に襲われる危険がある。




「やっぱり、その感染者隔離施設って所に引き渡すのが、一番安全だろう。俺はあの近所を通っただけだから、詳しくは分からんが、お前たちの話だと食料もあるし、輩も近寄らなそうじゃないか」とゴランが顎髭を触る。


「本当に、それしか方法ないのかな……」とニーナが俯いた。




 ミカイルとオレグは目を合わせた。




「……ごめん、今の取り消し。やっぱり、連れて行くのは危ないね。どうなるか分かんないし。少しでも安全な所に避難してもらって、あとはあたしたちがレヴォリを倒せばいいだけだもん」




 ニーナは自分自身を納得させるように言うと、慣れたあやし方で、子供たちを荷台へ乗せていった。ミカイルとオレグも黙ってそれに倣う。またどこかに連れ去られるのではないかと不安になり、泣き出す子供もいた。するとニーナが飛んできて、その子を宥めて落ち着かせる。


 二十人くらいの子供が荷台に乗った。このペースであれば、三往復で全員を施設に送り届けることができる。そして、オレグが道案内のため助手席に座る。子供たちを預けるのが頼みやすくなるよう、クルトも荷台に乗った。


 ここから施設までは、車で往復一時間くらいの距離だった。トラックが行き来するのを待っている間、ミカイルは怪しい奴が来ないか、周囲を注意深く警戒する。しかし、辺りにはほとんど人が見えなかった。


 ふと、子供たちと遊んでいるニーナの方を眺めた。まるで、野外保育でお出かけしている先生と園児のようだ。この国が爆弾の危機に晒されていることを忘れるほど、のどかな光景だった。




「ニーナ、大丈夫か?」とミカイルが近づく。


「え? なにが?」とニーナは悪戯でくすぐってくる子供の手を笑顔で摑まえた。


「いや……、またクルトと離ればなれになるからさ」


「……あたしは大丈夫。それに、連れて行くってあたしが前に意地張ったから、クルトが暴力団にさらわれちゃったようなもんだし。子供たちは心配だけど、あの門に突っ込むより安全でしょ?」とニーナはミカイルを見ずに答えた。




 やがて、施設の方角が西日でオレンジ色に染まり始めた。最後の子供たちを荷台に乗せている途中で、クルトがそこからひょいと降りる。自分より小さな子供たちを見守るため、自ら荷台にずっと乗ってくれていたようだ。




「ねぇ、お姉ちゃんも一緒に来るんでしょ?」とクルトがニーナの服を引っ張る。




 ニーナは一瞬躊躇した後、ゆっくりとしゃがんで目線を合わせた。




「ごめんね、あたし一緒に行けないんだ」


「えっ!? やだよ、一緒がいい!」




 クルトは半泣きになり、ニーナの手を強く握りしめた。




「あたしたち、また門の方に行くんだ。そこで悪い人をやっつけるの。だからすっごく危ないんだ。前に一緒に行こうとした時も、さっきみたいな悪い男たちに、さらわれちゃったでしょ? でも、クルトがいた施設なら、他の人も襲ってこないし、ご飯もたくさん残ってるから安全なんだ。あたしも……、クルトと一緒にいたいけど……」




 そこまで言うと、クルトがぎゅっとニーナを抱きしめた。ニーナの目から涙がこぼれる。




「……ぜったい、生きててね! あたしも、ぜったい生きて戻ってくるから!」




 ニーナはクルトを抱きかかえ、荷台に乗せた。オレグがゆっくりと荷台の扉を閉める間、ニーナは見えなくなるギリギリまで手を振り、クルトは恋しそうに、じっと見つめ返していた。


 発車すると、ニーナは「トイレ」と小声で言いながら、トラックとは逆の方に駆けて行った。ミカイルは声を掛けず、ニーナとトラックが戻るのを待っていた。




 一時間ほど経ち、トラックが戻ってきた。辺りはすっかり暗くなり、要塞門の方の空には、星が光っている。




「やっと全員運んだな」とゴランが腕のストレッチをする。


「クルトたちは大丈夫そうだった?」とニーナが聞く。


「うん。今も施設は安全そうだったし、あのおじいさんたちも、ちゃんと守るって約束してくれたよ」とオレグが答えた。


「そう……、良かった。おじさん、運んでくれて、ありがとうございます」


「いいってことよ! さぁ、それよりお前ら。覚悟は揺らいでないだろうな」


「当たり前だろ。俺たちはレヴォリを倒す。それからサンドラ先生に薬を作ってもらって、爆弾が落ちるのを食い止めるんだ!」とミカイルが叫ぶ。




 それを合図に、ゴランは運転席へ、三人は荷台へ乗り込む。分厚いタイヤがけたたましく砂埃を上げ、トラックが門を目指して走り出した。

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