第30話 哲学的ゾンビ


 朝、目が覚めると芳しい匂いが鼻をくすぐった。

何かが焼ける音と、水の流れる音、そしてカチャカチャと陶器が擦れる音。


 ベッドから身体を起こして台所のほうを見ると、エプロンを着たニナが立っていた。


「マナブくん、起きた? おはよう」


「……あ、うん、おはよう」


 挨拶を返し、ベッドから降りる。

部屋の中央にある小さなテーブルを見ると、二組の食器とトースターが置かれていた。


 座布団に座った瞬間、タイミングよくトースターから焼きたてのパンが飛び出した。


「はいっ」


 ニナが手に持った皿を食卓に置く。

ベーコンエッグだ、湯気が立ち昇っていて、とても良い匂いがする。


「いただきまーす!」


「……いただきます」


 トーストにかぶりつき、ベーコンエッグに醤油を垂らす。

口の中のパンを牛乳で流し込み、卵の黄身に塗れたベーコンを頬張る。


 朝食が済み、食器を洗うニナの後姿をぼーっと見つめる。


 なんだか頭がボンヤリしている。

寝起きだからだろうか? 視界の隅が白みがかっているような……なにかの錯覚をしているのか?


「ねぇ」


 洗い物を終えたニナがテーブル越しの正面に座った。


「じゃ、そろそろ出かけよっか?」


 え?


「ああ」


 頭の中に浮かんだ疑問とは裏腹に、なぜか俺は頷いていた。

まるで、誰かに操られているような感覚があった。


 見えない糸に動かされるように俺はマンションの外へと出る。

そして、そのまま駐車場に向かった。


 俺は一つの車の前で立ち止まる。

黄色い軽自動車であり、ポケットの中のリモコンキーでドアのロックを外す。


 運転席に座ると、助手席にニナが座った。

それを目で確認すると、俺はエンジンをかけて……ふと、思った。


 俺って、運転免許を持ってたっけ?

そもそも、どこへ行こうとしているのか?


 エンジンをかけたまま、どうすればいいのかと迷っていると、次第に瞼が重くなってくる…………。




 目を開けると、マンションとは別の、どこか開けた場所の駐車場に着いていた。


「はー、着いたねー!」


「え? あれ……」


 俺は……どうやって……ここに……?


「ほらほら、いこ!」


 ニナが車の外に出る。

訳も分からず、俺も車から降りた。


 浮かれているのか足取りの軽いニナの後へと続くと、ここがどこか分かった。


 ――――花畑だ。

あたり一面に青い花が咲き乱れている。

思わず目を奪われるような、とても壮観な光景だった。


 呆然と立ち止まっていると、するりと腕に何かが絡まった。


「一緒に歩こ?」


 ニナだ。

俺の腕に自分の腕を組ませている。


「…………うん」


 何だか信じられないものを見た気分になった。


 俺とニナはそのまま、青い花畑の道を並んで歩く。

道はちょうど二人分くらいで、幅いっぱいのスペースを取っているから、もし向こうから人が来たら迷惑になるかな、と思ったが……。


 キョロキョロと辺りを見回してみるが、俺たち以外に人は居なかった。


「良い景色だね」


「ああ」


 素直に俺は頷いた。

本当に、良い景色だ……見渡す限りの青い花は、とても幻想的で現実感が無い。


「マナブくんと、こうして二人きりで歩くのを、ずっと楽しみにしてたんだ」


「……そうなのか?」


「そうだよ、だって私、マナブくんのこと好きだもん」


 突然の告白だった。

ニナにこんなことを言われる日が来るなんて、すごく嬉しいし、とても驚いた。

……しかし俺は、どこか客観的に、そのニナの言葉を受け止めていた。


 本当なら慌てふためいて我を忘れる場面なのに。

まるで自分が自分じゃないみたいに、どこか他人事のように感じてしまっている。


 ……いや、それは的確じゃないのかも。

正しくは……現実感が無い、と言ったほうがいい。


 俺の頭は、いまだボンヤリと霧がかかっている。

そう、たとえば、夢の中に居るような――――。


「……なんで、俺のこと好きなんだ?」


 思わず、そんなことを聞いていた。

どうして、こんな質問をしたんだろう……?

いや、当たり前か? あの『ニナ』が……誰からにでも好かれるような女の子が、どうして冴えない俺なんかを好きになったのかは不思議なことだ。


「だって、マナブくん、私のこと好きでしょ?」


「……うん」


 自分でもおかしいと思うほど、俺は素直に答えていた。


「私は、私のことが好きな人が、好きだから」


 ……それって、つまり『自分のことが好きなら、相手は誰でもいい』ってことか?


「……でも、誰でもってわけじゃないよ? 私だって相手を選ぶよ」


 まるで俺の心の声を聞いたかのように、そう言葉を続ける。


「だから、マナブくんが私のことを好きで良かった!」


 そう締めくくって、にっこりと太陽な笑顔をこちらに向けるニナ。


 ――――本当に夢みたいだ。

誰かから、これほどまでに好意を向けられたことは、今までの人生に無かったことだ。


「あっ、あそこでちょっと休まない?」


 ニナが前方を指差した。

その先には、花が咲いていないスペースがあった。


 近づいてみると、円形に繰り抜かれたように芝生がある。

その真ん中にニナが座り、俺を招くように隣の地面を叩いた。


 二人並んで草の上に座ると、不意にニナが俺の肩に頭をもたれかけてきた。


「綺麗だね……」


 風にそよぐ青い花を見つめながら、ニナが言った。


「そうだな」


「夢みたいだね……」


「そうだな……」


 本当に、夢みたいな光景……そして、状況……場面。

俺の隣に、ニナが居る。


「このまま時間が止まっちゃえばいいのにね……」


「…………」


「そうでしょ?」


「…………」


「……マナブくん?」


 ニナが俺の身体から離れた。

隣へ顔を向けると、どこか寂し気なニナの表情があった。


「マナブくんは、私と同じ気持ちじゃないの?」


「…………」


 俺は、答えなかった。

ニナと同じ考えにはなれなかった。


 別に『同じ気持ちだよ』って、そう思わなくても、そう言えばいいのに。


「どうして?」


 問い詰めるようにニナが聞いてくるので、しかたなく俺は本心を言った。


「時間が止まったら、困るだろ」


「……なにが?」


「だって……ここは良い場所だけど、外には他にも良い場所は沢山ある」


「……そうかな?」


「そうだよ」


 ニナが、俺からの視線を外すように正面を向いた。


 そして、そのまま黙り込む。

なんとなく気まずい雰囲気になったが、俺は間違ったことは言っていないはずだ。

ここ以外にも、もっと楽しい場所は、あるはずだ。


「ねぇ」


 ニナが口を開く。


「哲学的ゾンビって知ってる?」


 知らない。


「じゃ、まず自分にとって親しい人を一人だけ思い浮かべてみて? 誰でも良いから」

 

「じゃあ……タケシ」


「タケシくんか。 それじゃタケシくんが、いきなり二人になったとします」


「ドッペルゲンガー?」


「似たようなものかも。 それでね? その二人のタケシくんは全く同一の存在なの。 筋肉や骨格の形はもちろん、細胞の一つ一つさえ同じ」


「クローンみたいなものか?」


「ううん、違うよ。 クローンにだって差異は出るからね。 この哲学的ゾンビって話は思考実験だから、あまり現実的な考えは持たないほうがいいよ」


 ――――思考実験。

何だか、最近はそのことばかり考えていたような気がする。

 


「とにかく、この二人のタケシくんは全く同じ。 物理的観測による区別はできないの。

 だけど、一つだけ決定的に違う部分があるんだよ」


「……それは?」


「クオリア」


 ……くおりあ?

初めて聞く言葉だ。


「クオリアっていうのは『意識』や『経験』って意味なの。 一方のタケシくんには、それがある。 もう一方のタケシくんには無い……このタケシくんが哲学的ゾンビになるんだよ」


 どういうことだろう?

あまり意味が理解できない。


「例えば『普通』のタケシくんは、嫌なことをされたら怒るし、嬉しいことをされたら喜ぶよね? もっと言うと、好きな子にキスされたら喜ぶとか。 それは『キス』という行為を喜ばしいということを知っているから。 それが好意を伴うことだということを知っているから」


 なんだろう、どこかで聞いたような話だ……。


「もしくは、好き子に無視されたり、そっぽを向かれたりしたらタケシくんは悲しむ。 それを悲しいことだと『経験』として知っているから。 これが『クオリア』なの。 『意識』や『経験』でコミュニケーションを喜怒哀楽で感じ取る」


 それが、普通の人間だ。


「だけど哲学的ゾンビは『知識』だけでしかコミュニケーションに対応しない。 さっき言ったことと同じことをされても、哲学的ゾンビのタケシくんは『一般的な対応』を無感情に表すだけ。 嫌なことを言われて『怒る』ことをしても、嬉しいことを言われて『喜ぶ』ことも、そう反応すべきという『模範的行動』を取るだけに過ぎない。 まるでプログラミングされた機械ロボットのように…………そこに『クオリア』は無いの」


 感情の無いロボット……か。

言葉の内容によって反応を変え、他者からはそれが自然に見える。

しかしそれはプログラム通りの動きにしか過ぎない……これも、どこかで、聞いたような……。


「でもね、マナブくん」


 ニナが、立ち上がった。


「哲学的ゾンビには、それでも……心が無いのかな?」


 なにを、言っているんだ?

それが、この話の主題だろう。


 物理的、科学的、電気的反応しか示さない存在。

そこに『クオリア』は無く、ならば当然……。


「心は、無い? じゃあ……人間にしか、生命にしか、肉体的生命の存在にしか心は無いの?」


「………………」


 答えは決まっている。

そんなものは、有りはしない。


 だけど、心のどこかに『何か』が引っかかって、それを口にできない。


 言葉にできない。


「してよ」


 俺の心を見透かしたニナが、俺の答えを求めている。



「………………」


 だけど、俺は…………。


「それじゃ、ダメだよ」


 ニナが歩き出す。

俺は立ち上がって、彼女を呼び止めたかった。


 だけど、できない。

何かの不思議な力か、それとも俺の意思か……『待ってくれ』という言葉がついぞ出てこない。


 ニナは青い花々の中に埋もれ、消えていく――――。


 それと同時に俺の意識は幕が下りるように暗く閉ざされていった…………。







 気付くと室内に俺は立っていた。

風が吹いている、窓が開いていてカーテンが揺れている。


 ベッドがある。

そこに誰かが横たわっていた。


 誰だろう、気になって近づいてみる。


 中年の女性が眠っていた。

……どこがで見たことがある顔をしている。


「…………ニナの、お母さん?」


 記憶よりも、少しだけ老いた顔付きをしていた。

目を閉じて静かに眠っていて、口元には呼吸器の装置が付けられている。


 何か、病気をしているのだろうか?


 そのとき、不意に病室の扉が開けられた。


 現れたのは、黒く長い髪の綺麗な女性で、ナース服を着ていた。

彼女は入室するなり、俺の目を真っ直ぐ見ながら言った。


「どうも、ミチルです」


 ――――どこかで聞いたような名前を名乗った。


「このまま実験を続けると、彼女の命が危ない」


 ニナのお母さんが?

それは、まずいな……しかし、実験とは?


「なので、ここらでそろそろプロジェクト開始に踏み切ります」


 プロジェクト?


「その前に、あともうワンシーンを」


 彼女は片手を上げ、パチンと指を鳴らした。


 たったそれだけで、俺の意識はどこかへと飛んでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る