戦うウイルス

 係の軍人に案内され、ミカイルは司令室、ニーナとオレグは小隊が集まる広間へ向かった。もう完全に日は落ちていて、空は真っ暗だったが、敵を逃さんとばかりに無数のスポットライトが踊り、辺りは昼間のように明るかった。




「ここが司令室だ。いいか、君はあくまで重要参考人として待機が認められているだけだ。身勝手な言動は慎んでくれ」




 係に注意されながら司令室に通されたミカイルは、生まれて初めて見る設備に言葉を失った。


 大きなモニターが一つと、百個以上の小さなモニターが、一面の壁に敷き詰められて広がっている。モニターには各フロアの通路や部屋が映し出され、定期的に別のカメラが映す様子に切り替わっていた。


 モニターの下には、様々な形や色をしたボタンやマイクが並んでいる。他の壁にも、よく分からないスイッチや、どこかと通話できそうな受話器、そして天井裏に続く鉄の梯子も設置されていた。部屋の中央にはデスクがあり、何かの設計書の紙や、ゲームで使うような駒が置かれている。


 部屋の広さは中学校の教員室くらいあったが、機械に囲まれているせいか、妙な圧迫感を感じた。たくさんの軍人が慌ただしく室内を駆け回っている。


 すると、胸に勲章の付いた軍服を着た男が、マイクに向かって話し始めた。例の大佐だった。各小隊長に向けて連絡しているらしい。




「全二十小隊は急いで配置につけ。専用階段で先回りするんだ。着いたら随時報告しろ。敵は現在十二階にいると思われる。カメラが次々と壊されているから、正確な位置は特定できない。既に、不意を突かれた軍人が何人かやられている。全員、決して気を緩めるな。ノストワからの援軍もあるが、恐らく多くは派遣されないだろう。我々の力で敵を食い止めるんだ」




 各小隊は、九十九階まである基地内のあちこちに配置されるようだった。レヴォリが侵入する前から高い階で待機していた隊もあれば、ニーナやオレグが所属する小隊のように、これから軍の専用階段で先回りする隊もあるらしい。




「なあ、専用階段って何だ?」とミカイルが近くの軍人に聞いた。


「俺たち軍人や、国境を行き来する人が使う、秘密の階段さ。建物の設計図や地図にも掲載されてないし、見つかりにくい場所に配置されている。まぁ、らせん状の避難階段みたいなもんだ。最短で上や下のフロアを行き来できる」




 レヴォリは、各フロアにあちこち設置されているカメラを壊しながら進んでいる。専用階段の存在に、気がついていないのかもしれない。




「こちら九班。配置につきました」


「五班、到着しました。指示を待ちます」




 各隊が配置につき始めた。それぞれの隊長は、通信機や携帯型の小型モニターを使用して、司令室や他の隊と連絡を取っている。


 すると、小さなモニターにニーナとオレグが見えた。二人は迷彩服に着替えていた。ニーナは片脇にサッカーボールを抱え、オレグは射撃場で使用される防音効果の高いヘッドホンをはめていた。また、ミカイルと同じようにマスクをしているため、二人がどこにいるかはすぐに分かる。




「おーい、ニーナ! オレグ! 俺が見えるか!?」




 司令室の軍人たちがクスクスと笑うと、大佐がミカイルの前に立った。




「よう。私は今ここの指揮を任されている」


「おう、よろしくな」




 大佐は咳ばらいをした。周りの軍人は笑いを堪えているようだった。




「初めに言っておく。悪いんだが……」




 大佐が腰を曲げながら、ぐうっと顔を近づけてきた。




「くれぐれも、俺たちの邪魔はせんようにな!」




 太い声が響くと、軍人たちの表情が引き締まり、先ほどほどけた緊張感が室内に蘇った。ミカイルは黙って下唇を突き出しながら、壁の梯子の方に目を逸らした。






* * * * * * * * * * * *






 レヴォリは素早いスピードでフロアを駆け巡り、カメラを壊しては上の階に進んでいった。多くのカメラを壊した方が、どの階段で進むか予測されにくく、軍人と交戦せずに済む。途中で何人かの軍人に出くわしたが、やはり敗戦国の軍備は不十分らしく、全員が銃を持ってはいない。主な武器はナイフで、持っていてもせいぜい手榴弾くらいだった。素早く相手の懐に潜り込めば、攻撃される前に殺せる。


 タチアナは、レヴォリの後を追うように進んでいた。追うといっても、とても同じスピードでは走れないため、なるべく離れないよう移動するだけだった。レヴォリが次々とカメラを壊し、敵もいないことを確認すると、指示されて上の階へと上っていく。




「あまり軍人がいないわね。基地に入る前の方がずっと多かった」


「恐らく、これから隊を組んで向かってくる。油断できない。一人一人は雑魚でも、徒党を組まれると厄介だ」




 レヴォリたちは三十二階に続く階段を上がっていく。各フロアには五つくらいの階段があった。階段は二階以上続いておらず、フロアごとに別の階段を探して登らなければならなかった。




「この建物の造り……、部外者を混乱させるよう設計されてるな」


「あと六十七階もある……」


「ここを越えればノストワ国だ。治療薬も近いぞ」


「えぇ、そうね。正直、私の体力が持つか心配」




 タチアナが不安を漏らした瞬間、「いたぞ!」と頭上から声がした。見上げると、三人の軍人が階段を駆け下りてきている。




「隅に隠れてろ」




 レヴォリに指示されると、タチアナは上りかけた階段を戻り、通路の角にしゃがんで身を潜めた。そして気づかれないよう、ゆっくりと顔を覗かせる。


 レヴォリはタチアナが隠れたことを確認し、敵に目をやった。一人の軍人が段を飛ばして階段を駆け下り、ナイフで襲い掛かってくる。そのナイフを素早く奪い、相手の首を切り突けた。


 一瞬の出来事に狼狽したのか、銃を持っていた軍人が発砲してきた。ぐったりとした軍人の死体を前に掲げて、盾にする。そして階段の壁を強靭な脚力で蹴り飛ばし、壁と壁の間を行き来しながら、銃を持った軍人に近づいた。途中で弾が脇腹に命中したが、表情一つ変えず軍人の目の前に立ち、銃を奪って相手の腹を手刀で刺す。軍人は目を見開いたまま、膝から崩れ落ちた。


 最後の一人は恐れをなしたのか、応援を呼ぶため叫びながら、階段を駆け上り始める。それを目で追いながら、奪った銃をガラ空きの背中に向けて、引き金を引いた。




 レヴォリは銃を持っていた軍人の体を脇に抱え、階段を降りてタチアナのいる通路に戻った。軍人は腹部の傷口を抑えながら、呻いている。無造作に軍人を床に落として「回復を」と言いながら、自分の上着を上げて脇腹をタチアナに見せた。銃弾を受けた箇所から流血している。タチアナは右手でその傷を覆うように触れ、左手を軍人の体に押し当てた。






* * * * * * * * * * * *






「三十階J地点で銃声と、応援を呼ぶ声が聞こえました。すぐに向かいましたが、三名の死体のみ発見。敵はいませんでした」




 司令室に連絡が入り、軍人がモニターに映る。




「ナイフや銃などは、携帯されていませんでした。レヴォリが武器を持ち去ったようです」


「奴らがどこに向かったかは分かるか?」


「いえ、そこまでは分かりません。ただ、妙な点が一つ。付近の階段の壁に、銃弾や血の跡が見つかりました。その跡は、床から高さ五メートルほどの位置にあります。普通、そんな高い所へ銃を撃ったりしないはずです」


「確かに変だな。その軍人が錯乱してしまったのか……」


「きっとレヴォリが高く飛び上がって、その時に銃を撃ったんだ」とミカイルが口を挟んだ。




 モニターに映る軍人が、怪訝な表情を浮かべてミカイルを見つめる。




「何を言っている?」と大佐が苛立ちの籠った声色で質問した。


「あいつは足の力が馬鹿強いんだ。十メートルくらいはジャンプできる」


「そんなことあり得ん」


「本当だ! ボレルであいつに会った時に見たんだ」




 現場の軍人が「信じられないが……、それが奴の能力ってことか」と呟いた。それほどの脚力があれば、相当なスピードで走れる。捕らえることは容易ではない。足だけではなく、全身の筋肉も異常に発達しているとしたら、肉弾戦はもちろん、ナイフ程度の武器では歯が立たない。


 人間離れした敵の手ごわさをあらためて実感したのか、しばらく辺りが沈黙した。




「いずれにせよ、このままでは奴らを止めることはできん。新たに作戦を立てる」




 大佐は現場の軍人に対し、引き続き同じ場所で待機するよう指示した。そして指名された数名の軍人たちが、大佐と共に司令室を出て行った。モニター前に座る通信係は、映像の監視や外部との連絡を再開する。室内は慌ただしさを取り戻した。


 ミカイルは二人が心配になった。ニーナも相当な脚力を持っている。それでも、レヴォリより強いとは思えない。オレグは聴力が発達しているだけで、他は普通の中学生と同じだ。有事の際は逃げるよう言われているらしいが、もし敵が執拗に追いかけてきたら、一巻の終わりだ。




「あいつら、どこにいるんだ……」と目を細める。




 幾つかのモニターには、小隊が映っていた。ほとんどは待機しているようだが、慎重に移動している隊もあった。


 始め、二人に向かってモニター越しに手を振ったが、それ以降は姿が見えない。カメラの数は限られているようで、基地の至る所に死角があるらしい。




 十分ほど経ってから、大佐たちが戻ってきた。




「五十階より下の階にいる各隊に繋げ」と大佐が司令室の中央に立つ。




 通信係が機械を操作すると、モニターに小隊長たちの顔が映される。ミカイルがモニターをくまなく探すと、二人の姿を見つけられた。映っている姿は小さいが、怪我をしていないことは分かる。思わず、ホッと胸を撫で下ろした。




「レヴォリはタチアナという女を連れて、現在も国境を越えようと、上の階に進んでいる。これまで、何人かが束になって攻撃を仕掛けたが、そのほとんどがやられてしまった。結果、およそ三十人の軍人が犠牲になっている。つまり、少人数でバラバラと攻撃しても、素早く反撃され、逃げられてしまうわけだ。このままでは、奴らを止めることができない。そこで、君たちにはこれから告げる作戦を実行してもらう」




 小隊長たちの目に力が入る。




「三つの小隊を合体させ、一つの中隊とする。その中隊を二つ編成して、奴らを挟み撃ち、一斉に攻撃するんだ。逃げにくい状況を作り、大きな戦力で一気に叩く。場所は、細い通路になっている四十五階だ。敵は現在、三十八階付近を進んでいるものと見ている。これから指示する隊は、作戦の実行部隊だ」




 大佐は、中隊に加わる小隊長の名前を発表し始めた。すると、ニーナの前にいる小隊長が返事をした。ついにニーナが参戦する。一方、オレグのいる隊は参加しないようだった。


 対象となる隊が発表された直後、小隊長の一人が大佐に質問した。




「作戦は理解したのですが、上手く挟み撃ちできるでしょうか。敵はカメラを壊しながら、我々を混乱させるようにあちこち動き回って、少しずつ上の階に進んでいると聞いています。敵を見つけることができたとしても、それぞれの位置やタイミングが合わないと、再び攻撃されるか、逃げられてしまうかもしれません」


「言いたいことは分かる。だから、作戦を成功させやすい構造の通路がある、四十五階を選んだんだ。それに、我々も壊されたカメラの位置から、奴らの居場所を随時そっちに連携できる」


「……了解しました」




 その小隊長は、まだ納得しきっていないようだった。確かに、壊されたカメラの位置で、おおよその居場所は分かる。しかし、『その位置から、レヴォリがどこに進んだのか』までは分からない。基地のカメラは死角だらけだ。素人のミカイルでも、モニターをしばらく眺めていれば、容易に察しがつく。そんな状況で、司令室からレヴォリの位置を中隊に上手く連携できるだろうか。


 作戦が失敗すれば、中隊はやられてしまうかもしれない。そこには、ニーナも参加している。




「なぁ、大佐のおじさん」とミカイルが声を掛けると、大佐は「おじさんは余計だ」と言いながら振り向いた。


「ちゃんとレヴォリのいる所が分かる方が、作成も成功しやすいんじゃないか?」


「だから居場所はここから連携すると言っただろう」


「そうだけどさ、もっと正確に分かりそうな方法があるんだよ」


「いい加減にしろ! 今は一刻を争うんだ! ガキが生意気に背伸びするんじゃない!」




 室内の軍人たちが一斉に注目する。ミカイルはひるまず、大佐を睨みつけた。大佐が続けて何か言おうとした時、先ほどの小隊長がモニター越しに割って入った。




「君、どんな方法なんだ?」




 大佐がグワッと踵を返して、モニターを見上げる。後ろにいるミカイルからは見えないが、いちいち口を出す部下を睨みつけているのだと思った。ミカイルはそれに構わず答える。




「俺の友達のオレグは、信じられないくらい耳がいいんだ。すっげぇ遠くの声も聞き取れる。レヴォリたちがしゃべれば、その声で居場所が分かると思うんだ」


「その『オレグ』って、どこにいるんだ?」


「えっ、何て言えばいいんだ? そこに映ってるやつだ」




 ミカイルは前に歩きながら、一つの小さなモニターを指差した。モニターの向こうでは、オレグが目を丸くしている。




「……六番隊か」と通信係が呟いた。






* * * * * * * * * * * *






 六番隊の軍人たちは、振り返ってオレグを見た。オレグはハッと我に返り、「ちょっとミカイル! 急に何言うんだよ!」と小隊長が持つトランシーバーに向かって叫んだ。




「心配ないって。ヘッドホン外せば、お前の耳はビンビンだろ?」


「他人事だと思って……、どれだけ頭が痛くなるか知ってるだろ!」


「周りが静かにしてれば大丈夫だって。そうすれば、レヴォリたちの足音や声も聞き取れるだろ?」


「……まぁ、二階先くらいの範囲なら、多分聞き取れるよ」




 すると、他のモニターから驚く声が聞こえた。




「なに! 本当か!?」


「それなら作戦も成功しやすくなる」


「すごい能力だな……」




 各隊は成功確率の上がる方法を聞いて、興奮しているようだった。司令室の軍人たちは、恐る恐る大佐の様子を窺っている。大佐は震える拳を握りしめたまま、モニターの一点を見つめていた。




「お前は中隊にはいないから安全だ」とミカイルが励ます。


「そうだけど……、僕たちを見つけて襲ってくるかもしれないだろ」




 オレグは勢いで軍に参加したものの、場の雰囲気に押され、弱腰になっているようだった。




「オレグ!」


「なにさ?」


「……中隊にはニーナもいるんだ」




 オレグは眼を見開いた。そして、ゆっくりと視線を床に落とした。軍人たちも様子を察して、口を閉じる。


 しばらくして、オレグはトランシーバーに向かって言った。




「……じゃあ、やるしかないね」




 軍人たちは頷いたり、ガッツポーズをした。作戦の成功確率が上がったことで、士気も高まっていた。先ほどの小隊長は「オレグ君。本当にありがとう」とモニター越しに礼を言った。


 すると、戦いの最中に似つかわしくない女子の声が聞こえた。




「へ~、ミカイルがあたしの心配ねぇ」とニーナが指の上でサッカーボールを回転させている。


「なんだよ。聞こえてるなら、始めから何か言えよ」とミカイルはニーナの映るモニターに目をやった。


「どんなバカな作戦を考えたのか、じっくり聞かせてもらおうと思ったけど。だいぶまともだったね」


「俺がいつバカな作戦を考えたことがあった?」


「国境基地に着くまで毎日」


「ああん!?」


「二人とも! 画面越しにケンカするなよ!」




 オレグが二人を制すると、通信係の一人が噴き出した。大佐が「何がおかしい?」と聞くと、その軍人は「すみません」と真顔に戻った。それでも、モニターに映っている皆が、クスクス笑っているようだった。


 緊張感を取り戻さんとばかりに、大佐が声を上げる。




「よし分かった! 六番隊は一つ上の四十六階で待機しろ。他の隊は予定どおり配置に着け。六番隊からの連携で、敵の位置を把握。挟み撃ちだ!」




 各小隊長の「了解」という合図と共に、軍人たちが一斉に動き出した。ニーナやオレグもそれに続き、モニターから見えなくなった。


 ミカイルは後ろから刺す大佐の視線に気がつき、振り返った。




「なんだよ。いい作戦だろ?」


「……まぁな」と大佐はつまらなそうに目を逸らした。






* * * * * * * * * * * *






 四十五階には細い通路があり、その両側の部屋は非常食の保管室となっている。そして専用階段を除けば、四十五階には二つの階段しかない。四十四階から上がってくる階段と、四十六階へ上るための階段だ。その二つは通路を挟んで建物の両端に位置している。


 上の階へ進むには、当然通路を通らなければならない。レヴォリの力なら天井を突き破れるかもしれないが、代わりに居場所がばれてしまう。レヴォリがそんなリスクを冒す可能性は低いと判断された。




 ニーナの所属する中隊は、四十四階に近い方の部屋に待機した。小隊長たちは互いに連携しながら、司令室と交信している。


 隠れていることがばれないよう、部屋は明かりをつけない。ドアの隙間から差し込む光を頼りに、自分や仲間のいる位置を把握した。部屋の中には大量の缶詰や、穀物が詰め込まれた厚手の紙袋が、ぎっちりと並べられている。いざ突撃する時に躓かないよう、足元の備蓄品の場所を手探りで確認した。


 ここで待機している一秒一秒の合間に、レヴォリが着々と近づいている。ニーナはボールをお腹にぎゅっと抱きしめ、息を潜めて指示を待った。




 オレグの小隊は、四十六階の通路に待機した。四十五階に下りる階段に近く、且つ専用階段にも近い場所だ。ここなら下からの音を拾いやすく、万が一の時でも専用階段に逃げ込みやすい。




「六番隊、配置に着いた。両中隊の準備完了後、オレグに敵の位置を探ってもらう」




 オレグは迷彩服の中で、びっしょりと汗をかいていた。自分の聴力に作戦の成功が掛かっている。ニーナや軍人たちの命を預かっている。ドクドクと大きな音を上げて、心臓が脈を打つ。もはやそのせいで、他の音を拾えない気がしてきた。




「オレグ、大丈夫か?」と小隊長がオレグの肩に手を置いた。


「はい……。でも、ちょっと吐きそうです」とオレグがお腹に手を当てる。




 小隊長は少し笑いながら、新人隊員に圧し掛かるプレッシャーを軽くしようとした。




「そんなに緊張するな。もし音が聞き取れなくても、壊されたカメラの位置で、だいたいの居場所は把握できるんだ。ベストなタイミングでなくても、挟み撃ちはきっと成功する」


「……分かりました、ありがとうございます」




 オレグが頷きながら礼を言うと、小隊長は再び肩を軽くポンと叩いた。そして、トランシーバーで中隊の各小隊長と連絡し、準備ができたことを確認した。




「オレグ。準備完了だ。近くの隊員は君の指示があるまで動かないし、声も出さない。何か音がしたら、それが敵だ」




 オレグは「了解です」と呟くと、目を閉じて、両手でヘッドホンをゆっくりと外した。その瞬間、様々な音が鼓膜を刺激し始めた。


 目の前の小隊長の呼吸。僅かな動きで生じる迷彩服の擦れ。近くを飛んでいる小さな虫。天井の通気口を流れる空気。カメラに内蔵されている機械。それぞれの発する微かな音が、オレグにははっきりと聞き取れた。


 そして、遠くの階段を上がる足音が聞こえた。




 人数は……、二人。




 見つけた。レヴォリとタチアナだ。足音のテンポで人までは判別できないが、この距離で動いている軍人は他にいないはずだ。それであれば、敵以外に考えられない。


 一人の歩調が僅かに変だった。まるでびっこを引いているような歩き方だ。もしかしたら軍人の攻撃を受けて負傷し、上手く歩けないのかもしれない。だとすれば、好都合だ。作戦も成功しやすくなる。


 しばらくすると、通路を歩く歩調に変わった。距離からすると……、作戦の舞台の四十五階に着いたらしい。ゆっくりと一歩ずつ、慎重に足を進めている。辺りを警戒しているようだった。でも大丈夫だ。ずっと通路の真ん中辺りを歩いている。中隊が待機している両側の部屋は、気に掛けていないみたいだ。


 オレグは目を開いて、ゆっくりと小隊長を見た。小隊長がトランシーバーの通話ボタンに親指を乗せる。




 もう少し……。あと数歩……。




 いまだ!




 オレグは右手をサッと上げて合図した。それを確認した小隊長は小さく頷き、通話ボタンを押して「突撃」と呟いた。






* * * * * * * * * * * *






 軍人が食料保管室から一斉に飛び出し始めた。四十五階に大人数の足音が鳴り響く。ニーナも立ち上がり、前を走る軍人に続いた。




 すごい。オレグが作戦どおり、敵の居場所を突き止めたんだ!




 暗い部屋の中からは、ドアが光って見えた。そこを通り抜け、通路に出る。急な明るさの変化に、思わず目を細めた。


 急いで通路の中央へ向かう。大勢が前を走っており、その先にいるはずのレヴォリがまだ見えない。その奥からは、ドドドドドドドドッと大人数の足音が鳴り響いている。四十六階に続く階段側の部屋のドアから出てきた中隊だ。


 通路の幅はおよそ三メートル。各中隊は三十名ずつ。この人数で挟み撃ちすれば隙間ができず、レヴォリでもひとたまりもないはずだ。


 すると、急に前の軍人が立ち止まった。ニーナはすぐに止まれず、その背中にぶつかる。




「ちょっと! どうしたの!?」




 前にいる皆が立ちすくんでいる。何か戸惑っている様子だった。ニーナは軽くジャンプして、やっとレヴォリを視界に捉えた。




 え……、何あれ……?




 レヴォリはゆっくりと歩きながら、四十六階へ続く階段がある方へ進んでいる。しかし、そばにいるのはタチアナではなく、血まみれの軍人だった。意識はあるものの、自ら隙を突いて逃げる体力は残っていないようだ。レヴォリはその軍人の首を掴み、銃をこめかみに当てている。




 人質!?




 どこで捕らえられたのかは分からない。もしかしたら、四十五階の妙な静けさに危険を察知して、既に倒していた軍人を連れてきたのかもしれない。


 レヴォリは前後を警戒しながら、少しずつ進んでいる。四十六階側の中隊は、それに合わせて後退する。先頭の一人がナイフを投げつけようと試みたが、そばの小隊長が手を前にかざして制した。仮にナイフで攻撃できたとしても、その反動で引き金を引きかねない。やはり、生きている仲間を見殺しにはできない。


 しかし、このままでは状況が悪化する一方だ。四十六階の構造がどうなっているかは分からないが、少なくともこの辺りでは、四十五階が最も作戦に適している。挟み撃ちができなくなれば、レヴォリはこちら側の隙を突き、さっさと先へ進んでしまう。こうしている間にも、レヴォリは着実に四十六階側に進んでいる。




「隊長、どうしますか」




 ニーナ側の隊の先頭を歩く軍人が、小隊長に指示を仰いだ。小隊長はしばらく考えた後、「あの銃を何とかするしかない」と呟いた。




「銃を破壊するか、銃口を人質から遠ざけるしかない。だが、前者はリスクが高いな。下手に弾を打っても、誤って人質に当たってしまうかもしれん。仮に命中しても、衝撃で銃が暴発して、人質が犠牲になるかもな……」




 膠着状態のまま、レヴォリは人質と共に足を進める。四十六階側の小隊長から「もうすぐこちらの隊の最後尾が、四十六階の階段付近まで押される」と通信があった。早くしなければ、せっかくオレグのおかげで挟み撃ちできた作戦が、失敗に終わってしまう。


 ニーナは「あの、あたしに作戦があります」と言いながら、仲間の陣の中を割って進み、小隊長がいる先頭まで進んだ。




「おい、危ないぞ。勝手に陣形を乱すな」




 隊長は目線をレヴォリに向けたまま、ニーナに注意した。




「あたしがこのボールを蹴って、銃口に当てます。そうすれば人質を助けられる」




 そばの軍人たちは目を丸くした。




「ボールなら銃やナイフよりも大きいから、銃口に当てやすい。それに衝撃も銃より小さいから、反動で暴発する危険もないと思います」


「そんな賭けみたいな作戦に乗っかれるわけないだろう!」


「ならどうするの? このままじゃレヴォリに逃げられる! 早くしないと、四十六階に進んじゃう! オレグたちも危ないよ!」


「だからと言って、君の作戦はリスクが高すぎる。許可はできない」




 二人が揉めている中、軍人が「隊長、奥の階段はすぐそこです!」と警告した。挟み撃ちの作戦が無駄になるのも、時間の問題だ。隊長はレヴォリを睨みつけながらしばらく考え、覚悟を決める。




「……そのボールで本当にやれるんだな?」


「大丈夫です。っていうか、やるしかないでしょ。銃口があの人から逸れたら、一斉攻撃してね」




 ニーナはボールを腰の位置辺りに持った。軍人が作戦を皆にトランシーバーで伝える。


 レヴォリの動きをじっと観察する。ここからは、およそ三十メートルの距離だ。前後を警戒しながら、少しずつ進んでいる。レヴォリが向こう側を向きかけた瞬間を逃さないよう、ゆっくり呼吸をして集中する。


 そして、奥の一人が銃を構えて「カチャリ」と音を立てた刹那、ニーナがボールを手から離した。レヴォリはニーナの動きを見逃したまま、向こう側を警戒して振り向く。その間、ニーナが力強くボールの端を蹴る。ボールが素早く回転し、カーブを描きながら標的の方へ飛んでいく。レヴォリの意識が完全にあちら側へ向いた瞬間、ボールが銃口を捉えた。




 バンッ!




 ボールがぶつかった衝撃で、銃が暴発した。




 人質は!?




 銃弾が頬をかすり、鋭い傷から流血している。しかし、命に別状はなさそうだった。ボールの回転により銃口が弾き飛ばされ、人質から天井の方へ向いた瞬間に発砲したようだ。


 銃の暴発直後、隊が一斉に銃を連射する。レヴォリは両腕を交差させて頭を覆い、しゃがんで防御した。その間、人質は這いつくばりながら、ニーナたちの方に逃れようとする。


 およそ十秒間、激しい銃声が通路全体に鳴り響いた。先陣の弾が尽きると、次の隊が前進して銃弾を浴びせる。挟み撃ちで攻撃を続けながら、両中隊が敵との距離を縮めていった。




「撃ち方やめぇっ!」




 合図で銃声が止まった。火薬の煙が通路に充満し、視界が悪くなっている。ニーナは煙たさと耳鳴りで意識が遠くなるのを堪えながら、敵を見逃さないよう目を凝らした。


 レヴォリは微かに震えながら、立ち上がった。被弾した腕や背中の一部から、血を流している。普通なら、見るに堪えない肉片と化して、即死のはずだ。しかし、筋肉や皮膚が異常に硬くなっているらしく、棒で殴られた程度の傷しか負っていない。痛みに耐えているのか、視線を落としながら、苦い表情を浮かべている。




「進め!」




 次の号令で、両隊の先陣が駆け出した。予備や援護射撃用の銃弾は残す必要があるため、ここからはナイフや剣で攻撃しなければならない。レヴォリは目を剝きながら、両隊を交互に睨みつけ、腕を構えて攻撃に備えた。


 ニーナも向かおうとした瞬間、誰かに足首を掴まれた。ドキッとして見ると、人質となっていた軍人だった。レヴォリから逃れ、なんとかここまで這ってきたようだ。




「君……、ありがとう」




 軍人は涙を浮かべながら、精一杯のかすり声で礼を言った。




「無事で良かったね、おじさん。でも、軍の男なんだから、泣くんじゃないよ」




 ニーナはしゃがみ、まるでミカイルをからかうように意地悪く笑った。軍人が微かに笑みをこぼして目を閉じると、涙が頬を流れていった。そして救急隊が駆けつけ、応急手当を受けながら運ばれていった。




 ニーナは立ち上がり、再び戦場の方へ向いた。大勢が剣やナイフで攻撃する中、レヴォリは目や首といった急所に当たらないよう避けている。そして一人の首元を掴み、襲い掛かる軍人たちに投げつけて防御していた。


 全身に傷を負って体力を消耗しているものの、敵の方が僅かに優勢だ。挟み撃ちの攻撃を受けながらも、少しずつ四十六階へ続く階段に向かっている。なんとか狭い通路の四十五階を脱し、難を逃れようとしていた。


 一人の首元が、レヴォリの手刀で切り裂かれた。血が噴き出して壁に飛び散る。軍人はしばらくもだえ苦しんだ後、目を開けたまま力尽きた。それを目の当たりにしたニーナの脳裏に、小型モニター越しに見てきた数々の死体の映像が浮かぶ。全身の汗腺が開き、熱い水分が噴き出してくる。自分の汗が熱湯のように感じられたのは初めてだった。気がつくと、一歩後退していた。


 すると、激しい戦場に揉まれているサッカーボールが目に入った。さっき人質の命を救ったボールだ。大勢の足にぶつかって転がりながら、ゆっくりと通路の隅で止まる。なぜか急に、それが怯えているソーニャ先生や孤児院の子供たちに見えた。


 ニーナはふーっと長く息を吐いた。そして首を振って、脳裏に浮かんだ死体をかき消すと、力強く床を蹴った。


 一気に敵との距離を詰め、右足を伸ばして心臓を狙う。危機を察したレヴォリは素早く体を回転させ、背中でニーナの蹴りを受けた。想像以上の力だったのか、レヴォリはバランスを崩し、片膝をついて倒れた。周りの軍人たちは驚いて、思わず動きを止める。


 レヴォリは振り向きながら立ち上がり、ニーナ見て目を大きく開いた。そして頭から足の先までなぞるように目線を移す。自分に片膝をつかせた敵が少女であることに、驚いているようだった。




「お前。感染者だな」


「……そうだよ」




 少し躊躇した後に答えると、レヴォリが急に襲い掛かってきた。レヴォリが手を伸ばすと、ニーナは右足で後ろに下がりながら、近づいてくる手を左足で払いのけた。


 どうやら一気に仕留めようとしているようだった。もし捕まったら、一瞬でやられる。


 ニーナは神経を研ぎ澄ませ、手の動きを必死に追った。レヴォリの目や心臓を狙って、つま先を伸ばしつつも、手が開いた時は、捕まらないよう足を引っ込ませた。




「どうしてお前みたいなガキがここにいる?」


「殺人鬼を倒すために決まってんでしょ」




 ニーナは負けじと言い返しながら、急所を目掛けて、足を剣先のように突き刺そうとした。


 周りの大半は二人の激戦についていけず、通路の脇に寄っている。そして一部の軍人は、レヴォリの後ろからナイフを投げつけ、応戦していた。




「このままじゃ逆戻りだな」とレヴォリが言った。




 ニーナは一瞬だけ後ろを振り返った。いつの間にか、四十四階へ続く階段近くまで押し戻されてしまっている。中隊の後方に固まっているのは、ファーストエイドキットなどの物資や食料を運ぶ軍人だ。敵を食い止めるだけの加勢は期待できない。このままでは、挟み撃ちの作戦も失敗に終わる。


 動きに迷いが生じた隙を突き、レヴォリがニーナの足首を掴んだ。そしてグイッと引き寄せると、みぞおちにもう片方の拳を食らわせた。あまりの痛みに声も出ない。両手でお腹を抱えながら床を転がり、四十四階に続く階段の近くで止まった。口元からマスクが外れ、床にふわりと落ちる。




「おいタチアナ! 早く来い!」




 レヴォリが叫ぶと、間もなくタチアナが階段を上がり姿を現した。時間差でレヴォリを追いかけ、中隊の存在に気がつき、身を潜めていたらしい。そばの軍人は敵の勢いに戦意を失い、体を震わせながらタチアナに目をやるだけだった。




「このガキから移せ」とレヴォリはニーナを指差した。




 タチアナは駆け寄り、ニーナのお腹とレヴォリの腕に触れた。ニーナは殺されると思い、必死に逃れようとした。しかし先ほどの痛みが消えず、体が言うことを聞かない。


 タチアナが触れているお腹の辺りがひんやりとしてきた。そして、目に見えない小さな無数の針で刺されているような感じがした。まるで蚊の大群が、一斉に血を吸い始めたようだった。ニーナは床に倒れたままタチアナを見る。しかし焦点が定まらず、だんだん虚ろになってきた。なぜか息が苦しくなり、呼吸も荒くなっている。




「おい、何してんだ! さっさとニーナから離れろ!」




 通路にミカイルの声が鳴り響いた。まだ壊されていないカメラに、ニーナたちが映っていたらしい。スピーカーからの怒号にタチアナは驚き、二人から手を離した。




「やめろ、君こそ何してるんだ!」


「なんだよ、離せって! おい、ニーナ聞こえるか? 今から俺が行くから待ってろ!」




 ニーナはミカイルの呼びかけを聞こうとした。しかし徐々に声が遠くなっていく。




「いててて……、引っ張んな!」




 ブツンと音がして、通信が途絶えた。どうやら司令室の誰かが、マイクからミカイルを無理やり離したようだ。




「おい、早くしろ」とレヴォリが指示する。




 タチアナはすぐに返事をしない。全速力で走った直後のように、肩で息をしながら額の汗をぬぐっている。




「さっさとしろ」




 催促されると、タチアナは再び二人に触れた。ニーナのお腹には先ほどの冷たさと、チクチクとした感触が戻ってくる。


 ミカイルが助けてくれるかもしれない。安心したせいか、次第に眠たくなってきた。周りの音は、もうほとんど聞こえない。




「撃てぇっ!」




 大きな号令と共に、激しい銃声が鳴り始めた。そばの軍人が驚いた声をあげる。




「おい、なんだあの隊は!?」


「迷彩服の柄が俺らのと違うぞ」


「……あれは、ノストワの援軍だ!」




 どうやらノストワ軍が国境を越えて駆けつけ、四十六階側の中隊と合流したらしい。チャンスを逃すまいと、ありったけの弾を敵に浴びせようとする。


 レヴォリはぐったりとしたタチアナを抱きかかえた。そして通路の壁や床を蹴り、相手をかく乱させるように飛び回った。一斉攻撃を受けた後よりも格段にスピードが速く、銃弾がほとんど当たらない。


 そして前衛が弾切れとなった瞬間、レヴォリが隊のど真ん中に突っ込んでいった。不意を突かれた軍人たちは、通路の両端に押し飛ばされる。なんとか食い止めようとする者もいたが、スピードが速すぎて、ことごとく弾かれていった。


 もう四十六階側を守れる隊や武器は残っていなかった。いつの間にかレヴォリは階段を上がり、四十五階の通路からは見えなくなっていた。






* * * * * * * * * * * *






「おいニーナ、大丈夫か!?」




 ミカイルの声でニーナは目が覚めた。どうやら眠ってしまったようだ。天井のライトの眩しさに慣らすよう、ゆっくりと目を開ける。


 目の前の軍人が小型モニターを持っている。画面の向こうで、ミカイルが心配そうに顔を覗かせている。周りには負傷した軍人と、それを応急手当てしている救護班が十人ほど残っていた。




「ミカイル……。あたし、どれくらい眠ってた?」




 ミカイルの代わりに、モニターを持っている軍人が「一時間くらいだ」と答えた。




「まだ動ける者で新しく隊を編成した。上の階に逃げた敵を追っている」




 ニーナは記憶を辿るように、レヴォリとの戦いを断片的に思い出し始めた。背中に蹴りをくらわした右足の感触。素早い動きと隙の無い攻撃。みぞおちに残る激しい傷み。周囲がとても静かなせいか、先ほどの戦いが古い思い出のように感じられる。




「ニーナ。起きたばかりですまないが、タチアナが現れた時のことを教えてくれ」




 大佐が質問してきた。ニーナは天井を見上げて話し始めた。




「正直あんまり覚えてないんだけど……。タチアナが目の前に現れて、あたしの体に触ったんだ。そしたら、そこがだんだん冷たくなった。なんかチクチクして、突っつかれてるような……。すごく細い注射器で、血が吸われているような感じだった。あとそれから……、全身がだるくなって、すごく眠たくなってきた」




 ニーナは上着を少しだけ捲り、お腹を覗いた。タチアナに触れられていたところは、特に傷や何かの跡は見えない。冷たさも感じない。ただ全身に気だるさだけが残っていた。




「お前が証言した内容とは、少し違うみたいだな」と大佐がミカイルを見ながら腕を組んだ。


「嘘は言ってないぞ。俺が触れられた時は熱くなったんだ」




 すると、モニターを持った軍人が口を挟んだ。




「大佐、推測ですが……。ニーナは力、というかエネルギーみたいな、そういうものを吸収されたのではないでしょうか。タチアナがニーナに触れている間、レヴォリの傷が治っているように見えたと証言した者が何人かいました。それから奴のスピードが、その前にニーナと戦っていた時よりも、素早くなったようです。こんなことが現実に可能か分かりませんが、タチアナはニーナから吸収したエネルギーを、レヴォリに渡していたのかもしれません」




 司令室の軍人たちは目を丸くした。普通ならあり得ない能力だが、それならニーナの体力が落ちて眠くなったことや、レヴォリの傷が癒えて体力が回復したことの説明がつく。また、レヴォリが戦いの最中にわざわざタチアナを連れている点も、納得がいった。




「でも俺が触れられた時は、俺とタチアナしかいなかったぞ」とミカイルが口を挟む。


「もしかしたら、自分の力も渡せるのかもしれない。でも、それには限界がある。だから他人のエネルギーを移す能力を使うんだろう」




 もしタチアナがその能力を持っているとすれば、レヴォリを倒すことは、ますます困難になる。先ほどのように傷を負わせることができるとしても、生きている軍人が捕まれば回復されてしまう。治癒する隙を与えず、致命傷を負わせる必要があるが、これまでの戦いを振り返ると、それは不可能に思われた。


 大佐はニーナたちに対して、休息後にレヴォリを追うよう指示した。そして通信を切ると、そばの軍人に作戦会議を準備するよう伝えた。




「……タチアナを何とかするしかない」






* * * * * * * * * * * *






 レヴォリとタチアナは、五十二階の通路を走っていた。最上階の九十九階まで、残りは四十七階。もう国境までの半分以上のフロアを通過している。


 レヴォリは天井に点々と設置されているカメラを見つけると、その下で高く飛び上がった。そして画用紙で作られたおもちゃを壊すように、カメラを素手で軽々と叩き落としている。




「大丈夫?」




 タチアナがレヴォリの斜め後ろから声を掛ける。先ほどの挟み撃ちによる激戦で、レヴォリは全身に傷を負っていた。ノストワの軍隊が駆けつける前に、少しエネルギーを移せたものの、まだ十分な回復には至っていない。




「あぁ、この程度なら大丈夫だ」




 レヴォリは振り向かずに答えた。強がりなのか、本当に大した傷と思っていないのか、タチアナには分からない。少なくとも次の戦闘までには回復が必要に見えたが、なかなか軍人にも出くわさない。敵がいないに越したことはないが、その敵がいないと回復もできない。




「あのガキがいると厄介だな」


「……さっき足で戦っていた女の子?」


「俺と似た能力の感染者のようだ。脚だけ比べれば、俺に匹敵する。その辺の軍人が百人束になるより、よっぽどたちが悪い」




 レヴォリが敵のことをここまで懸念するのは初めてだった。タチアナは、レヴォリの体に一発食らわせた相手など見たことがない。挟み撃ちで隙ができやすい状況だったとはいえ、まともに攻撃を受けたことは衝撃的だった。


 気になるのは力だけではない。年にして、まだ十四歳か十五歳くらいだろう。そんな子供が国境を守ろうとして、軍隊に入っていることも不思議だ。経緯は不明だが、おそらく戦力になると期待されて、特別に入隊を許可されたのだ。タチアナは暴力団に捕らえられていた同い年くらいの頃を思い出しながら、先ほどの子と自分自身を比べていた。同じ感染者でも、ここまで力や立場の差が生まれるのかと自嘲した。


 レヴォリは再びカメラを見つけて飛び上がった。そして「また見かけたら、真っ先に殺そう」と言いながら、力強くカメラを叩き割った。






* * * * * * * * * * * *






 司令室では次の作戦が練られていた。大佐と側近の軍人が、各フロアの構造が描かれた設計図面や、敵と味方を表す駒が散乱したテーブルを取り囲んでいる。真っ向勝負や挟み撃ち程度では、傷を負わせても倒すことはできない。自分たちの力でもレヴォリに勝てる特別な戦略が必要だった。




「なぁ、やっぱり俺も参加させてくれよ! きっと役に立つって!」とミカイルは近くの軍人に訴えた。


「君は民間人だろ? 何ができるってんだ」


「民間人じゃねぇ、感染者だ!」


「民間人でも感染者でも、小学生に戦場は任せられない」




 ミカイルはムッとして、軍人のすねを蹴った。痛みで飛び上がる軍人に対し、大佐が「ガキと遊んでるんじゃない!」と叱責した。


 カメラが次々と壊されているようで、ハエが飛び回っているような灰色を映すモニターの数が増えていく。そしてその位置から、おおよそ敵がどの辺りにいるかが分かる。




「もう六十五階まで来ている……、先ほどの作戦で進めるぞ」




 大佐がそう言うと、通信係が小隊に繋いだ。小型モニターを持った小隊長の顔が、モニターに映し出される。その後ろにはオレグが見えた。ミカイルが黙って小さく手を振ると、オレグは照れくさそうに笑った。


 大佐は咳ばらいをした後、作戦の内容を説明し始めた。 


 まずレヴォリたちを窓のない部屋におびき寄せて、攻撃を仕掛ける。そしてタチアナが戦いの場から距離を置いたタイミングで、周辺の部屋や階の照明を消す。予め待機している別の小隊が、オレグの聴覚を頼りにタチアナの居場所を割り出して捕らえ、基地の本部まで連行する。つまり、レヴォリが回復できなくなるようにすることが目的だ。




「回復できなくなれば、こちらにも勝機がある。先ほどの挟み撃ちのような攻撃を重ねれば、敵も徐々に弱っていくはずだ。分かっていると思うが、タチアナは殺さず生け捕りだ。レヴォリの弱点や、何か情報を聞き出せるかもしれんからな」と大佐が補足した。


「オレグの聴力でタチアナの居場所を見つけるんですね?」と小隊長が確認する。


「そうだ。足音を判別できるそうだな? その能力でタチアナを探してくれ。もし聞き取れない場合でも、奴らはお互いの居場所を確認するために呼び合うはずだ。それだけは絶対に聞き逃すな」




 オレグはヘッドホンが脱げそうな勢いで何度も頷いた。固唾を飲む様子が、モニター越しでも分かる。


「七十一階に窓のない部屋があるから、先回りで待機しろ。場所の詳細は後で通信する。以上だ」




 小隊長が通信を切ろうとした時、ミカイルが叫んだ。




「待ってくれ! タチアナは傷つけないでくれよ。あいつ、レヴォリに無理やり連れていかれてるんだ。だから連行するっていうか、その……、自分の足で戻るよう説得してくれ」




 小隊長は怪訝な顔をして、大佐の様子を窺った。すると大佐は、大きなゲンコツでミカイルの頭を叩いた。「ミカイル!」と心配して叫んだオレグの声を遮るように、通信係が通信を切った。






* * * * * * * * * * * *






 オレグのいる小隊は近道の通路を走って、七十一階に急いだ。レヴォリたちは慎重に進みながら、フロアを上がっている。専用階段を急げば、窓のない部屋に先回りして待機する時間は十分にある。




「さっきの子、誰なんだ?」




 小隊長が聞くと、オレグはくすっと笑いながら答えた。




「マルテの中学校の同級生です。昔からあんな感じで、周りの空気とか一般論とか考えずに、しゃべったり動いたりするんです。おかげで、ここに来るまでもニーナ……、一緒に来た子と喧嘩ばかりで」


「そりゃあ、大佐にゲンコツ食らうわけだな」と小隊長が突っ込むと、軍人たちが笑った。士気を上げるために、わざと笑いを誘ったらしい。


「ホントそうですね。でも、ミカイルのおかげでここまで来れたんです。あいつがいなかったら、きっと僕もこの隊に参加していません」


「……そうか。いい仲間だな」




 やがて七十一階に到着した。一気に階段を駆け上がったオレグは、息を弾ませながら周囲を見渡した。照明は付いているものの、窓がないせいか、どこかどんよりとした雰囲気が漂い、空気が重く感じられた。


 小隊長は小型モニターで司令室と再び連絡を取った。そして作戦を実行する部屋の位置や段取りを確認すると、通信を切って隊員たちに説明し始めた。




「このフロアの中央にある一室は、大きな武器庫になっている。窓のない部屋で、照明を落とせば完全な暗室だ」




 三百メートルほどの通路を進み、頑丈で厚そうな扉の部屋に辿り着いた。扉のそばには「武器保管室」と書かれた札が貼ってある。




「ここで、俺とオレグを含む四人と、他の五人に分かれる。五人はレヴォリをこの武器庫に誘い込め。俺たちは中で身を隠して待機する。敵が入ってしばらくしたら、俺が本部に合図して照明を落としてもらう。オレグ、君はタチアナの居場所がどこなのか分かるように、常に集中しろ。タチアナがレヴォリを追ってこの部屋まで入ってくるか、通路に待機するかまでは予測できない。俺のそばにいて、小声で居場所を教えてほしい」


「了解」とオレグや隊員が答えた。




 ちょうどその時、司令室から通信が入った。レヴォリたちは近くの階段で、この七十一階に向かっているらしい。




「よし、作戦実行」と小隊長が合図した。




 室内には金属製の棚が百台ほどずらりと並んでおり、無数の武器や非常食が保管されていた。オレグは小隊長と共に、防護服が入っている大袋の影に身を潜めた。他の二人は出入り口を挟んで、反対側の奥にある棚の裏に隠れている。二箇所とも死角になっていて、照明がついたままでも戦闘中のレヴォリに見つかる心配はなさそうだった。


 レヴォリを武器庫に誘い込む担当の五人のうち、三人は部屋の扉の外側で待機している。そしてもう二人は、レヴォリが上がっているであろう階段のそばに移動した。攻撃しながら徐々に引き下がり、部屋に自然と誘導するのが狙いだ。




「七十一階Cブロックにレヴォリを確認」




 本部から通信が入った。近くのカメラが壊されたのだろう。間もなく銃弾の音が通路に鳴り響いた。レヴォリが腕で顔面を守りながら、猛スピードで迫ってくる。二人は銃で攻撃しながら、武器庫の方に走っていった。途中、レヴォリが天井からカメラをもぎ取り、一人の足下に投げつけた。その軍人はカメラをぶつけられた衝撃で、足を絡ませ躓いて転倒した。




「おい、走れっ!」


「構うな! 行けっ」




 すぐにレヴォリが詰め寄り、転倒した軍人の腕と足を折った。悲痛な叫びが通路から聞こえると、オレグは思わずヘッドホン越しに耳を塞いだ。




「集中しろ! タチアナの声や足音を聞き逃すな!」と小隊長が注意する。




 オレグは慌ててヘッドホンから手を放す。そして目を閉じて、フロア全体の音に聴覚を張り巡らせた。




 軍人やレヴォリとは違う、一人で歩く女の足音……。




 駄目だ、まだ聞こえない。




 階段側から武器庫へ走ってきた一人が扉前の三人と合流し、武器庫に入ってきた。間もなくレヴォリが追いつき、同じように部屋へ入る。




「おい、タチアナはどこだ?」と小隊長が急かした。




 まだタチアナの足音は聞こえない。もしかしたら、辺りの様子を窺いながら慎重に歩いているせいか、足音がここまで響かないのかもしれない。


 レヴォリは辺りの棚を見渡し、小さなナイフを手に取った。そして鋭く腕を振り、まるで銃弾のような速さでナイフを軍人に投げ、ふくらはぎを貫いた。歩けなくなった相手の所までレヴォリが近づくと、先ほどと同様に腕と足を折った。獣のような呻きが、武器庫の壁に激しくこだまする。すぐには殺さず、最後にまとめてエネルギーを吸収するつもりのようだ。


 他の隊員は散り散りになり、棚に身を潜めて敵の様子を窺った。レヴォリは棚が多く動きづらい状態であるのを嫌がったのか、近くの棚を次々と蹴り飛ばした。激しい金属音を立てながらドミノ倒しで棚が崩れ、武器が床に散乱していく。オレグは重なり合う金属音で鼓膜を刺激され、強い痛みに思わず耳を塞いだ。




「まだか?」


「すみません。この部屋の音が邪魔して、外の音が拾えなくて……」とポケットに入れておいた薬を飲み込む。




 再び軍人の悲鳴が聞こえた。また一人やられたようだ。このままでは、タチアナが見つからないうちに全滅してしまう。近くには他の小隊もいない。応援を呼ぶにも時間が掛かりすぎる。




「オレグ、イチかバチかだ。命懸けで通路の音に集中しろ」




 小隊長は震える手でトランシーバーの通信ボタンを押し、本部に伝えた。




「照明を落とせ」




 間もなく「ブシュゥゥゥン」と音を立てながら、天井の照明が消えた。武器庫の中は一気に暗闇と静寂に包まれる。散らかった武器や棚は姿を消し、声も物音も聞こえない。レヴォリも急な状況の変化に驚き、思わず足を止めたようだ。




「レヴォリ! どこなの!?」




 聞こえた!




 タチアナは通路にいた。扉から五十メートルほどの距離だ。オレグがそれを伝えると、小隊長は隠れている二人に対し、タチアナを捕らえるよう通信で指示した。




「タチアナ、どこだ!?」




 レヴォリが大声で叫んだ。再びオレグは耳の傷みで蹲る。小隊長はオレグを抱え、敵に気づかれないよう扉から通路に出た。そしてライトで通路を照らしながら走る。通路にいることがバレないよう、手で光源を覆い、最小限の光に抑えた。しばらく走ると、既に軍人に捕えられ、テープで口を塞がれたタチアナのいる場所まで辿り着いた。




「よし、この女を担いで司令室に戻るぞ」と小隊長が汗をぬぐった。




 今もタチアナを探すレヴォリの声が通路に響いている。ライトを消し、足音を立てないように、オレグたちは階段に向かった。そして七十階に降りると、レヴォリの追跡を逃れるために別の階段まで移動し、再び降り始めた。


 タチアナはレヴォリを呼ぼうと必死に呻いていたが、テープで声は出なかった。軍人が静かにするよう耳打ちしても、聞こうとしない。「静かにさせましょうか」と小隊長に確認すると、オレグが「待って」と止めた。




「ねぇ聞いて、タチアナさん。ミカイル……、名前知らないかな? タチアナさんがボレルで会った小さい男の子覚えてる? 僕はその友達です。そのミカイルに聞いたんだ。あなたは悪い人じゃないんだって。つらいことがたくさんありすぎて、レヴォリに協力するようになった可哀想な人なんだって。僕は詳しく分からないけど……。きっと、ミカイルはタチアナさんを助けたいんだと思う」




 小隊長は十分にレヴォリから距離を取ったと判断して、司令室に連絡した。すると辺りの照明が戻った。急に明るくなり、全員が眩しそうに目を閉じる。


 オレグは光に慣らしながら、ゆっくりと瞼を開けた。目の前のタチアナは困惑した表情で、黙ったままオレグを見つめていた。






* * * * * * * * * * * *






 オレグの小隊は四十三階まで降りてきていた。専用階段ではなく、あえて通常の階段を使って、各フロアを進んだ。万が一タチアナに発信機のようなものが付けられている場合、専用階段の存在がばれてしまう恐れがあるからだ。


 まだまだ一階の司令室まで距離がある。タチアナを早く連れて行く必要があったが、長距離の移動と、ずっと続いていた緊張感からか、隊員たちにも疲れが見えていた。タチアナを担いでいる軍人はなおさらだ。




「少し休憩しよう。レヴォリのいた場所からも離れたし、大丈夫だろう」




 小隊長の合図とともに、隊員たちは通路の壁を背もたれにしてドカッと座り、息を弾ませながら給水をとった。タチアナもそばに座らされ、一人が見張り役としてついた。抵抗しても無駄と悟ったのか、おとなしく俯いている。


 司令室からは何の連絡も来ていない。多くのカメラが壊されてしまったせいか、まだレヴォリの居場所は確認できていないのだろう。タチアナがいないから回復できず、こちらからの攻撃を今まで以上に警戒しているのかもしれない。他の隊がレヴォリを見つけて倒すまでには、まだ時間が掛かりそうだった。


 トランシーバーの受信音が鳴り、一人が応答した。本部ではなく、別の階にいる軍人からだった。




「こっちは四十三階Dブロックの北側通路にいる。そっちはどこだ?」




 連絡をしてきた軍人は、上の方の階でレヴォリを見張っていた。援軍を呼び、一気に攻める準備をしているらしい。


 また、他の用件もあるようだった。




「……え? それなら敵に勝って、戻ってきてから直接言えばいいじゃないか。まぁ、いいが」




 軍人はそう言いながら、トランシーバーをオレグの方に向けた。




「レヴォリとやりあう前に、お前に礼が言いたいんだってさ。戦況を有利に変えてくれたからな」




 オレグはトランシーバーを受け取り、耳に当てて話し始めた。




「もしもし、オレグです」


「やぁ、君がオレグか」




 思った以上に相手の声が大きく、オレグは思わず機械を耳から遠ざけた。




「あの、すみません。知ってるかと思うんですが、僕すごく耳が聞こえるんで、小さい声でお願いします」


「あぁ、そうだった! すまんな。しかし、本当によくやってくれた。増援が来れば、レヴォリを倒せそうだ」


「ありがとうございます。僕らだけ先に戻って、すみません」


「いや、いいんだ。早くタチアナを連行しないとな。ところで、タチアナの様子はどうだ?」


「え? まぁ、おとなしくしてますけど。たぶん、国境を越えるのは諦めてくれたんだと思います」


「そうか。ちなみに、そこは北側通路のどの辺りだ? 俺は前に四十階付近を警備していたことがあって、近道に詳しいから教えてやろうと思ってさ。周りに何が見える?」




 レヴォリを前にしてずいぶん余裕がある軍人だと思ったが、早く司令室に戻れるのはとてもありがたかった。オレグは辺りを見回しながら、自分たちのいる位置や周辺の状況を、できるだけ詳しく伝えた。




「教えてくれてありがとう。これで早く行けそうだな」




 オレグは近道を教えてくれるのを待った。しかし、代わりにカチャリという金属音が聞こえた。通信の具合が悪いのかと思い、トランシーバーを耳に寄せる。


 すると突然、今まで聞いたことがない爆音が響いた。




 ズダァァァァァァアァァァァァァァァァァァァン




 オレグは視界が真っ白になった。まるで耳に矢が刺さり、もう片側から突き出たような激痛が走る。そして膝から崩れ落ち、うつ伏せになって倒れた。




「おい! どうしたんだ!?」




 皆が慌てて駆け寄る。オレグは気を失い、ピクリとも動かなかった。ヘッドフォンからは少量だが血が滴っている。鼓膜が破れたようだった。




「何があった!?」と小隊長はオレグが落としたトランシーバーを拾いながら、部下に聞いた。


「分かりません。いやに長く話しているなと思ったら、急にトランシーバーから大きな音が聞こえました」


「なに? おい、応答しろ! 何かあったのか!?」




 トランシーバーからは何も聞こえなかった。既に相手が通信を切っているか、向こうの機械が壊れているようだ。小隊長は急いでトランシーバーのチャンネルを変え、司令室に連絡を取った。




「こちら六番隊だ。オレグが負傷した」




 司令室のミカイルはそれを聞き、通信係を押しのけて、マイクに向かって叫んだ。




「負傷ってなんだよ!? レヴォリが来たのか?」




 通信係は「おい、やめろ!」と言いながら、突っ込んできたミカイルの顔を押し返し、マイクを自分の口元に寄せた。




「カメラが壊されて、そっちの様子が確認できない。戦闘があったのか?」


「ここではなく、上の階であったようだ。さっきレヴォリを見張りながら、増援を待って待機していた軍人から通信があった。オレグが話している途中で、トランシーバーから大きな音がした。レヴォリと戦闘になって、爆弾の音か銃声が響いたのかもしれない」


「おい! それよりオレグは無事なのか? 生きてるんだよな!?」とミカイルが叫ぶ。


「心臓は動いているが、気を失っている」


「じゃあ早く戻って来いよ!」




 すると、司令室の一人が不気味に呟いた。




「待て。レヴォリを見張っているなんて報告は、どの隊からも受けていないぞ……」




 六番隊の軍人たちは凍りついた。間もなく小隊長が「全員すぐ司令室に向かえ! レヴォリが来るぞ!」と叫んだ。


 その直後、元来た通路の奥から金属ドアが破られる音がした。隊員がオレグとタチアナを担いで走ろうとした時、「おい、来たぞ!」と一人が叫んだ。レヴォリが肩で息をしながら、怖ろしい形相で睨みつけている。その視線はタチアナに向けられていた。




「タチアナを殺せ! オレグは下に運ぶんだ!」




 小隊長の声が響くと同時に、一人がオレグを担いで走り出す。そして別の一人が剣をタチアナの首にめがけて振り下ろそうとした時、レヴォリの放った銃弾がその軍人の脳天を貫いた。






* * * * * * * * * * * *






「おい、どうした!? 応答しろ!」


「四十三階に壊されてないカメラはないのか?」


「近くに隊がいないか確認しろ! 応援に向かわせるんだ!」




 六番隊との通信が切れると、司令室の軍人たちは慌ただしく動き出した。ミカイルは「俺も行かせてくれ!」と頼んだが、全く相手にしてもらえない。


 そして五分ほど経った時、再び通信が繋がった。辺りが一気に静まりかえる。




「こちら、六番隊。オレグと一緒に、四十二階の倉庫室に隠れている」


「了解。何があった?」


「四十三階でレヴォリが襲ってきた。俺は小隊長の指示で、オレグを運んで近くの階段を降りた。こっちは無事だ」




 ミカイルは大きく息を吐きながら、その場で床に座り込んだ。




「だが……、他は四十三階でレヴォリと戦闘になった。銃声や叫び声が聞こえていたが、しばらくして静かになった。俺は戦闘が終わったと判断して、オレグを倉庫室に残して様子を見に行った」


「それで、どうだった?」




 全員が軍人の声に集中した。




「隊は全員……、やられていた。レヴォリとタチアナは既にいなかった。また国境を目指して、上の階に向かったみたいだ」


「……分かった。レヴォリは他の隊に追ってもらう。お前はオレグを連れて戻ってこい」




 六番隊の軍人が了解して通信を切ると、大佐がダンッと机を叩いた。






* * * * * * * * * * * *






 レヴォリはタチアナを追いかけて来た通路を戻り、再び上の階を目指していた。


 前に通って順路を把握しているため、初めよりも速く進める。このまま攻撃がなければ、タチアナが連れ去られた七十一階まで、すぐに戻ることができる。 


 しかしその先は、間違いなく軍隊が迎撃態勢を整えようとしているはずだ。加えて、下から追いかけてくる増援の可能性もある。少ない数なら問題はないが、大勢で挟み撃ちにされると厄介だ。


 タチアナは俯きながら、レヴォリの横を歩く。ついさっきまで政府の軍隊に連れ去られていたのに、今はこうして再び、レヴォリと共に国境を目指し進んでいる。目まぐるしく変わる状況のせいか、風邪を引いた時のように、頭がぼうっとする。


 すると、通路の端に倒れている軍人の体に足を引っかけ、倒れそうになった。




「おい、しっかりしろ」とレヴォリが手を掴んで支える。




 タチアナは手を胸元に引っ込め、じっと掌を見つめた。何か訴えるように、小刻みに震えている。なぜかそれが、ミカイルという少年のことを話してきた男の子が気絶した様子を思い出させた。




「なんだ?」


「どうしてあの子は急に倒れたの?」


「お前が連れ去られた後、近くで倒れていた軍人を締めあげて吐かせた。あのガキは感染者で、異常聴覚の能力を持っていた。それでやつらは、暗闇に紛れて俺たちの様子を聞き取り、お前を奪う作戦を立てたんだ。俺は味方のフリをして奴らに連絡して、ガキから居場所を聞き出した。そしてそこに向かう足音がガキに聞こえてばれるのを防ぐために、通信機の近くで銃を放った。しばらくガキの耳を使えなくさせるか、上手くいけば気絶させられると考えた。たかが銃声でも、そいつにとっては想像できないほどの爆音のはずだからな」




 タチアナは、その男の子だけがヘッドフォンをしていた理由がようやく分かった。




「……ねぇ、このまま本当に国境を越えられるの?」


「あ?」


「さっき私は……、あいつらに連れ去られたのよ。軍隊も力押しじゃなくて、作戦を練り始めた。あなたに助けてもらったけど、また私を狙ってくるかもしれない。上の階で敵が待ち構えているだろうし、ノストワの増援も心配だわ」


「何か言いたそうだな」




 タチアナは全身から汗が滲むのを感じた。




「だから……、このまま国境を目指すのが正しいのかなって……」




 そこで沈黙が生まれた。二人の歩く足音がコツコツと通路に響く。真っすぐに続く道の先には、軍人が点々と倒れている。


 そういえば、レヴォリが殺した死体を目にするのは珍しいことだった。いつも敵を倒しては、前に進んでその場所を後にする。その繰り返しだったからだ。


 いつも進むばかりで、振り返ることがなかった。しかし死体が視界に入ると、まるで時間が巻き戻されて、自分たちがしてきた過去を見せつけられているような感覚を覚えた。


 すると急にレヴォリが口を開き、タチアナはハッと我に返った。




「その『正しい』ってのは、軍隊と真正面から戦わずに済むように、何か策を立てて国境を越えた方が良いってことか? それとも……」




 タチアナはレヴォリの鋭い視線を感じた。




「国境を越えるのをやめる選択が賢明、って意味か?」




 レヴォリはそう言いながら、足元の軍人の頭を力強く前方に蹴り飛ばした。首から引きちぎられた頭は回転しながら、赤黒い血を通路にばらまく。タチアナの顔にも血がはね、生ぬるい感触がじんわりと頬をなぞった。




「奴らに連れ去られた時、何かあったのか?」と聞きながら、レヴォリは袖でタチアナの顔の汚れを拭き取った。点々と血が滴る壁の間を進みながら、タチアナは首をゆっくりと横に振った。




 もう今さら、引き返すことはできない。




 七十一階は、もう目と鼻の先だ。そこからは再び、新しいフロアや軍隊の迎撃が待っている。




「お前は余計な心配をするな。それより……」




 タチアナは、笑みを浮かべたレヴォリの顔を見上げた。




「まだ壊れていない小型モニターを探すんだ」






* * * * * * * * * * * *






 ニーナは小隊長が率いる隊に途中で合流し、レヴォリを迎撃するため上の階を目指していた。くるくると回る螺旋状の専用階段をひたすら歩く。


 途中、遠くの方から悲鳴や銃声が聞こえてきた。その後、タチアナを連れ去る作戦が失敗したことを、司令室から無線で知らされた。オレグはなんとか逃げ切ったようだが、怪我を負ったらしい。詳しい状況を聞こうとしたが、次の作戦を練ることに必死な司令室では、誰が負傷しているかを逐一確認できないらしく、オレグの容体は分からなかった。


 移動している間に食料が配られた。パサパサしたパンに口の水分が奪われる度、残り少ない水筒に伸びる手をぐっと抑える。戦場では水は貴重だ。その辺の水道で補給することはできない。周りの隊員たちも、黙々と無表情で食べながら歩いていた。


 タチアナに奪われたエネルギーは、休戦と食事によって少しずつ回復しているはずだった。しかし作戦の失敗とオレグの負傷を聞かされ、再びエネルギーを奪われたような錯覚に襲われた。




「ニーナ、大丈夫か?」


「はい、平気です」




 小隊長が俯きながら歩いているニーナを気遣う。しかし、小隊長も疲労と焦りは隠せていなかった。先ほどの戦闘でレヴォリの恐ろしさを目の当たりにしたせいか、隊全体が出口のない洞窟の中を進んでいるような雰囲気に包まれている。タチアナを連れ去る作戦が失敗した連絡を受けた後、まだ司令室から次の指示は届いていない。


 階段の奥の扉に描かれた「80」の数字を見上げた。九十九階の国境はすぐそこだ。ニーナは片脇で抱えるボールを摩りながら、嫌いだった学校の非常階段を懐かしく思い出した。






* * * * * * * * * * * *






 司令室の外が騒がしくなった。




「おい、誰か早く医療班を呼べ!」と声が聞こえる。




 ミカイルはオレグが戻ったのだと思い、司令室を出て廊下を走った。声のする方に向かうと、オレグが軍人におんぶで運ばれているのを見つけた。




「オレグ! 大丈夫か!? 何か言えよ、おい!」




 何度呼びかけても反応がない。右耳から流れた血は首筋まで届いている。




「なぁ、オレグ大丈夫なのか?」とミカイルはオレグの体に手を当てた。


「悪いが俺じゃ分からん」と軍人はあちこち見回している。




 すると廊下の突き当りから、三人の女性がキャスター付きの担架を走らせながら駆けつけた。白衣を着ていて、胸のタグには『医療班』と書かれている。軍人がオレグを担架に降ろすと、医療班の二人が担架を押して走り出した。そして、もう一人が並走しながらオレグの容体を確かめ、紙のマスクを酸素マスクに付け替える。あちこち触られても、オレグは全く反応を示さない。


 ミカイルは嫌な息苦しさを感じながら、ギュルギュルと音を立てて走る担架を追いかけた。それは、オレグに死が迫っている不安に加え、たいして速くもない担架に追いつくのに必死で、息が上がっていることから来るものだった。少しずつ、だが確実に、体が小さくなっているのが分かる。それを否定するかのように、ミカイルはオレグが目覚めるよう繰り返し呼びかけた。




 司令室から五分ほど走り、やっと医療室に辿り着いた。白衣を着た医者や看護師が、倒れている軍人たちの治療にあたっている。大勢が赤く滲んだ包帯に巻かれて横たわり、苦しそうに呻いていた。


 誰もが汗をかきながら慌ただしく動き回り、オレグが運ばれたことにさえ気がつかない。湿度が高く、血と薬の臭いが混じった空気。ミカイルは思わず口に手を当てた。


 すると「ミカイル! オレグ!」と声を上げながらサンドラが駆けつけた。容体を確認していた一人からカルテを受け取ると、別の治療室に運ぶよう指示をする。再び走り出す担架をミカイルが追いかけようとしたが、サンドラに腕を掴まれ止められた。




「なんだよ!? ってか何でここにいるんだ?」


「研究所にいたんだけど、怪我人の手当てに力を貸してほしい、って呼ばれたの。こっちもかなり人手不足みたい」とサンドラは頭をかきながら、医療室を見渡した。


「オレグ大丈夫なのか? 耳から血が出てるんだぞ!」


「ほとんど出血は止まってる。命に別状はないはずよ」


「ないはずって……」


「でも神経系が損傷しているかもしれない。それを急いで確認しないと。悪いけど、もう行かなきゃ。ここはバタバタしているから、あなたは戻ってなさい。大丈夫、必ず助けるから!」




 サンドラはペンダントを握りしめながら、もう片方の手をミカイルの肩に乗せた。そして担架を追いかけるように走り出し、部屋の奥へ消えていった。


 ミカイルがその背中を見ながら突っ立っていると、「あなた、邪魔だから外に出てなさい!」と看護師に言われた。ミカイルは、その看護師に担架で運ばれている血まみれの軍人を横目に、治療室を出て行った。






* * * * * * * * * * * *






 司令室に戻ると、引き続き大佐が指揮を執っていた。皆がモニターや通信機、そして基地の図面と格闘しており、ミカイルには見向きもしない。




「なぁ、大佐。俺も戦わせてくれ。オレグがやられちまったんだ」




 大佐はぐりっとした大きな目で睨み返し、舌打ちをした。




「何度も何度も……。特殊能力もなく、武器も使えないお前に何ができる?」


「武器なら使える! 銃の使い方を教えてくれよ!」


「駄目だ! 重い武器を扱うには、筋力と体力が必要だ。操作だけ覚えても、そんなガキの体じゃ無理だ。もう黙って見てろ!」と言うと、大佐は近くの軍人に要塞門からの増援を指示した。




 こんな戦力不足の状況でも、自分は必要とされず何もできない。ミカイルは軍人たちが駆け回る司令室の中で佇み、目の前に大きく広がるモニターを睨みつけた。




「おい、あれは何だ?」と通信係が叫ぶ。




 司令室の全員がモニターを見た。すると額から血を流している軍人が、カメラに向かって苦しそうな表情を向けていた。どうやら助けを求めているようだ。フロアのカメラではなく、手持ちの小型モニターを使用しているようで、司令室からは場所が分からない。




「待ってろ、医療班を向かわせる。そこはどこのフロアだ?」




 通信係が音声通信をオンにして、マイクで呼びかけた。しかし聞こえているはずなのに、モニターの軍人は口を開かない。フラフラと顔を動かすだけだった。




「何してる! 早くしないと、敵に見つかるぞ!」




 するとモニターの軍人が目を大きく見張り、「ぐがぁぁ」と苦しそうな声を漏らした。様子がおかしいと、皆が固唾を飲んで注視する。ミカイルがよく見ると、首が何者かの手で掴まれていることに気がついた。




「この音声通信を、ユレイラ地区全域に伝えたい。重要な内容だ。要求を飲まなければ、こいつを殺す」




 司令室の空気が重たく、そして冷たくなった。


 大佐は少し悩んだ。どんな話の内容であれ、ユレイラ全域に放送して良いことであるはずがない。しかし簡単に部下を見殺しにすれば、軍全体の士気に関わる。


 結局、言われたとおりにするよう通信係に指示をした。通信係が機械を操作して、「音声の配信をユレイラ全域に設定した」とレヴォリに伝える。




「これから、この通信を聞いている政府、軍隊、国民に話がある」




 レヴォリの声が、目の前のモニターと基地の外から二重になって聞こえ始めた。この辺りの民間人用の施設や、要塞門の付近にも音声が届いているようだった。


 敵からのコンタクトは、これで二回目だ。一回目は要塞門を越えて、治療薬を作るため国境を渡らせるよう要求した時だった。


 今回は、何の目的で連絡をしてきたのか。相当の理由がなければ、一気に国境へ向かった方が、レヴォリにとっては有利なはずだ。こちらが時間を稼げれば、体制を取り戻すことができる。それにへたをすれば、レヴォリ自身の居場所が判明する。




「レヴォリだ。昨夜に要塞門で政府に要求を突き付け、今この国境基地まで辿り着いた。これまで大勢の軍隊が攻撃を仕掛けてきたが、そのほとんどが俺に殺されていった。銃や剣。様々な武器で俺を殺そうとしてきた。しかし俺は、感染者特有の能力でそれを突破してきた。国境を越えるのは、もう時間の問題だ」




 司令室の一人が「自慢話か?」と呟くと、そばの軍人が小さく首を振った。




「国境を越える目的。それは前に宣言したとおり、俺自身や他の感染者のために、ノストワ国に治療薬を作らせるためだ。本来は、国がウイルスを消滅させる責任を負っている。感染者を救うのが義務のはずだ。それが果たされないのはなぜか? それは政府や軍隊が、国民を始めから見捨てているからだ!」




「続けて宜しいのでしょうか?」と通信係が指示を仰ぐ。


「このままだ」と大佐はモニターを見つめたまま動かなかった。


「なんでだよ、あいつは悪口をぶちまけようとしてんだぜ?」とミカイルが聞く。


「味方を見捨ててまで通信を切ったとなれば、政府と軍隊は、奴が言っていることを正しいと認めることになる。国民にも示しがつかなくなり、他国への体裁を保てなくなる」




 ミカイルは一瞬混乱した。しかし、国のプライドを守るために通信が切れないということは、なんとなく理解できた。




「国民は『政府や軍が自分たちを守ってくれる』と信じている。しかし、それは間違いだ。例えば、この目の前の軍人だ」




 レヴォリはそう言いながら、軍人の首を揺らした。ぐったりした表情が、左右に振れている。まるでモグロボ国に手を振って、挨拶をしているように見えた。




「この軍人は、仲間の情報を俺に教えてくれた。先ほどまで一緒に戦っていた戦友を、あっさりと裏切った。我が身可愛さに、仲間を売ったんだ」




「オレグの能力や居場所がばれた理由が分かったな」と大佐が呟く。




「こいつのいる軍隊も同じだ。なぜ国が、感染者の急な増加を国民に知らせなかったと思う? それは、軍に感染者の暴動を抑える力がなかったからだ。下手に戦えば、自分たちの無力さを露呈することになる。だからノストワの巨大爆弾を頼り、自ら戦わずして、俺たち感染者を消し去ろうとしたんだ」




 ミカイルは周囲を見渡した。軍人たちは俯いている。


 大佐が言ったとおりだ。この状況で通信を切れば、本当に軍の面子が立たなくなる。




「そして、その軍隊の上に立つ政府! 政府には、感染の広がりを抑える手だても財源もなかった。ノストワに交渉しても、高額な薬の開発に協力するのを拒否されたのだ。だが反対にノストワから、ある提案を持ちかけられた。それは検問を通じて、非感染者だけノストワへの移籍を許可し、感染者は爆弾で一掃するというものだった。そうすれば、ノストワは自国の安全を保つことができる。巨大爆弾は戦時中の産物だが、製造直後に終戦して使われなかったらしい。それを発射するだけなら、薬の開発よりも費用は抑えられる。だからノストワに都合がいい。そしてモグロボは政府や軍隊、非感染者の命が保証され、安全なノストワに移ることができる。適切な対処をしたとして、国際的な評価も、戦後より回復するだろう。だから政府は、自分たちの安全と名声を優先するため、ノストワへの薬の開発の交渉を放棄し、感染者を見捨てたんだ!」




 ジリリリリリン。


 急に電話が鳴りだした。どうやら政府の上層部から、通信を切るように指示されたようだ。大佐が通信係から受話器を受け取る。




「……ですが、ここで通信を切ってしまいますと……。いえ、ですから……」と大佐が政府と交渉する。




「全国の感染者よ。政府の本性がこれで分かっただろう。クソみたいな国家に従って、犬死する必要など、どこにもない。俺たちにも生きる権利があるはずだ。そして俺は、お前たちを裏切らない。同じ苦痛を味わう感染者だからだ。同じ境遇のお前らを救ってやる」




「……分かりました。おい、通信を切れ!」と大佐が大汗をかきながら指示をする。




 しかし、通信係の操作は間に合わなかった。




「今すぐこの基地まで来て、共に国境を越える者には、治療薬の優先的な投与を約束する! さぁ感染者よ、立ち上がれぇっ!」




 モニターの画面が切れた。通信係は肩で息をしている。室内が静寂に包まれると、遠くの要塞門の方から、歓声が湧き上がっているのが微かに聞こえた。




「感染者を……、味方につけるため……」と誰かが独り言のように言った。




 通信係が震える手でモニターを操作し、ユレイラ全域から基地内の配信に戻した。


 既にレヴォリは、その場を去っていた。小型モニターの前には、先ほどまで首を掴まれていた軍人の生首が置かれていた。






* * * * * * * * * * * *






 しばらく誰も口を開かなかった。先ほどの作戦が失敗した上に、民間人に国の黒歴史を暴露された。そして追い打ちをかけるように、仲間の死体を見せつけられた。皆の士気が落ちているのは明らかだった。


 ミカイルは、これも敵の作戦なのかもしれないと思い、「レヴォリの話、まさか本当じゃねぇよな?」と司令室の全員に活を入れるつもりで声をあげた。


 しかし、答える者は誰もいなかった。それが、先ほどの話が真実であることの証明だった。レヴォリは何かしらの方法で情報を集め、真実に辿り着いたらしい。




「なに今更恥ずかしがってんだよ」


「なに?」と大佐が睨みつけた。


「あいつが『俺についてこい』って言ったのは間違ってる。そんなことしたら世界は終わりだ。まぁ、感染者の中には同じように考える奴もいるみたいだけど。俺は間違ってると思う。だけど、あんたら軍隊や政府がしてきたことは、レヴォリの言ったとおりだ。それをしんみり振り返ってねぇで、次の作戦考えようぜ!」


「このガキ、ここを追い出されないからって調子に乗るなよ!」と一人が声を荒げる。


「関係ねぇ! 俺と同じガキがあそこで戦ってんだ! お前らに協力してな!」




 ミカイルは怒鳴りながら、モニターを指さした。ニーナの隊は、七十一階のフロアを走り、上の階に通じる階段に向かっていた。レヴォリは、今もカメラを壊しながら進んでいるようで、姿を消している。


 大佐が、誰に話しかけるでもなく口を開いた。




「……奴はとんでもない切れ者だ。初めに、自身の戦況が有利なことや、政府の批判をタラタラしゃべっていたのは、感染者の暴動を引き起こすためだったんだ。恐らく、以前に政府へ要求を突き付けたのも、このためだ。そもそも無茶な要求で、受け入れられると思ってない。感染者が暴動を起こして味方になり得るか、試すためだ」




 レヴォリは要塞門でテープを利用し、政府に安全の保障や、食糧としての非感染者の提供を求めていた。レヴォリは初めから、この要求が飲まれると思っていなかった。むしろそれはカモフラージュで、本当の目的は、感染者が軍の脅威になり得るか確かめたかったのだ。現に一部の感染者は、レヴォリが薬の開発を実現してくれる救世主だと思い込み、感化されて要塞門を突破しようとした。敵はその実験結果を踏まえて、感染者をいざという時の切り札としていた。


 戦闘力ばかりに目が行っていたが、レヴォリは恐るべき戦略家でもあった。軍はそのことに、今更ながら気がついた。




「……このままでは国境に近づく一方です。彼らは指示を待っている。どこかで待機させて、迎え撃つようにしましょう!」と軍人が叫んだ。


「通路の入り組んだ八十六階で待機させろ! 少しでもレヴォリが動きづらくなるようにな。それにあのフロアなら、意表を突いた攻撃もしやすい。大勢で対抗するよりも、不意を突く攻撃の方が有効なのは、先ほどの作戦で分かった」と大佐が机上に散らばった駒を睨みつける。




 通信係は、ニーナの隊に八十六階で待機するよう指示を出した。作戦の詳細は、追って知らせることになったようだ。


 時間は限られている。敵を迎え撃つ作戦を練るために、大佐と数人の軍人が会議室に閉じこもった。


 その間、通信係はノストワの軍に連絡して、増援を要請する。




「こちら、モグロボ軍司令室だ。ノストワ軍、応答を求む」


「ノストワ軍だ。これからどうする? このままでは、まずいぞ」


「分かっている。すまないが、増援を要請したい」


「これ以上は無理だ。我々もこちらの国を守らなければならない義務がある」


「それは分かっている。しかし、このままでは国境が突破されてしまう!」


「敵は貴国の領域にいる。本来そちらでなんとかするのが筋だ!」




 ノストワ軍も、こちら側の士気の低下と状況の悪さを見抜いているようだ。恐らくモグロボは、レヴォリを食い止められないと思われている。それなら下手に軍隊を送っても、無駄死にになる。既にノストワ軍は見切りをつけて、自国の防衛を最優先に迎撃準備をしているかもしれない。


 交渉が始まってから、十分ほど経過した。それでも、増援は期待できないようだ。また、未だに会議室からは誰も出てこない。まだ作戦が固まらないらしい。


 再び政府の上層部から電話が入り、別の通信係が応答する。




「はい、司令室です。いえ、今ちょうど交渉中でして。はい? 国境ではなく、官邸の警備に増援を送る……? 確かに感染者の侵入に備える必要はありますが、それではこちらも敵を倒せません。いえ、おっしゃるとおり大臣方のお命は大事ですが、何とかしろと言われましても……」




 レヴォリの狙いどおりだ。このままじゃ、本当に終わりだ。




 ミカイルは会議室の扉を見た。まだ大佐たちは出てこない。通信係は、ノストワ軍や上層部と必死に交渉している。他の軍人も室内を慌ただしく行き来し、誰もミカイルのことなど気にしていない。




 今だ。




 音を立てないように、壁に埋め込まれた梯子に手を伸ばしてよじ登る。そして天井の扉を開けて飛び移り、天井裏の通路を進み始めた。下の司令室からは、平行線を辿る交渉に苦戦する通信係たちの声が絶えず聞こえていた。






* * * * * * * * * * * *






 ドンドンドン!


 要塞門と基地の間に点在する、民間人用の建物の一室。そこのドアが、壊されるような勢いで叩かれていた。




「おい、開けろ! 開けてくれぇ!」




 ソーニャとゴランは、激しく叩かれているドアの方を向いた。他の人たちも怯えた表情を浮かべながら、どうしようか迷っている。ドアに埋め込まれたすりガラスの奥には、何人かの男の影が映っている。案内係からは、許可なく外に出たり、別の建物へ移動しないよう注意されていた。ドアの向こうにいるのは、民間人ではなく、政府の役人か軍人である可能性が高い。




「頼む、緊急事態だ! うぅっ、ぐはぁ!」




 叫び声と同時に、すりガラスに鮮血らしき赤黒い液体が付着する。ぼんやりした輪郭を描きながら、下に向かって垂れ始めた。




「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


「え!? なに?」




 室内が一気に混乱に陥った。ドアから遠ざかり奥へと押し合う人もいれば、部屋のテレビ画面をつけて何が起きているのか情報を得ようとする者もいた。




「先生! 怖いよぉ!」




 怯えた子供が泣き出した。何が起きているのか分からず、ポカンとしている子もいる。ソーニャは自分のところに集まるよう呼びかけながら、両手をめいっぱい広げて、子供たちを囲んだ。ゴランはドアの方に向かって立ち、何者かの侵入に備えた。




 バッキィィィィィィィン!




「なんだ!?」


「たぶん外側のドアノブだ! 壊されたぞ!」




 甲高い金属音が鳴った後、一定の間隔でドアが大きな音と共に揺れ始めた。


 ゴランは警戒して、両こぶしを握りしめる。理由は分からないが、何者かが体当たりをして、ドアをぶち破ろうとしているようだ。その衝撃で、アルミ製のドアの表面に凸凹ができ、蝶番もゆるんで浮き始めた。破壊されるのは時間の問題だ。


 ゴランは武器になりそうな物がないか探した。今は民間人が待機する仮の施設だが、この建物はもともと来客用の会議室だ。部屋の隅には、脚が畳まれた長机や、パイプ椅子が積み重ねられている。それを見つけると、どよめく人ごみの中をかき分けて、一つのパイプ椅子を手に取り、ドアの方へ戻った。




「おい、みんな! 聞いてくれ!」とゴランが大声をあげる。




 すぐに静かになり、たくさんの視線が向けられた。




「俺がこの椅子で殴りつける。合図するから、誰かドアを開けてくれないか?」と外に聞こえない程度に声量を抑えて呼びかける。




 名乗りを上げる者はいなかった。誰かがやってくれないかと期待しながら、皆が互いの様子を窺っている。




 バキンッ!




 下の方の蝶番が外れ、部屋の中央まで飛んで行った。ドアの下がパカパカと開き、体当たりをしている者の足が覗き始めた。驚いた人たちが後ずさりをして、再び悲鳴が鳴り響く。


 ゴランは片足でドアの下の部分を踏んで、押さえつけようとした。




「馬鹿! 銃を持っていたら、みんな終わりだぞ!」




 すると一人の男が走って近づき、ゴランとドアを挟むように向き合った。ゴランは「助かるぜ」と言いながらパイプ椅子を振りかざし、男の目を見ながら小さく頷いて合図した。


 男がドアの鍵を開ける。      


 同時に、一人の女が勢いよく部屋に転がり込んだ。鍵が開けられた瞬間にドアへ突進したため、バランスを崩したようだ。ゴランは女であることに一瞬躊躇したが、意を決してパイプ椅子を両足に叩きつけた。




「ぐぅあああああああああああああああああぁっ」




 女は赤い泡を口から吹き出しながら、悲鳴を上げた。しかし、すぐに両腕を床に突き立てて蜘蛛のように動かすと、体をズリズリと引きずりながら、ソーニャの方へ向かい始めた。ソーニャは子供たちの前に出て、後ろを向いて両手を広げ、庇うようにしゃがんだ。


 ゴランが急いで女に追いつき、背中にパイプ椅子を降り下ろす。ゴキッという鈍い音と共に、背骨を砕く感触が伝わった。女は振り返って、両手で床を力強く叩きつけ、その反動で飛びついてきた。ゴランは尻もちをついて仰向けになり、その上に女が覆いかぶさる。女とは思えない桁外れの力で、ゴランの腕を押さえつけ、首に噛みつこうとする。血の臭いが鼻を突いた。口の周りの赤い泡は、涎と血が混じったものらしい。




 ズダーン!




 前歯が首元に触れた刹那、突然銃声が鳴り響いた。女がゴランの真横に転がり、仰向けになって倒れる。




「大丈夫か!?」




 三人の軍人が部屋に入ってきた。一人が外に銃を向けて警戒し、一人が部屋の中の様子を調べ始めた後、モニターの通信機能を使って、どこかと連絡を取り始めた。そしてもう一人は、ゴランのもとに近づいてきた。




「噛まれてはいないようだな。立てるか?」


「あぁ、助かった」




 軍人が伸ばした手を掴み、ゴランはゆっくりと立ち上がった。女はピクリとも動かず、頭から血を流していた。開いた口内から覗く歯は、全てが犬歯のように尖っていた。




「こいつ……、人間か?」


「あぁ、人間だ。感染しているがな」




 ドアの外では、駆けつけた救急隊員が廊下の死体を担架で運んでいた。死亡したのは、政府の職員だった。女に追いかけられて逃げている途中、この建物に助けを求めたようだ。


 すると遠くの方から、拡声器で呼びかける声が聞こえてきた。




「俺たちは戦争の被害者だ! 戦争の責任は政府にある! 俺たち感染者に移民権を与えることが、政府の使命だ!」


「ノストワに薬を作らせろ! そうすりゃ助かるんだ!」




 感染者がデモを起こしているらしい。しかし以前、ニーナの功績で要塞門は封鎖され、もう通れないはずだった。




「暴動を起こした感染者に、再び要塞門を突破された」と軍人が説明すると、室内がどよめき始めた。


「おい! どうするんだ!?」


「前にもこんなことがあったじゃない!」


「警備するのが、あんたらの役割だろ!」




 軍人はなんとか聞いてもらえるよう、両手を上げた。




「さっきのレヴォリの話に感化された感染者が、一気に暴動を起こしたんだ。数が多すぎて、警備していた軍隊だけでは、食い止められなかった」


「だったらもっと軍隊を送って、奴らを早く取り押さえてくれ!」


「増援は来る予定だが、国境基地からここまで距離がある。到着まで三十分か、一時間……」




 周囲の非難は激しさを増した。モニターに向かって応援を頼んだり、軍人に向かって物を投げつける人もいた。軍人は落ち着いてもらうよう叫んだが、騒ぎは収まる気配を見せない。




「おい、武器は余ってるか?」とゴランが軍人に聞いた。


「……どういう意味だ?」


「だから! 俺たちが使える武器はあるのか、って聞いてんだ」


「銃や剣は少し残っていると思うが……、本当にお前たちが戦うつもりか?」


「他に誰がいるんだよ。もうあんたらの頭数も足りてねぇってことだろ。じゃあ俺らも加勢するしかないじゃねぇか」




 ゴランは周りに呼びかけて、一緒に戦ってくれる人を募った。すると反対の声があがった。




「はぁ? なんであたしたちが戦わなきゃいけないの!?」


「そうだ! こんな状況を招いたのは、政府がてめえのことしか考えてねぇからだ!」


「感染者にウイルスを移されて、その女みたいに死ぬなんてごめんだ。お前だけ行け!」




 ゴランはすぅーっと深い深呼吸をした。そして足下に落ちていたパイプ椅子を振りかざし、床に思い切り叩きつけた。あまりの迫力に、一瞬で騒ぎが静まる。




「いつまで他人事のつもりだお前ら! それじゃ、こいつら政府や軍隊と同じだろうがぁ! 誰かが戦ってくれる? 守ってくれる? もうそんな状況じゃねぇんだよ。こうしている合間も、戦ってくれてる奴らがいるんだぞ!」




 すると一人の女が「でも……、あたしには子供がいるの。この子たちを置いていくことはできない」と震える両手で双子らしき子供の頭を撫でた。




「あぁ。あんたの気持ちはよく分かるよ。俺にも子どもがいるからな。だがそいつは……、基地で戦ってるんだ。……感染してるから、特殊能力を買われて軍に協力してる」




 女や周りの者は目を丸くした。




「戦場に子供を向かわせた俺に、親を語る資格はねぇ。だが、あんたらは立派な親だろう。でもそれは、その子がいるから親なんだ。このままじゃ感染者が増えて、さっきみたいな暴動の嵐だ。あんたらの子供たちも、危険に晒されて殺されたり……、俺の子供みたいに感染者になっちまう。綺麗ごとを言うつもりはねぇ! だが、あんたらの子を守るために、俺の息子の戦いを無駄にしないためにも、戦ってくれないか!?」




 誰も異議を唱えない。聞こえるのは、遠くからレヴォリを応援する感染者の叫び声だけだった。


 しばらくすると、さっきドアを開けてくれた男が名乗りをあげた。他にも十名ほどの男が家族の反対を宥めながら、参加を決めてくれた。その中には、震えながら上げる手を、もう一方の手で必死に握りしめる者もいた。




「恩に着るぜ、あんたら」とゴランが礼を言うと、男たちは指をポキポキと鳴らした。


「しょうがない。こんな状況じゃな」


「ああ。おっかねぇけどな」




 軍人は司令室に連絡をして、民間人に武器を貸与する許可をもらおうとした。本来はあり得ないことだが、これ以上感染者の侵入を許せば、先ほどのように役人にも危害が及ぶ。さすがに政府も軍隊も体裁を守る余裕がないようで、民間人が武器を使用する特例がすぐに許可された。


 名乗りをあげた男たちに、銃や剣などが手渡される。初めて手にする武器の重さに驚きながらも、皆がなんとか使いこなそうと、使用方法を軍人に確認し始めた。




「ゴランさん、後悔はないの?」




 弾の入れ方を覚えているゴランに、ソーニャが心配そうに声をかけた。オレグの負傷は、サンドラの使いで来た看護師からゴランに伝えられ、命に別状はないと聞いている。それでも、できることならすぐに息子のもとへ駆けつけたいはずだった。




「優秀なサンドラ先生や、他のお医者さんがついてます。俺なんかが行っても、心配しかできない」


「でも、あの子はあなたにそばにいてほしいと思ってるんじゃ……」


「ありがとうございます。でも頼むから、それ以上言わないでください。決心が揺らいじまう」




 ゴランは銃を天井に掲げ、てっぺんの銃口を見つめた。




「あいつは恐怖と戦って、世界を守ろうとしたんだ。親の俺が自分にできることをやらなきゃ、一生頭が上がらなくなっちまう。だからソーニャさんも、その子たちを守り抜いてください」




 ソーニャはそれ以上言わなかった。もし自分がゴランと同じ立場だとしても、彼のように何をすべきか決めてすぐ行動できるとは思えなかった。悩み抜いた末の、父親の苦渋の決断。自分ができることといえば、せめてそれを邪魔せず、今そばにいる大切な子供たちを守ることだと悟った。




「みなさん、これから我々は外で感染者を取り押さえます。建物の入り口には、隊員を警備として待機させますので、これまでと同じように外へは出ないでください」




 軍人の合図とともに、参加を決めた者たちが外へ出て行く。その直後、一人の女性が声をあげた。




「ねぇ、あれがレヴォリって奴の顔みたいよ!」




 残された人々の視線が、壁に埋め込まれているモニターに集中した。レヴォリは自分の位置が悟られないようカメラを壊していたらしいが、どこかで見逃したのかもしれない。




************************************************************




「みなさん、こちらは軍の司令室です。この男について何か知っている方がいれば、近くの警備員や役人にお知らせください。戦況を少しでも有利にするため、何卒ご協力をお願いします」




************************************************************




 周りの人はあれこれ囁いていたが、レヴォリの素性を知る者はいないようだった。孤児院の子供たちは面白がってモニターを覗こうとする。




「ねぇ、だれー?」


「あたち知らなーい」




 ソーニャは子供たちに「怖い人だから、見ちゃダメよ」と注意しながら、画面の方を向いた。




 あの男は……




「せんせい、どうしたの!? せんせい! うわぁぁぁん」




 急に倒れたソーニャを心配した女の子が泣き出した。周りの大人がそれに気がつき、一人が警備員に知らせようと部屋を出る。


 画面に映る顔を見つめながら、ソーニャは意識が徐々に遠くなるのを感じた。






* * * * * * * * * * * *






 ニーナの小隊は、八十六階でレヴォリを待ち伏せていた。


 八十六階は、今まで戦った場所のように広い部屋はなく、狭い通路が入り組んだ迷路のようなフロアだった。元々は、敵が大勢で味方が少数でも戦いやすくなるように作られた構造らしい。相手が大人数でも取り囲まれることがなく、通路が狭いため必然的に一対一の戦いとなるためだ。しかし今回は、敵の人数の方が少ない。標的の能力や行動パターンを考慮して、作戦を立てる必要がある。




 これまで、相手が一人とは思えないほどの激しい攻撃をしてきた。大勢の軍人が剣を振り下ろし、その合間を縫って銃で仕留めようとした。しかし、レヴォリの強靭な肉体に与えられたのは、紙の端で擦ったような切り傷や、注射針で突いたような刺し傷程度のものだった。こちらの攻撃がやむと、負傷した隊員のエネルギーでたちまち回復してしまう。


 同じような戦法を繰り返しても、無駄死になるのは明らかだった。そこで司令室からの指示のもと、このフロアの細い通路を利用して不意を突き、弱点を徹底的に攻撃する作戦を取ることになった。筋肉に覆われず、当たれば大きなダメージを与えられる人間の部位。眼球を狙う。 


 また不意を突きやすいよう、隊は五名程度の班に分かれ、八箇所に配置された。小隊長が所属しない班には、歴の長い一人が班長に任命された。最初は、十三くらいの班を配置する予定だった。しかし自国の防衛力を優先するためか、派遣されたノストワの援軍は想定よりも少なかった。他の百名ほどの軍隊は、国境である最上階で待機しているらしい。ニーナの班は、駆けつけてくれた二名のノストワ軍人と合流し、上のフロアへ続く階段の手前で待ち伏せることになった。




 ニーナの班長と隊員が、小型モニターで通路を監視する。十六に分かれている画面は、このフロアに配置されているカメラの映像を映し出していた。まだレヴォリたちは八十六階に到着していないようだ。


 軍人の影でこちらの位置がばれないよう、どの通路も薄暗くなっていた。敵の位置を把握するために音を頼る場合もあるが、今は味方の呼吸や、迷彩服が微かに擦れる音しか聞こえない。今までの激しい戦いとは違い、フロア全体が不気味な静けさと緊張感に包まれた。




「敵確認。フロアに入った」




 通信機から別の班の声が聞こえると、全員が小型モニターに注目した。一番右下の画面に、ゆっくりと移動する黒い影が映っている。下の階から上った所の通路だった。レヴォリは辺りを警戒し、慎重に進もうしている。


 小隊長が、その付近のカメラの映像に切り替える。四つの画面に分かれ、左上には一番近くに待機している班が映し出された。敵の接近を知り、戦闘の準備に入っている。五人が剣を抜き、班長が銃を構えた。レヴォリは左下の画面に移動している。タチアナの姿はまだ見えない。攻撃を受けないよう、距離を取って移動しているようだった。




 レヴォリが右上の画面に映っている通路の角を曲がると同時に、剣を持った軍人たちが突撃した。皆が死に物狂いで、同時に剣を振り下ろす。レヴォリは両手で二本の剣を掴んで防いだが、残りの三本で胸や腹を切られた。レヴォリが痛みで目を見開いた瞬間、ダダダダダダンと銃の激しい連射音が、通路の奥とモニターから重なって響いた。レヴォリが叫びながら、両手で目を押さえる。画面ではよく見えないが、左目をかすったらしい。


 その隙を突いて、軍人たちが目元や首筋に向って剣を突き刺した。危機を察したのか、レヴォリは素早く体を回転させて、剣が体に突き刺さるのを防ぐ。そして右目を大きく開けて、二人の軍人の襟元を掴むと、目に見えない速さでその頭をぶつけ合った。即死した体は他の二人に投げつけられ、彼らはその衝撃で壁に激突した。


 レヴォリは怯んでいる最後の隊員の首元を掴み、前に突き出しながら班長の方へ突進する。味方を盾にされた班長は、銃を撃つか迷ってしまった。その間に近づいたレヴォリが軍人を投げつけると、班長はその隊員と共に転がりながら、銃を手放した。レヴォリは銃を拾い上げると、二人が動けなくなるよう、両足に向って連射した。銃の音と叫び声が共鳴するように響き、彼らの足元がじわじわと赤く染まる。


 しばらくすると、タチアナが近づいてきた。そして動けなくなった二人に手をかざし、傷を負ったレヴォリを回復させ始めた。




 ニーナたちは肩を落とした。作戦自体は悪くないはずだった。しかしレヴォリは、無傷の右目で隊員の動きを捉え、瞬く間に形勢を逆転させた。それから班は地の利を活かせないまま、すぐに全滅させられてしまった。


 タチアナがレヴォリの左目を抑えている腕を降ろす。もう出血は止まっていた。レヴォリがすっと立ち上がり、通路を進み始めたところを見ると、視力も戻っているようだった。


 レヴォリは素早いスピードで進んでいく。そして攻撃の隙を与えず、次々と班を壊滅させた。再び銃で両目を狙おうとする者もいたが、同じ轍を踏まないよう、手で目を覆いながら銃で応戦する。そして死に掛けの軍人からエネルギーを奪い、次の班が待つ場所へと進んでいくのを繰り返していた。




「どうする? このままじゃ、間もなくここに来るぞ」とニーナのそばの隊員が額の汗を拭う。


「同じ作戦で行くしかないだろう。何とかあいつの両目を潰して、致命傷を負わせるんだ」


「それが通用しないことは、もう分かっただろ!」


「じゃあ他に手があるのか!?」




 焦燥感に襲われて班が揉め始めると、小隊長が態勢を整えようとした。




「落ちつけ。剣と銃以外の武器を所有している者はいるか?」




 それぞれが携帯している武器や、バックパックの中身を確認する。これまでの戦闘で、元々少ない武器は底を突こうとしていた。ニーナに与えられている武器も、護身用の小型ナイフしかない。




「手榴弾がある」とノストワ軍の一人が、緑色でゴツゴツとした球状の武器を手にした。


「どうやって使うの?」とニーナが聞く。


「栓を引いた数秒後に爆発する爆弾だ。飛び散る殻の金属破片で、周囲五メートルほどの敵を攻撃できる」


「これなら致命傷を負わせることができるかもしれない」と別の軍人が手榴弾を見つめた。


「しかし一個か。外したら終わりだぞ。それにタイミングや場所を間違えれば、自殺行為だ」




 隊員たちが手榴弾による攻撃方法を練り始めた。その間も敵はここに近づいてきている。小型モニターには、近くの班が追い詰められている様子が映っていた。作戦をゆっくりと考える時間は、もう残されていない。




「よし、タチアナを攻撃しよう」




 飛び交う提案や反論を遮り、小隊長が決定を下した。どう考えても、一発や二発の攻撃で致命傷を負わせるのは不可能だった。やはり、回復する手段であるタチアナを消すしかない。これが小隊長の判断だった。


 まず隊員たちがレヴォリを直接攻撃し、後から小隊長が銃で援護する。そしてニーナが脚力を活かして、素早くレヴォリの横をすり抜け、奥のタチアナに向って手榴弾を投げる。モニターで確認した様子では、タチアナはレヴォリが戦っている通路の突き当りの角に身を潜めていた。そのため、銃やナイフのように攻撃が直線的な武器は当たらない。通路の突き当りまで進もうとしても、レヴォリに追いつかれてしまう。しかし、全方向に拡散する手榴弾であれば、途中で追いつかれても、攻撃自体はタチアナに届く。




「手榴弾は栓を抜いてから、六秒後に爆発する。あの非常灯が点滅している辺りで蹴るんだ。蹴った後はすぐに引き返して、爆発前に手で頭を隠してしゃがめ。できるか?」と小隊長が説明する。




 ニーナは手榴弾を受け取った。手榴弾は見た目以上にずしりと重い。軍人たちは既にナイフや銃を構えている。ニーナは身軽に動けるよう、サッカーボールを通路の端に置いた。そして配置につき、通路の奥を見ながら、手榴弾を投げる瞬間を何度もイメージした。モニターをちらりと見る。タチアナが通路の角に身を隠している。




 レヴォリは……、いない?




「来たぞ!」




 はっとしてニーナが見上げると、レヴォリが全速力で走りながら銃を乱射してきた。前方に構えている隊員たちが、盾を使って突進する。そして我武者羅に敵の腕に捕まり、銃の乱射を止めた。追って、別の隊員が銃や剣で攻撃する。




「今だぁっ!」




 小隊長の合図と共に、ニーナの足が床を蹴った。レヴォリは眼球への攻撃を恐れているのか、手で目を覆い隠しながら戦っていた。そのせいかニーナに気づくのが遅れ、後ろの通路への侵入を許した。


 ニーナの後方から「行ったぞ!」と声が聞こえる。レヴォリが軍人を振り切って、こちらに向かって走り始めた。ニーナは栓を抜き、手榴弾を非常灯の位置から通路の奥に向かって蹴る。すぐに引き返そうとした時、猛スピードで手榴弾を追いかけるレヴォリとすれ違った。タチアナを攻撃する作戦であることを、瞬時に察知したようだ。


 ニーナはレヴォリが手榴弾に追いつくか気になり、途中で振り返った。




「馬鹿! 伏せろ!」と小隊長が叫ぶ。




 ニーナはすぐに止まり、うつ伏せに寝そべった。それと同時に、バンッと爆発音が通路に響く。だいぶ離れたおかげで、手榴弾の破片はニーナのいる位置まで届かなかった。




「どうだ? やったか!?」と隊員の一人が通路の奥をじっと見る。




 通路の突き当りでは爆発による煙が舞い、どうなっているのかよく分からなかった。その間、ニーナは念のため元の待機場所に戻り、サッカーボールを持ってしゃがんだ。


 しばらくの静寂の後、急に煙の奥から銃の連射音が響いた。盾による防御が間に合わず、銃弾は次々と軍人たちの体を貫通していく。小隊長は盾で防ぎ、ニーナも運よく銃弾が当たらず難を逃れたが、他は全滅してしまった。


 銃声が止まった。煙が消えていき、徐々にレヴォリの姿が現れる。金属破片の突き刺さった腹部から血を流し、銃を構えて立っていた。そばに転がっていたモニターを見ると、タチアナは既に別の通路へと移動していた。




 まさか……。手榴弾を体で覆って、金属破片の拡散を防いだ?      




 レヴォリがよろけて、ゴボッと吐血した。しかしそんな重傷でも倒れず、銃を向けてこちらに歩き始めた。小隊長は盾を構えながら突進した。もう武器は剣しか残っていない。捨て身の戦法だった。




「隊長!」




 ニーナの掛けた声は、銃の連射音でかき消された。弾は弱った盾を貫通し、剣を抜く前に小隊長は倒れた。


 逃げるしかない。しかし、ニーナの体は言うことを聞かなかった。ボールを持つ手がわなわなと震える。


 重傷を負っている今なら倒せるかもしれない。しかし、レヴォリは銃を持っている。自分が頑丈なのは脚だけだ。上半身を撃たれたら、一瞬で終わる。


 十メートル前まで近づくと、レヴォリは止まって銃口をニーナの頭に向けた。銃弾を外すことなく、且つこちらが攻撃しても避けられる距離だった。


 ニーナはボールをお腹でぎゅっと抱きしめ、目をつぶりながら心の中で叫んだ。




 先生! みんな!




 カチャリ。




 小さな金属音が聞こえた。体に痛みは感じない。ゆっくりと目を開けると、レヴォリが銃を構えたまま、目を丸くして立っていた。




 弾切れ?




 一瞬の沈黙の後、レヴォリが勢いよく銃を投げつけてきた。ニーナはとっさにボールを蹴る。銃とボールが衝突して互いに弾かれ、通路の両壁にぶつかり落ちた。既にレヴォリは元来た通路の奥へ走り始めている。回復するために、タチアナを探しに行くらしい。ニーナはチャンスを逃すまいと、ボールを拾わないまま、すぐに後を追った。






* * * * * * * * * * * *






 ミカイルは天井裏の狭い通路をしゃがみながら進んでいた。大人の大きさではほふく前進でやっと進めるくらいの幅しかなく、敵も味方も入ってこようとは思わない。ミカイルは初めて体の小ささに感謝した。


 所々オレンジ色の小さなライトが光っており、視界には困らなかった。たまに立ち上がれるような高さのスペースがあり、何かの装置、様々な太さのパイプやコードが、幾重にも張り巡らされている。


 時々止まっては、冷たい床に耳を当てて、フロアの様子を窺った。銃が乱射される音や軍人の足音、叫び声が下から聞こえてくる。その音の大きさや方向から、レヴォリのいる場所を推測して進んでいった。




 不意を突いて攻撃できれば、勝機が見い出せるかもしれない。そんな安易な考えでも、ミカイルを動かすには十分だった。しかしレヴォリは素早く移動しており、なかなか近づくことができない。ひたすら進んで行き止まりにぶつかると、壁に打ち付けられた梯子を上り、次の階の天井裏を進む。これを何度も繰り返すうちに、もう自分が何階のどこにいるのか分からなくなっていた。息が上がり、途中でマスクを破り捨てた。


 徐々に辺りが静かになっていく。敵のいる場所から遠ざかってしまっているのか、味方が減っているからなのか分からない。




 誰もいないみたいだし、ここは安全か?




 ミカイルはそばの天井口を少し開けて、下のフロアを覗いた。この辺りの天井は低いらしく、大人は屈まないと頭をぶつけてしまうくらいの高さだった。


 薄暗く細長い通路には、転がっている武器と軍人の死体が見えた。一瞬で全身が凍りつき、熱い汗が噴き出す。司令室でもモニターで死体を見ていたが、なぜかそれとは別物のように感じた。肉眼に生で写る死体は、今まさに自分が戦場にいることを実感させる。


 意識的に深呼吸をしながら、ゆっくり視線を移すと、サッカーボールが見えた。思わず反射的に天井口をバンッと開け、体を滑りこませてフロアに降り立つ。


 すると、後ろから声がした。




「君、ボレルで会った時の……」




 ミカイルは頭が真っ白になった。しかしパニックになるのを必死に踏みとどまり、素早くそばの銃を取り、片膝をついて振り返った。


 銃口の先には、タチアナが両手を上げて立っていた。額や腕には痣や血が点々とつき、服はあちこち擦れている。回復の能力を何度も使っているせいか、少し眠たげな表情をしていた。




「一人で何してるんだ?」と念のため銃を向けたまま聞く。


「それはこっちのセリフよ。私は先に進むようレヴォリに言われただけ。あなたこそ何やってるの? たしかミカイルだっけ? あなたの友達に聞いたわ。とにかく、子供が来る場所じゃないわよ」




 廊下の突き当りの奥から叫び声が聞こえる。誰かが戦っているのかもしれない。いつレヴォリがここに来るか分からないが、タチアナを説得するチャンスは今しかなかった。


 ミカイルは銃を降ろした。そして、ボレルで会った後で要塞門に辿り着き感染が発覚したこと、今は政府に協力していることなど、これまでの経緯を話した。


 タチアナは黙って話を聞いていた。ただ後ろから大きな音が届く度に、振り返って様子を気にしていた。




「なぁ。もう、やめにしないか?」


「今更やめるなんてできない。もう戻れないのよ」とタチアナが腕についた血を擦り取る。


「俺は、タチアナがそんなこと好きでやってるんじゃないと思う」


「あなたにはあたしと同じ首の印があるから、少し優しくしただけよ。分かったようなこと言わないで」


「そうだろ。俺を助けてくれた。本当に何もかもどうでも良かったら、わざわざ他の奴を助けない。なんでレヴォリなんかに手を貸すんだよ!」


「そっちこそ、暴力団に捕らわれた過去があるのに、どうして政府のために何かしようと思えるの? 馬鹿みたい! あいつらはウイルスが広まろうが、暴力団が自分勝手に好き放題しようがお構いなし。何もしてくれなかったのよ!」


「馬鹿! 政府の味方じゃねぇ、俺たちみんなが生きるためだ。でもそれは、国をぶっ壊してノストワに潜入することじゃない。薬を作って、感染者が回復すればいいんだ」


「それならレヴォリに協力した方が確実。ウイルスの生みの親はノストワでしょ。その研究員に作らせた方が早いに決まってるわ」


「それまでレヴォリに何人食われちまうんだよ! あいつやお前がやってるのは、暴力団の人殺しと一緒だ!」




 タチアナは黙って、通路に倒れている軍人たちを見回した。それは、ミカイルの主張を否定しないことを示していた。




「それでも。それが生きるってことでしょ」




 タチアナは首元の印を手でなぞりながら、昔話を始めた。




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 七歳のタチアナは戦争で両親も親戚も全員失い、一人で配給を受けながら暮らしていた。しかし配給だけではご飯が足りず、街の再建の仕事で生計を立てようとした。それでも、ほとんどの仕事は大人に取られてしまい、余った僅かな雑用をこなして食費を賄った。




 九歳の冬、風邪を引いて高熱を出した。当時、医療機関は徐々に復旧しつつあったが、病院や医師の数が足りず、診察代は非常に高額だった。タチアナの貯金ではとても足りず、病院に行かずに働き続けた。しかし外で仕事をしていたある日、無理をしすぎたせいで倒れてしまった。


 そばで働いていた人に運ばれ、建物の壁にもたれかかって休んでいると、どこからともなく野良犬が寄ってきた。野良犬など珍しくなかったが、風邪を引いて一段と寂しさを感じていたタチアナは、その犬を抱きしめた。少し休んだら仕事に戻るつもりだったが、体力の消耗が激しくなかなか立ち上がれない。犬が毛布のように温かいせいか、いつの間にか眠ってしまっていた。数時間後、現場の責任者に肩を揺すられて起きると、風邪が完全に治っていた。そして犬は冷たくなり、タチアナの腕の中で死んでいた。




 責任者は事情を確認し、病院に連絡を入れた。タチアナは特別に無償で診察を受け、ウイルス感染者と診断された。そして仕事を解雇され、噂が街に広がったせいか、どこにも雇ってもらえなくなった。貯金が底をつきそうになり、どうしようかと考えながらあてもなく外を彷徨う。その間も、あちこちから自分の噂話が耳を突いた。すると急に後ろから口を塞がれ、車でどこかへ連れ去られてしまった。




 目を覚ますと、そこは薄暗い部屋の中だった。ドアには鍵が掛けられていた。助けを求めると、「うるせぇ!」と野太い声で一喝され、部屋の隅で声を殺しながら泣き続けた。


 やがてドアが開き、二人の男に両腕を掴まれて、大きな部屋に通される。鎖に繋がれて「助けてくれぇ!」と叫ぶ男と、傷だらけでベッドに横たわっている大柄の男の前に立たされた。周りには、怖い顔つきをした男たちがずらりと並んでいる。何が起きているか分からず、体の震えが止まらない。




「鎖に繋がれた奴の力を、横になってるこいつに移せ」と大きな椅子に座った男が命令する。


「いやだ。いやだぁぁぁぁ!」と鎖に繋がれた男が泣き叫んで、慈悲を求めた。




 タチアナが椅子に座った男を見ながら、顔を横に振る。するとそばの男に髪を掴まれ「いいからやれ!」とナイフを首に突き付けられた。


 恐怖で声が出ない。震える両手をゆっくり伸ばし、二人の男にかざした。できるかどうかも分からない。ただ、できなかったら殺されるのは確かだ。病院で特殊能力の説明をされても、自分にそんな力があるなんて信じられなかった。でも今は、やるしかない。


 タチアナは鎖に繋がれた男が見えないように目をつぶり、叫び声が聞こえないよう、がむしゃらに首を振った。そして手に力を入れて、必死に祈る。




 どうか、鎖に繋がれた人の力が、横になってる人へ移りますように……。


 


 周りから大声が聞こえる。喜んでいるような、驚いているような、とにかく激しく興奮している声だ。タチアナは急激な睡魔に襲われ、膝をついて倒れた。目をうっすらと開けると、ベッドに倒れていた男が天井に向け両腕を振り上げ、鎖に繋がれた男はぐったりと首を垂らしていた。




 あたし、できたんだ。




 徐々に周りの音が遠くなり、安堵と恐怖の狭間で、すうっと意識を失った。




 翌朝に起きて壁の鏡を見ると、首に薄気味悪い印が刻まれていた。眠っている間に入れ墨を掘られたらしい。


 それからは、暴力団の雑用として生活することになった。たまに団員が負傷すると、初めと同じように回復させることが日課となった。




 数年経つと、タチアナは別の暴力団に高値で売られた。新しいアジトでは、理由もなく暴力を振るわれ、嫌がらせを受けるようになった。また、体の発育が著しくなった頃、男どもを癒す役割も担うことになった。




 いつものように団員の相手をしていたある日、タチアナは隙をついて相手の銃を奪い取り、外にこっそりと連れ出すよう命令した。上手く脱出すると、近くの人に聞いて警察署を訪ねた。事情を話してかくまってもらおうとしたが、感染者は病院で保護してもらうことになっていると断られた。どうにか助けてほしい、何のための警察なんだと叫んでいると、警備員につまみ出された。絶望しながら歩いていると、仲間を連れた団員に取り囲まれ、元のアジトに連れ戻された。




 それから数年が経ち、タチアナは十七歳になった。もう外に逃げる気力も希望も失い、ただ奴隷として生活する日々を送っていた。


 しかしある日、一人の男にアジトが襲われた。血相を変えて応戦する団員が、次々と殺されていく。どんな武器も通用しない、怪物のような奴が来た。そして暴力団のトップがあっけなく殺されると、残った部下は蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。


 タチアナが廊下の隅で震えながら座っていると、その男が近づいてきた。




 これで、終わりだ。




 殺される恐怖に包まれながらも、もうつらい思いをしなくて済むという解放感があった。せめて苦しまずに一瞬で死にたいと、目をつぶって上を向き、首を差し出す。


 すると、その男はレヴォリと名乗り、タチアナの手を取って立ち上がらせた。




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 タチアナはいつの間にか、爪で首元の印を掻きむしっていた。五本の矢印に血がうっすらと滲んでいる。




「分かったでしょ。政府や周りの人は何もしない傍観者。助けてくれたのはレヴォリだけ。暴力団に怯えずに済む暮らしと、ウイルスに感染しても食べていける生活を約束された。そしてずっと守ってくれた。確かに、彼が今まで生きたせいで大勢の人が死んだわ。でも彼が生きなかったら、私は死んでいた。それは……、これからも同じよ!」




 ミカイルは初めて、自分よりも過酷な経験をした人の話を聞いた。言い返す言葉がすぐに見つからない。簡単に説得することはできないと思った。


 すると突然タチアナが近づき、ミカイルの体を持ち上げて天井に押し込もうとした。




「なんだよ! 離せ!」


「レヴォリが来た! 忠告よ、二度と関わらないで!」




 無理やり天井裏に押し込まれ、扉が閉められた。耳を立てると、遠くからターンターンと長い距離をジャンプする足音が聞こえてくる。そして真下で止まり、「女のガキをまいた。早く行くぞ」と声がした。二人の足音が遠くの方へ消えていく。


 ミカイルは注意深く扉を開き、再びフロアに降りた。そしてサッカーボールを手に取り、通路の奥を見つめた。ニーナが来る様子はない。もしかしたら別の通路を進んでいるのかもしれない。下手に探すよりも国境に向かった方が早いと思い、レヴォリたちと同じ方向へ走り出した。






* * * * * * * * * * * *






 ニーナは残りの筋力を振り絞って、階段を駆け上った。しかし体力を消耗しているせいか、戦い始めた時よりも、飛ばせる段数が減っている。隊を配置していない途中の階を飛ばし、やっとの思いで九十八階まで辿り着いた。


 しかしもう行き止まりで、さらに上る階段が見当たらない。専用階段はここまでだった。そばのドアをゆっくりと開け、通常のフロアへ慎重に入る。


 九十八階の通路にはデスクがずらりと並び、その上にはカメラやモニターが置かれていた。どうやら国境を行き来するための検問所らしい。要塞門にあった設備と少し似ていたが、ここは誰もいなくてしんとしている。


 前後を警戒しながら、床に散らばった書類を踏んで通路を進む。そして突き当りまで行くと、上に伸びる階段が見えた。


 もしかしたら敵が近くにいるかもしれない。気づかれないように、小さな息で呼吸を整えながら、最後の階段を見上げた。既に扉は空いていて、階数を示す大きな『9』の数字が両端に分かれている。その間の奥からは、うっすらと光が漏れていた。


 ニーナは妙な静けさを不気味に感じた。もうレヴォリたちは国境を越えてしまったのだろうか。それとも、不意を突こうと待ち伏せているのだろうか。音を立てないよう、足を一歩ずつゆっくりと次の階段へ伸ばす。




 すると「ママ、助けてぇ!」と叫び声が聞こえた。ニーナは反射的に跳び、扉を抜けてフロアに入った。眩しさで視界が真っ白になり、思わず目を閉じる。そして少しずつ瞼を開くと、明るさに慣れて見えるようになった。


 天井からは無数のライトが刺すような光を放ち、ノストワ軍の大勢の死体を照らしていた。フロアの真ん中では、タチアナがレヴォリと子供の軍人に手をかざし、エネルギーを移している。


 そしてその奥には、今まで見たこともない大きな黒い扉が、重々しい存在感を醸し出していた。




 あれが、国境。




「レヴォリ!」




 タチアナの声がフロアに響くと、レヴォリはニーナの方へ振り返った。レヴォリに指示され、タチアナはフロアの隅に走っていく。全ての力を吸い取られてしまったのか、ボロボロの迷彩服を着たその子供は、もう動かない。


 ニーナは鋭く睨みつけた。それに応えるように、レヴォリがゆっくりと立ち上がる。




「ゆっくり話す時間もなかったから、最後に聞きたいんだが」




 思わぬ切り出しに、ニーナは身構えた。会話中に隙をついて、攻撃を仕掛けてくるかもしれない。




「お前は感染者だろう。なのに、どうして俺に協力しない? あそこのタチアナがいれば、かなりの確率で治療薬が作れる。ノストワの研究員を使えば、完成も早いはずだ」




 協力するよう提案しているのか、単純な疑問なのか、相手の真意が測れない。ニーナは意識的に大きな声で答えた。




「あんたはそれまでに、たくさん人を食べ続けるんだろ。そんなのあり得ない! あたしたちにはサンドラって優秀な先生がいる。先生なら薬が作れるし、誰も傷つかない」


「いくらそいつが優秀でも、開発は簡単じゃない。研究が遅れれば、俺たち感染者はノストワに消される」


「それは……、そうかもしれない。だけど、そっちだって薬を作れるとは限らないでしょ。それに、あんたが食べ続ければ感染がもっと広がる。あたしは、大事な人を感染させたくない」


「ここまできて他人がそんなに大事か。俺たちはウイルスの被害者だぞ。それに普通の奴らは俺たちを排除したいと考えるはずだ。その医者も、お前の親しい奴らも信用できないさ」


「ソーニャ先生はそんなんじゃない!」




 レヴォリの眉がぴくりと動いた。




「あたしに……、親や兄弟なんていない。どっかの感染者に襲われたんだ。そんなあたしを、ソーニャ先生は見捨てずに育ててくれたんだ。あたしが感染していても、そんなの関係ない。先生たちはそんなことで、あたしを厄介者扱いしない。あたしにとっても、先生や子どもたちが大切なんだ!」




 レヴォリは小声で「ソーニャ……。ソーニャ……」と繰り返し呟き始めた。ニーナは訳が分からなかったが、何かあるのかと思い、じっと待った。他にも何か言っているようだが、よく聞こえない。タチアナも怪訝な顔をしている。




 そして急にレヴォリが目を見開くと、「お前、確かニーナって名前だったな」と聞いた。




「え? そうだよ」


「出身はどこだ?」


「マルテ。だから何!?」




 レヴォリはちらりとタチアナを見た。タチアナは何かに驚いた表情をしている。ニーナは理由が分からなかったが、嫌な息苦しさを感じた。


「その先生ってのは……、ソーニャ・●●か?」




 こいつ……、どうして?




 ソーニャという名は珍しくはないが、●●という苗字は特徴的であまり聞かなかった。でも、先生が殺人鬼と知り合いだなんてあり得ない。それにあたしは、ずっと孤児院で一緒だった。先生の知り合いは把握している。




「なんで先生を知ってんだ!」




 恐怖心を跳ね除けるように叫ぶと、突然レヴォリが嘔吐し始めた。ニーナは口を押さえながら後ずさりする。人を食べているせいか、吐しゃ物は真っ赤だった。


 しばらくすると、肩で息をしながらレヴォリが口を開いた。




「そうか……。大きくなったなぁ、ニーナ・◆◆」




 ニーナは寒気を感じた。そして全身をガクガクと震わせ、目をつぶりながら首を横に振った。




「あの時は悪かったな。お前がいない合間に、兄ちゃんが食っちまって」




 ニーナが悲鳴を上げながら膝から崩れ落ちた。そしてレヴォリは呟くように、昔話をし始めた。




************************************************************




 レヴォリが自分の中の妙な感覚に気がついたのは、十二歳の時だった。それまでは周りの同級生と同じように思春期を迎え、女性の体に興味を持つ普通の男の子だった。しかしその興味は、見たり触ったりではなく、食べてみたいという欲求に変わっていった。それは女性だけではなく、男性も対象であった。それでも当時は、鳥や豚など誰もが口にする肉を食べることで、その奇妙な欲求を抑えることができた。




 十五歳になり卒業を控えた頃、レヴォリは一つ後輩の女子生徒に学校の屋上近くの階段で告白された。すると欲求のタガが外れ、口をその女子の顔に近づけていった。それが告白を受け入れられたサインだと思った女子生徒は、頬を赤くしながら目を閉じる。しかしすぐ首に激痛が走り、大きな悲鳴を上げた。それを聞いて駆けつけた生徒たちが一斉に群がり、口を真っ赤に染めたレヴォリは教師に取り押さえられた。女子生徒は病院に搬送され命は取り留めたものの、レヴォリは退学を命じられた。




 レヴォリの両親はずっと共働きだった。しかし昨年に妹が生まれたのを機に、母親は休みを取って家で妹を育てていた。やがて父親一人の稼ぎでは食べていけなくなり、母親は復職に向けて、子供を預けられそうな孤児院を探し当てた。本来は身寄りのない子供を引き取る場所だが、両親が事情を説明しながら懇願したため、院長は特別に受け入れた。その院長がソーニャだった。




 退学後、レヴォリは家でぼんやりと過ごしながら、時間になると妹を送り迎えする淡々とした生活を送っていた。しかしある日、妹の顔に涎を垂らして顔を近づけていたのが父親に見つかり、身動きが取れないよう、縄で家の柱に縛り付けられた。


 両親は息子にどう向き合えば良いか分からなかった。それでも、いつか普通に戻るという期待を胸に、人を襲ってはいけないと呪文のように説教を続ける。


 レヴォリも苦しかった。人を食べたいと願う欲求が異常であることは、頭では分かっている。母親が作る食事を美味しいと思うよう、自分へ言い聞かせ続ける毎日。しかし徐々に料理が喉を通らなくなり、人の肉が欲しいと叫び始めた。




 やがて、我慢の限界を超えた両親は仕事を休んだ。いつもどおりニーナを孤児院に預けると、家に戻って居間に閉じこもり、話し合った。そして日が沈んだ頃、レヴォリに包丁を向けた。命の危機を察したレヴォリは必死にもがき、人並み外れた筋力で縄を引きちぎった。そして悲鳴を上げ逃げようとする二人を捕まえて、食べ始めた。今まで育ててくれた親がバラバラになる様子を捉える視覚。味わったことのない最高の美味しさを感じる味覚。二つの感覚に気が狂わされそうになりながら、獣のように夢中で食べ続けた。


 すると突然、廊下の奥が明るくなった。眩しさでよく見えないが、玄関に人が立っている。




 次の、飯だ。




 半ば本能的に襲い掛かろうとした時、銃で肩と足を撃たれた。殺されまいと窓から外へ飛び出し、銃声に誘われた野次馬を食べながら逃げて行った。




 それからは、昼に人目の付かない場所で身を隠し、夜に人を襲って食べる日々が続いた。そして食人を繰り返すごとに筋肉が増し、尋常ではない力が身についていった。




 武器を持った相手にも素手で戦えるようになった二十歳の頃、レヴォリは自分の不思議な欲求と能力の原因を知りたいと思った。そして追ってきた警察や政府の役人を返り討ちにして脅し、国の機密情報を片っ端から調べ続けた。やがて、戦争中にノストワがばらまいたウイルスが原因であること、またウイルスの感染から回復した唯一の女性が治癒能力を有していることを知った。


 その他に必要な情報を得た後、連続殺人犯として記録されていた自分の情報を、戸籍ごと消した。正確には、警察や役人、医師を捕らえ、政府や役所、医療機関からデータを抹消させた。そして今後も記録が残らないよう、食事は人のいない廃墟や裏路地、建物の屋上で取ることにした。




 その後さらに力を身につけ、回復者である女がいると噂されていた暴力団を襲い、タチアナをさらった。そして敵と戦う時に負う傷の治療薬として、そばに置くことにした。ただし見返りとして、生活の安全や食事を保証した。また、足がつきにくくなるよう、タチアナに関する一切の情報も、自分のと同様に消した。




 食人を繰り返す度に飛沫感染が広がり、マルテには様々な症状を訴える感染者が増えていった。そしてこの頃、胃が受けつけない人肉があることに気がついた。それは自分と同じ『感染者』だった。食べられるのは、感染していない正常な人間に限られる。このまま食い漁り続ければ感染が広がり、食料が底をついてしまう。そんな不安に駆られながらも、食欲は留まるところを知らず、マルテの感染者数は増え続けた。




 しかし二十八歳の年、ウイルスの生みの親であるノストワとの協議により、モグロボは一ヶ月後に浄化されることが発表された。死にたくないという生存本能と、食べ続けたいという食人欲求から、レヴォリはタチアナを連れて国境を越える決意をした。




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 ニーナはしゃがみこんで話を聞いていた。自分が赤ちゃんの頃だから、当然何も覚えていない。それでも話の内容が生々しく、まるで忘れていた記憶が呼び起されるような感じがした。


 レヴォリが兄だと分かった後でも、肉親だという実感は全く湧かなかった。ただ、できるなら自分の全身の血を他人の誰かとごっそり入れ替えたいと思った。


 ソーニャから聞かされていた話が嘘であることにも胸を痛めた。ウイルスに感染したのは実の兄で、その兄が両親を殺したのだ。また、あれだけ病院や警察を訪ねても家族の過去が分からなかったのは、兄が身を守るために情報を消したからだった。


 そして、誰もが騙されていたことに気がついた。




「じゃあ、あんたが国境を越える目的は……」


「薬の開発は嘘じゃない。だが俺には必要ない。それを与えるのは、後で俺の食料になる感染者だ。もし俺が投与したら、恐らくこの筋力も落ちて、死刑囚としてあっさり捕まる。タチアナのように、奇跡的に能力が残る保証はない。苦労して薬を開発して、自分が治って死刑になるなんて御免だ」




 感染者を食べることができないのは本当らしい。そういえば、ボレルの感染者隔離施設は大勢の無抵抗者がいたにも関わらず、レヴォリに襲われなかった。施設にいた多くの人が感染者だったからだ。


 レヴォリが要塞門で感染者の味方をするような宣戦布告をしたのは、感染者の期待感を煽って暴動を起こし、政府や軍隊を混乱させるためだった。そうすれば少しでも国境が越えやすくなる。さらにそれは、感染者を治療して食べ続けるための布石だった。


 ニーナはゆっくりと立ち上がった。




「あたしは……、ずっと苦しかった。大切な家族が、どこかの知らない感染者に奪われたことがつらかった。顔や声は覚えてないけど、他人の家族を見ると寂しくなった。だけど、その原因はあんただった! あんたのせいで、あたしは悲しかった!」


「まるでお前一人が苦しんでいたような言い草だな」


「あたしだけじゃない! ソーニャ先生もだ! あたしに違う話を聞かせた理由は分からないけど……。たぶん、重たい何かをずっと背負ってくれてたんだと思う。でも、あんたはただ好き勝手に人を食べてただけだ!」


「俺は人しか食えないんだ! 別のものを食べて生きる方法がないか、何度も試したさ。だがどうしても、口や胃が受けつけない。頭も鼻も拒絶する。無理やり食べても、すぐ押し戻すように吐いちまう。俺も苦しいんだ! 今でも食事中は目の前に浮かんでくる。親を食べた時の、真っ赤な残骸が!」


「だからって、自分の都合で人を食べるなんて間違ってる! なんで誰にも話さなかったの? 相談すれば誰か……」


「自分の味覚が狂っていく恐怖! 親や学校の奴らから、化け物扱いされる孤独! 家で監禁されて、未来がなくなる絶望! 分からないか!?」


「……あたしだって分かる」




 ニーナは両腕を前に突き出し、レヴォリに向かって手を開いた。もうほとんど指は残っていない。




「たくさんの人に変な目で見られてきた。気味の悪い別の生き物のような扱いをされて、置いてきぼりになってく気がした。でも、そういう人だけじゃない。そんなことを気にせずに、普通に接してくれる優しい人は大勢いる。あたしには、そんな人たちを見境なく殺すなんてできない!」


「生きるためなんだ! どこかで必ず自分を優先する瞬間がくる。俺だけじゃない、お前もだ。それは、他人を理解して全て受け入れるなんて不可能だからだ。実の親でさえ、俺を理解できなかった。お前だって成長した今でも、俺を理解できないだろう」


「理解って言われても……、よく分かんない」




 ニーナは隅に立っているタチアナをちらっと見た。




「でも……。そばにいて、話を聞くことぐらいはできるよ。相手がクソ兄貴でも」




 それができる限りの説得だった。しかし、レヴォリは子供の軍人の死体を拾い、頬肉を嚙みちぎって飲み込んだ。




「生きるのに必要なのは、話し相手でも、お人好しな妹でもない。食料だ」




 ニーナは怒りに震えて突進した。それに向かって、レヴォリが子供の死体を投げる。ニーナはそれを避けるか跳ね返すか迷い、結局抱きかかえてしまった。その隙を見逃さず、レヴォリがニーナを子供ごと蹴り飛ばす。


 ニーナは足で防御できず、まともに脇腹に攻撃を受けた。飛ばされて転がる体を手で止めて、体勢を整えた時には、レヴォリが目の前に立っていた。そしてとどめを刺そうと、拳を高く振り上げる。




「レヴォリ! 上!」




 ニーナが覚悟して目をつぶると、タチアナが叫んだ。頭上では、レヴォリの呻く声が聞こえる。目を開けると、レヴォリの首に足を巻きつけ、ボールを片手にしたミカイルの姿があった。


 ミカイルは九十九階の手前で、廊下から天井裏に戻っていた。そして二人の会話を聞きながら、フロアの天井裏まで回り込み、少しだけ開けた扉の隙間から、攻撃のチャンスを窺っていた。


 レヴォリはバランスを崩して足をふらつかせ、ニーナから少し離れた。その隙にミカイルは腕を伸ばして、レヴォリの左目を指先で突く。レヴォリは獣のような悲鳴を上げながら、ミカイルの足を掴んで床に叩きつけた。これまでの戦闘による負傷と目を潰された痛みがレヴォリの力を半減させ、ミカイルは即死を免れた。しかし全身を強く打ち、起き上がれなくなった。




「ニーナ! ボールだ!」と力を振り絞って叫ぶ。




 ボールはちょうどニーナの方に転がってきていた。ニーナはそれを拾い、両手で目を覆っているレヴォリの首をめがけて蹴り飛ばす。




 ボシュゥッ!




 ボールが首に直撃すると同時に破裂し、よろけているレヴォリの足下に落ちた。ニーナは全速力で走り、渾身の力を振り絞って、レヴォリの心臓に蹴りを入れた。つま先が胸筋を割ってめり込む。レヴォリは潰されていない右目を大きく開きながら、腕を伸ばしてニーナの顎を殴る。ニーナの体は縦に回転して宙に浮き、弧を描きながら二十メートルほど遠くに落ちて動かなくなった。


 レヴォリはゴボッと吐血し、ミカイルのそばに倒れこんだ。そして右目で睨みつけながら、かすれた声で叫ぶ。




「タチアナ! こいつの力を俺に渡せぇ!」






* * * * * * * * * * * *






 タチアナは一瞬の出来事に呆然としていたが、名前を呼ばれ我に戻った。震える足をなんとか動かし、フロアの隅から二人のそばまで近づいた。




「何してる……、タチアナ! 早く、このガキの力を渡せ!」


「駄目だ、タチアナ……。もう、こいつに協力するな」




 タチアナはゆっくりと跪き、二人の体に手を添えた。そしてすぐに分かった。もうどちらも瀕死の状態だ。自分自身も能力の使い過ぎで、分け与えられる体力が残っていない。片方から片方へエネルギーを移し、一人を救って一人を見殺しにするしかない。思わず二人の体から手を引いた。




「てめぇ、どうした? さっさとしないか!」


「もうやめろ、こんなこと……」




 するとタチアナは、両手で顔を覆いながら叫んだ。




「分かんない! もう何が正しいのか、どうしたらいいのか分かんない!」


「馬鹿が……、もう戻れないんだ。俺も、お前も。国境を越えるのを諦めてどうする? 牢獄にぶちこまれる……、いや爆弾で消されるだけだぞ。逃げられたとしても、また暴力団がお前を襲う。忘れてないよな……? 俺だぞ、お前を救ったのは!」




 タチアナがビクッと体を震わせる。ミカイルは倒れたまま首を動かして、レヴォリの方を向いた。タチアナを睨んでいるように見えたが、視線は捉えどころがなく宙を彷徨っていた。目が霞んでいるらしい。ミカイル自身も、意識が朦朧としてきた。それでも眠るまいと、必死に声を絞り出す。




「タチアナ……、暴力団にいた時のつらさは分かる。俺も死にたかった。何もかも恨んだ。どいつもこいつも、憎かった。でも、そのままだと、もっとつらくなる」


「くだらねぇ戯言聞いてんじゃねぇ。さっさと、しろ」


「くだらなくねぇ……、大事なことだ」




 タチアナは震える手から顔を覗かせた。その目はミカイルの方を向いている。




「俺さ……、感染してるって言っただろ? 実はさ……、そのせいで体が小さくなってんだ。こう見えて、十四歳なんだぜ」




 タチアナは目を丸くした。レヴォリは傷が痛むのか、低い声で呻いている。




「タチアナ。今まで死にたくなるような思いをしてきたのは分かる。俺も暴力団に捕まってたから。けどさ……、正直羨ましい。だって感染は治ったんだろ? これから普通に生きられるじゃん。俺なんて、どんどんガキになってくんだ。腕も足も短くなって……。このまんまじゃ赤ん坊になる。たぶん意識もなくなるんだと思う。それで、小さい塊になって死ぬんだ」




 ミカイルは仰向けになって天井を見上げた。ライトが眩しく照らしてくる。太陽でもないのに、なぜか温かさを感じた。




「感染してるって聞いた時……、めちゃくちゃ怖かった。小さくなるなんて、あり得ねぇよな。あと、すごい恨んだ。なんで俺だけ、こんなんで死ななきゃいけないんだって。知らねぇ奴らが始めた戦争のせいでさ」


「そうだ、俺たちは戦争の被害者だ。生き延びようとして何がわる、ゴフッ……」とレヴォリが血を吐いた。


「あぁ、俺も生きたいって思った。でも不思議だよな、こんなに憎んでんのに。どうせ生きても苦しいことばっかなのに。マルテからここまで歩いて、気がついた」




 タチアナはミカイルの方へ前のめりになった。




「他の奴らがいるから、生きたいんだって」




 ミカイルが笑って言うと、タチアナはすとんと腰を床に落とした。




「いつからこうなったかよく分かんねぇけど……、一人でいるのがつらくなったんだ。小さい頃は当たり前だったのにな。サンドラ先生、ニーナやオレグたちのせいだよ。おせっかいでさ、ガミガミうるさいし。でもそれで俺、生きてるんだって……。感染してても、しんどくなくなるかもしれないって。だから、タチアナ。つらくても、生きようとしろよ。他の生きてる奴らと一緒にだ。そうじゃなきゃ、お前……、暴力団の時みたいに暗闇の中だぞ。嘘だと思うなら、まず俺がダチになってやる」




「耳を貸すな! 俺がお前を救ってやる。アジトで捕らわれていた時と同じようにな。そのために国境を越えて、治療薬を作るんだ。そうすれば俺は生き延びて、お前を守れる。お前の能力が、お前自身を救うんだ!」




 タチアナは再び二人の体に手を当てた。レヴォリは「あぁ、そうだ。そうしろ」と笑みを浮かべる。タチアナが目を閉じた。すると、ミカイルは触れられた手から熱を感じた。同時に、レヴォリに触れた手が小刻みに震えだした。


 レヴォリは今までにない触覚を感じた。タチアナが触れている右肩が、異様に冷たい。痛みさえ感じる。まるで、生きる氷でできた小さな無数のヒルに、肩を噛まれているようだった。そして力がどんどん吸い取られ、体全体の感覚が麻痺していった。思考がぼやけてきたせいか、怒りはない。ただタチアナの裏切りが理解できず、「なぜ……」と声がため息のように漏れた。




「ごめんなさい、レヴォリ……。あなたが私を救ってくれたことには、心から感謝してる。本当なの。あなたと一緒にいて、どんどん人が死んでいっても、私を見捨てた社会がどうなろうと、どうでもいいと思った。だけど、感染してるこの子たちが攻撃してくるのを見て、なんで戦うんだろうって、ずっと不思議だった。私たちに協力した方が、薬を作れる可能性が高い。そもそも、感染者は見捨てられているのに。でも、同じような過去を持つこの子に、間違ってると言われて、やっと気づいた。私がしてることは、暴力団と変わらない。あいつらに傷つけられた自分を、あいつらと同じことをして正当化してる。今更遅すぎる。自分勝手なのは分かってる。だけど……、もうこれ以上は……。生きてても、自分がどこかに消えちゃう気がするの」




 ミカイルは、もう一人で動けるくらいに回復した。そして片肘をついて、上半身を起こした。タチアナが手を放す。レヴォリは起き上がったミカイルに、虚ろな視線を移した。




「おい」




 呼びかけられたミカイルは、レヴォリの潰れていない右目を見つめた。




「お前たちは分かってない。周りに求めても無駄だ。すがったところで、何も得られない。だから自分のために何ができるか考え、強く在り続ける。そうしない限り、生き延びることはできない」


「……難しいことは知らねぇけど、俺はお前より分かってるよ。強いって何なのか」






* * * * * * * * * * * *






 レヴォリが動かなくなったと同時に、タチアナが激しく咳き込んで倒れた。




「おい、大丈夫か!?」とミカイルがタチアナの肩を揺する。




 タチアナの体は冷たく、小刻みに震えが伝わってきた。




「……お前の力も、分けてくれたのか?」




 タチアナは答えないまま、苦しそうに口から涎を垂らす。すると突然、獣のような大声が響き渡った。




「あああああああああああああああああぁっ」




 レヴォリが生き返ったのかと思い振り返ったが、倒れたままだった。その後方の宙を、ニーナが飛んでいる。そして突き出した右足は、タチアナの心臓を狙っていた。ミカイルが止めようと、タチアナの前に立って両手を広げる。




 ゴキ。




 ニーナは足を引っ込めた。しかし空中で体の向きを変えられず、ニーナの膝がミカイルのあばら骨を捉えた。鈍い音がした後、ミカイルは呻きながら両手で胸元を抑えた。




「あっ……。ミカイル、ごめん! あたし、そいつに向かって……。でも、なんで!?」とニーナがおろおろとする。


「殺しちゃ……、だめだ」


「こいつは親を殺した奴の仲間だ! 何人も殺していくのを、この女は助けた。許せない!」


「あぁ、天井から聞いてた。でもタチアナを殺したって、何にもならないぞ」


「なに言ってんの!? 変わるよ! 人殺しが死んで、世界が助かる!」


「……違う」


「違わない!」


「タチアナを殺して変わるのは世界じゃない。……ニーナだ」




 ニーナは黙って目を剥いた。ミカイルとニーナの荒い呼吸が重なって、こだましている。




「親が殺されたニーナの気持ちは、どうしようもねぇくらい、苦しいよな。だから、怒って恨むのは当たり前だ。もしサンドラ先生が殺されたら、俺も同じだと思う」


「あたしの親は、そいつに殺されたんだ。なんで……。悔しい……」とニーナはかすれた小さな声で呟いた。


「あぁ、分かってる。『なんで自分が』って思うことなんて、腐るほどあるよな……。俺もそうだから。でもやっぱ、ニーナに人を殺してほしくねぇ。オレグやサンドラ先生、他の奴らと一緒に生きてくんだ。俺がついてるから、つらいならいつでもぶつけろよ。みんなもいるし、きっと大丈夫だから」




 ニーナの頭に、検問所でサンドラに言われた言葉が浮かんだ。




************************************************************




「つらい過去から前に進むには、何かを成し遂げないといけない」




************************************************************




 自分がするべきこと。それはミカイルが言うとおり、人を殺すことじゃない。




 ミカイルはそばに落ちている破裂したボールを見つけ、手を伸ばして拾った。




「ソーニャ先生や子供たちを喜ばせるんだろ」とニーナにゆっくり渡す。


「わあああああああああああああん」




 ニーナは泣き始め、ミカイルの胸元に顔をうずめた。

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